2019年12月17日火曜日

野合

もうね、いつまでもブラブラ遊んでないで、真っ当な職に就いて働いたらどうなんだ?虚心にそう思います。憲法にも勤労の義務は規定されています。
立憲民主党 国民民主党 合流
立憲を冠にするなら働け、国民を使うならその意味するところを噛み締めてみろと。見方によっては安倍政権の支援団体にも映ってしまいます。

いっそ自民党との合流も検討してみては?

酌量

執行猶予でいいんじゃないかと。率直に思います。
元農水事務次官長男殺害事件
殺人という罪に対する刑罰の、他の判例との整合性を鑑みての懲役刑なんだろうという印象です。再犯の恐れはなく、懲役刑が更生の目的にも合致しないだろうと。

であれば、被告に言い渡された懲役刑の判決は、法治国家の維持、社会への戒め、類似犯への牽制といった意味合いとして受け止めてしまいます。償いには該当しないような。

裁判を通して、検察側、裁判所側から、
”対処法があった”
として、 外部機関や医師らに
”相談すべきだったのにしなかった”
との指摘が該判決の主たる事由とされているのは間違いない処です。ただやはり、訴追する側、裁く側からの当事者意識に欠いた主張のように思えてなりません。

社会の中の一般市民が果たして”できたのか”、或いは、それが可能な社会だったのか、当事者の視座からの精査が未だ不十分と考えます。できなかった背景や理由、それは家庭環境だったり、体面だったりかもしれません。ただ、一律に被告自身の利益を優先してしなかった、と断じられてしまうことには抵抗を感じます。事後に、”できたにのしなかった”と指弾するのは難しいことではありません。やはり根本にある、至った事由、行動原理を鑑みた上で判断されて然るべきです。

個人的には懲役刑を課すより、その体験を活かした似た環境の家族に対する支援活動に携わってもらうほうが望ましいと思っています。

”公益に寄与し社会が賢くなる一端を担ってもらう”そういった判断が下される司法を願って止みません。


2019年12月3日火曜日

異様

全く合理性に欠けた答弁というのが率直な印象です。

4月に催された「桜を見る会」の招待者名簿について、安倍晋三首相は、2日の参院本会議で、電子データの復元はできないと答弁しました。
端末にデータは保存されておらず、サーバのデータを破棄後、バックアップデータの保管期間を終えた後は復元は不可能だとの報告を受けている
例えば年賀状の住所録を、年賀状を出した後、不要だからと毎年消去する馬鹿がいるか、という話です。翌年の名簿作成の基にするのは当たり前のことです。毎年消去して端から名簿を作成するなどこの上なく非生産的です。公金もそういった姿勢で費消されていると考えると、怒りを通り越して情けないというか、呆れます。これではいくら日銀券を印刷させて、国債を買い取らせても足りないのも道理です。

まぁ、馬鹿でなければ、中止にはなりましたが、来年のために誰かが名簿を秘匿してるんだろう、と推量しています。

復元は技術的には不可能ではないとみています。それはさておき、データの破棄や保管期間についての言及も怪しさ満載です。元々、行政文書を紙の形態で永遠か、若しくは長期に保管することは、スペースや管理の労力といった行政のリソースの消費量が莫迦にならない、と。該リソースを節約する目的で保管期間が定められたと理解しています。データのデジタル化が進められた今、該名簿の保管に一体どれだけの行政リソースが費やされ、該データ消去によってどれだけの節約になるのか、いちいち記すまでもないことです。

名簿を消去して、毎年作成し直すほうが余程リソースの浪費です。

この消去の操作についても、マニュアル操作で削除を行ったのであれば、”誰が、いつ削除したか”という記録が確認できるはずです。保管期間経過直後なのか、或いは衆目を集めて慌ててなのか、判断材料の一つです。cronを使った自動消去も想定できますが、crontabに記された条件とデータ削除の日時が果たして合致しているのか疑念は払拭できません。

いずれにせよ、保管しておいても殆どリソースを消費しない該名簿データを、保管期間の経過を口実に消去、隠滅したというのが、一連の操作の合理的な説明ではないかと推量します。

2019年12月2日月曜日

選別(3)

以前のエントリを受けての話になります。

今回、と言っても随分以前の話になりましたが、このリクナビが手掛ける就職支援事業を足がかりに、リクルートとしては大学入試関連時業への新規参入という思惑があったのだろうと推量しています。

現在は”味噌をつけた”形ですが、雌伏しているだけで断念には至っていないかと。実際、かなり以前から教育関連事業を手がけているようですし、スタディサプリという、ネット経由の通信教育事業にも注力しているようです。

以前も触れましたが、ほぼ同年齢の極めて大量の人員が同時期に入社する、就活〜就職というイベントと、大学の志望校選択〜受験〜入学の構図は極めて類似しています。

膨大な人員の出身大学、自己アピール他の個人情報を取り扱い、各々に会社の求人情報を提供して求人と求職のマッチングがリクナビによる就職支援の事業です。場合によっては適性診断ツールによる求職のトレンド?方向性?を調整したり、内定辞退率を算出するのもマッチング最適化の一環なんでしょう。求職者の不利益になる恐れのある内定辞退率については批判を浴びましたが。

一方、大学の志望校選択は、大学入学希望者のセンター試験自己採点結果と当人の志望大学いうこちらも膨大な数の個人情報を基に各々を大学に割り振ることから始まります。その結果を統計処理やらAIやらを活用して合否の可能性を算出すると。最終的な受験校の決定は各人に委ねられるわけですが、そのための確度ある情報が求めらています。大学入学希望者と受験大学のマッチング最適化が事業ということです。

供給(求職者、受験生)と需要(求人会社、大学)の関係に偏りが生じないように情報を提供して平坦化(=最適化)を図ることが事業目的ではないかと。その最適化プロセスで得られる口銭というか手数料が事業者の収益源である、そういった理解をしています。

その視点に立ってみると、リクルートが近い将来、この大学入学可能性判定事業に参入する、という推測はそこそこ妥当性があるのではないかと。現在はおそらく基礎データ収集の時期で、この状態は当面続くものとみています。上記スタディサプリもその一環でしょう。率直にいえば良質低廉なコンテンツを提供して大学への進学希望者を囲い込んでデータを収集する段階ということです。

私の知る範囲に限れば、大学受験の準備に予備校というのは現役生ではそれほど一般的ではなかった印象があります。通うのは浪人生で、それも全てではない、といった処です。身近になった転機はやはり共通一次試験の導入以降ではないでしょうか。公立、私立を問わず高校で、共通一次(センター)試験、二次試験の模試が年数回実施され、ほぼ全ての大学入学希望者が受験するようになりました。

明らかに大学受験のプロセスにおいて予備校が不可欠の存在として組み込まれてしまっています。

かつては三大予備校と並び称された河合、駿台、代ゼミの寡占状態にあった大学受験業界でした。その後、通信技術の発達の発達に伴い、映像配信授業で先行した東進、通信教育で優位性を持つベネッセが三大予備校の後を追っている状態でしょうか。そこにリクルートがネットとスマホを活用した教育システムをひっさげて参入を目論むと、そういった構図に映ります。

まぁ、現状では個人情報の漏洩でベネッセが、不適切な取り扱いでリクルートが味噌をつけているわけですが。

さて、ここでリクルートの特徴を総じてみると、上述のように需要と供給をマッチングさせる場、いわゆる市場の提供が主たる事業と括ることができます。需要者、供給者を掘り起こすことはあっても、あくまで場の提供に留まっています。自らが供給者となって物品、サービスを販売することは殆どないようです。リクルートグループはこれまで様々な物品、サービスに関する情報を場に提供し、需要と供給をマッチングさせてきました。取り扱う情報としては例えば、転職やアルバイトといった人材、中古車、不動産、結婚、旅行、飲食店、美容院あたりが直ぐに思いつきます。

これまで、と言ってもかなり以前までのことですが、該情報が公開され、需給のマッチングを促す場は雑誌でした。この雑誌という媒体でリクルートは永きにわたって雑誌上でバーチャルな市場を提供してきました。競合は勿論ありましたが各市場の運営元としては最大手だったと認識しています。

このような情報誌が登場する以前、需要側、いわゆる顧客は足(店への飛び込み)と目(テレビや看板の広告)、耳(紹介やラジオ広告)に頼って個別に商品を見定め、或いは実際に体験する必要がありました。そういった非効率な比較、選択行為が情報誌の登場により様変わりしました。雑誌上で、極端に言えば全国各地の供給者が提供する物品、サービスを比較検討できるようになったわけです。

点在していた需給マッチングの場を、規模を拡大して雑誌上に集約、換言すれば非効率な事業に雑誌という効率化ツールを持込んだ、ということです。その市場への参加料がリクルートの収益源であり躍進の源泉でした。


その後、時は変遷し今日、上記市場機能を担う媒体は雑誌からネットに代替され今に至っています。雑誌形態による市場が完全に消失したわけではありませんが、ネット上の市場と併存しつつも雑誌は徐々に消失していくのは間違いありません。

そういった潮流の中で、果たしてリクルートは市場の運営媒体を雑誌からネットへと滞りなく移行できているのか、ネットへの移行後も依然大手の位置を保ち続けているのか、興味のある処です。

換言すれば、ソニーにおけるトリニトロンの例に似た、イノベーションのジレンマをリクルートは乗り越えられたのだろうか、ということです。


次のエントリに続けます)

選別(2)

さて、少し話が逸れますが、前のエントリで触れた、大手予備校が運営する大学入試の合格可能性判定システムについて思う処を少し記します。

周知されているように該合格可能性判定システムは、大学入試センター試験の、受験者各々の自己採点結果と志望大学を収集して運用されています。各大学の学部、学科ごとの定員と二次試験の結果を合わせた合格基準、各受験者の得点分布から志望大学の合格可能性をA〜F段階、或いは%表示で判定するものです。

かつては共通一次試験と呼ばれ、その後内容や制度変更に伴い改称された大学入試センター試験は、1979年から実施されている大学入学のための基礎学力試験です。現在、国公立大学はもとより、多くの私立大学の選抜試験にも採用されています。

国公立大学の場合、このセンター試験の結果と各大学独自の二次試験の結果で合否が決まるわけですが、二次試験を受験する大学(志望校)にはセンター試験終了後に出願する流れとなっています。

この時、二次試験を出願する大学は上記合否判定システムによる合格可能性を勘案して決定されるのが通常です。尚、合格可能性は、あくまでセンター試験の自己採点結果とその時点の志望校を基にして判定される静的なものです。受験生が、この合格可能性の判定結果で志望校を変更することは当然よくあることです。従って、合格可能性判定時の志望者の得点分布と、二次試験出願締切時の出願者の得点分布は異なります。受験者の志望大学変更が合格可能性の判定結果と実際の合格可能性との間に乖離を生じさせるわけです。

