2013年11月13日水曜日

山本

少し酒が入っています。

山本太郎さんと山本一太さん、やまもといちろうさん(山本一郎さん?)の区別ができません。もう、何がなんだか...

この際、山本一太郎さんとして集約し、山本一太郎A、山本一太郎B、山本一太郎Cとして頂ければありがたいのですが...

だれがA、だれがB、...とするのも大変ならば、正義の山本、悪の山本、中庸の山本でも、まともな山本、だめな山本、おかしな山本でも構いませんから、もう... 


(追記)
一人の山本一太郎さんに刃物入りの封筒が届いたそうです。他の山本一太郎さんの身を案じています。 

2013年11月10日日曜日

相好

浦安 政丸水産のあさりしぐれ煮、機会がある度に購入しています。

子供時分、田代の鰻のタレだけで大盛りの飯を頬張っていた私には堪えられないものがあります。(地下の鰻屋、宮前の鰻屋と言った方がわかりやすいかもしれません。)

この佃煮を炊き立ての飯に混ぜ込めば、それはもう...
笑みがこぼれます。

2013年11月9日土曜日

傾向

さて、初七日法要も葬儀当日に執り行われました。法要の後の法話で、

――されば朝には紅顔ありて
夕には白骨となれる身なり――              

について伺いました。思ったところを記します。

全くもって浅学ですが、仏教はあらゆる苦しみ、悲しみからの解放のため解脱を目指す宗教であると理解しています。

古来、最も大きな悲しみの一つとして、身内の死があり、その悲しみを悼むために葬儀が執り行われてきました。この点は仏教以外の宗教であっても概ね外れてはいないかと思っています。

一方で今日、医療や科学技術の進歩により、特に日本社会は非常に長寿の社会になりました。勿論、総じてです。

未だ、理不尽非業な死という最期もあるわけですが、社会の長寿化と共に死への恐れが薄まってきているように感じます。 

かつてほど死を恐れず、逃れられない事実として受け止める社会になってきたのではないでしょうか。本人の責に依らない痛ましい死、亡くなる順序が親子で逆転、といった話は未だ見聞しますが...近年、この死に向き合う姿勢は顕著に変化してきた気がします。

このことを鑑て、相対的にですが葬儀における仏教を含む宗教的なもの、理不尽な事実を受け入れるための精神的な拠り所となるものの必要性が低下しつつあるのでは、と思いました。

極論すれば百才以上長寿の方の葬儀に死を悼むための宗教がどこまで必要だろうか、ということです。生と死に一線を引き、あちらへ送るための別れの儀式には必要と考えますが...勿論、そうでない悲痛な別れについては、宗教には依然として担うべき重い役割があるでしょう。

直面する事実を現実として抗うことなく受け入れられるよう社会は進歩し、宗教の意義が薄れていく、そういった傾向をなんとはなしに感じました。


ところで、東日本大震災の直後、ありとあらゆるスポーツの、選手本人に加え、メディアでも増幅されて”絆”、勇気元気”、”がんばろう”が盛んに叫ばれ、強い違和感を抱いた記憶があります。

被災者全てにスポーツが必要であるかのごとく喧伝され、あたかも”スポーツ万能教”的印象を受けました

自分の責務を自覚し、粛々と復旧、復興に取り組んでいる人々にとって果して”スポーツで・”は必要だったのでしょうか。復旧、復興に向けての真摯に取り組む人々の姿こそが讃えられるべきで、励みになったのでは、と考えます。 
上述宗教への社会的期待が薄まったという点では、相応して社会は賢くなったかの思いが一時脳裏に浮かびました。しかしながら、未だスポーツにある種の宗教的役割を、しかも国家を挙げて担わせている事例を考えれば、前言を翻さざるを得ません。

更に言えば、一層享楽的というか現世利益を求める風潮が強まったように感じてしまいます。






2013年11月8日金曜日

演出

先日、姻戚関係に当たる親戚の葬儀に参列して思ったところを記します。当事者ではない第三者の身勝手な放言です。

自宅から遠方の葬儀だったこともあり、地域、或いは、葬儀社が異なるためか、葬儀の細かな部分に自分がこれまで参列した葬儀との違いを感じました。

この時、葬儀葬祭業という事業は、正に典型的なサービス業であると改めて認識しました。葬儀社の力量は、葬儀を厳粛、丁寧に進めていくことは当然ですが、別れを如何に演出できるかにあると考えます。

適切な表現ではないかもしれませんが、故人と最後の対面に際し、参列者の悲しみを誘い、別れを惜しませる演出をどのように組み立てるか、ということです。

これについて是非を言及する意図はありません。ここでの別れが辛く悲しい程、現実と直面し”前を向くことができる”という一面も否めないわけですから...

