ラベル ブロガー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ブロガー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年5月14日土曜日

生業

まぁ、今更というか、遅きに失したというか...
厚労大臣時代の発言に既に予兆させるものがあったわけです。
高額出張費、韓国人学校…都庁に批判1万件超 職員悲鳴
「会計責任者が勘違い」 政治資金問題 舛添知事一問一答
以前のエントリで記しましたが、議員歳費、議員年金に纏わる上記発言から抱いた違和感が具現化したに過ぎない、ということです。
――政治家としての正当な報酬を得て、国民の代表として職務に邁進するわけである。さもなければ、他に収入の道がある金持ちしか政治家になれないことになる。――
この後”議員歳費を削減するな”、”退職金がないから議員年金は必要だ”、”退職金も出ないような勤め先には、優秀な人材は集まらない”といった発言が続きました。
果たして政治家は職業なのだろうか、といった疑問を抱いたわけです。もはや政治家ではなく政治屋じゃないかと...
政治を生計を立てるための仕事、生業と捉えるならば、政治屋(家)が給料、賞与等の報酬や退職金、年金といった特典を要求するのも頷けます。自らが生活する糧を得るための手段なわけですから。
生業としての都知事の職に就いているわけですから一連の公私混同も頷けます。都知事の権限で使える公金は法に抵触しない範囲で自分のために費消すると。抵触している気もしますが...
――サラリーマンじゃあるまいに宛名白紙の領収書を貰う根性がけち臭い。――
ルキウスさんが自身のブログで言及されていますが、端から都知事というサラリーマンでしたから、如何ともし難いんじゃないかと考えます。

菅官房長官ならば、
”(元々生業なので)批判にはあたりません。”
と突き放すところです。そういった人物を都知事に担いでしまった自らのリテラシーにこそ真摯に向き合うべきかもしれません。

ところで、”精査”という語ですが、先般の甘利前大臣の事例と併せて、
”時間を稼いで尤もらしい言い訳を捻り出しつつ、言い含めた人身御供を用意すること”
と私の中では定義付けられました。

2016年3月29日火曜日

依存

3/25(金)にプロ野球が開幕しました。それ以降ここ数日、世間を騒がせた各球団の賭博、及び金銭授受問題は水を打ったように一切報じられなくなりました。まるで、そんな不祥事などなかったかのようです。

まぁ、高校野球も含めて野球はメディアと強く結びついていますから...大事なコンテンツの一つとして水さすような真似は封じられるのでしょう。NHKも例外ではありません。記者クラブに加盟していない、或いは加盟できない、暴走?、狂犬?”センテンス-スプリング”は一つの例外でしょうか。
都合の悪い記事を掲載した媒体を「出禁」にするNPB、野球報道も情報統制されている
サンケイ、NPBに「出禁」を食らう|野球報道
かつて池上彰氏は、慰安婦問題における朝日新聞の検証記事に対し、”朝日新聞は謝罪するべきだ”とする批判記事の掲載を拒絶されました。それを受けて、氏はコラムの連載中止を申し出る、といったお返しをしました。

このケースよりえげつないというか、悪質かと思うわけです。力関係の差が大き過ぎます。この辺り池上さんが触れないのは専門外なのか、賢いからなのか...

ウェブ上では早くに、
それでもヤキューは始まるか

プロ野球炎上の陰で面白くなってきた大相撲
といったエントリがアップされたりで例年通りの開幕に批判的な声も少なくありません。相撲界で起きた、やはり賭博に関わる不祥事の対応に倣って、開幕の中止や順延、無観客試合の開催、徹底的な調査で膿を出し切ることこそが優先等、施策が提案されています。

しかしながら、新聞、テレビといった旧来からの、
ズブズブの関係にある伝統的メディアでは全く取り上げられていません。触れることすら憚られるのでしょう。ある種の恫喝でもあり、上述のサンケイの事例は見せしめとも受け取れます。  

じゃ、観る側はどうかといえば、こちらも何だか、目を背けているかに映ります。禁忌扱いになっているのでしょうか。
――人は自分の見たいものしか見ない――
の裏返しなのかもしれません。このように両者に都合のいいように”なかったこと”にして印象が弱められていくわけです。 上手くダメージコントロールしているというか、皆さん大人です。

ここで不思議なのはやはり、何が観る側をそこまで寛容にしているのか、ということです。これまでプロ野球に限らず、贈賄、ドーピング、八百長、賭博といった、大凡スポーツに対して抱くイメージと真逆に位置する様々な不祥事が発覚、或いは疑惑が生まれてきました。現役選手のみならず運営組織も含めての話です。

ざっと思い浮かぶだけで FIFA、ロシア陸上界、角界、柔道界...その度にメディアは大きく報じるわけですが、やがて尻すぼみとなり、いつしか以前と同様の感動を伝える声で埋め尽くされていきます。

これは実は、観る側をスポーツ依存に陥らせているんじゃないか、とするのは穿った見方でしょうか。なんだか、初等教育課程で学習した、内政安定のための仏教の利用(鎮護国家)に似たものを感じてしまいます。なにか特定の目的のためにスポーツを利用している、そんな印象すら抱いてしまいます。国威発揚だったり、事業としての利益もそうなんでしょう。

先日、元読売Gの清原が覚醒剤所持容疑で逮捕、保釈され、今後、薬物依存の治療を受けていくと報道されました。併行して、手放しのスポーツ依存からの解放ももう少し論じられてもいいんじゃないか、と思った次第です。エンドルフィン分泌のような生理的な話なのか、スポーツに絡む権益を受容している社会システムに遡る問題かは解りません。もう少し考えてみます。

2016年3月27日日曜日

真逆

”走る歓び”とは逆方向の話なんじゃないでしょうか。
自動運転タクシーの実証実験、来年初めから開始=政府

自動運転と言えば真っ先にGoogleで開発が進められているグーグル・カーが思い浮かびます。一方、”走る歓び”の文言で想起されるのは、マツダの

Be a Driver.
トヨタの

FUN TO DRIVE, AGAIN.
といったところでしょうか。
じゃ、”走る歓び”って一体何だと、運転者だか、同乗者、所有者を歓ばせる正体は自動車の何だろうという話になるわけです。

所有者であれば所有する歓びです。運転に関わらない同乗者が”走る歓び”を感じられるなら、上述のグーグル・カーを含めたバス、タクシーでも構わないわけですが、それも違うんじゃないかと。自動車メーカーが消費者の購買意欲を煽れませんから。プロモーションになりません。


やはり、運転者の、”運転する歓び”即ち”走る歓び”ということでしょうか。これはおそらく、”機械を自分の思い通りに操る歓び”なんでしょう。その結果、己の体力のみでは不可能な加速感や景色の変化を自在に体験できるわけです。

機動戦士を操縦する心情に通底したものがあるのかもしれません。

ただ、上記マツダのリンクにある、

ドライバーとクルマの関係を、
もっともっと深いものへと変えていく。
人とクルマが息を合わせる。
走る歓びを分かち合い、深い愛着を覚える。
ともに走り、ともに歓び、ともに生きていく。
クルマは単なる道具ではない。
私たちは、人とひとつになれるクルマをつくっている。
には素直に共感できないでいます。車は道具です。人馬一体が自動車でも起こり得るかの如く上記文言ですが、擬人(馬)化しても自動車は輸送機械の一つです。あくまでも、運転者が自動車に慣れ、習熟するのであって、単に人が車に合わせているに留まります。ミもフタもない話かもしれませんが...