受験生の第一志望に続く志望大学、志望学部の序列は入学難易度順になる、第一志望大学、学部の合格可能性が高いA判定取得者は二次試験の出願大学を変更しない、これらの前提はそこそこ妥当性があると考えます。この前提で、最難関大学を第一志望大学とするA判定取得者は、判定も不変で出願校の変更はありません。しかしながら、C,D,E判定取得者、場合によってはB判定取得者はより難易度の低い大学へと志望校を変える可能性があります。これはおそらく、最難関、難関、上位、中堅、中位、一般と玉突き的な志願者の移動を意味します。

例えば、ある中堅大学の合格可能性判定時、A判定を取得した成績最上位の受験者が、二次試験出願時に同じく最上位の位置にあるとは限りません。該大学より難関大学の志望者が出願変更するわけですから。合格可能性判定時の出願者数、倍率が、二次試験出願時で動的に変動していることは言うまでもありません。

以上、センター試験〜合否判定〜二次試験出願への概略を冗長に書き連ねました。で、受験者が二次試験出願大学を決定するにあたって、唯一で必要不可欠な情報である合格可能性の判定が、民間の予備校、つまり私企業に委ねられているという部分に以前から強い違和感を抱き続けていたわけです。

自分自身が共通一次試験を受けたのは遥か大昔です。初回ではなくある程度システムが落ち着きだした頃でしょうか。当時は、自己採点結果を高校単位で河合塾へ送って合否の判定を受けていたような...その時も何故河合塾が?というしっくりこない印象を持ちましたが、模擬試験は受けていいましたから、まぁ、その延長なんだろうか、といった程度でした。かなり曖昧な記憶です。

それから何十年を経て、未だに私企業が受験者の自己採点結果を収集して志望校の合否判定を出しています。なぜ、大学入試センター自らが自己採点結果を収集、統計処理しないのか疑問でなりません。試験の実施、採点して、その後は関知しない、そういった何とも不完全な印象です。少なくとも試験の実施主体である大学入試センターには受験に関わる管理責任がありますから、受験者が適切な判断、選択を行うための情報を提供する責務があると考えます。センター試験を運営する公的機関として責任を放棄している、という見方もできないではありません。

確かに、センター試験も、その後の二次試験も模試を実施しているわけでもない公的機関が、受験者が志望する大学の合格可能性を算定できないのは当然です。センター試験の結果だけでなくそれ以前の学力は勿論、二次試験についての学力も把握していませんから。加えて、アルファベット表示でも、パーセント表示でも公的機関が合格可能性を算定するということには、やはり該合格可能性にはそれなりの確度が求められます。つまり、公的機関が出す合格可能性には一定の合理性と共に、それに基づく責任が必要となるわけです。

明らかに無理です。そういう役割が与えられたとしてもとても担えません。腰が引けるどころか拒否が目に見えています。

翻って、それなら従来通り民間企業に委ねたままでいいのか、民間の大手予備校が算定する合格可能性にはそこまでの信頼性を期待できるのか、という話になります。こういった問題に対し、大学入試センターはおそらく、知らない”という何とも責任感の希薄な回答になるだろうと、思っています。理由は、センター試験を実施することが当センターの役割であって、その結果を受験者がどのように利用し、受験大学の選択材料にするかまでは関知しない、といった処でしょうか。

大学入試センターが志望大学の合格可能性を算定することは、現在の該センターの役割範囲を超えた話かもしれません。ただ、入試制度におけるこの算定が、民間試験の採用とか試験科目の変更、出題範囲や難易度改変等より根幹に位置付けられる懸案であるのは間違いないと考えます。

受験者にとって出願大学の選択は、合否を通じその後の人生に多大な影響を与えます。志望大学の合格可能性は、その選択の重要な判断材料です。一体いつまで民間に丸投げしておくのでしょうか。受験者を支援すべく、公的な機関が合格可能性算定に主体的に関わるべきです。民間予備校の合格可能性の算定抜きでは運営できない大学入試システムというのも奇異です。これを放置し続けるのは行政の不作為と言ってもいいのではないかと。

民間による合格可能性算定が大学入試システムに強固に組み込まれている、制度が硬直して見方によっては既得権益化している現在、公的機関からの情報のみで受験者が志望大学を選択できる制度設計が容易ではないことは理解しています。設計から構築、運用に至るまで超長期の時間も必要です。

ただだからといって、いつまでも官民もたれ合いの入試制度を維持し続けることは是認できません。

この話は深化させていくと、民間予備校、学習塾の存在意義を国や自治体が肯定する、つまり公的教育の不備を認めることに繋がっていきます。そのため、”知らない体”を装うことになるわけですが、そういった姿勢も既に綻んでいるとみています。更には俯瞰すれば、教育における私学の役割、教育それ自体の意義、目的へと話が及んでいきます。

公的教育には不備があった方が、私学や私塾としては”この不備を埋めるために必要”という名分ができますから好ましいのは確かです。自らの存在意義を主張できるわけです。

その存在意義を押し返すこともできず、ズブズブの関係に公がつけ込まれている?甘んじている?というのが今も昔も変わっていない現況に思えてなりません。



随分、話が逸れました。次のエントリでリクルートの話に戻します。

2019年12月1日日曜日

上納3

前のエントリを受けてついでにもう一つ。

件の店は流行っていて注文客の配膳に追われていました。店内テーブルのいくつかには、食べ終えた食器類がそのままでした。優先すべきは、今、店内に居る客への対応ですから致し方ないことかと。で、客への皿出しも一通り終わり、給仕担当の店員が空いたテーブル上の食器類を片付け始めました。

丁度その頃、私達も食べ終わっていました。後はお茶でも飲んで店を出ようと思っていた処でした。この店ではお茶はポットで提供のようなんですが、自席のそばには見当たりませんでした。そこで上記店員に声をかけ、セルフで他のテーブルにあったポットを持ってきて注ぎました。

その時脳裏を過ったのは食べログレビューです。こういった場合、
”食後、お茶を頂いて帰ろうとしましたが、店員さんは他のテーブルの片付けにかかりきりで、空になった私の湯呑には気づきませんでした。仕方なく他のテーブルにあったポットから自分でお茶を注ぎましたが、その場にいる食事客への気配りが不足していると感じました。おそらくパートの店員さんなんでしょうがもう少し接客の教育をお願いします。”
といったレビューになるのでしょうか。 これは以前目にした、名古屋市内か近郊の街の麺類食堂のレビューとして投稿されたものを引用しました。詳細は失念していますが、うどん屋で湯呑が空なのにお茶が注がれず、店か店員の気配りが足りないという頭のおかしい投稿だったかと。同じ類の店で入店後席への案内がなかった、という批判も見た覚えがあります。

居酒屋やうどん屋に入って、”お茶ください”、”空いてる席ならいいですか”と言えば済む話です。黙って座っていて、或いは立っていて、”何もしてくれない”と批判するのは...自分がどんな入ったのか認識できていないのか、或いは、そういう店でも上記のような接客があって当然と思っているのか、興味のあるところです。ショッピングセンターのフードコートやファストフードの店でも、”お茶を注いでくれない”、”席への案内がない”、そういった批判を期待したいところです。

それらは確かに、主観であり、個人の感想です。ただそういった難癖を存在させるというか放置しておくレビューサイトのシステムにも疑問を感じます。店側もたまったものではない、というのが率直な印象です。

このようなレビューに対し、レビューサイトの運営側は、”場を提供しているだけで、そのような内容の投稿を促したわけではないので責任はありません”という姿勢を貫くのは明白です。
”それなら協賛金を”とか、”上納金次第で”
という話になるのかは知る由もありませんけど。

2019年11月26日火曜日

格差

「ゴッドファーザー」に登場のビバリーヒルズ豪邸、破産法適用対象
記事中にもビバリーハウスと称される豪邸の写真が掲載されているのですが...

関西に在るのか?

写真を検索すると...
実は集合住宅なのか?

Beverly houseの検索結果と明らかに違います。

日米の格差を如実に示していると言っても過言ではない、という声もある、かもしれない、気がします。多分。おそらく。

2019年11月25日月曜日

典拠

定期的にメディアに取り上げられています。
「ぶぜん」の意味ばらつく 本来の意味理解は3割程度
熟語や慣用句の誤用についての調査結果です。 調べてみると文化庁の、
国語に関する世論調査
に遡ることができます。上記記事は
平成30年度「国語に関する世論調査」の結果について
から抽出された記事です。記事に拠れば”憮然”を本来の意味である、”失望してぼんやりする様子”と答えたのは28.1%、”腹を立てている様子”とした人は56.7%とのこと。該記事では”砂をかむよう”、”御の字”の例が併記されています。他には”姑息”、”檄を飛ばす”といった例を文化庁のwebサイトで見ることができます。
「言葉のQ&A」(まとめ)
本来の意味とは異る誤用の例が列挙してあるわけですが、その理由については、”ああ、成るほど”とまで素直に頷けず、”云われてみれば、そういう理由もあるかも”といった場合が少なくありません。

一例として”姑息”について考えてみます。上記Q&Aには、
「姑息なやり方ばかりで,あいつはひきょうなやつだ。」というような言い方は,本来の意味に沿って考えても,全く不自然ではありません。重要なことについて,正面から取り組もうとせずに,「一時の間に合わせ」で済ませることに終始すれば,「ひきょう」と見られるのが当然だからです。
とあるのですが、当然なのでしょうか?一時の間に合わせであっても応急処置を姑息な処置とは言い換えません。福島の原発事故でメルトダウンが起こった時、炉を冷却するために海水注入が行われましたが、これが姑息な処置に符合するとは思えません。

単なる”一時の間に合わせ”ではなく、何かもう一つ説明が足りない気がします。前半部、”姑息なやり方”も、”(その場を取り繕う/その場しのぎの/言い逃れのような)やり方”に言い換えても、ひきょうなやつには自然に結びつかないのですが...”ひきょう”にはズルい/正当ではない/真っ当ではない/対等ではない/公正ではない、といった語感があります。この語感と姑息の語感は異なります。

前後を入れ換えて、”ひきょうなやり方ばかりであいつは姑息なやつだ”でも、同じく”ひきょうなやり方”と”姑息”は直ちに結びつきません。ここを結びつけてしまうと誤用になります。

もうひとつの事例です。政治家や官僚の贈収賄といった汚職疑惑がこれまで頻繁に起こっています。そういった時、贈賄側、収賄側の担当大臣、官僚、民間企業の経営幹部辺りが国会の証人喚問の場に召喚されます。そういった場の質疑で正鵠を射る質問が出された場合、往々にして
”記憶にございません”
”存じません。秘書の職務です。”
”破棄しました”
といった回答を耳にします。どうでしょうか、姑息な答弁という形容が相応しい気がします。

では、上記原発事故における炉への海水注入と、証人喚問における”記憶にございません”とは一体何が相異するのか?共に一時の対応であるのは確かです。

両者を比較しながら考えてみると、各々その場しのぎの対応ではありますが、実はもう一つの形容と合わせての”一時の対応”であることに気づきました。海水注入は、緊急/応急の一時の対応であり、”記憶にございません”は、愚劣/低劣/卑劣/不当/無責任/不誠実な一時の対応、ということです。つまり、一時の対応と併存する形容部分が、姑息という語の適否を決めているのではないかと考えています。
(愚劣/低劣/卑劣/不当/無責任/不誠実)+(その場しのぎ)
=姑息な対応
で、この時、(愚劣/低劣/卑劣/不当/無責任/不誠実)性と(その場しのぎ)性の程度の比率は一律ではなく、状況によって、更には時間に対し変動しているはずです。