この演出が特段、遺族から望まれているわけではないと思いますが、葬儀社社員の丁寧、厳かというか慇懃な進行になんとはなしにそういった思いが頭を過りました。


個々人の立場、感覚によるでしょうが、そういった、ある意味過剰というか虚飾性を感じてしまう儀式への参列が度重なると、演出性を下げたい、拒みたい、遠慮したいという意識が発現してくるような気がします。

昨今、葬儀を親類縁者、或は、家族のみで執り行うといった規模の縮小、簡素化が進んでいます。少子高齢化、核家族化、親類縁者の故郷からの離散に加え、虚礼から距離を置きたいという意識もその一因かもしれません。 


ここ最近のホテルや百貨店内の飲食店、食品売場で問題が続いている食材の誤表示だか、偽装表示騒動と併せて考えてみます。

この騒動は周知の部分もあったとはいえ、ホテルや百貨店の信用を大きく失墜させました。飲食部門以外を含むホテル、百貨店といった業態全体にも不信の目が向けられるのは当然です。

率直に言えば、客観的に判断して偽装表示と受け止められかねない、一連の問題をあくまで誤表示で押し通す姿勢、こういった姿勢が業界全体の根底にあるのではないか、という疑念が生じています。

誤表示でしたとか、表示に規定されていないから問題はないという以前に、ホテル、百貨店という業態への不信感に繋がります。割高だが信用できる、間違いがないといった意識が、割高なのに信用できない、品質相応の適正価格なのか、といった疑いへと大きく振れてしまいます。

偽りの付加価値で嵩上げされた事例を目の当たりにすれば、いくらホスピタリティだのお・も・て・な・しだの宣われても本音はどうなのか、白々しく空虚に聞こえてしまいます。

今回の葬儀参列について、特に誤表示、偽装表示に気がついたわけではありません。しかしながら、一連の食材表示騒動の舞台となったホテルから感じた欺瞞性、虚飾性に相通じる印象を同じサービス業である葬祭業からも抱いた次第です。

(参考)グローバル化の中で日本の宗教を意識できないと負ける



(続)

2013年11月7日木曜日

追加

ランコントというパンの店を訪れました。千種区に開店してそれほど時間は経っていないようです。

ライ麦入りパンカンパーニュ、ヨーグルトライ、他をこれまで購入しました。

カンパーニュはきめ細かく密な感じで、風味がありパテと共に美味しくいただきました。

ヨーグルトライは更に密になって、風味が増すと共にしっとり感が強くなります。こちらもハム、ベーコン、といった畜肉加工品と共に食べるのに向いているかと思います。

自宅から便利な位置にある訳ではありませんが、以前挙げたパンの店に加え、新たにライ麦パンを入手できる立ち寄り先が見つかったのは嬉しいことです。

2013年11月6日水曜日

線引

かなり間が空いてしまいましたが、前のエントリから引き続き、飲食店内で撮影した料理写真をブログで公開する行為について考えてみます。

北海道 上富良野町5本の木(嵐の木)、美瑛町哲学の木を撮影する観光客の余りの心無い態度、マナー違反が話題となったのは二、三ヵ月前でしょうか。

又、別のエントリでも触れていますがSNSのバカ発見器としての性能は依然低下することなく、その後も、王将、しまむら、ピザーラ、スシローと猛威を奮っています。

他にもUSJやTDLでの学生の迷惑行為等も記憶に新しいところです。

では、飲食店で料理の写真を撮影してブログで公開する行為は上記と何が違うのでしょうか。

ネットワークで公開された迷惑行為は、炎上を引き起こし、周囲から非難を浴びると共に個人を特定され、挙げ句には損害賠償請求に至ったり、威力業務妨害、強要罪として被害届けを出されたり逮捕されたりもしています。

ただ、これらはあくまで迷惑行為に対するしっぺ返しであり、実は写真撮影に駆り立てる動機は同根ではないかと考えています。

線引きは単に法令に抵触するか否か、他者に迷惑か否かに過ぎず、写真を撮影して公開するという行為に違いはありません。

勿論、両者には分別という溝があるわけですが...

