2013年2月27日水曜日

種蒔

以前のエントリで、旅客機内で止むことのない乳児の泣声に対する周囲の乗客の姿勢に関し、LCCと通常のエコノミークラスにおける寛容性の差異について触れました。

併せて、ビジネスやファーストクラスといった、より上級の客席でもその寛容性の大きさは異なるだろうと推察しました。

これら客席クラスによる乳児の泣声に対する寛容性の差にわずかばかり興味を憶え、”(乳)幼児”、”ビジネスクラス”、”ファーストクラス”といったキーワードで検索してみました。

例えば、(乳)幼児を帯同してビジネスクラスに搭乗することは許容されるか否かといった疑問に対し、既に社会全体である特定の解が得られているのでは、と想定していました。

勿論、絶対的な是非まで確立されていないにしても、ある程度の落ち着くべき妥協点が社会通念として共有されているのではと期待していました。単に私自身が浅学で不明なだけだと...

粗雑な検索ですから、信憑性に疑問符がつくのは否めませんが、結果に対する所感は失望の一語です。ネットワーク上の主張、意見の著しい乖離、或は、あまりに理不尽な身勝手さにただ唖然とするばかりでした。

個々の価値観の多様化に依拠しているのでしょうが、共有すべき認識を形成していくための方向性というか端緒すら未だ見出せていない印象を持ちました。混沌状態で根幹は何も定まっていないようです。

類似例である、新幹線を含む長距離列車のグリーン車への(乳)幼児を帯同した乗車の是非についても認識の無秩序状態です。

更に、先のエントリで挙げた”どう考えたら 新幹線の三景”で扱われている、(乳)幼児、或は、小児を伴った場合の新幹線の座席(自由席、指定席)に対する捉え方も定まっていません。

このような事例を検索した時、上記事態に対してのJALやJR東海といった運行責任者の姿勢が見えないことに気付きます。ネットワーク上には様々な意見があるものの、あくまで個人の、利用者側からの考えが占めています。こういった問題に対するJALやJR東海の見解は検索上位には見出せません。

安全、円滑な運行が責務である運輸事業者は、乳幼児を帯同した乗客とその周囲の摩擦に対しどういった認識を有しているか、更に、どこまで積極的に姿勢を開示しているのでしょうか。たとえ運行者側という特定の立場からでさえ、願わしい乗客のマナー、理想的な乗客の行動というものが、こと乳幼児同伴の場合については明確にされてないようです。

個別具体例を伴った、JALやJR東海といった運行責任者の意図、判断が気になっています。

例えば、

1. 旅客機のビジネスクラスや新幹線のグリーン席に乳幼児を帯同して搭乗、乗車することは、本来歓迎されざることなのか?

2.新幹線指定席で乳幼児がむずがった、騒いだ場合、運行責任者として保護者にどういった行動を望んでいるのか?デッキ部に連れ出せる程度に列車内を移動できる余裕があるならばともかく、年末年始等の繁忙期、車内の移動がままならない場合には?

といった疑問に対し、運行責任者はどういった回答を用意しているのでしょうか。

前述のさかもと氏の件では、騒動を通じて『mama&baby』(機内でのマナーをまとめた冊子)が発行されていたり、JALのサイトにベビーおでかけサポートが設けられていることを知りました。こういった情報の周知が進んだことはこの騒動にも何らかの意義があったのかもしれません。

ただ、これらの情報から摩擦を未然に防ごうとするJALの姿勢は窺えるものの、依然として上記問題に対する考えは示されていません。JR東海のサイトに至ってはお身体の不自由なお客様へ切符のルールは存在するものの、乳幼児を帯同した場合のマナーや注意事項については触れられていません。

乳幼児を伴った乗客、或は、その周囲の乗客のマナーや行動に関し、規則によって規制、義務化することは勿論行き過ぎです。しかしながら、現状より一歩踏み込んだ、運行責任者側の意見としての、願わしい、望ましい、若しくは、有難い乗客像といった形が具体的事例と共に提示されることは意味あることではないでしょうか。

規範程ではなく、個別の具体的事例における指針程度のものがあれば、私達はこれを基にしてマナーや行動について生産的な考察が進められるのでは、と考えます。

こういった、運行責任者の視点からの提案は利用者側の認識の無秩序状態に一石を投じることになります。火中の栗を拾うことになるかもしれませんが...