トヨタのサイトには単に”クルマの楽しさ”とあるのみでその言葉が何を示しているのか不明です。抽象的な観念論ではなく、具体的な説明を望みたい処です。

勿論、だからといってマツダやトヨタの車を批判しているわけではないことは申し添えておきます。

このような視点に立ってみると、やはり自動運転は自動車という機械の到達目標の一つであるのは間違いありません。一部車種では、アイサイト(衝突被害軽減ブレーキ)、インテリジェントパーキングアシスト(駐車・車庫入れアシスト)といった運転アシスト機能は既に取り入れられていますし、単純なクルーズコントロールはかなり以前からありました。

何だか、”走る歓び”とは逆方向の車社会に進んでいくような気がしますが...自動車メーカが”走る歓び”と自動運転をどう折り合わせるつもりなのか、関心を寄せています。

いつまでも ”走る歓び”を謳って購買意欲を喚起するのもどうなんでしょうか、個人の所感です。

一方、そういった自動運転へと向かう流れに対し、”クルマの良さが失われる”、”自動車はやっぱり自らの意思で自由に操れなきゃ”といった否定的な声も上がっています。おそらく、自動運転による必要以上の便利さ、快適性に対する要求を不要のものとして拒みたいんじゃないかと推測しています。

思い違いです。他人の痛みがわからない、思いを馳せることができないということかもしれません。そうであろうことを理解することは容易です。容認しているわけではありませんが。

第一義的に便利さを求めるのではなく、交通事故による理不尽な不利益を少しでも減じる、これが自動運転の主たる目的と捉えています。酒酔い、高齢者、暴走、突然の疾患等、故意、過失を問わず、被害者自身の責に全く依らない悲惨な交通事故は未だ後を絶たないのが現状です。

このエントリを記し始めてもたもたしている間、今日までだけでも一体どれだけの、交通事故による理不尽な不利益を被った被害者が生みだされてしまったのか。

パトに追跡され暴走、4台事故 1人死亡 東京・世田谷
山陽道トンネルで車12台絡む多重事故 2人死亡 広島
【梅田・車暴走事故】重体28歳女性は横断歩道上、死亡65歳男性は歩道上で最後にはねられたか 死傷者の状況判明
十分ではないものの、こういった謂れのない事故被害の低減に寄与するであろう自動運転を、個人の趣味を優先した尤もらしい”走る歓び”の語で水さす物言いに独善的な印象を禁じ得ません。

それは恰も、天然鰻を出す料理店を、その写真と共に嬉々として紹介するグルメブログと同じ身勝手さを感じます。そういったブログで、天然/養殖、鮮度、食品添加物の問題に関連付けて健康、環境とかを上から目線で論じられても、誠実さ、真実味、信頼性を欠いているなぁ、と思うわけです。胡散臭さ、欺瞞性は伝わってきますが...

昨今、運動会や体育祭といった学校の伝統的行事の一つとして行われてきた組体操について、中止を求める声が上がっています。

【組体操】事故は年8000件だった「安全確保できない場合は中止を」スポーツ庁
事故の例
で、当然、”感動”、”達成感”、”団結心”といった語で組体操の意義を説く声も生まれます。
それでも私が組体操に取り組む理由。ある現役教師の告白
典型的な考えは、
大阪の現場の先生方、教育委員会の戯言は無視して、これからも、今まで通りに安全を確保しながら、挑戦すべきは挑戦していけばいいです。保護者たちも、ケガや骨折は成長の一環と受け止めてあげてください。今の日本に不足しているのは、そういった「覚悟」だと思う。
といったところでしょうか。”走る歓び”、”天然鰻”、更には、”事故前の原発の安全神話”にも通底した他人事感満載の意識だなぁと。


まぁ、自分(とその周囲)は大丈夫だろう、他人の痛みには共感できない、というのも尤もな話で、理解できないわけではありません。しかしながら、そうは言ってももう少し賢い一歩に駒を進められないものなのかと、改めて思った次第です。

2016年2月26日金曜日

既定

前のエントリの続きのような話です。

ある程度の規模の公営住宅周辺には、昔からの商店が軒を連ねた一角があります。どんどん寂れていっています。

名古屋市内であっても郊外ではそういった傾向を感じますし、市周辺部にあって駅から離れた小規模な集合住宅地域ではそういった商店の衰退は目もあてれません。商店主、及び居住世帯の高齢化と少子化による住民人口の減少、自動車での移動の常態化といった処がその理由でしょうか。

先日、名古屋に隣接した市にある公営の集合住宅近くの、かつては店舗が連なっていたであろう通りにある中華料理店で昼食を摂りました。いわゆる街の中華屋です。紛うことなき、確実に。

名古屋のベッドタウンとして開発された当初から、生産年齢人口がそこそこの割合を占めていた頃までは、相応の商業活動があった通りだったんだろうなぁと偲ばれました。何故こんな私鉄の駅から離れた地域を住宅地として開発したのか今一つ合点がいかないわけですが...その沿線にはかつて田畑が十二分にありましたから。田畑の所有者もまだ若く、専業、兼業はともかく、農業に従事するのに何ら問題がなく、それが当たり前で、所有地を切り売りするなどとんでもない、という時代だったのかもしれません。 

上記中華屋も繁盛、混雑とは言い難い状態ではありました。じゃ、美味しくないのか、というとそういうわけではなく単に訪問を促す動機に欠けているのだろうということです。

駅 から離れていて付近には会社も工場も観光名所、公園などの公共施設もないとなると...まあ、言い換えればそれらの立地的不利を上回る程には旨くないわけ なんですが。普通なんです。ただ、近くにあれば、普段の食事の店として通うであろう普通です。勿論そういった店は好きです。

ただ、昼間人口の多いオフィス街、繁華街ならともかく、住宅地ではそういった店は減少の一途だろうなぁ、といった感は否めません。

ただでさえ、人目を引くこだわり(?)のラーメン店や、盛りが過剰で味濃く油の酸化臭が鼻につく、赤黄黒の華人系中華の猛攻、跋扈に押されていますから...

うどん屋もそうなんですが、こだわりのない、普通の、家族経営のうどん屋、中華屋の新規開店を殆ど見かけないことに寂しさを感じてしまいます。店主の高齢化か、不振と言った理由による閉店ばかりを目にします。
社会が抗えない少子高齢化に進む中、その一方巷間では、
 保育園落ちた日本死ね
といった真っ当過ぎるブログが衆目を集めていたりするわけです。マイナス金利なんてやってないで、都市部と地方の格差?歪?の解消にもう少し頭を使ってもいいんじゃないか、と思った次第です。
 ”中華屋、うどん屋潰れた日本死ね”
とまでは言いませんがね。

2015年11月17日火曜日

次元

Facebook(FB)の話です。

パリで発生した同時多発テロを受け、”パリ市民の安全と平和を願うプロフィール写真を設定しよう”と、フランス国旗のトリコロールを自身のプロフィールに重ねあわせることについての是非が巻き起こっています。
yahooニュース(個人)
「イスラーム国の衝撃」の池内先生にISについて疑問をぶつけてみた結果と、自分がトリコロールのアイコンに賛同しない理由
そういった議論が活発であるほど、何とも言えない無力感に囚われます。

その一方で、
2歳長男にたばこ吸わせた疑い 無職の父親ら逮捕
幼い息子が「タバコ吸う」動画 FBに載せた両親が大炎上、謝罪するも批判止まず
同じプラットホームにあるとは思えないこの著しい隔たりに驚きを禁じ得ません。 

2015年11月3日火曜日

販促

巷間、横浜傾きマンション問題の話題で持ちきりです。収束の兆しは一向に見られません。

一方、ネット上では密かにステマの疑念が払拭できないノンクレジット(広告主の名前を表記しないこと)広告の話題が、こちらも依然燻り続けています。下記は代表例です。
ベクトル社が名指しステマ記事にホームラン級にアレな反論をして広告業界大困惑の巻
思ったところを少し。