この(愚劣/低劣/卑劣/不当/無責任/不誠実)部分の割合が余りに大きい時、その場しのぎの部分が希薄化、埋没してしまうのではないかと。各々の主観による処が大きい話ですが、その辺りに、”姑息の意味を直ちに卑怯と捉えてしまう”誤用の理由を求めることができるのでは、という見方です。

あまり低劣で不毛な対応は、一時しのぎを飛び越えて低劣で不当という語感しか残さない、ということです。

そしておそらく、この姑息の誤用が増加しているのは、上記の一時しのぎの語感が端折られた文言例を多く見聞してきたためではないでしょうか。今の処、中、初等教育で採用されるような文芸作品、幅広く読まれている名著には残念ながらその情景の記憶はありません。

しかしながら、国会答弁、政治家の記者会見、報道バラエティにおけるコメンテータの論評には、一時しのぎを通り過ぎた醜悪な応答例が少なからずあります。上述の
”記憶にございません”
”存じません。秘書の職務です。”

”破棄しました”
などはその典型です。現時点では他に典拠が見当たりません。従って、
”姑息”を誤用させる原因は政治家にある
取り敢えずこのように結論づけておきます。

2019年11月22日金曜日

上納2

前の事例に続き、上納金未納による結果をもう一つ。おそらくです。

緑区の居酒屋へ昼食を摂った時の話です。魚料理に注力していてボリュームもあり満席で空き待ち客がありました。人気店であることを窺わせます。

当該店の料理は十分満足のいくものでしたが、本エントリでは触れません。数日後でしょうか、地図上で場所を確認しようとした際のことです。Googleを利用して、飲食店名と緑区といったような大まかな住所で検索すると、上位にはほぼ間違いなく食べログへのリンクが現れます。かなり以前からそういった状況が続いています。

そうであるなら、食べログ内で確認しても同じだろうと、
食べログ>愛知グルメ>名古屋グルメ>名古屋市南部グルメ>地図から探す
とリンクを辿っていきました。おおよその位置まで拡大表示していき、[このエリアで再検索]ボタンをクリックすればエリア内の飲食店が✪で表示されるはずです。その際、地図の左側に✪の飲食店名やアイコンが一覧表示され、位置と飲食店情報が紐付けできる仕様になっています。

そういった操作で、位置から正確な店名、住所、電話番号を調べようとしたわけです。

ところが、地図上に明らかに当該飲食店の場所が表示されていて[このエリアで再検索]ボタンをクリックしても、✪表示が現れず、つまり”そこには飲食店は存在しない”ような地図表示になっていることがあります。

このような、新たに飲食店を検索するのではなく、位置が既知の飲食店について情報を得ようとすると、”表示されない=存在しない”ことは以前も経験しています。飲食店数の密度が高い場合、✪が幾つも重なってしまうためある程度飲食店が間引かれて表示されることは承知しています。ただ、その場所に店が密集しているわけでもなく、明らかに在るはずなのにその店が存在していない...そういった地図表示です。

これはおそらく、初期状態で表示件数が20件に設定してあることが理由です。設定表示件数、この場合は20件ですがこれを超える飲食店は存在していても表示されない、ということです。


この設定件数を50、100と増やす、或いは更にエリアを拡大表示(検索エリアを縮小)して[このエリアで再検索]すれば、存在しなかった店が現れてきます。

問題は、初期条件下で飲食店を検索した時、同一エリアであっても検索されない店がある、という部分です。店の表示件数を増やしたり、検索エリアを絞れば表示されるとしても公平性に欠けているのは否めません。

あるエリアで新たに飲食店を探そうとして20店が表示された時、まずはその中から店を調べ出すのが自然な選択です。そこで希望の店が見つかればその店を訪れるわけです。ジャンルや予算、収容人数等、自分の希望に合う店がない場合、”検索エリアを広げる”のが通常の操作ではないでしょうか。20店以上の飲食店が在って検索漏れが起きていても、それはそのままになってしまうかと。

飲食店が密集しているエリアであれば、上記のように表示件数を増やしたり、検索エリアを絞る操作で非表示になっている店を表示させることができます。そのことを知っていたとしても、”希望の店が見つからない→検索エリアを昼拡げる、或いは移動する”という操作が通常です。

つまり、最初の検索エリアで表示される20店から漏れた飲食店は、地図からの検索によって訪問される確率がかなり低くなる、ということです。

今回は偶々、新たな飲食店の検索ではなく、既に訪れた店を検索してこのことに気づきました。初期設定で表示される/されないの線引きが、宣伝広告費、協賛金、上納金を納めたか否かによるものかは定かではありません。

リアルの街の地図やタウン誌ではよくあることですから、”上納金次第で地図に優先的に表示されます”そんなセールストークで食べログ代理店が営業していても、不思議ではないなぁと思った次第です。

2019年11月18日月曜日

失念

ちょっとセキュリティというか、フィッシングメールについて記してみます。詳しい訳ではありませんので誤りあればご指摘頂ければ幸いです。

頻繁にというほどではありませんが、幾度となくフィッシングメールを受信しています。多くは、
  • クレジットカード、キャシュカードが第三者に使用された
  • 口座に不正なアクセスがあった
  • アカウントをロックした
  • システムをアップグレードした
といった理由でメール本文中にあるURLをクリックさせ偽サイトへ誘導する仕組みです。その偽サイトでログインが促されIDやパスワードを入力するとそれらの情報が盗みとられるわけです。そうなるとなりすましが可能になりますから、口座内の預金が払い出されたり、不正な買い物、アカウントない情報の改変、なりすましによる第三者への攻撃等、様々な被害を被り、また第三者に被害を及ぼす踏み台に利用されることになります。

真正なサイトへのログインならば、ワンタイムパスワードや二段階認証が、悪意ある第三者からの不正アクセスに対し有効な方策です。しかしながら、フィッシングメールでは偽のサイトに本人自らがIDやパスワードを入力してしまいます。

欺かれて自らがIDやパスワードを入力してしまう、この被害をどう防ぐか、私見を記してみます。

その前にこの詐欺メールについて思う処を少し。これまで様々なフィッシングメールを受信しました。送信元は、JCB、MUFJカード、三菱UFJ銀行、住信SBIネット銀行、ゆうちょ銀行、ヤマト運輸、佐川急便、日米のAmazon、Apple、を騙って偽サイトへの誘導を促してきました。メール本文の日本語が怪しい、そもそもアカウントを持っていない場合にはフィッシングメールとの判断が可能です。しかしながら、以前の詐欺メールに比し、メールの日本語が徐々に上達し、内容も巧妙になっているのを実感している今日この頃です。

正直な処、Gmailの迷惑メール、詐欺メール検出機能に随分助けられてきました。冒頭に”詐欺メール”と注意喚起され、その前提で構えてメールを読んで成る程と感じることも少なからずありました。警告がなく、注意力が低下した状態でフィッシングメールを斜め読みした時、偽サイトへのリンクを100%クリックしないという自信はありません。常日頃メール本文中のURLをクリックしていますから、URLクリックに対する抵抗が余りに低いことは重々自覚しています。フィッシングメールの被害を避けるために、”メール本文内のURLをクリックしない”というアドバイスはしばしば見聞しますが、不可能です。正当なメールで余りに多用されていますから。メールの仕様とかルールとしてすべからく”URLを記載しない/URLクリックができない”が採用されない限り難しい話です。

このGmailの迷惑メール、詐欺メール検出機能に助けられているのはおそらく私だけではないはずです。日本のGmailユーザーのほぼ全てが大なり小なりこの機能の恩恵にあずかっているのではないでしょうか。Gmailユーザーであって、上記銀行、クレジットカード会社、宅配業者、ネット通販サイトにアカウントをまったく保有せず、利用もしていないなら話は別ですが。未成年者や学生には関係のない話ではあります。

この機能は、名を騙られる企業にとっても有難いものであるのは間違いありません。自社の顧客が詐欺被害に合い、自社サイトにある顧客の資産が盗まれることを未然に防いでいるわけですから。確かに企業側としては、一方的に名を騙られ、詐欺の舞台にされているだけであって、顧客が詐欺被害に会ったとしても責任は大きくないのかもしれません。

しかしながら、顧客(資産)の保護という視点に立って見た時、”全く責任はない”とはならず、一定の責任は免れないのではないか、と考えます。それはフィッシングメールの注意喚起をし、定期的なパスワードの変更を促せば済む話でもないだろうと。

フィッシングメールに対し、上記各社はGmailの検出機能におんぶに抱っこ、換言すればタダ乗りという状況になっています。Google様に足を向けて寝られない、場合によっては日米安保における思いやり予算にも似た、用心棒代が支払われていてもおかしくないようにも受け止めています。

日米AmazonについてはAmazonにフィッシングメールの通報サイトがありました。ただ、それがどこまで効果的に活用されるか量りかねる部分もあります。いずれにせよ、上記各社の顧客を保護に対する姿勢というものを改めて問い直したい処です。いつまでもGoogle様におまかせというわけにはいかないだろうということです。

昨今、巨大IT企業GAFAの独占的姿勢に対し規制を導入しようとする動きがあります。特に欧州で積極的ですが日本でもそういった論調を見聞します。ただやはりそういった姿勢は、自分のケツは自分で拭けるようになってからの話なんじゃないかと思った次第です。

さて、それではこういったフィッシングメールを受信した際、詐欺被害に合わないための方策について記します。

それは簡単に言えば
パスワードを失念
することです。パスワードを失念してしまえば、例え偽サイトに誘導されパスワード入力を促されても入力しようがありません。なにしろ忘れてますから。後はパスワード入力が必要な時にはどうするか、という問題に対処すればいいわけです。

これはあくまで個人利用に限定したPCにのみ適用できる使い方ですが、

  • ログアウトしない
  • OSのパスワード保存機能を利用する
ことで実現可能と考えます。換言すれば

極力パスワードを入力してログインすることを習慣にしない
ということです。勿論メモとして記録しておくことは必要ですが、記憶できないパスワードを設定しログインしたままにしておくわけです。勿論、二段階認証や安全なPCとしての登録が前提です。Yahoo!、Google、Amazon辺りは意識してログアウトしない限りログイン状態が保持されます。パスワードを入力する頻度が減れば減るほど、それが特殊な操作、不慣れな操作となるわけです。

このログインした状態で、フィッシングメールを受信、メール内のURLをクリックするとパスワード入力を促す偽サイトに飛ばされるわけですが、そもそもログインしていますから真正なサイトであればパスワード入力は求められないはずです。面倒なパスワードで覚えてませんし...”パスワードを記したメモを見る”という行為によって一呼吸置くことにもなり、反射的なパスワード入力を妨げる、そういった効果も期待できるのではないかと。