当然ですが、運行会社からの提案を絶対視し、公共交通に纏わる社会の公共心形成を当該会社に頼ろうといった意図は全くありません。行き過ぎは事業会社の持つ価値観の押しつけになりかねず、同時に私達も過度の責任を求めるべきではないことを留意しておく必要があります。

社会通念が混沌とした無秩序状態への運行責任者からの刺激が共通認識の方向性ある形成に寄与することを期待しています。ただ、このような緩やかな介入は、効果が認められるまでかなりの時間が必要となるでしょう。駅のプラットホームでの禁煙化に対し私達が今日の認識を持つに至るまで相応の時間を要したことと同様です。

蝸牛の歩みであるのはやむを得ませんが、非生産的で不毛な論争から踏み出し、社会の共通認識を構築しようとする意志の下、価値観の醸成が自律的に進むことを願って止みません。

(続)

2013年2月1日金曜日

独善

――1.公共の場に対する認識を私達はどの程度共有している――



ほとんどの場合、乗務員に管理されずとも乗客各々は能動的に、 

――互いに不快感を与えないことを意識して行動する、お互いの摩擦を回避し、やむを得ない場合には堪えることも受け入れる――

といった程度には公共の場に対する認識は共有されていると私自身は推察しています。

ただ、運航中における快適な環境の維持、確保を含めた、円滑な運航を目的とするのみならば、公共の場に対する認識がどの程度共有されているかは、実はそれほど大きな問題ではないかもしれません。

公共心の劣化は残念なことですが、その時々の社会の要請に応じて乗務員による乗客の管理、規制が強化されれば上記目的は達成されます。

先のエントリで示した機内アナウンスを職務として規定することもその類似例でしょう。

公共の場に対する認識を私達が共有できていないとしても、極端には法的に乗客が管理されてしまえば実際上問題はないはずです。

勿論、好ましくはありません。管理されなければ、運航中の良好な環境がが確保されない、即ち、自ら摩擦を回避できない、堪えることができないといった状態は情けないことですが...

乗客の公共心に過度に期待することなく、適切に規制の枠組が構築されれば、その枠内で低下したモラルに基づく新たな認識の共有が徐々に醸成されていくのでしょう。

公共の場に対する私達の認識が変化(劣化?)したとしても、相応した乗客管理の枠組を遅滞なく追従させれば残念な騒動には発展しない、と考えます。



――2.共有の程度は時代や社会と共に変化してきたのか
或は、
3.実は従来からの大きな変化はなかったのか――


話は逸れていきますが公共の場に対し私達が共有する認識はこれまでどう変化してきたのか、又、今後どう移り変わっていくのでしょうか。

関心を持っていますが実の所どうなのかわかりません。そもそも変化してきたのか否かでさえ私には定かではありません。

昨今、私達は寛容性に欠け身勝手とも受け取れる考えが氾濫している事例をいとも容易く見つけることができます。

全てが事実とは断定できませんが、常にどこかで誰かのと言っていいほどブログやツイッターでは頻繁に炎上が起こっています。最初の発言に配慮が欠けていたり、その匿名コメントが輪をかけて独善的だったりしています。

電車内へのベビーカー持ち込み論争、新幹線車内での子供が座る座席についての議論、食べログでの匿名レビュー等、具体例には事欠きません。食べログではヤラセ、誹謗中傷と共にさかもと氏の騒動と比較にならない利己的な主張をいくらでも目にします。

(余談ですが、記憶が曖昧だった、”どう考えたら 新幹線の三景(朝日新聞 投書)”を新幹線、子供、自由席、指定席といった語で改めて検索した所、当該記事も含め余りに低劣な複数の事例が見出され、唖然となり気分が悪くなりました)

 漠然とですが、TPP交渉参加の是非についての工業団体、農水団体、各々の主張にも配慮の欠如を感じます。更にはいわゆるアベノミクスにも実は根幹で通じる部分を感じています。

例えば、食べログの匿名レビューでは、その飲食店の位置づけも踏まえず、店内で泣く、叫ぶ、走り廻る乳幼児とその保護者への非難、乳幼児同伴での入店を拒絶した店への攻撃、喫煙可の店での喫煙者への批判、酔客や女性グループ客の騒動への糾弾等、身勝手で配慮のない投稿が蔓延しています。これらは飲食店とその場に居合わせた訪問客相互の認識のズレに起因しています。

又、TPP交渉参加についても、工業団体、農水団体が自己利益の優先を繰り返すのみで、工業団体/農水団体各々の相手の立場に立った意見は認められません。狭量な主張に終始し、日本における工業、農業の意義、あるべき将来像、採るべき方策といった国全体を見据えた大局的な視点が窺えません。

自分の立場を押し付けたら勝ち、相手の立場を理解し慮ったら敗け、とまで思しき風潮が社会全体に漂っているように感じています。勘ぐり過ぎでしょうか。

ネットワーク技術の進歩に伴い、今日、私達各々の感想、思想、考察は社会全体に容易に拡散できる一方、拡散してしまいます。

この風潮は本質的には新しいものではなく、旧来から社会全体に普遍的に内包されており、その程度もほぼ不変であり、単にネットワークの作用で露呈し強調されただけなのでしょうか。

或いは、時折目にする、こういう人たちが増えてるんだろうな。”、”かつての日本だと・・・にならなかった”といったコメントに示されるように、社会の変化に伴い上記風潮が強まってしまったのでしょうか。

単純に切り分けるには無理がありますが、その由来、経緯は興味のあるところです。

(続)