広告は物品、サービスといった商品の販売側が売上を上げるための手段です。ところが、売り手側からの商品の情報提供はしばしば誇大広告になりがちで、商品の価値が底上げされています。様々な媒体に掲載された広告による商品選択、消費活動を通じて、消費者側も売り手側から発信される広告の欺瞞性をなんとなく感じ取っているわけです。

そこで、ウェブ上だけでなくテレビ、ラジオ、雑誌といったあらゆる媒体で、消費者側からの声、いわゆる口コミや、専門家と称されるライターのレビュー、比較記事が重用され、広告としての役割を担わされるようになってきています。

使用者としての評価は購入者の側に立った有用な情報、専門家としての評価は客観的な情報であり、商品選択、購入の判断に大きな影響を与えます。

で、こういった情報の発信者と販売側に何らかの金銭の授受があった場合には、情報の真偽、信頼性如何に関わらず、当該情報にはその旨表示せよ、という話です。

この時、風味、面白さ、洗練、格好といった主観に基づく評価はともかく、計測可能な仕様情報の提供に対してすらそういった扱いが要求されるのだろうか、との思いが去来しました。例えば、長さ、重さ、速さ、時間、温度といった客観評価には恣意性は込められないんじゃないかと...

例えば、上記エントリ中でリンクされている、
【ステマ症候群:拡大版】iPhone商戦の陰で広がるステマ記事発注の舞台裏
では、
記事の書き手は、東京メトロ銀座線の各駅で、NTTドコモ、KDDI、ソフトバンクという通信3社それぞれのiPhone6sの通信速度をアプリで計測。その結果、銀座線の19駅のうち13駅においてau(KDDI)が勝利したと調査結果を掲載している。
とあるのですが、誰が測定しても同じ値となる測定法を採用しているならば問題ないのでは、と思った次第です。広告主であるKDDIでも競合となるドコモ、ソフトバンクのいずれが測定しても測定値の優劣に揺るぎがない、そういった客観的手法で得られた、事実を用いた記事ならばノンクレジットでも容認できるのではないか、ということです。

とは言うものの、理想に過ぎない話でしょうか。昨今の様々な企業不正を鑑みれば、測定値ですらその信憑性に疑問符を付けざるを得ないのが実状です。測定値の改竄、流用(旭化成建材杭打ち問題)、不正ソフトによる規制クリア(VW排ガス不正)などが明らかになっていますから。

不正とは断定されずとも、評価に際し、”当社比”、”従来比”、”同クラス内での比較”、”当社測定による”、等の枕詞は頻繁に目にします。さすがに、数値で表示される評価で”個人の感想です”といった注釈を見たことはありませんが...

いずれにせよ、企業倫理の問題に行き着く話です。ステマだとか誤認といった欺瞞的な広告以前の不正事件が頻発している現状です。違法ではないノンクレジット広告、ステマを自粛すべきと認識する、そういった誠実さを企業にどこまで期待できるのか、疑念を拭えないでいます。 

2015年10月17日土曜日

去勢

――圧倒的な「第一党」は無党派層なのだが、国民の過半数を占める彼らを代表する政党が存在しない。これが日本の最大の不幸である。―― 
安倍首相はなぜきらわれるのかといったブログエントリにあった文言です。

で、以前のエントリに記したように、
近年の選挙における選択の動機は、当たりクジなど入ってないことを承知し、その上で消去法によって如何にマシな外れクジを選ぶか
といった状態から全く進展がありません。だからといって、選挙で票を投じないという行為には批判的な声もあるわけです。

例えば、
参院選迫る:投票したい人がいないから棄権、抗議の白票はイカン

選挙権のないひとりからのお願い、再び
といったブログエントリがあり、選挙にいかない奴は政治に参加していない、義務を果たしていないとか、投票しければ何も変わらない、といった声があるわけです。

――白票、棄権は白紙委任だ。最大政党に白紙委任したのと同じ。――
このことに異論があろうはずはありません。ただ、投票を棄権する有権者層は、政治に関心がない層とコミットする意思はあるものの意図的に棄権している層から構成されているはずです。白票を投じる有権者層からは勿論、政治に参加する意思が伝わってきます。

つまり、全有権者中に一定程度の割合で、政治にコミットする意思があるにも拘らず、無効票とされてしまう有権者が存在している、ということです。

無批判、盲目的、或いは、義理人情で候補者を支持し賛成票を投じる層がいる一方で、全ての候補者に対し不支持の意思表示をするために棄権、若しくは白票を投じる層は、その対極との見方ができます。

この時、両者の意思は、果たして平等に扱われているのか、公平に選挙結果に反映されているのかを問うてみれば、やはり片手落ちではないかと。

――不支持の意思は選挙結果に反映させない――

そういった不公平性が解消されないまま続いているのは、現行の選挙制度の不備であり、制度設計者、運営者の怠慢ではないでしょうか。賛成、支持、信任に対応した反対、不支持、不信任という選択肢がない制度は、実は公平性に欠いているのではないか、ということです。

”賛成”の対義語は”賛成しない”ではなく”反対”です。

やはりですね、もう少し漏れ無く、公平に民意を汲み取る制度設計が必要ではないかと考えます。

ただ、残念ながら、”誰が実行するか”の”誰”が見当たらないのです。この行き場がない民意の受け皿を設けようという姿勢は何処からも感じられません。

世界の中で日本の投票率が突出して低い、とするつもりはありません。独裁だったり、民主制だったりと、各国の国家運営の根幹や、元首や代議員の職責の重さ、といった政治体制が異なりますから。有権者の投票意識と投票率を結びつけた比較は困難です。

ただそれでも、少なくとも日本において、低い投票率に対し、
”有権者の意識が低い、政治についての関心が薄い”
と片付けることには違和感を禁じ得ません。

首長や議院を選出する選挙において、その制度の不備を疑うことなく低投票率のシステムを運営、維持し続けている、そういった現状に関し怠慢という認識は生まれないのでしょうか。政官学各々についての話です。

例えば、無党派層の意思を選挙結果に反映するといった、自らの不利益を顧みることなく、選挙制度を変革していこうとする政党、人材の出現を待望しています。

折しも、2016年の参議院選挙から、選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法が施行されます。それに伴い、高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」が総務省と文部科学省から作成されました。学校現場における政治や選挙等に関する学習の内容の一層の充実を図るためとあります。
政治や選挙等に関する高校生向け副教材等について
高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」について
こういった資料を利用した、高校生への政治や選挙についての指導、教育が、現状に対する問題意識を摘み取ってしまいかねないことを懸念します。

国家に限らず、組織、団体、個人は、自らの存在、行いを自発的に否定することはできないのです。自らは常に正当性を主張し、過ちを自認するには相当の困難を伴うわけです。

そういった無謬性を排除できない国家による教育は、自ずと現状を是認することに他なりません。”今は絶対的に正しい”、そういった認識下、政治に関する教育によって”現在が最良”と摺り込まれてしまうと、異を唱えたり、疑問を抱くことを封じる力が生まれます。

これは現体制にとっては好都合です。体制に抗わない従順な有権者層を拡大できますから。そういった思惑が意図されてか否かは存じません。ただ、現行の枠組みの正当性を尤もらしく騙って疑わせない、それを否定し超えていこうとする意思を抑圧してしまう、少なくともそんな方向にだけは進まないことを願って止みません。

2015年10月12日月曜日

狭間

一寸フィクションの読み物について記してみようと思います。

先日、NHKスペシャル「作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~」の再放送を何気なく眺めていた時のことです。