ログイン操作が頻繁な場合、忘れ難い簡単なパスワードを設定してしまい、又、パスワード入力が習慣化してしまうわけです。そうなるとフィッシングメール内のURLをクリック、促されると習慣的にパスワードを入力してしまいます。

ログイン操作を習慣化しない、これがポイントではないでしょうか。

そうは言っても銀行や証券会社の口座にアクセスしっ放しというのも精神衛生上よろしくはありません。サイトによってはログイン後一定時間操作しないと自動的にログアウトさせる機能が組み込まれているサイトも少なくありません。そうなると複雑怪奇なパスワードでは入力が大変です。

この時に有用となるのがブラウザに組み込まれているパスワードの保存機能です。最初に面倒で失念しそうなパスワードを設定し該機能で保存、その後忘れてしまいます。この機能により設定したサイトにログインしようとすれば、自動的にパスワードが入力されているはずです。フィッシングメールに引っ掛かってメール内のURLをクリックするとどうなるか?確認はしていませんがパスワードの入力を求められるのではないかと。真正のサイトと同じように見せ掛けた偽のサイトですから。

この時パスワードを忘れていれば入力できません。この機能を利用すればログアウトもできますし、再ログインしてもパスワードは自動で入力されるはずですから、パスワードを失念しても差し支えがありません。

この場合の懸念としては、PCからの情報流出、及び、遠隔操作等のPCへの不正アクセスが想定されます。しかしながら、どの程度その危険に晒されているか一律には判断できません。

PCをどういった環境、目的で利用しているかによります。マルウェアやスパイウェアの多くはメール添付や怪しげなソフトのダウンロード経由で仕組まれますから、日常的にそういった使い方を避ければその脅威は大きくはないと考えます。プロバイダやGmailのスパムメール検出、アンチウィルスソフト辺りが適切に機能していればさほど心配は不要ではないかと。

より大きな脅威は、使用者であるアナタ自身の、不用意、習慣、欲とかスケベ心といった人為的部分に由来していると断言します。

上納

名古屋市内にある個人営業の河豚料理店です。食べログでは口コミは2件のみで各々5点と4.2点。

で、これをどう計算すれば、食べログによって
3.06点
の評点になるのか。不思議です。

上納金を納めないとこういう扱いになるというのが最も合理的な理由かと。

取引

そういったわけで週明けの今日(11/18)から沢尻逮捕、違法薬物関連が話題の中心に移りつつあるようです。で、それに応じて”桜を見る会”疑惑が取り扱われる割合は必然的に小さくなるわけです。このことを指して一部界隈で、安倍陰謀論を叫ぶ声もあり、それを察知してか明確に否定する旧来メディアの姿も見受けられます。

”陰謀”と誇大に報じてバッサリ否定する、そんな処でしょうか。小さな事実を針小棒大、荒唐無稽に取り扱い、あり得ないことと切り捨てる、そういった手法でしょうか。勿論、陰謀説は支持しません。そこにあるのは忖度と取引です。

事態の沈静化を望んで忖度する政権周囲、話題性のある事件が露見すればそれを大きく取り扱わざるを得ないメディア側、そこにはあからさまではないにしても暗黙の取引関係があるわけです。それを報道統制、メディアコントロールと捉えるのか報道ネタや報道する/しないの貸借、取引と受け止めるかの差異でしょうか。

メディアとしては常日頃公正中立を標榜し、報道の自由(と報道しない自由)や独立性を声高に叫んでいますからそういった取引関係ですら存在を全否定しなければならないと。”陰謀説”はそのツールに過ぎない、そんな処かと思料します。

2019年11月17日日曜日

上被3

次の上被はこれでしょうか。
思いやり予算、4.5倍に 米政権、80億ドル要求―日本側の反発必至
”桜を見る会”の公私混同ぶりなど上記外圧に較べれば些末なことだと、巷間でそういった論調が生まれつつあるようです。
トランプ氏が日本に“思いやり予算”4倍要求、「沢尻エリカで霞まないで」
だったら、さっさと”桜を見る会”関連の疑惑を晴らして冒頭の要求への対応に応ればいいのでは?対応といっても、要求を飲むか、拒否するか、平身低頭してまけてもらうしかないわけで他に何を議論しろと。貿易交渉の譲歩?

大体において、
日米は互いに助け合うことのできる同盟となり、そのきずなは盤石なものとなりました。そして、ドナルドとの非常に親密な個人的信頼関係により、日米同盟のきずなはもはや揺るぎようのない、世界で最も緊密な同盟となりました。
と大口叩いて用心棒代をせびられるわけですか...
昨日のゴルフ、大相撲観戦、メラニア夫人を交えた夫妻同士の夕食会も含め、トランプ大統領とくつろいだ雰囲気の中で様々な話をし、トランプ大統領との友情と信頼関係を更に深めることができました。
諂ってヨイショした結果がこの有り様ですか。度し難い外交手腕です。 

上被2

前のエントリに続けます。

今週は、沢尻逮捕で一息ついている間に脚本と配役が決められていくものと推察します。特に、スケープゴートを誰に押し付けるか、及び、収束後の処遇が焦点でしょうか。

順当には地元後援会事務局長、或いは地元秘書辺りでしょうか。並行してPCのハードディスクをドリルで破壊して、読み込み不能にする作業が続けられるものと思われます。

そして地検特捜部は微動だにせず平常運転と。まぁ、不逮捕特権がありますから。

次のエントリ

2019年11月16日土曜日

上被

来週以降(11/17〜)、巷間は
女優 沢尻エリカ容疑者を逮捕 合成麻薬MDMA所持の疑い
関連の報道で埋め尽くされるのだろう。で、”桜を見る会”関連の公選法や政治資金規正法違反の疑惑はめでたく雲散霧していくのでしょうか。

モリカケ問題が延焼し始めた頃、秋篠宮内親王婚約がスクープされました。この時の第一報もNHKからでした。

全く同じ構図です。余りに思惑が丸出しです。もう少し悪知恵を絞ってほしいものです。

次のエントリ

2019年10月25日金曜日

模範

この処、新瑞橋付近をよく通ります。で、一部界隈で絶賛高評価のとんかつ店 井筒に立ち寄ることができました。周回遅れの話です。

初めてのとんかつ店で何を頼むか...考えるまでもなく普通のロースカツ定食です。供された膳はキャベツ、ポテサラの添えられたトンカツ、白飯、味噌汁、漬物とオーソドックスな構成です。ソースは別添でした。

食べてもいないのに何ですが、上ロースやもち豚ロースといったプレミア?上位?のトンカツを頼まずとも、美味しいとんかつでした。カツはやや強めに揚げられていますが、これは短時間で揚げて旨みを閉じ込めるためでしょうか。そのためかどうかは判らないものの、ロースカツの旨さの本質である脂の美味しさがしっかりと在りました。赤身部分も柔らかく口腔内が豚の旨みで溢れます。

ロースカツの場合、脂身部分の柔らかさと対照的に、赤身部分にぱさついた歯応えを感じることが偶にありますが、そのようなパサツキ感のないジューシーな風味でした。

近年、特別な銘柄豚を、例えば低温長時間で揚げるなど、従来のトンカツの範疇に留まらない特別なトンカツを提供する店が話題になります。この店はそういった振りかぶったトンカツ店ではなく、あくまでも昔からの奇をてらわないトンカツ店です。そういった肩肘張らない店の中で、とんかつ 沢井(瀬戸 山口)、とんかつ 勝義(川崎)や八幡屋(名古屋 荒畑 持ち帰り)と並んで、ほぼ最上位に位置付けられるのではないかと。いぶし銀のようなトンカツ店です。

ちなみに、品書きにはカツ丼の記載はありません。店の矜持が窺われます。

2019年10月20日日曜日

選別

データをマネタイズ
何だか煙に巻くような文言ですが、膨大なデータを収集、加工、分析し、そこから新たな情報を作成、編集して販売する事業と理解しています。用途は採用、販促、製品開発、需要予測あたりでしょうか。選挙活動や、政策立案、世論誘導向けの情報もあるのだろうと。

いわゆる名簿屋も該当するのでしょうか。新小学生へのランドセル、新中学生への学生服や学習塾、新大学生への賃貸住宅、新成人へのスーツや晴れ着、そういったDMや電話セールスの対象となる属性情報の提供も情報の収益事業ではあります。個人情報保護法の施行以降は殆ど見聞しなくなりました。これは当に個人情報の売買です。データのマネタイズではありますが、今関心が寄せられているマネタイズ事業とは異なるものです。

単純には、例えば、購入したい自動車の色について非常に大規模なアンケートを行い、赤、白、グレーの回答比率が利用できれば各色の生産計画立案を支援できます。個人情報レベルまで踏み込まず、特定の回答をした個人の集合、或いは、特定集合の回答のレベルから動向を分析し、それを加工して顧客に有用な情報として販売する、そんなイメージで捉えています。

で、今衆目を集めているリクルートキャリアによる就活生の内定辞退率予測データの販売について考えてみます。

内定辞退率予測データは、ある企業に内定した就活生の個人情報とサイトの行動履歴から算出されるようです。この二つのデータを、昨年度(2018年度)の内定者辞退動向から構築したモデルと突き合わせ、AIでムニャムニャすると、当年度の内定者が辞退する確率を求められるとのこと。内定者辞退率の予測値を考慮して採用企業が内定者数を増減すれば、採用予定数達成の精度向上が見込めるわけです。
リクナビ問題「同意があれば万能」論を見直すべき…鈴木正朝教授が「思考停止の議論」に危機感
この時、リクナビに登録する際、プライバシーポリシーに同意した就活生の個人情報だけでなく、約8000名の該ポリシーに同意しなかった就活生のデータも内定辞退率予測データの算出に利用されていることが問題となっています。加えて、プライバシーポリシーの内容自体にそもそも不備があるという指摘や、就職活動に不利に働く事業への個人情報の利用は同意の有無に関わらず不適切との批判あります。

こういった個人情報の取扱い、これはこれで十分問題ですが、個人情報をAIでムニャムニャして内定辞退率を予測する、事業そのものに胡散臭さを禁じ得ません。

予測のアルゴリズムは当然非公開ですから、このブラックボックス部分にAIを充てていますが、
”そんな大した予測やってんの?人力でテキトーに予測した数値で商売してんじゃないの?”
という疑念が生じるのは間違いない処です。

例えば、A大学の就活生が、B業種の会社B1社と、C業種のC1社、C2社から内定を貰ったとします。すると、この就活生は、業種BとCや、同業C1、C2を比較し、各社におけるA大学の位置付け、自身の希望を考慮して志望を序列化します。この序列化が合理的になされるならそこそこ妥当性のある内定辞退率が予測可能ではないかと。AI導入で予測値の信頼性を向上させるのが狙いなんでしょうか。

例えば、トヨタと日産、日立と東芝なら各々後者の内定辞退率が高いであろうことは容易に推測できます。では、トヨタと日立では?これは異業種の比較ですから、当人の希望や専攻に依って序列は変動します。が、それらの情報を鑑みれば合理的な序列化は可能ではないかと。果たしてAIを利用するほどの話なのか、甚だ疑問です。