上記エントリでも触れましたが、溝のあちら側に迷惑行為をする輩が元々存在しています。単にSNSで写真を公開して共感を得るという強烈な動機、デジカメによる撮影の容易化、情報の拡散性の大きさと高速化が彼等彼女等を顕在化させたということです。

では、こちら側の人々が溝を渡って向こう側に行ってしまうことはないのでしょうか。

従来、この溝は幅広で深く、彼我段差もあったと思います。ところが、上記要因に加え、個性の尊重というか、個人主義、放任自由主義の高まり、規範意識やモラルの低下、飲食に関わる衛生管理に対する過剰な要求と疑念、こういった諸々が溝を埋め段差を縮めているようにもみえます。

根底にある動機が同じであることに加えて、個人の価値観の多様化は軽々とブロガーをあちら側に連れ去り、或は、気がつけばあちら側にいた...溝が埋まったことで起こり易くなっています

こちら側に思い留まらせる、引き留めるのは分別という錨ですが、モラルハザードが起こり易い構造であるのは否めません。

例えば、食べログを覗けば至る処にそういった兆候が窺えます。(炎上する前に削除されるなり管理されていますが...)
 
実際あちら側の人々を定量的に推し測ることはできませんから、確証も根拠もありません。なんとなくです。メディアに踊らされているだけかもしれないこと否定しません。

上述のアルバイト従業員が引き起こした問題行動が何件も露見した時、”「うちら」の世界 - 24時間残念営業”というブログ記事が話題になりました。既に削除されています。

大雑把には、情報リテラシーは学歴に相応し、低学歴層はネットワークを介した向こう側の存在を理解できない、ということのようです。で、向こう側とリアルの自分の仲間(=うちら)を同等に捉えてしまい、問題行動を公開してしまうと...

ネットワークの向こう側を想定する力は、学歴というか学習の結果も一要因であることは否定しませんが、それのみに依存する、主要因であると私自身は考えていません。 

例えば、愛知県とか、名古屋市の飲食についてのブログを考えます。ブロガーの方々は県内、市内の飲食店を訪問し、店や料理の写真をブログで公開してレビューしています。

こういったブログの読者は、全てではないにしても、ブロガーと行動範囲が重なる、自分も当該飲食店を訪問可能な属性に偏るのは当然でしょう。これまで愛知県や名古屋市と関わりがあった、或は、今後関わりがありそうな読者を除けば、九州や北海道、東京、大阪、アメリカ、 ロシア、ブラジル、オーストラリア、イタリア、ケニアの読者は少なくて当り前です。

逆に、行動範囲が重なる読者はブログの情報を元にリアルの世界で追体験をして情報の共有が蓄積されていきます。物理的な距離も小さいわけですから場合によってはネットワークを介さない、リアルの世界での顔合わせもあるでしょう。

即ち、相互のコミュニケーションがネットワークを介してのみに依存する場合より、地域に限定された飲食のブログの場合では、ブロガーと読者の間に濃密な関係が形成されていくことになります。

ブログを含むSNS自体にも、
――気に入った人だけに閲覧してもらい共感を得たい―― 
意識があるわけですから、集まった読者は賛同者、支持者(=仲間)であり、 
本質的に”うちらの世界”を形成し易い条件が備わっていま
す。


結局、うちらが形成される順序は異なるかもしれませんが、ローカルのテーマを取り上げたSNSには上述の情報リテラシーを欠いたうちらの世界と共通の土壌があると捉えています。

尚、飲食店を訪問して提供された料理の写真を何のコメントもなく羅列して公開するだけのブログ、料理写真を羅列して公開しているにも拘らず御自分の備忘録である旨宣言しているブログが存在します。

こういったブログの目的、動機、意図を含む真意は未だ図りかねています。いずれ理解したいと思っています。

2013年11月3日日曜日

鈍舌

以前のエントリでかき揚げについて記しました。該エントリでは、何軒かの蕎麦屋を挙げているのですが、蕎麦屋といえば蕎麦湯です。

店によって各々差異はあるものの、出された蕎麦湯は残しません。全て頂いています。場合によっては同席者の分までも...

蕎麦切りも勿論好物なのですが、蕎麦湯は一旦飲み始めると何故か止まらないのです。

さて、世の中には蕎麦というか蕎麦フリークとも言える人々が存在し旨い蕎麦を求めて西へ東へ東奔西走されています県内は勿論、岐阜、長野、静岡と遠方にまで赴いて各地の名の知れた店蕎麦を食べ歩かれています。

特段、否定する意図も批判するつもりもありませんし、難癖をつけるわけでも茶化す気もないのですが、その原動力に驚いています。

一体、東奔西走させる力は何か、何が満たされていないのか、不思議です。未だ理想の一杯に出会えていないということなのか、では理想の一杯とはどういった蕎麦なのだろうか、理解できていません。

香りが強い、味わいが濃いといっても蕎麦は蕎麦であり自ずと限りがあるわけですが、その足りない部分を埋めようと更なる味わいを求めてのことかもしれません。 

毎日でも蕎麦湯を口にしたい立場からすると余りに効率が低いなぁといった印象拭えません大きなお世話なんですが...