山崎豊子氏と言えば、
白い巨塔→大学医学部華麗なる一族
 山陽特殊鋼-倒産
 不毛地帯→伊藤忠商事-瀬島龍三
大地の子→中国残留孤児
沈まぬ太陽→日本航空-御巣鷹山
運命の人→外務省-沖縄密約-西山記者
といった作品が思い浮かぶわけですが、同時に、モデルとなった実在の社会的事件、団体は勿論、個人までもが特定できてしまいます。

作者の構想のもとに作られた虚構の話である小説において、実在の事件、人物を題材にすることは読者に現実感を抱かせるには好適な手法です。

事実や史実、及びそれらに対し読者一般が抱いている先入観、そこに嵌合するように人間的魅力にあふれた虚像をはめ込んでいくと。で、虚実入り混じった、何処までが事実かがにわかに判別できないモザイクができてしまうわけです。

こういった手法は特段珍しくもなく、司馬遼太郎氏、松本清張氏始め、著名な数多の作家が創作に取り入れています。城山三郎、清水一行、高杉良、各氏の経済小説の分野では至極当然というか欠くべからざる創作スタイルです。

百田尚樹氏の「海賊とよばれた男 」、「永遠の0」等が最近の該当例でしょうか。

上記作家らの著作について、勿論否定的評価が皆無ではないとしても、その発行部数から、総じて多くの読者からの支持を得ているのだろう、とみています。

ここで、事実を題材として脚色を加えた虚構の創作について云々するつもりは毛頭ありません。それが小説ですから。

ところが一方で、虚構であることが露見したことにより、激しい非難が浴びせられた読み物もあるわけです。

以前のエントリにも記したのですが、それは例えば「一杯のかけそば」であり、江戸しぐさが記載された道徳の教科書(p.58〜59)を含む江戸しぐさ推奨本です。

前者は上記Wikiに顛末が記され、後者については、
更に最近では、ネットワークを介して伝播している、真偽不明の”いい話”にも批判的な目が向けられています。

例えば、
【感動注意】黒人が差別された飛行機に、ぼく、偶然乗ってました!
Facebookはバカばかり
またきたコレ・・・いくらでも作れる「いい話」。もう回すなって!!お願い
といった処でしょうか。ちなみに最近見聞したいい話は、
ファストフードの店員がお金の足りなかった男の子に小さな親切、50倍の恩返しが待っていた。
です。真偽はまだ不明です。

興味深いのは、上述全てが虚構であるにも関わらず、小説のについては風当たりが強くない、ということです。プライバシーの侵害、名誉毀損で関係者との訴訟に発展することはあっても、虚構を理由に非難された事例を知りません。

多くの事実を織り込んだ創作であっても、虚構との指摘がなされないということは、読者は端から虚構、フィクションであることを念頭に読み進めているということなんでしょうか。

読者が冷静で創作の世界に踏み込めないでいるのか、入り込ませるだけのリアリティが作品に欠けているということなのか...

「一杯のかけそば」、「江戸しぐさ」は、実話、事実として受け止められた後、捏造であることが発覚、この裏切られ感が怒りや非難の根源となったのかもしれません。そういう意味で、こちらの方が現実感に優っていたとするのが妥当という見方も、素直に首肯できないでいます。

実は、読み物の信憑性に対する読者の先入観が、創作物の虚構、虚偽といった印象を決定しているようにみえ、であるならばそれはそれで釈然としないものを禁じ得ません。では、作品それ自体の力は一体?、ということです。
というブログエントリ中に佐村河内騒動について触れている部分があり、
――涙を流すほど感動していたのに、事実を知ってショックを感じ、白けてしまった――
とのコメントが発覚時に寄せられていたそうです(伝聞の伝聞ですが)。

まぁ、この類の話かもしれません。虚構と虚偽の狭間は、創作物そのものの評価を左右しかねないわけです。

背景や権威といった周囲の環境によって容易に動かされてしまうこの狭間の、危うさ、脆さ、曖昧さについてもう少し理解を進めたい処です。

ところで、上記虚構の読み物で、それが捏造であることが判明して以降も、肯定的に捉える声があります。

例えば、「一杯のかけそば」を「涙のファシズム」と批判する見方がある一方で、江戸しぐさについては、特に公教育関係のサイトからは依然として肯定的な姿勢が窺われたりします。
江戸しぐさ 京都しぐさ(京都市)
マナーアップ推進事業(守谷市)
道徳の時間や総合的な学習の時間などの学習で「江戸しぐさ」を取り上げており、礼儀やおもてなしなどにかかわる学習において取り扱う上では、特に問題はないと考えています。(板橋区教育長)
 歴史的事実として教えるものではなく、礼儀やマナーを考えるきっかけになればと作成した(文科省)
ネットワーク上に蔓延るいい話についても、
話の「真偽」は、さほど重要では無い。大切なことは、この話から、なにを受け取るのかだ。
といった旨の意見を見聞します。

史実と確認されていない虚構を道徳学習に採用する...真偽は重要でない...手放しで首肯するには抵抗を覚えます。

この部分について思いを巡らせてみると、その行き着く先には権威主義による管理と被管理といった語が朧気に見えてしまいます。

虚構の物語中に描かれた虚像を道徳、倫理、礼儀といった教育に利用する...広義には人格形成にも影響を及ぼしかねないそういった領域に虚像を挿入していくということです。それは言い換えれば、虚像の摺り込みでもあり素直には受け入れ難いものを感じています。

例えば、
故人の意思→(真意の確認が困難)
専門家の意見→(十分な理解が困難)
民主主義社会におけるみんな(民意)→(実体が不明)
に類した、虚像の一人歩き、極端には暴走の懸念を払拭できない、ということかもしれません。教育でも政治でも、ある意図の下創りだされた、管理側にとって都合のいい虚像、これが知らぬ間に絶対視され周囲に奉られてしまう、その結果醸成される無思慮な”...でなければならない”空気には反感を抱きます。

上述の「一杯のかけそば」捏造騒動における非難には、欺かれたことに対する怒りと共に、そういった虚像に振り回されたことへの反発も含まれていたのではなかったかと。

しかしながらその一方で、先述の著名な作家による小説に対しては、やはり虚構に対する抵抗は大きくないというか、むしろ虚構であるがゆえに受け入れられているとさえ、見受けられます。

そういった作品は、事実を作者の意図で脚色、歪曲した虚構ではなく、作者の意図を伝えるための創作に事実を織り交ぜている、というのがその理由でしょうか。判り難い話です。

文芸について思う処と共に、いずれ機会があれば記してみます。

2015年9月23日水曜日

流出

これ以上貶めてどうしようと...前のエントリに続き愛知の民度が〇〇という機密が流出しています。

この時はブロガーの方が遭遇した話です。
隣のテーブルのクソババア三人組、鰻丼食べ終わったら、バッグから、ごそごそビニール袋をひっぱり出したかと思ったら、なんと、中に梨か林檎が入ってました。
それをテーブルに広げて、平然と、食べ始めました
今度は愛知を中心に飲食店をランク付けしている別の人気ブロガーが、
福島に遷都
中国が攻めてくるわけがないじゃん
日米安保条約なんていらない
遺伝子組み換え食品大量摂取国 日本
世界各国は日本の農作物を輸入禁止に
関東の野菜買ってますか?
食べログ大丈夫?
サーモン怖い
未だに燃料を噴霧し続けているわけです。 そこまで浅薄を露呈するのも如何なものかと...そういった感を禁じ得ません。

幇間は分を自覚して料理の写真を羅列するに留めておいたほうが賢明かと思った次第です。

2015年9月20日日曜日

漏洩

これまで秘匿されてきた愛知県の機密がじわりと漏洩しているようです。官民合わせた愛知の民度は最高機密だったんですが...
これ以上の流出がないことを願ってます。

ちなみに、小学校時代、理科の単元で星座の授業があったことを思い出しました。スレた今なら、
あの数個の星でどうやったら熊、サソリ、双子...の画が思い描けるのか?
半日は問い詰めます。

2015年9月14日月曜日

境目

ルキウスさんが鮨屋へのワイン持込について言及したエントリをアップされています。次回予約や会員制化の話も含めて抵抗なく首肯できない旨、記されています。
ワイン持込、次回予約、会員制化
飲食店への酒の持ち込み一般に関しては確かに、
――あんたがお馴染みさんなら、店の酒を飲んで助けてやれよ――
ということに異論はありません。ただ、鮨屋へのワインの持ち込みについてはどうなんでしょうか。ワインに馴染みのない鮨屋の店主にワインの選択、品揃えや管理を期待するのも余計な負担を背負わせることになるんじゃないかと思うわけです。それなりの知見も求められますし...