まぁ、”AIが出した解です”として予測値を権威付ける一方、問題が起これば責任はAIに帰せることができますから、その辺にやたらAI利用を喧伝する理由があるのではないかと。勿論、憶測の域を出ませんけど。

そこから更に勘ぐると、この内定辞退率予測データの算出には、各個人の具体的な個人情報も利用していたのではないか、という疑義が生じます。これが、就職活動を支援する目的で就活生から収集した個人情報の目的外利用であることは明らかです。AIで予測”は、リクルートキャリヤによるこの目的外利用を表面化させない恰好の方便になっているのでは、という見方もできるわけです。

以下、少し詳細に予断を持って推量します。

新卒の学生は就活するに当たり、就職ポータルサイトであるリクナビへの登録がほぼ必須となっています。日本の就職情報分野において、リクナビはトップクラスのガリバー企業であり、換言すればほぼ独占状態にあるとみて間違いありません。日本の新卒就活生の就職に関わる個人情報、採用企業の採用に関わる情報のほぼ全てがリクナビに収集されているわけです。

就活生がリクナビに登録する際、どこまでの個人情報を提供するのかはよく解りません。ただ、
リクナビに会員登録するとできること
で、使える機能を利用しようとすれば、必要となる個人情報の登録を求められるのは当然です。住所、氏名、メールアドレスはもとより、OpenESを使えばエントリーシートや履歴書に記載する個人情報を登録することになります。加えて、入社志望企業の検索履歴、説明会やイベントの申し込み、参加状況、志望企業の優先順位、志望動機、内定状況といった情報があれば、内定辞退率の予測はそれほど難しい話ではなく、AI技術など使わずとも可能と考えます。

ただ、こういったパラメータから内定辞退率を予測することは、個人情報に手を突っ込むことを意味しますから、そこで、AI技術を活用したという体にしておくと。そんな処ではないでしょうか。

つまり、各個人の情報をプロファイリング、スコアリングすることで算出した内定辞退率を、恰もアルゴリズムを使って機械的に予測したかのように装っているのではないか、ということです。それは、いちいち記すまでもない個人情報の目的外利用です。

更に疑えば、特定就活生の内定辞退の可能性について、当該企業の採用担当者からリクナビへの照会すらあったかもしれません。採用予定枠を埋めると共に、できるだけ優秀な内定者を採りたい、人事の採用担当者からすれば、辞退予測は願ってもない情報です。

そのような照会が実際に行われていたか否か、知る由はありませんが、あったとしても驚きません。新卒者の就活支援より先行して拡大した転職支援の分野では、ヘッドハンティング、スカウト、引き抜き等と称される中途採用では、特定個人に焦点を当てた転職が主です。少なくとも転職支援会社には、転職希望者の意向や動きは筒抜けではないでしょうか。

転職支援の拡大を受けて巨大化した新卒者の就活支援事業ですから、個人情報は果たして適正に保護されていたのか、或いは、情報を取り扱うリクナビ自身の意識がどうだったのか、不信感は払拭できません。

さて、就活〜就職という、狭い年齢層に属する、極めて大量の人員がほぼ同時期に入社するというイベントに既視感を抱きました。その後の人生や生活に大きな影響を及ぼす、就職という目的に向かう際、膨大な個人情報が収集される点も同じです。

それは、大学受験の際の志望校決定の仕組みです。大学入試センター試験では、ほぼ全ての受験者の自己採点結果を大手予備校が集約します。受験生は予備校の示す判定結果を鑑みながら志望校を決定しています。大手予備校とは駿台、河合塾、代ゼミといった三大備校に東進を加えた辺りでしょうか。こちらも人生に大きな影響を及ぼす大学入学という目的に向かう際センター試験の自己採点結果という明らかな個人情報が収集されているわけです。

大手予備校が運営する、この大学入試の合格可能性判定システムと対比しながら、リクナビが手掛ける就職支援事業について記してみます。


次のエントリに続けます)

2019年10月18日金曜日

雲泥

危機管理能力に圧倒的な差を感じます。事後の対処が対照的です。
二階氏、まずまずに収まったを撤回
台風被害で表現不適切と
自民党の二階幹事長が、台風19号による被害に対し、
――まずまずで収まった――
と発言し、野党からの批判を浴びました。結局、
――被災された皆様に誤解を与えたとすれば、表現が不適切だった。発言には気をつけていきたい――
と謝罪に追い込まれました。事実上ですが。本意ではないにしても、、被災地に出向いて防災・減災に取り組む姿勢のアピールと相まって、取り敢えず事態は収束に向かったわけです。

一方、国民民主党の森ゆうこ参議院議員の質問通告問題です。質問通告内容の外部漏洩に話をすり替えて、調査チームを立ち上げると...燃料を投下してしまいました。引くに引けなくなって、調査する体裁を整えひっそりとフェードアウトしていくと。そんな絵図ではないでしょうか。

彼我の主張する政策の是非はさておき、政権担当能力の雲泥の差が具現化した印象です。

自民一強状態に安住し、それを許しているのは野党の自分達である、そういった認識がない限り、政権交代可能な二大政党制の実現など夢のまた夢です。

幻滅

”あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 中間報告”が公開されました。その中間報告の中で展示作品について、

多くの人が不快だ、心を傷つけられたと問題視する作品は、表現の自由の保護の対象となるのか。
という問いに対し、
単に多くの人々にとって不快だということは、展示を否定する理由にはならない。芸術作品も含め、表現は、人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがあるのであり、それこそ表現の自由が重要な理由。
との回答が記されていました。シャルリー・エブド襲撃事件が何ら糧になっていないことがよく解ります。

時同じ頃、神戸市立東須磨小学校の教員いじめ問題が報道されました。上記”人様に不快感を催させる行為を肯定する文言を目にすると、虐めが根絶しないのも頷ける気がします。

2019年10月8日火曜日

専制

「表現の不自由展・その後」が10/8(火)午後から10/14(月)まで展示されることが決まったようです。これを受けて河村たかし名古屋市長が座り込みの抗議をするとのこと。

まぁ、終了日も決まっていますから、最長7日間弱のパフォーマンスです。それはどうでもいいのですが、やはり大村知事の専制的な決定には反発します。該展覧会を巡るこれまでの流れにおいて、時折、市民、県民、ばあいによっては国民の民意が垣間見えたわけです。
74%が反対「慰安婦少女像」の芸術祭展示問題アンケート結果発表
文化庁があいちトリエンナーレ2019に補助金を交付しないとした決定に対し、適切46%、不適切31%という世論調査の結果もあります。

理由はともかくこちらも一つの民意の表われです。
自民県議団「賛同は困難」 不自由展再開で大村知事に申し入れ書
恫喝的な言動は容認しませんが、おびただしい数の、展示を抗議するFaxやメールが事務局に届いているのも事実です。

そういった民意に何ら応えることなく”表現の自由”を口実に再開をゴリ押しするという決定が民主主義に基づいたものなのか甚だ疑問です。当しく民主主義を装った専制的な決定であって、愛知県は大村強権王国との批判も免れないと考えます。

これも首長多選の弊害かもしれません。


2019年10月2日水曜日

痛感

まだまだ考察不足であることを痛切に実感しました。

以前のエントリで、豚コレラ対策としてワクチン接種が遅きに失したことの理由として挙げられている、”豚肉輸出への打撃”に疑問を呈しました。国内の豚肉生産量の約0.25%程の輸出にそこまで配慮する合理性が理解できませんでした。

ただ最近、輸出入に関わる別の理由がワクチン接種が遅らしたのでは、と推測しています。理由として行政の無作為、判断の誤りよりはもう少し妥当性があるように受け止めています。

それは、豚肉の輸出ではなく、実は輸入に理由があった、ということです。豚へのワクチン接種を開始すると、国際的に”ワクチン接種が必要な国”である”非清浄国”にグループ分けされます。

これまで清浄国であった日本は、非清浄国から日本への豚肉輸出を拒否できました。勿論、清浄国である米国やカナダからの安価な豚肉の国内流通は妨げられていませんが。ところが日本が非清浄国になってしまうと、米国やカナダに加えて非清浄国からの豚肉の輸入圧力に晒されることになります。

つまり、清浄国というある意味輸入障壁で国内養豚業は保護されてきましたが、非清浄国化によってその障壁が取り除かれ、安価な豚肉がどっと国内に流入してくるというわけです。

国内養豚業保護を目的に輸入を規制したり高率の関税をかけることは、おそらくWTOの国際ルール違反との批判をあびることになります。そこで、OIE(国際獣疫事務局)のルールを使って清浄国/非清浄国間の障壁のようなもので国内養豚業を保護してきたと、そんな処ではないでしょうか。

であるならば、豚へのワクチン接種による非清浄国化を回避するため、接種の時期が遅れたというのも首肯できる話です。

気づくことができませんでした。

2019年9月27日金曜日

続・風土

以前も記しましたが、さっさと住民投票の準備を進めるべきです。一般の市民、納税者の意志が蔑ろにされている印象です。納税意識が格段に減退しています。市民の意志が尊重される正当な行政手続きの実施を求めます。
あいトリ補助金「中止」、撤回求める署名に3万4000筆 参加アーティストら文化庁に訴え
ただそれに先立って、先日【あいちトリエンナーレのあり方検証委員会】が実施したアンケート結果が公開されて然るべきと考えます。

2019年9月21日土曜日

方便

関東で豚コレラが発生したことを受けてワクチンを接種することになったようです。

江藤拓農林水産相は20日、家畜伝染病「豚コレラ」のまん延を防ぐため、養豚場の豚にワクチンを接種する方針を正式に表明した。養豚の一大産地である関東で発生したことを踏まえ、接種を見送ってきた従来の方針を転換する。これにより、日本は国際ルールで定める「非清浄国」となる見通し。復帰には時間がかかる可能性が高く、豚肉の輸出などに影響が出そうだ。農水相、ワクチン接種表明=各知事が判断-豚コレラ対策
豚へのワクチン接種を開始すると、国際的に”ワクチン接種が必要な国”との位置付けとなり輸出する豚肉の商品価値が毀損する...豚コレラが中部地方の広い範囲で発生し、養豚産業に深刻な被害をもたらしているにも拘らず、政府がワクチン接種を認めなかった理由は、豚肉輸出の打撃になるため、そう理解していました。

では一体、日本の豚肉輸出量、輸出額はどの程度だろうか、というのは自然な疑問です。
農林水産省の、
平成29年農林水産物・食品の輸出実績 (品目別)
によれば、H.29年で約2,300トン(約10億円)とのこと。

一方、日本国内の豚肉生産量は、豚肉需給表によればH.29年度で897,000トンです。えーと、本当に全生産量の約0.25%程の輸出を守るためにワクチンの接種をしなかったのか?養豚業者に壊滅的被害が生じているのを座視していたのだろうか、俄には信じ難い話です。

