2019年8月30日金曜日

風土(6)

表現の自由について

以前も記しましたが、表現の自由は公益を害さない範囲で許容される権利と捉えています。ここでいう公益とは日本(社会)利益とするのが自然な解釈です。日本という国のために制定された憲法の条文で規定されていますから。

で、「表現の不自由展・その後」での慰安婦像展示は不適切であるという判断に、”公益を害するから”との理由には合理性がある、という立場をとっています。

ここで、”公益を害する”を外し、全てにおいて表現の自由は優先される、としてみると、捏造、虚偽、誹謗中傷、盗用、模倣、エログロも容認されることになります。ここで日本の法令に照らし、著作権侵害、名誉毀損、侮辱、公然猥褻の罪に該当するとして、それらの表現物は除外することになるのでしょうか。こちらも公益を害するという理由になるわけですが。更に、これらの罪を規定する著作権法や刑法の根本には憲法があります。

従って、法に抵触するからという理由で表現物の公開を制限するのであれば、”表現の自由”はあくまで法治主義の枠内にある自由に過ぎないことになります。この法治主義の目的はやはり公益ですから、公益を害する表現の自由は法治主義の枠外にあります。表現の自由は法治主義を優越するのか? 人治主義の近隣国家で表現の自由が制限されている現状を鑑みれば明かです。表現の自由は法治主義の下でのみ認められる自由です。

”表現の不自由展・その後”の中止以降、”表現の自由を守れ”を訴えて展示再開を求めるデモや集会が行われていますが、
守るべき表現の自由はそこにはない
という見方をしています。先述したように、単に”慰安婦像を衆目に晒す自由”を求めているに過ぎず、そしてそれは支持できるものではない、ということです。

真に表現の自由が許された社会の実現を目的として、表現の自由が制限されている現状を示す意図ならば、”表現の不自由展・その後”は全く不適当です。表現の自由の保障という憲法の威を借りて、より優先したい他の目的があるとしか思えません。

第一義に訴求したい目的を、表現の自由が保障された社会の実現とするならば、やはり観覧者から共感、支持を得ることが必要です。そういった作品をもってして該社会への実現へと進んでいく話であり、反感を抱かせ、展示中止が求められる作品では却って逆効果です。

過去に該慰安婦像が撤去された不満を示し、”該像を衆目に晒す自由”を求めているに過ぎないとしか受け止められません。

この”表現の不自由展・その後”では、不自由展実行委員会と芸術監督である津田大介氏の間で展示作品の選別があったことが明らかになっています。
展示内容に幅を持たせるため、近年の話題になった公立美術館での「検閲」事例――会田誠さんの《檄》や、鷹野隆大さんの《おれとwith KJ#2》、ろくでなし子さんの《デコまん》シリーズなども展示作品の候補に挙がりました。しかし、会田さんの作品は不自由展実行委によって拒絶されました。鷹野さんの作品は、一度警察から責任者が逮捕直前まで行った事情に鑑み、そのまま展示することはコンプライアンス的にハードルが高く、とはいえ、完全な状態で展示できないのなら作家に失礼であろうという判断で、展示しないこととしました。ろくでなし子さんの作品は、不自由展実行委が展示したい作品をスペースを優先的に取っていったときに、展示スペースの都合で、候補リストから落ちました。 あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
なんだか消去法で慰安婦像の展示が決まったようです。他作品に比し展示する必然性が不明です。当初から展示ありきで、他作品を不採用とするための理由付けといった印象も否めず、政治的思惑があるとの勘ぐりを招くのも当然です。

ちなみ芸術作品ではありませんが、”表現の不自由展・その後”の中止騒動と同じ時期に、出版の自由に関して物議を醸した例です。
幼児向け図鑑に「戦車」は不適切? 講談社「はたらくくるま」増刷中止に疑問の声も
図鑑「はたらくくるま」問題の本質 〜 誰が言論の自由の脅威者か
おそらく、”表現の不自由展・その後”の中止騒動と、政治的に対極の関係にあるであろう事例です。偏向することなく、両者のような作品を並列に採り上げ、各々の政治的な影響を相殺させるべきです。そうすることで表現や出版の自由のみを論点として切り出すことができると考えます。


議論のきっかけ


この”表現の不自由展・その後”の開催の理由として、”議論のきっかけになれば”といった声があります。
表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいという趣旨の企画です。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
換言すれば炎上を起こして注目させたい、ということでしょうか。であれば目論見通りです。

で、問題はきっかけの必要性です。この類の騒動はこれまで幾度となく起こっていて、それで”その後”となっているわけですが、きっかけはその都度あって、議論が巻き起こり議論が収束することなく時間と共に冷めていく、その繰り返しです。以前から何か前に進んだのか?

きっかけはもう腹いっぱいです。きっかけばかり与えられても前進している、賢くなっている感はなんら得られません。必要なのはきっかけではなく議論して前に進むための仕掛けです。

先日、京都府警から京アニ放火事件被害者の実名が公表されました。公表にあたって遺族全員の同意が必ずしも得られていないにも関わらず、です。

NHKのニュースでは、
NHKは事件の重大性や命の重さを正確に伝え、社会の教訓とするため、被害者の方の実名を報道することが必要だと考えています。そのうえで、遺族の方の思いに十分配慮をして取材と放送にあたっていきます。
京アニ被害者の「実名報道」。テレビと新聞はどう報じたかより転記)
との文言の下実名が公表されたわけです。社会の教訓...どのような教訓を念頭に置いて、それに被害者全員の実名の公表がどう寄与するのか理解できません。遺族の意向に優越する、報道されない自由が蔑ろにされた理由も説明不足です。”遺族の思いに十分配慮”って...どう配慮したのか不明のままでは配慮したか否かすら判らず、口先だけの弁明との印象も払拭できないままです。

自由についての議論のきっかけは至るところに在ります。今必要なことは、偏向した議論のきっかけではなく、公正で論理的な議論の場と、前に進むための議論の深化です。


次のエントリから、私見を交えて各々のキーパーソンの姿勢を批判していきます。

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