イクラや子持ち昆布といった魚卵に合うワインを、なんて訊ねられても困ってしまいます。いっそワインについては適当な持ち込み料で持ち込みを認めた方が、本来の仕事に注力できて身軽になれるんじゃないかと。

まぁ、ワインの持ち込みなど断って、店で用意した日本酒でお楽しみ下さい、というのが本来であり、真っ当なのは勿論でしょう。

ただ、鮨屋でワインを、とせがむ客の割合を考えれば、持ち込みを認めざるを得ないのも致し方ないのかもしれません。面倒を避けられますから。

問題は、客と店の層の薄さがそういった客を断れなくしているということです。特定の店に特定の常連客が押し寄せる、これが客側の我儘を許さざるを得ない店側の弱さに繋がっています。これは名古屋圏の食べ手、常連客層の薄さ、狭さに由来しているわけですが、こういった部分が変わっていくのはなかなか難しい話ではなかろうかと思っています。

ところで、しばしば訪れるブログサイトに、
うなぎのしろむらには行かないで、刈谷のやま平へ(笑) 
といったエントリがアップされていました。エントリ本文中で御自身が鰻屋を訪れた際、
隣のテーブルのクソババア三人組、鰻丼食べ終わったら、バッグから、ごそごそビニール袋をひっぱり出したかと思ったら、なんと、中に梨か林檎が入ってました。
それをテーブルに広げて、平然と、食べ始めました
小奇麗な格好して、鰻丼食べに来て、最後に、フルーツ代をケチるか
良い子のお手本に成ってくれよ~
と記されています。この辺りの話についてはいずれ機会があれば...

で、その後コメント欄で鰻屋へのワインの持込についてやりとりされています。

勿論、店には無断でしょうが、品書きに記載のある料理(フルーツ)に類した食物の持ち込みは許されない一方、(メニューに掲げられていないとして)了承を得た上で持ち込み料を支払うならばワインの持ち込みは問題ない、そういった認識でいいんだろうか、と思った次第です。

許可と対価の支払い、これが両者の境目なんでしょうが...

未だに定期的と言っていい程ネット上で勃発する、飛行機のビジネスクラスや新幹線のグリーン席に乳幼児を帯同することの是非、
”料金さえ支払えば許される”と、
”オプション料金を支払っている周囲の乗客は快適な空間過ごす権利がある”
にも通底した話にもみえます。どうなんでしょうか。

2015年6月23日火曜日

客筋

少し前にウェブ上のネイティブ広告が色々と物議を醸しました。
男・徳力基彦、ネイティブ広告の時代の勘違い野郎共に物申す
なぜ日本ではステマやノンクレジット問題がなかなか根絶されないのか
ウェブメディア中にあたかも記事の如く広告を忍ばせ、[PR]、(広告特集)、<ad>といった広告であることを示すクレジットが付記されているとかいないとか、又、広告会社が該クレジット無しの広告について営業活動をしているとか、していないとか...

確かに、広告である旨を明記したほうが好ましいわけですが、目立たない位置に小さく”広告”、”プロモーションと”表示されていてもなぁ、と思った次第です。こちらのリンクに例示されています。
ネイティブ広告を「ステマじゃない」と擁護したり「正しく理解」させようとしたり「定義」したりする前にすべきことがある
クレジットが明確に認識できてこそ広告と捉えることができるのではないでしょうか。見落とし易い表示では後で広告と気付いた時、かえって騙された感が増幅されるのではないかと思う一方、メディア側からは、
”表示がある、見落とすほうが悪い”
と主張できる免罪符になってしまうことを懸念しています。それが狙いかもしれませんが。

こういった広告手法の話題を目にすると、やはりモノが溢れている、供給過多を実感します。必需品は仕様と価格が購入を決定するでしょうから、広告には左右され難いでしょうし、高額品は多面的に調べてからの購入が通常かと思います。

とすれば、それほどの高額品でもなく、緊急性、必要性がそれほど高くもないモノの衝動買いを誘う、これがネイティブ広告の取り扱い対象かと。で、このネイティブ広告が問題になるという状況は、モノ余りの反映ではないか、と捉えています。

しかしながら、一方で、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌といった既存メディアよりは誠実さを感じると言ったら言い過ぎでしょうか。まぁ、一度地に落ちた評判を取り戻すには相当の労力が必要ですし、早期に好ましくない兆候を摘んでおかないと暴走を止められない、ということかもしれません。
新書の棚に並んでいるから読み物だと思って手に取ったらただのカタログだった、とかって読者ががっかりする行為でしか無いわけです。
上記リンク内にあった文言です。既存メディアはかなりの部分で既にこういった状態に成り下がっているんじゃないかと。

"dancyu"という料理や食材をテーマにした雑誌があります。創刊後まもなく購読を続けてきましたが、十年以上前に止めました。

特段、ネットで代替するようになったという理由ではありません。

その当時で、”盛り過ぎ、下駄履かせ過ぎのカタログ”という印象を抱くようになったことに依るものです。読者の利益になる情報を提供しているのか、という点で疑問符がついたということです。

飲食店の情報掲載は否定しませんが、その記事内容が”盛り過ぎ”で、”掲載料取ってんのか?”と思いました。著名人”○○さんのお取り寄せ”といった特集では通販の宣伝広告が満載です。

特に、盆暮れのギフトシーズンには通常より増ページでギフト通販のカタログかと見紛うばかりでした。その辺りはまぁ、甘受していましたが...

一番のきっかけはですね、この雑誌は誌面の一部に料理の作り方を掲載していたわけです。それもこの雑誌の売りの一つだったかと。ある時、佃煮、甘露煮、一夜干し、西京漬けを作ろうと思い立ち、相当量のバックナンバーから参考となる情報を探そうとしました。ええ、十年分以上です。

見つかったのは....該商品の広告ばかりでした。
”大事な広告主の商品を宣伝して、消費を煽る立場なのに商品の作り方を公開してどうする、広告主に対する背任じゃないか。”
ということなんでしょう。爾来、該雑誌に対する購読意欲も失せたということです。

加えて、記事に対する権威付けも鼻につくように感じ出しました。著名人を起用して、この味が、良さが、本物が判る読者こそさすがと...判らない読者は感性が...といった雰囲気が記事から伝わってきました。

前のエントリで引用した瀬戸内氏の文言にも通底する、選民意識というか優越感を刺激するようなやり口も如何なものだろうか、ということです。

新聞の広告欄に掲載されている映画や書籍の宣伝からも同様の意図が窺えることもあり、そういった場合、いい印象を抱けません。

ここ最近、ラジオについてはよくわかりませんが、テレビの視聴率が冴えない、新聞や雑誌の売上不振といった話を見聞します。その中で既存メディアの凋落は、ネットからの情報への置き換わりが主因である、という見方があります。

ただそれだけではなく、コンテンツの質そのものの劣化、即ち、あからさまなネイティブ広告の氾濫、過剰な演出、実質の伴わない下駄の履かせ過ぎに視聴者や読者が辟易しているのではないかと...