上記に何か誤りがあって合理的理由によりワクチン接種をしなかったと受け止めたい処です。ただ、全く上記通りならば、行政に対する不作為の謗りは免れないと考えます。

ヒトの感染症であれば行政は迅速に対応するでしょう。輸出量、輸出額の点から豚肉が重要な輸出品目で、商品価値を毀損してしまうという理由でワクチン接種を躊躇したならば理解できないわけではありません。

ただ、巷間、スーパーを始めとする量販店で米国産やカナダ産の輸入豚肉が溢れる中、国産豚肉にどこまでの輸出競争力があるのか疑問を持って検索してみるとこの有り様です。

初動を謬ったのは間違いありませんが、ではなぜ謬ったのか。

推測してみると、
1)豚コレラの脅威を甘く見ていた。被害が拡大する中、行政の無謬性もあって、謬りを自認できず輸出云々を理由に置き換えた。
2)豚コレラの発生地とその周辺の地域単位でワクチン接種を行うと、当該地域で生産された豚肉にはワクチン接種豚のレッテルが貼付される。このことは国内での当該地域産の豚肉の商品価値を毀損してしまい競争力を減退させる。ざくっと言えば、ワクチン接種に由来する、国内他産地との競争敗退、売上減を避けたかった。
3)豚肉輸出関連業者からの圧力。
といったところでしょうか。結局被害地域が拡大し、現在に至ったわけです。

まず3)ですが上記0.25%程度の輸出量で圧力をかけられるとは考え難く、まあ、ないだろうと。不正な口利きがあれば別でしょうけど。

2)は理由としては合理的です。ワクチン接種実施を国が判断するわけです。大きな被害が生じている中部地方では、例え豚肉の商品価値を毀損させたとしても更なる被害拡大を抑えるために接種の実施を要望する立場かと考えます。豚コレラの発生していない関東の有力産地は接種に反対の立場でしょう。自分たちには被害が及んでいないわけですから。で、ワクチンを接種していない豚肉を出荷できるわけですから接種した豚肉より競争上有利になります。従って、国が中部地方のみワクチン接種という判断を下すならば、特段反対の声は上がらないように思えます。これが九州も含めて全国一律となると反発は必至でしょうけど。つまり、豚コレラが発生した地域限定でワクチン接種を実施とすれば、もっと迅速に被害を抑えることができたのではないかと。では何故その判断が下されなかったのか?

理由はやはり1)でしょうか。中央省庁からすれば、中部で大きな被害が出たとしても、関東の有力産地や九州の有名産地に被害が及ばない限りワクチン接種は不要としていたのかもしれません。それで結局初動が遅れ、現在の状態に至ったと。
このワクチン接種の実施について大村愛知県知事は、
――地域限定でやればそこの養豚業が成り立たない――
とか、全国一律など広域での接種について
――消費者までの関係事業者の合意が得られればありだと思う――
とコメントしています。ただ、地域限定でもワクチン接種しなければそこの養豚業は壊滅してしまうのでは?と思います。全国一律など広域での接種ならというのも、”豚コレラが発生していない地域で豚肉の商品価値を毀損するワクチン接種を受け入れるはずがない”わけで、結局話が纏まらず被害が拡大、という恐れがあります。

何か的外れではないかと。知事の職務はワクチン接種を拒否したり、自分たちの地域だけでなく他地域にも接種を要望することではないはずです。ワクチンが接種された豚からの豚肉の安全を訴え風評被害を防いで販売促進に努め、収束後一刻も早く清浄国に復帰すべくロビー活動を行うことこそ本来の役目ではないかと思った次第です。

2019年9月17日火曜日

風土(11)

「表現の不自由展・その後」の中止騒動が勃発する直前に京アニ放火事件が起きました。先述しましたが、被害者遺族の中には実名の公表を拒否された方もいました。それにも関わらず、NHKは”実名を報道することが必要”と考え、”遺族の方の思いに十分配慮をして”、実名を公表しました。

しかしながら、必要な理由の具体的説明、遺族に対する配慮の内容は依然明らかにされていません。こちらも議論のきっかけを投げかけた状態で止まっています。NHK側としては既に結論が出ているとして議論するつもりはないのかもしれません。
公正中立な放送を行うNHKが必要と判断したのだから遺族が望まなくとも、拒否したとしても実名を公開する
この姿勢に全く独善的な意志を感じます。実名公表を報道の使命と責任に依るものと位置付けているのはNHK側の論理であって、見方を変えれば弱者の意向を無視したNHKというメディアの力を背景にした強者の傲慢な姿勢に映ります。

この場合、NHKを実名公開へと駆り立てたものは報道の使命と責任ということですが、報道の自由を制限されることへの反発もあったのでは、という勘ぐりを捨て切れません。率直に言えば、
いちいち取材先の意向を聞き入れていたら自由に報道できない
そういった業務が制限されることへの組織防衛や、それまで認められてきた報道の自由の幅が狭められることへの危機感の現れのような気もします。

翻って「表現の不自由展・その後」です。9月5日のNHK クローズアップ現代でこの騒動が取り上げられていました。
「表現の不自由展・その後」 中止の波紋
視聴した処、番組製作側の著しい偏向姿勢を感じました。抗議や脅迫で展示中止に至った経緯が説明され、”中止の判断は誤り”という批判へと続く流れでした。で、「表現の不自由展」の実行委員会側からはインタビュー映像が放送されました。展示中止の決定が批判されています。他、表現の自由を主張し展示を求める側はスタジオにゲスト出演して意見を開陳したり、番組向けにコメントが伝えられました。その一方、展示中止を主張する側については河村市長の会見映像を切り取って放送するなど過去の素材の使い回しでした。展示中止を求める側の理由に関してはは全く取り上げられていません。

つまり、主張が対立する両者の意見を公平に取り上げず、表現の自由を主張する側を偏重した構成になっていたわけです。まぁ、それ以前に議論すべきは、”表現の自由”が認められる条件は何かであって、果たして「表現の不自由展」はその条件を満たしているか否か、です。そのあたりの議論が深まらないように避けて、ただ”表現の自由”を声高に求めるという番組内容もどうなんでしょうか。底が浅いと言わざるを得ません。

上述した京アニ放火事件被害者の実名公開の場合と同様に、自由が制限されることへの防衛本能でも働いているのだろうか、とさえ思ってしまいます。視座によっては独善的、身勝手にも見える報道ですら可能にする報道の自由が脅かされることなく、既得権として護持したい、そんな思惑が垣間見える気がします。

それだけではなく、「表現の不自由展」で掲げられた慰安婦像の説明と、番組で放送された該像の作者の作品説明との食い違いも指摘されています。
英語の解説文には、「Sexual Slavery」(性奴隷制)という言葉があり、「性奴隷」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されていた。
説明書きを読んでみると〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。
(略)
しかし、クローズアップ現代には少女像の作者が登場し、「(これは)反日の象徴として語られていますが、私たちは平和の象徴と考えています。(戦争の)悲しみと暗い歴史を語る象徴なのです」というインタビューが放映された。
クロ現「表現の不自由展」特集で痛感した「NHKという病」より
真偽は判りませんが、事実であればあからさまな印象操作です。こういった視聴者を誤認させる印象操作を行う自由も護持しておくためにも、”自由”の必要性を訴える番組構成を企図したのかもしれません。

公平で中立を装って、その実、偏向した番組を放送するというのは悪質です。(池上彰氏がよく口にする)注意して視ていないと知らず知らずの内にそれが”正しい”と刷り込まれてしまいます。油断も隙もあったもんじゃない、というのが該番組の素直な印象です。


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いずれにせよ、愛知県とか名古屋市が文化とか芸術事業に手を出すとロクなことにならないわけです。向いていないことを実感します。下手に迎合するすることなく、都市ブランドイメージ調査の、最も訪れたくない、魅力ない街の座を守ってほしいものです。愛知県や名古屋市が果たすべき都市や地域の役割、機能はそんな処にはありません。ヨソ者を受け付けない排他的な地域、観光客に厳しい都市といった評価を一層高めてほしいものです。

2019年9月15日日曜日

風土(10)

「表現の不自由展・その後」実行委員会

未だ、上記実行委員会の言動について不可解な部分が多く丁寧な説明を求めたい処です。

9月15日現在、「表現の不自由展・その後」の再開を求める運動や集会が継続して行われているようです。

「不自由展」再開求める声、今も 芸術祭は残り1カ月
ただ、津田大介 芸術監督が言及してきた、”議論のきっかけにしたい”という展示の目的は既に十分達成できているのではないでしょうか。今必要なことは展示の再開を求める活動ではなく議論を始めることです。

尤も先述したように、議論する意志があるのならば既にこれまで散々機会はあったはずです。そういった機会に真摯に議論することなく「表現の不自由展・その後」が企画されているわけですから、一体何時になったら議論がはじまるのか?、議論するつもりはあるのか?、そんな思いにかられます。これでは、展示が再開されたとしても議論など始まらないだろうと。

そうなると、今展示の再開を求めて活動している人々の、展示の目的は一体何だろうか、よく解りません。

彼ら彼女らが求めている「表現の不自由展・その後」展示再開のその先というか、根底にある目的について少し考察してみます。

思いつくままに列記してみると、
1)表現の自由が保障された社会の実現
2)自分達の作品が展示中止になったことへの反発
3)日韓で軋轢の続く慰安婦問題で日本の立場を妨害
4)他者からの介入で本意ではない中止を強いられたことへの反発
5)展示再開如何を問わず反体制的な活動そのものを偏好
1)については先述しましたが、慰安婦像である必然性はありません。そういった社会の実現に向けて社会の多くが共感できる作品でなければ無意味です。従って、1)を目的とした展示再開の要望には合理性がありません。

2)に関し、自分達の作品が展示中止にされたということは、該作品が展示に値しない、若しくは害を及ぼすと位置付けられた、ということです。少なくとも日本の社会において価値のないもの、有害なものと評価されているわけで、まぁ作家としての誇りを傷つけられた、ということなんでしょう。このことに対する反発、存在意義の主張のために展示再開を要求する、というのは理解できます。が、この場合、徒に展示再開を要求しても事態の好転は見込めません。自尊心を傷つけられたとしてもその評価を甘受するか、或いは、そのような評価となった理由を顧みるべきです。

3)を目的に、日本国憲法で保障されている表現の自由を持ち出すのも理解に苦しみます。こちらも先述していますが、ほぼ公益に等しい日本の国益を毀損せしめる行為を日本の憲法が容認するのか、といった話です。憲法の存在意義を考慮すれば、3)を目的とすることは根本的に誤りです。

特段、指揮下にあるわけでもないにも関わらず第三者から自身の言動を制限されるのが不快であることは心情的に理解できます。4)は、大村知事の展示中止決定に対する単なる反発解消を目的に展示の再開を要求するというものです。邪魔をされたから反発するというのも大人気ない話です。展示の中止、即ち邪魔をされたのなら、その理由に思いを至らすことができないのか...現状は、”私達は悪くない。悪いのは中止決定を下した知事だ。”そういった感が強く伝わってきます。安全上の問題だけではなく、それなりの理由に依拠して「表現の不自由展・その後」に対する抗議が行われたわけですから、やはりそういった考えに真摯に正対すべきです。観覧側が見たくない、見せてほしくないと思っているものを公の場で展示するという行為は容認されるのか、表現の自由はどこまでの範囲で保障されるべきか、そういった問いに答えが用意されないまま展示の再開を要求するのも正当とは思えません。再開と中止が繰り返されるだけです。