”元祖 十割そば(東京かじの)”という乾蕎麦があります。乾蕎麦としてだけでなく外で口にする蕎麦と較べてそれほど遜色があるとは感じません。それが最高でないのは勿論、蕎麦が評判の専門店に及ばないことも重々承知していますが、学食、社食、駅蕎麦始め、品書きの一つとして”蕎麦もあります”的な蕎麦湯が出されない店の蕎麦より確実に優っています。

原材料の玄蕎麦か蕎麦粉はおそらく国内産ではないでしょう。思い立った時、自宅で手軽にそこそこの蕎麦を喰することができるという点で重宝しています。何より蕎麦湯を延々と飲み続けられます。

自宅でなら、この蕎麦湯に醤油を垂らして、鰹や鮪の削り節、がごめ昆布、ととろ昆布、麩、油麩、揚げ、葱、天かす等、具材によっていろいろ楽しめます。

外食で蕎麦を口にすることがなくなったわけではありませんが機会は減りました。訪れるのはかき揚げだったり、鴨汁、鰊目当てといっていいかもしれません。

この蕎麦に対するやる気のなさと味わいの違いに対する鈍さでは、とても蕎麦通にはなれないなぁと改めて実感している次第です。

ところで昨今(11月2日)というか、今に始まったことではありませんが、料理や食材を巡る誤表示だの、偽装表示だのの問題があらゆるメディアで取り沙汰されています。

偽装表示と取り上げられた料理として、例えば”芝エビとイカのクリスタル炒め”、”芝エビのチリソース煮”があります。芝エビを使った様々な料理を食べ馴れているわけではなく、確固たる芝エビの味を知らない私ならばおそらくバナメイエビとの味わいの違いなどわかる由がありません。

上述のように蕎麦の風味についての味覚も怪しいわけですから...

で、
――芝エビなのかバナメイエビなのか区別できないからどちらでも構わないじゃないか。いずれにせよ活のアカシャエビで作った方がもっと美味しい気がする。あ、活のアカシャエビなら唐揚げで十分か。――
といった印象です。

味わいに違いがないならどちらでも構わないわけですが、芝エビとバナメイエビの味に優劣があるとして、調理人の腕がその差異を際立たせられないのか、調理人の腕でバナメイエビを芝エビの味にまで引き上げたのかどちらなんでしょうか。(芝エビ>バナメイエビとしてです。)

私自身は活のアカシャエビとバナメイエビで十分なんで”芝エビの...”などと謳う店には近寄るつもりはありませんが...

ついでに”芝エビとイカのクリスタル炒め”について思うところを付け加えます。

何がクリスタル”なのかは今更問う気も起きません。クリスタル”は誤表示や偽装ではないということなのでしょうか。

で、イカなんですが”イカ”という表記です。イカならスルメイカ、タルイカ、ケンサキイカ、ヤリイカ、スミイカ、アオリイカ、モンゴウイカ、アカイカ、ホタルイカ、ソデイカといった様々なイカが食べられていますが、イカなら何でも構わないということなのでしょうか。

どのイカを使っても誤表示でも偽装でもないのでしょうが、スルメイカとアオリイカホタルイカでは大きな差異があります。どのイカが提供されても間違いではない、とされても腑に落ちないのですが...

このイカの表記について言及されている報道を見ていません。食材についての曖昧というか、幅広い、アソビのある表記ならむしろ容認されるというのもおかしな話です。

いずれにせよ、表示がされていないからと、イカの種類については問うこともなく、一方で、違いが判り難い芝エビとバナメイエビの誤表示だが偽装だかを批判するのも片手落ちでは、といった印象です。

イカの種類について関心、興味がない、差異を気にしていない、判らないなら、芝エビとバナメイエビの違いを気にすることに意味があるのだろうか、ということです。

特段、誤表示や偽装を追認する意図はありません。ただ、食材の表記を含めたメニューの表示は、飲食する客側にとってどこまで意味があるのでしょうか。とことんまで具体的に表示するべきというのも違うような気がしてなりません。

この事例では、総じて食材そのものの風味の違いは判らない、気にしない場合が通常ではないでしょうか。

勿論、今回の芝エビとバナメイエビの誤表示、偽装は容認されるべきではありません。むしろ各々のエビの背景にある、養殖、輸入、冷凍、汎用(=バナメイエビ)といったイメージを隠蔽し、天然、国産、生鮮、希少(芝エビ)へと連想させようという作意が窺われます。故意か過失かはともかく、結果として誤認へ誘導されてしまいます。

この誘導は最終的には利益に収束させるためかもしれません。ただ、食材コスト以前の問題として、食材の持つイメージを利用した誤認への誘導は、不当な付加価値を上乗せする、料理の価値を嵩上げする、といった点で強く批判されてしかるべきであると考えます。