そういったコンテンツの劣化に加え、該コンテンツを告知する宣伝がこれまた盛り過ぎのわけです。

コンテンツの評価はインフレ状態、不振だから数で補う、質は更に低下しハズレが増加、で、評価に値するコンテンツは埋没、こういった悪循環に陥っているのではと推察しています。

ここから抜け出すのもなかなか難しいなぁと。展望はあるのでしょうか。

本エントリに関連して、小説、文芸作品、権利についていずれ思う処を記してみるつもりです。

2015年6月7日日曜日

漫画(3)

前のエントリに続けます。

類似した話は枚挙に暇がありません。折よく、
[江川達也]<漫画「日露戦争物語」の真相 (2)>明治元年・松山生まれの秋山真之が主人公では「日露戦争」は描けない
[江川達也]<漫画「日露戦争物語」の真相 (3)>司馬遼太郎財団からきた苦情が漫画の方針を変節させた
といったエントリがありました。同じく漫画の例です。 「日露戦争物語」....面白くありませんでした。知らず知らずの内に連載中止になったか、雑誌の購読を止めたかです。とにかく、連載の途中から読み飛ばしていましたから。

それはさておき、少年誌、特に該漫画を掲載した雑誌では、
 因果関係を語る歴史漫画を日本の漫画読者が求めていないのでそういう漫画は描かれず、勝利や友情や戦争の高揚感勝利感という下らない(史実分析にとって)快楽を描いた歴史漫画が描かれるという現実は続くのである。
当時、連載されていた作品がどの程度事実に基づき、客観性があったか否かは存じません。ただ、友情・努力・勝利といった人気を博すための処方箋があったわけです。

連載中、作者、或いは編集者が、史実を利用した友情・努力・勝利といった価値観の、読者への植え付けを意図していたとみています。該目的に対し、場合によっては史実のデフォルメすら当然あったかと...ある時点で作品は処方箋から逸脱し始めたようですが。

加えて、ネットワーク内を賑わせる、虚構の”いい話”、”感動する話”についても、
Facebookはバカばかり
やっぱりFacebookはアホばかり
といったエントリがあり、こちらは、
またきたコレ・・・いくらでも作れる「いい話」。もう回すなって!!お願い
によれば、 
デマのいい話の作り方のポイント
1 差別意識がけしからんというオチを用意する
2 スタッフが最初に差別者の味方をするように見える
3 ところが・・ということで落とす。
といった処方箋に基づく話です。

少し話が逸れますが、こういった虚構の”いい話”、”感動する話”に対し、

”つくり話でもいい(感動できれば)”
といった 声があるようで驚いています。事実だからこそ感動できるのでは、と考えますから。感動に伴う脳内物質でも欲しているのでしょうか。

まぁ、”この話は架空ですが...”と始まる”いい話”と、”いい話”の後で”この話は架空です。”と明らかにされる場合で、同じように感動できる方なら話は別です。

かつて、実話という触れ込みで日本中で話題となった、
”一杯のかけそば”(栗良平)
という童話がありました。この話は後に虚構であることが判明し、作者の不祥事も相俟ってブームは収束しました。

インターネットが未だ黎明期の頃の話です。”つくり話でもいい”とされている方々が、背景とその後の経緯を踏まえた上で、”一杯のかけそば”を読んで感動できるのか、 興味のある処です。

又、こういった話になると、
”いやなら読まなければいい”
という声が湧き上がってくることも想定できます。ブログに寄せられた心ないコメントに対する応えとしてしばしば目にします。

これについて言及するのは別の機会に譲りますが、この考えに与するつもりはありません。



話を戻します。

科学的事実、史実といった客観性の強い情報を場合によっては都合良く編集加工して利用する。
料理の美味しさに代表される、客観的評価が難しく主観に頼らざるを得ない指標については、権威を擁立し、その声の大きさに基づく価値体系(序列化するための座標軸)を構築する。
こういった手法を駆使した印象操作がされ得ることに危うさを抱いています。漫画の場合については、実は作者や編集者すら意識していない、無作為の摺り込みも起きているのではないかと思っています。好評を得るための処方箋が結果として特定意図への誘導に結びついてしまうということです。

例えば、前出の”インベスターZ”では、学生が大学卒業後、成功の姿、目指す方向として起業や投資の成功が示されており、企業など組織に属して禄を食む姿勢は否定的に描かれています。

で、独善的な価値観の当て嵌めかと、素直に首肯できず違和感を抱くわけです。市場原理主義の正当性を絶対とし、これを前提に、自らの能力や可能性を経済的価値に置き換え、その極大化を図るべき、ということなんでしょう。

市場原理主義や自己の換金極大化の正当性について描かれないまま、二者択一の形で選択を迫るのも如何なものかということです。

利益至上主義というか拝金主義のみを行動原理として認めていて、他の選択を排除しているかに見受けられます。

知的探求心や社会貢献を行動原理の主軸とする考え方も決して否定されるべきではないはずです。ウィリアム・ショックレーとゴードン・ムーア、リーナス・トーバルズとビル・ゲイツ及びスティーブ・ジョブズは同列に称賛されて当然です。素粒子物理学の小柴、小林、益川、といった方々は起業とは無縁です。

また、例えば宇宙や海洋資源開発、国産旅客機や核融合炉の実用化といった巨大なプロジェクトには組織に属さない限り携われません。

そういった自らの能力や可能性を経済的収支のみで片付けることができない、市場原理の枠内に留まらない部分を蔑ろにすべきではないと考えます。二項対立的な表現ではこの部分は埋没してしまいます。


斯様な価値観の当て嵌めは漫画に限られた話ではなく、ネットワークメディア、新聞、雑誌、文芸作品、テレビ、ラジオ等、媒体に依らず通底したものであることは承知しています。

本質的には、
操作-被操作の戦場としてのインターネット、コミュニケーション
で記されているように、
コミュニケーションの対象が自分にとって都合が良い行動をとってくれるよう、モチベーションや欲求を修正しようとする不断の試みが含まれている。
ことには相違ありません。

ただ、漫画には特有の、より強い影響を懸念しています。それ以前に元々、漫画の公正中立は望むべくもないことは明らかなんですが...建前であったとしても社会の木鐸、公正中立を標榜する新聞、テレビですらあの有様です。

漫画はその内容の客観性や信頼性、事実性に疑義が生じるのは当然です。漫画ですから。

新聞は世論の形成、印象操作を目的とした場合であっても、おそらく事実の編集までに留まっているかと。誤報や捏造報道に対しては厳しい目が向けられ撤回や謝罪を求められます。最近では朝日新聞による従軍慰安婦報道の撤回、謝罪が記憶に新しい例でしょうか。遅きに失していたわけですが...