5)については言及しません。活動することそのものが目的ですから。

現在愛知県は、”あいちトリエンナーレのあり方検証委員会”でアンケート調査を実施しているようです。
【あいちトリエンナーレのあり方検証委員会】アンケート調査を実施します
 遅きに失した感は否めません。開催前の早い時期に、公式に県民の意見を集約すべきでした。尤も、秘密裏に「表現の不自由展・その後」の開催準備が進められていればそんな調査はできなかったわけですが。

これに対して実行委員会から
「不自由展への評価集計は、そのまま展示への圧力に直結する」
と抗議の声が上がっているようです。県民、納税者といった社会の総意で”見たくない”とか”展示すべきでない”という結果は圧力でもなんでもありません。むしろそれでも展示再開を要求する立場の根拠の理解に苦しみます。

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やはり、根幹は”表現の自由が及ぶ範囲”に対する認識の相違に帰結する話です。被表現者、つまり表現の受け手が傷ついたり、望まない表現や、公益を害する表現さえも、制限されることなく自由に表現できるのか、といった問題もここに含まれます。この隔たりが埋まらない限り、燃料投入の度に騒動は繰り返されていきます。永遠に解決しません。

「表現の不自由展・その後」の展示再開を要求する人々も徒に権利としての表現の自由を主張するのみで、その適用範囲について真摯に正対することを避けているかに見えます。

そうなると、
”エルサレムでコーランを破く
”6月4日に天安門広場をくまのプーさんの着ぐるみ着用で散歩する”
”赤の広場でプーチンの肖像写真を焼いてみる”
”英国で捕鯨の写真展を開催する”
については合理性のある答えを用意できているのか、用意があるとしてどういった思想的礎に依拠したものなのか、問い質したい処です。


次のエントリでは、おまけでこの騒動のNHKの取り扱いについて記してみます。

2019年9月12日木曜日

風土(9)

津田大介 あいちトリエンナーレ2019 芸術監督

当初は、大村知事と同様に、”表現の不自由展・その後”に対する展示中止の圧力を、表現の自由を理由に撥ねつけようとしました。
行政はトリエンナーレのいち参加作家である表現の不自由展実行委員会が「表現の自由の現在的状況を問う」という展示の趣旨を認めているのであって、「展覧会内で展示されたすべての(個別の)作品への賛意」ではないという立場です。その前提に則りお答えすると、行政が展覧会の内容について隅から隅まで口を出し、行政として認められない表現は展示できないということが仕組み化されるのであれば、それは憲法21条で禁止された「検閲」に当たるという、別の問題が生じると考えます。「表現の不自由展・その後」について津田大介芸術監督が会見を行った際に配布したステートメントです(2019年8月2日)
ところが、騒動が大きくなるに従い、芋引いて知事の中止決定を支持し、一転、”実現は難しいと伝えたが実行委員会から拒絶された”と釈明しました。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
で、騒動勃発以前に遡ってざっと検索してみた処、「表現の不自由展・その後」についての情報は7月下旬まで殆ど見つかりませんでした。箝口令でも敷かれていたのか、後戻りできない時点まで内々で準備が進められていたとの印象です。河村たかし会長代行にも知らされていなかったようですから。”意図して秘密裏にことを運んだ”とみるのが合理的です。

これは、実行委員会に言わせれば、検閲を受けて改変や中止を迫られることを避けるためということなんでしょうが、言い換えれば物議を醸す、騒動が起きる可能性を十分認識していたということです。秘密裏に進めて開催日さえ迎えてしまえば展示を続けられるといった腹づもりだったのか...向き合い方が幼稚というか、そうまでして展示を強行させる実行委員会の独善性が不思議です。手放しの表現の自由を求めることの正当性は一体何に依拠しているのか、そこまでの利己的姿勢を形成せしめる行動原理の正体は何か、それはそれで気になる部分です。

数少ない公開情報としては、

”津田大介と東浩紀による「あいちトリエンナーレ2019が始まってもないのに話題沸騰してるけどその裏側を語る...”
あたりでしょうか。現在は公開終了になっていますが、
東「天皇が燃えたりしてるんですか?」(略)津田「2代前だし歴史上の人物かな、みたいな」 津田大介氏と東浩紀氏のあいちトリエンナーレ対談動画で国会参考人招致を求める声も
から断片的に内容を窺い知ることができます。これはおそらく観測気球で、「表現の不自由展・その後」の内容を小出しにして巷間の反応を見てみたわけです。この時にはそれほどの支持も抗議もなく、”大丈夫なんじゃないか”と気にすることなく展示に踏み切った結果、御存知の騒動と相成ったわけです。

まさかここまでの騒動になるとは想定外だった、たかをくくっていた、ということだったのでしょう。それは7月上旬のインタビュー、
やりたいことをかなり自由にやらせてもらっています。ほかの芸術祭と違って、あいちは事務局50~60人が全て県職員。普通はイベント制作会社や広告会社に投げることが多いはず。県職員の毎回3分の2が入れ替わる分、芸術監督に与えられている権限は大きい
や、 掲載写真の説明文
大きなイベントを手がけるのは初の経験。「自分にはイベントをプロデュースする適性はあるなと思った」と話す津田大介・芸術監督<金曜カフェ>ジャーナリスト・津田大介さん あいち芸術祭 監督としてより)
といった自信たっぷりの発言からも明かです。ある程度の物議、騒動は予想してというか、むしろ期待して開催してみたわけです。自分たちが「表現の不自由展・その後」の意図を説明すれば騒動は想定の範囲内に制御可能だろうと。ところが、いざふたを開けてみると名古屋市長まで参加して展示中止一択の爆念状態になったしまいました。この状態までは想定してなかったはずです。瞬く間に中止に追い込まれ謝罪と弁明するはめに陥って今日に至っています。

これを見通しが甘すぎた、その任に能わずと断じてしまえば、事はそれで終りの話ではあります。しかしながら、上記のあいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告内にある、
《平和の少女像》の具体的内容や背景
の記述内容を読んでみて、ここにはむしろ、炎上するべくして炎上した理由、或いは、意図的に炎上させる仕掛けが在るのではないか、と思料しました。ちょっと考えてみます。

記述内容には
《平和の少女像》は正式名称を「平和の碑」と言い、「慰安婦像」ではない、と作者が説明しています。
とあって慰安婦像であることを否定しています。ただ、慰安婦像を想起させ、慰安婦問題の象徴として日韓で受け止められていることは周知の事実です。全てではないにせよ、そう認識している多くの人々にとっては、”慰安婦像ではない”との説明があっても見方は容易には変わりません。むしろ、その実状から目を逸らし、あえて伏せている印象を抱きます。意図的だったとか、偶然、結果としてとかはともかく、実状に触れない説明では炎上するのも道理です。

上記説明が、東京 練馬で催された最初の展示会の説明としてならまだ理解できます。しかしながら、「表現の不自由展・その後」における《平和の少女像》の説明としては全く的外れです。撤去や拒否によって展示が中止となった理由や経緯の説明、つまり、”最初の「表現の不自由展」という場における《平和の少女像》の位置づけ”こそが「表現の不自由展・その後」における《平和の少女像》の説明となります。”慰安婦像を想起させ、慰安婦問題の象徴として利用されている”実態に触れないまま、最初の、元々の説明を繰り返しても無意味です。

上記説明で、《平和の少女像》展示に反感を持っている人々の理解を得るつもりだったとしたら、あまりにも思慮が足りないというか、間抜けです。そういう意味で、実は意図的にというか、いけしゃあしゃあと実状を伏せて”慰安婦像ではない”と説明すれば、確信的に炎上させたとの批判を浴びるのも当然です。

まぁ、元々”そんな説明などそもそも読まれない”から直情的な反発が抗議や恫喝という形で具現化したのでしょうけど。

上記の説明が、その説明で理解を得ることができるとした本意によるものか、或いは炎上の確信犯として用意した口上であるかは知る由がありません。過失か、故意か、いずれにせよ、このような場面では常套句である
そんなつもりはなかった
を取り入れた弁明が行われます。頻繁に耳にする文言です。イジメやハラスメントの加害者、失言をした大臣からなど、巷は”そんなつもりはなかった”で溢れています。新たな使用例が加わったわけです。

やはりこの時、
――もし、誤解を与えているとしたならば、私の不徳致す処です。お詫び申し上げます――
と定形の枕詞をつけて形ばかりの謝罪を行っても良かったのかもしれません。そうすることで炎上から批判、謝罪へと続く一連の演舞?形?を披露することができました。

ともあれ、当事者が”自由”についての確固たる姿勢、そして周囲を理解させる合理的説明を欠いたまま
――議論のきっかけになればいい――

で立ち止まっていれば騒動は避け得ず、まぁ別の誰かによっていずれ再発するんだろうなと、思った次第です。


次のエントリでは「表現の不自由展・その後」実行委員会の言動について記してみます。

2019年9月1日日曜日

風土(8)

大村秀章 愛知県知事

河村たかし 名古屋市長からの抗議をきっかけに、あいちトリエンナーレ2019”表現の不自由展・その後”は展示中止となり現在に至っています。その決定はあいちトリエンナーレ実行委員会会長である大村秀章 愛知県知事によって下されました。

ただ中止決定の理由は”日本人の、国民の心を踏みにじるもの”という河村市長の抗議ではなく、
――ガソリン携行缶を持ってお邪魔する――
といった京アニ放火事件を連想させるような、脅迫によるものとのことでした。

河村市長の抗議には、大村知事は当初、表現の自由の侵害で検閲に当たり、憲法違反の疑いがある、と反論しました。
憲法違反の疑いが極めて濃厚ではないか。憲法21条には、"集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。"、"検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。"と書いてある。最近の論調として、税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだと、報道等でもそうことを言っておられるコメンテーターの方がいるが、ちょっと待てよと、違和感を覚える。全く真逆ではないか。公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない。河村さんは胸を張ってカメラの前で発言しているが、いち私人が言うのとは違う。まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも

情けないことに、上記発言は言行不一致あったことが判明しています。後ほど触れますが、とりあえず該発言について言及します。

発言当初この発言は”愛知の誇りや!”などと称賛する声もありました。
【表現の不自由展】大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」
後に知事自身が梯子を外すわけですが、それに対しては口を噤んでしまっているようです。

これも表現の自由?/『愛知県の大村知事、 #あいちトリエンナーレ 関連のツイートを全削除しましたね』とネットユーザの証言
さて、上記発言についてですが、以前のエントリで触れた通りですが、別の事例で補遺します。

今回、”表現の不自由展・その後”が展示中止に至った理由は、
――大至急撤去しろ。さもなくばガソリン携行缶を持ってお邪魔します。――
という脅迫Faxによるものでした。