一方、漫画は、人気獲得(=売上増加)が主たる目的でしょうが、例え事実の歪曲があったとしても容認されるのが、社会の大方の共通認識ではないでしょうか。で、創作物と言う理由が虚構、虚偽に対する抵抗を緩和し、批判や反発を起こり難くしています。

元々、客観性や真実性が求められているわけでもなく、あたかも事実であるかの如く虚構を流布したからといって、咎められることはありません。例外は性的な表現、モデルとなった当事者からの名誉毀損による訴訟程度でしょうか。
雑誌編集倫理綱領
といったガイドラインはあるようですが、とても遵守されているとは思えません。審査機能もないようです。最初の項に”言論・報道の自由”が掲げられていますから、続く”人権と名誉の尊重”、”法の尊重”、”社会風俗”、”品位”は体裁を整えるための項目に過ぎないのかもしれません。

唯一と言っていい掲載基準は人気です。人気を一定程度獲得した漫画でありさえすれば、物議を醸す内容であっても”言論・報道の自由”に守らせることができてしまいます。

勿論、”人気”が重視されるべき指標の一つであることは否定しません。前のエントリでも触れましたが、漫画は理解させることに力点を置いています。理解されなければ支持されないのは当然ですから。そのために、表現力、描写力、話の筋立てを工夫して読者に現実感を抱かると共に、優しく向き合うわけです。

読者側も好んで漫画を読むわけですから、理解しよう受け入れようといった姿勢で互いに向き合います。その距離感は読者-新聞間の場合より近いのではないでしょうか。で、この漫画に対する読者の親近感が、共感や思い入れを生み出す根源ではないかと思っています。

こういった読者と漫画の関係がある下で、作者、或いは編集者が特定の意図を刷り込む目的で漫画を利用すれば、それは極めて効果的なツールになり得ます。

漫画は作者の主観、価値観を読者に伝えるメディアですから、例え上記意図の刷り込みを意識していたか否かに拘らず同じ結果に向かうことになりますが。

政治的、社会的な関心事について、予備知識なくそういった問題に関する漫画を目にした時、その内容、主張が正当なものとして予断を抱かせることにならないか、そういった恐れを危惧した次第です。

登場人物の台詞に意図が忍ばされ、あくまで作品の世界観において論理的、尤もらしい事実として読者に固定観念が植え付けられてしまうのも好ましいことではありません。

”美味しんぼ”の原発事故に関する描写や”はだしのゲン”はその典型です。かつてより政治的、社会的問題を題材とした漫画が増加していると感じる現在、思想的落とし穴に陥る危険性も高まっているのではないでしょうか。

難しい話で、相反する部分があるのも確かですが、思想信条、表現、言論の自由が侵されるべきではないことは承知しています。

ただ、それを嵩に野放図に漫画をツールとした印象操作、誘導、思想教育が蔓延ることには強い反発を覚えます。表現の自由を理由にそういった部分の考察、議論が封印されているのではないか、時折物議が醸されるものの沈静化してそれまで、といった場合が多いように見受けられます。

頸木なく創作の自由を謳歌してきた作者や編集者には不都合かもしれませんが、表現の自由に対する盲目的な信奉について議論の深化を望みます。

2015年5月4日月曜日

延焼

更なる延焼を期待したいところです。
大森由紀子さん、こんな些末なことで物知り自慢をする前に、日本語を学び直したらどうか! ランジェリー、もとい、ブーランジェリー、もといブーランジュリ?
しばしば拝読しているブログで上記エントリがありました。”Boulangerie”のカタカナ表記について、FB上の”ブーランジュリとすべき”、といった声に、
”ブーランジェリーだろうがブーランジュリだろうがどちらでもよい。それより..."
揶揄されています。まぁ、カタカナ表記した時点で是非を云々してもしょうがないなぁと...

”情熱ミルフィーユ”
の週があったことを思い出しました。”Boulangerie”より”mille-feuille”を正すのが先決ではないでしょうか。

こういったTシャツを着用されている方々に目を向ければ、正にどうでもいい話かと思った次第です。

2015年4月7日火曜日

中立

ある意味公正なんでしょうか。
格安スマホのテレビCMまで出始めて、これはもう大惨事の香り
といったブログエントリを読んでいました。格安スマホ+MVNOの組み合わせは低価格かもしれないけど、速度やサポートの点で問題もあるよ、と...

その一例として楽天モバイルが取り上げられていました。で、読み進めていくと最後に広告が表示されるわけです。楽天モバイルの...あぁ、これかと。広告なんでしょうか。

警告とまではいかないものの、注意喚起になっているかと...エントリ内の語句を判別するだけで、記事が好意的、迎合的か否かまでは判断していない、できていないのでしょう。

Googleが意図的に、”無作為を装って”、広告が表示されるように保っているのかもしれません。それはそれで広告も逆プロモーションとして有意義かと思った次第です。

2015年3月6日金曜日

視点

”効率や生産性には目を向けない”
やはり行政組織の体質なんでしょうか。以前からもその効果は疑問視されてきているのですが、
誰か佐賀県教育委員会にChromebookというものを教えてあげてくれ
費用対効果を含めた生産性という観点が欠如しているわけです。最新、高性能のハードを教育に導入すれば効果が現れるのでしょうか。それ以前にシステムやコンテンツといったソフトウェアの質を重視すべきです。

結局ソフトの根幹にあるビジョンや目的、設計思想、そういった部分に信頼性がない限り、教育へのIT技術導入も効果は期待薄かなと...

手段と目的をはき違えているように見受けられます。門外漢ながらいずれ”学ぶこと”について記すつもりです。

で、効率性という点で国税電子申告(e-Tax)のシステムにも違和感を感じたわけです。本来、制度やシステムは単に電子化するだけでは不十分で、簡素化、統合を進めてこそ生産性向上が図れると考えています。

生産性云々より、電子化ありきだったでは、といった感が否めません。生産性向上に全く寄与していないと言うつもりはありませんが...

なんとなく、上記佐賀県の高校教育へのタブレット導入にも似た、ハコモノ公共投資的な印象を抱きました。正確にはハコモノではなくシステムですが...

確定申告の申告書類作成には、ここ何年かは国税庁の確定申告書等作成コーナーの書面提出を利用しています。国税電子申告(e-Tax)ではありません。PDFファイルとして作成した申告書類を印刷して提出しています。

上記コーナーの書面提出とe-Taxのシステムは未来永劫併存し続けるのでしょうか。とても統合されるとは思えません。何とも非効率だなぁと思います。

ICカードリーダライタ、電子証明書、公的個人認証クライアントソフト、ルート証明書...とてもe-Taxに移行しようという意欲を萎えさせます。まぁ、そもそもWindowsにMac OS、IEにSafari、Adobe Readerと使ってないOSやソフトばかりです。インストールすらしていません。

システムの運用当初はe-Taxの方が先進的だったかもしれません。しかしながら、クラウドという表現はともかく、ブラウザ一つ、しかも多様なOS、ブラウザで利用できる書面提出による申告書作成のほうがよほど先進的です。

本人認証の部分を厳格にして電子申告機能を付加すればe-Taxは不要ではないかとさえ思います。体面がありますから後には引かないでしょうが...旧来から連綿と受け継がれてきたの官の体質です。

少し検索してみると、
平成 25 年度における e-Tax の利用状況等について(概要)
という報告があって、所得税申告における e-Tax利用率が50%を超えていて驚きました。が、更に調べると、
昨年はe-Taxによる申告の比率が、個人納税者の所得税申告で4割を超えたという話ですが、この利用率には税務署で申告相談に訪れた人をPC申告に誘導して、スタッフのヘルプの下、その場でe-Taxを使って手続きをとらせた人の数がカウントされているそうで、これが利用者数の大半を占めているのが実態のようです(税務署の相談窓口に行くと、手書き申告書持参でも即PCコーナーに誘導されます)。
といった事情があるようです。
こういった非効率性から目を逸らして、IT化による行政機能、手続きの生産性云々が声高に叫ばれても、手段の目的化、ITゼネコンの既得権化が垣間見えてしまい、嘆息するばかりです。

2015年1月28日水曜日

摩擦

当然のことですが、衝突は回避したいし不快な思いはしたくないわけです。
「俺は偉いんだから、先生とか、社長とか、様って付けんと許さんかんね。」って思ってる人は、おじさんに近寄らんでね。
しばしば拝読しているブロガーの方の年頭の所信です。いや、ま、確かにそうなんですが...