では、この脅迫文の文言は表現の自由として容認されるものでしょうか。実際に実行する意図はなかったとしてもFaxの送信者は威力業務妨害の疑いで逮捕されました。”容認されるものではない”というのが衆目の一致する処であるのは間違いありません。

この時、この文言と慰安婦像の展示には差異、隔たりがあるわけです。Faxの送信者が威力業務妨害の疑いで逮捕されたことから、その線引きは違法性の有無、つまり法が両者を隔てていることを示しています。このことは当に、表現の自由は法治主義の枠内でこそ認められているに過ぎない、ということです。

この法治主義はあくまで日本という国家の中で、その在り方を規定する原則であって他国に及ぶものではありません。表現の自由は日本の法治主義の下に在ります。憲法を国の根本的な基本法として、その下で国内法が体系化されて法治国家の枠組みが形成されていると理解しています。

日本国憲法の前文内には、

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
とあって、国政の福利は国民が享受することは普遍の原理で、憲法はそのためのもの、ということです。換言すれば憲法は(日本の)公益のためであって、公益を害することを憲法の目的としていないのは明白です。

確かに、慰安婦像の展示は法に抵触する行為ではないかもしれません。しかしながら、公益を害することは明らかであって、これはそもそも憲法の目的に合致したものではないわけです。憲法で保障されているからといって、表現の自由を大上段に振りかざしても、元々憲法の目的ではない公益を害する行為は自由の対象外です。その視点に立てば、慰安婦像の展示が表現の自由云々以前に不適切であるのは記すまでもない、極当然のことです


その後、大村知事は8月13日知事記者会見の質疑応答で、6月半ばあたりに”表現の不自由展・その後”の内容を知らされ、
これ本当にやるのかということで、津田監督を通して、また津田監督にもそうだし、津田監督を通してですね、これについてはどうかと。この展示についてはやめてもらえんかとかですね、これはこうじゃないかとかですよ、例えば実物じゃなくてパネルにしてくれたらどうかとかですよ、これは中は写真は撮っちゃ駄目だと、見てもらうだけだということとか、いろんな強い要望、希望は申し上げましたよ。強い要望、希望。
と要望したことを明らかにしました。続いて、
だが、それはしかし、それを一線越えるとですね、越えると、だから、多分またその憲法21条の話になってしまうおそれがあるわけですよ。
と。”心を踏みにじる”といった文言はありませんが、河村名古屋市長と似たような要望を出されています。一線を超える超えないで憲法違反になるとかならないとか述べられていますが、その一線についての詳細は不明です。結局、
それだったらこの企画展全部やめるとかいうような話もされたりしてですね。そうなると、まさに憲法21条そのものの話になってしまうということなんですよね。
となって展示を容認したとのこと。会見内容が後講釈感で充満しています。騒動が勃発してから、”実は...本意ではなかった”と弁明するのは、トリエンナーレの最高責任者で最大の権限を持つ実行委員会の会長としてその適格性に疑義を抱かざるを得ません。勿論、首長としてもです。

それと前後して、あいちトリエンナーレ関連のツィートを全削除されています。
大村知事はツイート削除、公式からは協賛・協力消える 殺到する「苦情」で続く余波
その理由は、
最近、私は過去のツイッターの一部を削除しましたが、これは 愛知トリエンナーレの展示の一部中止の件と関係のないお知らせの関係者に対し、同件に関する書き込みがなされ、ご迷惑をおかけする事態になったため、やむを得ず削除したものです
とのこと。これはこれで、隠蔽というか”なかったこと、関わっていなかった”ことにしようという疑いを持たれ、自ら燃料を投入してしまいました。

現在、”あいちトリエンナーレのあり方検証委員会”が設置され、”表現の不自由展・その後”の展示中止騒動等の問題が検証されているようです。ただ、それに先立ってトリエンナーレ実行委員会の会長が、迷走の記録を削除しているわけです。形式的な検証とか結論ありきの検証との疑いを呼ぶのも避けられないかと。検証結果が気になる処です。


さて、河村たかし 名古屋市長の肝いりが名古屋城復元事業なら、対抗する大村秀章 愛知県知事はジブリパークの開業です。

同じく私見を交えますが、これは公が手がける事業としての適切性に首を傾げています。ディズニーランドやサンリオピューロランドは民営です。民間のアニメ制作会社の名を冠するテーマパークに自治体が公共事業として関わる必然性を理解することに難儀しています。

少し調べてみますと、ジブリパークの目的は、
1)2005年に開催された愛知万博の理念を次世代へ継承
2)スタジオジブリの作品を将来にわたって伝え残す
とありました。

ここで、はっきりと明文化された文言が見つかりませんでしたが、愛知万博の理念とは、
自然や環境に配慮した技術と社会システムによって地球的課題の解決を進め、持続可能な社会の実現を目指す
と理解しました。これが、
ジブリの世界観は愛・地球博の理念に一致する。その世界を広げていくことが万博の理念の継承、レガシー(遺産)を進化させることにつながる(大村知事)
にどう結びついていくのかよく解りません。世界観とか理念といった語はふわっとしていて抽象的、主観的です。言われればなんとなく一致しているようにも思え、気を抜くと賛同してしまいそうです。

発案者である大村知事には、ジブリの世界観と愛・地球博の理念を客観的に明文化し、両者の何がどのように一致しているのかを説明する義務があると考えます。

尚、”持続可能な社会の実現”という上記理念については特段異論はなく、支持致します。ただやはり腐心すべきは、理念の下”前に進めるか”、或いは”進むために何を為すべきか”であって、理念の継承のみでは、”議論のきっかけになればいい”と同じです。

愛知万博が開催された2005年以降でも、今日まで幾つもの自然現象に遭遇し、益を受ける一方、害を被ってきました。2005年当時は地球温暖化対策としての環境保全と資源保護が重視されていた覚えがあります。燃料電池、風力や太陽光、化石燃料の使用抑制、排出CO2削減、再生可能資源(木材)の利用、家電やプラスティックのリサイクル辺りがキーワードだったかと。

今日枯渇が危ぶまれている水産資源、昨今多発している気候変動や自然災害に関して、当時の注目度はそれほど高くはなかったと思います。こういった当時予測し得なかった一連の自然現象に対し、果たしてどこまで上記理念を生かすことができたのか、疑念を払拭できません。特に、2011年の東日本大震災とそれに伴う原発事故について、該理念を踏まえて何か提言できただろうか、甚だ疑問です。

理念は具現化されているのか、愛知万博を経て少しは賢くなっているのか、そういった部分が蔑ろにされています。”世界観が理念と一致する”との理由で公共事業としてテーマパークを造ってもなぁ、というのが正直な印象です。

ファンタジーの世界で描かれている自然の大切さとか、環境保全の重要性を直ちに現実世界と結びつけることにはやはり躊躇を覚えるわけです。該理念の継承と更には実践に、ジブリパークどう寄与するのか客観的な説明が必要です。

加えて言えば、ジブリパークは愛知県が手がける公共の施設です。ここで”表現の不自由展・その後”に準えて考えると、愛知県という公が、民間のアニメ制作会社であるジブリの思想信条を肯定する、公益に資するものとして正当性を裏付けることを意味します。勿論、慰安婦像に較べれば、偏向が少なく中立性は高いとは思います。しかしながら、だからといって公に求められる中立の要件を満たしているかは別の話です。やはりスタジオジブリの思想信条を明確にし、ある意味それを公共の思想信条とすることの適切性を精査する必要を感じます。知事の安直な共感ではこころもとないなぁ、ということです。

少なくとも自然尊重、環境優先を絶対視して、盲目的な懐古主義、復古主義に傾くことには異を唱えます。

但し、ジブリパークがアミューズメント施設、観光施設として強力な集客力を発揮するであろうことは間違いありません。少なくとも賭場より健全で優っているのは確かです。ジブリの名には世界中から来場者を引き寄せる誘引力があります。それだけにアミューズメント施設として来場者に迎合する機能と、愛知万博の理念を来場者に伝える目的が上手くマッチングしていくのか注視したい処です。

以降は話が逸れた私見です。

ジブリパークの事業も名古屋城復元事業と同質のものを感じます。直感的に表現すれば、大村秀章記念公園でも作りたいのかな、ということです。古くからトンネルや道路、橋、ダムなどで似たような話を聞きます。こういった公共事業では費用便益比(B/C)を事業実施の一つの判断指標とするのが当然だと思いますが、この辺りジブリパークはどうなんでしょうか。尤も、”B/Cがどうであれ必要な道路は作る”との発言も耳にしたことがありますから結論ありきなのかもしれません。

でですね、数々のアニメに代表される空想というか虚構の世界が、現実空間に再現されることに戸惑いを覚えないでもありません。バーチャルな世界に在るはずの事物が、実際の事物として目に入った時、両者を同一物として認識することに微妙な抵抗感を抱くわけです。受け入れる際、スムーズに認識できず、タイムラグが生まれるような気がします。

これが逆方向、即ち聖地巡礼っていうのでしょうか、アニメ作品のモデルとなった場所を訪れた場合、”あぁ、ここがあの場所なのか”即座に違和感なく認識できるのですが。

これはおそらく、現実世界では事物についての情報量が圧倒的に多いことによるものだろうと推測しています。

アニメで表現されている事物を現実世界で表現しようとすると、色数、立体感、質感その他の情報が全く不足します。そこで、制作者は不足情報を補完して現実の事物を表現するわけです。この時、この補完情報が鑑賞者各々の頭の中にある補完情報と一致しないため違和感が生まれるということです。簡単に言えば、”何だか思い描いていたものと違う”と。

一方、現実空間の事物がアニメ化された場合、エッセンスの抽出、つまり多量の情報の間引きが行われています。情報を加えるのではなく、差し引いて本質部分を残すこと、これが脳内での現実からアニメへの変換に抵抗感がない理由ではないかと。違和感なく”あぁ、ここがあの場所なのか”との思いが去来するのはこのためです。

しばしば行われる、文芸作品の実写化、漫画のアニメ化、洋画の日本語吹き替えにおいて、具現化された映像や声と脳内で想像していたものとの間でギャップを感じることが少なくありません。ところが、”馴れる”ということなんでしょう。いつしかそういうものと頭の中で固定化されていることに気づきます。言い換えれば、与えられたもの以外を認め難くなり排他的になってしまう、ということです。自身が思い描いていた像すら受け入れ難くなったり、否定してしまうことも起こり得ます。正解がない問題に解答例が与えられると、それを受け入れて満足し、他の正解を誤りとして排除してしまう、あまつさえ自身の正解すらも...

外部からの具現化された情報の視聴覚は、それによる内心の占有、元々持っていた思いの排除と、その後の”思いを巡らすこと”の放棄に繋がる恐れを危惧してしまいます。外部からの情報が、あくまで一つの見方として留まればいいのですが、容易ではありません。具現化された視聴覚情報は強力で、心中の儚い思いなど容易に霧散せしめ、自由に思いを巡らすことを制限してしまいます。


次は津田大介 あいちトリエンナーレ2019 芸術監督の言動について考えてみます。