思う処を少し記してみます。


1.誤解

先生や社長が権威を嵩に居丈高な姿勢で
”俺は偉いんだ”
感を醸し出されても、
”ああ、そうですか。偉いんですね”
でやり過ごすことができます。実害がない限り...

適当に相槌打って、
”センセ”、”センセ〜イ”、”シャチョー”、”シャッチョサン”
と呼んで、
”しょうがねぇなぁ”、”どうしようもねぇなぁ”
と流しておいてもいいわけです。ただ、
”何でそんなに偉そうなんですか?” 
”何故そんなに人望がないんですか?”
”何が謙虚さを失わせているんですか?”
 と尋ねてみるのもありかもしれません。

いや、実際にはもっと丁寧、慇懃に、尊敬の念を込めて歯に衣着せて尋ねるわけですが...

尊大な印象が、もしかすると、双方の誤解によるものだったかもしれません。そんなつもりはなかったと...或いは、直言されて己れを顧みるきっかけとなる可能性も否定できません。

誤解が解けないまま、本人が自覚しないままというのも建設的ではないような気がします。

勿論、互いに不快感しか残らない場合も少なからずあるでしょうが、まあ、実害、不利益がないことを前提としていますから。


2.制限

”不快な思いを我慢したくない”、これが尊大な態度を露にする人に近寄って欲しくない理由です。関わりたくないわけですから、当然、自らもそういった方には近づかないことになります。

これは、居丈高なある特定個人によって自身の言動が制限されてしまうことを意味します。尊大な態度を我慢することと、該態度からの不快感を避けんがために自身の行動の自由度が下げられてしまうこととは表裏一体ではないでしょうか。

立食形式の会合で、的矢のカキフライが揚げたてで出されたものの、その傍らには上記先生、或いは社長が控えていて大皿から離れない、といった状況が一例でしょうか。

カキフライに近づいて、尊大な態度を我慢するか、引き下がってカキフライを我慢するかの選択を迫られることになります。自身とカキフライ間の引力、ややこしい御仁との斥力、これらの差分がカキフライとの距離を決定することになります。

そういった状況下では、揚げたてとはいえどもカキフライの魅力が大きく毀損されるであろうことは容易に推定できます。

それはそれで面白くないなぁと思うわけです。どうしましょうかね。


もう少し考えるために、冒頭の文言から連想した場面、状況を思いつくままに列記してみます。
1)購読を止めてもうかなり経ちますが、「俺は偉いんだから、先生とか、社長とか、様って付けんと許さんかんね。」という言葉から、真っ先に漫画”美味しんぼ”を思い出しました。作品には横暴、高飛車な政治家、評論家の先生、社長が頻繁に登場します。で、こういった人物の食材や飲食に纏わる誤った、或いは軽視した発言が引き金となって起こった主人公との揉め事が、最後には誤解がとけて一見落着、良かった良かった、が常套的なパターンでした。
(いずれ”美味しんぼ”を含めた漫画の功罪について記すつもりです。)

2)”みんな仲良く”は義務教育過程でよく聞かされた文言です。今更ながらあり得ないなぁと思います。体裁を取り繕って単に児童、生徒を管理し易くしたかったのではないでしょうか。
集団を構成する各々が全く同じ態度、姿勢で等しくコミュニケーションできるはずがありません。”みんな仲良く”を維持するためには一部に歪が生じ、我慢を強いることになるわけです。
”みんな仲良く”のグループ内には、程度はわかりませんが、ただ、確実に己を誇示する言動とそれをされる側が存在し、総じて和が保たれているという構造になっているかと推測しています。この和は、おそらく、される側の受け入れる、堪える、或いは、受け流す姿勢によって支えられているのではないかと。寛容度、我慢強さ、回避の上手さが己を誇示しようとする力を上回っている限り、表面上”みんな仲良く”は維持される、ということです。
こういった、和を支える姿勢は時には協調心という語にすり替えられたり、集団行動、グループの纏まりのためと目的を優先して肯定されることもあり、それはそれで抵抗を憶えます。
で、全体を細分化して個別部分を見れば、歪や皺ができていると...この局所的な歪や皺の増大が集団内のいじめを引き起こす原因ではないかと憶測しています。ただ、全体としては”みんな仲良く”ですから、悲惨な事件に至るまでいじめは覆い隠され見逃されがちになっているような気がします。
この傾向は小中学校という、成長過程にある年少者の集まりにのみ該当するわけではなく、分別があって然るべき”大人の”集団でも認められます。
警察、消防、自衛隊、及びそれらの訓練組織といった閉鎖的で強い結束、団結(=みんな仲良く)が求められる組織において、より酷く陰湿ないじめが時折発覚しているのは偶々でしょうか。
勿論、組織防衛の姿勢も隠蔽体質を生み出す一因ではあります。
いずれにせよ、グループ内には必ず己を誇示しようとする意思が生まれてしまいますから、グループを”みんな仲良く”へと誘導することには首を傾げている次第です。

冒頭に引用した、
”...おじさんに近寄らんでね。”
ですが、そういった言葉を宣言しなければいけない社会というのも窮屈だなあと...いや、自由に表現できるということは素晴らしいことなんですが、別の意味です。  

”みんな仲良く”の正しさが潜在的に信じられていて、これに反するような主張をするには、所信として声高に表明する必要があった、とみるのは勘ぐり過ぎでしょうか。


(続)

2014年12月23日火曜日

大志

さて、NHKの朝ドラ”マッサン”の中で、
――”日本で初めて”、”国産初”といった語に違和感を禁じ得ないものがあります。――
と以前のエントリで記しました。

ことさら、”国産初のウイスキーを造る”と意気込まれても、素直に共感できないものがあるわけです。
”日本で初めて”に囚われ、それが目的になっていないか、単に”日本初”という冠を望む功名心に端を発してはいまいか、といった疑問を払拭できません。

それは確かに賞賛される功績であるのは間違いないところですが...

主人公亀山の妻エリーが懐妊した時、嬉々としてゆりかごを作っていました。もう”日本で初めてゆりかごを作った男”でもいいじゃないか、と思ったわけです。真否は別にして。

日本人に、これまで知られていなかった、ウイスキーという新しい酒の旨さをを体験して欲しい、楽しんでもらいたい、が本来の動機であって然るべきではないでしょうか。

それが、結果として日本初であるならば申し分なしで、素直にその動機を尊び賛辞を送ることができます。

ただ、これまでの話で、同じ時代を過ごした人々の、或いは現代の視聴者の、一体どれだけにウイスキーの美味しさが伝わっているのか、又伝えることに注力したのか、そういった部分が蔑ろにされてきたのでは、と見ています。

で、単に”日本初”に固執しているかに受け止めた次第です。

ピートのクセは現代であっても馴染みのない人もいるわけで、当時果たして伝わっていたのか...諸手を挙げてウイスキーの美味しさを支持している登場人物は、亀山をスコットランドに派遣した住吉酒造の社長ぐらいでしょうか。

自身が試して美味かった、だから皆も美味いと感じて当然、というのも独り善がりだなぁといった印象です。

”美味さが理解できないのは感性が鈍いから”といった優越意識が垣間見えます。現代でもそういった意識は、食についての評論、ブログの形として至る所に転がっています。
――そがいな飲み方はほんまもんのウイスキーの飲み方じゃなあ。ウイスキーを馬鹿にしとる。――
竹鶴12年を水割、お湯割り、時には炭酸で割って頂いている私はニッカウヰスキーから叱責されてしまうのでしょうか。