2020年5月23日土曜日

混濁

ここの処、ゼロリスクなる語を頻繁に耳にします。
大阪府・吉村知事 休業要請の大幅緩和に「ゼロリスクは目指さない。第2波の可能性も受け入れて社会経済を回さないと」USJや海遊館の大型施設も解除
昨今のコロナ禍が収束に向かいつつある中、徐々に経済活動を再開するためのキーワードになっています。
”未だ新型コロナ感染者発生の可能性はゼロじゃない。だけどこのままじゃ干上がっちゃうから危険があっても働き始めるよ。”
といったところでしょうか。でですね、工業界でフェイルセイフの安全教育を受けた身としてはモヤモヤしたものを感じるわけです。

今でこそ”ゼロリスク”の語はテレビやネットから特段の説明なく流れてきます。ただこの考え方が頻出しだしたのはそれほど過去ではなく、福島の原発事故後、他の原発の再稼働だったり、将来的に原発をどうするか、という議論あたりだったとの認識です。以前、”ゼロリスク”、”原発”をキーワードとしてグーグルで検索して語の頻出性を調べていました。

勿論、ゼロリスクの否定とフェイルセイフは各々別個の姿勢ですから両者を同時に選択することは可能です。ただなんとなくですが、両者を混同しているかのような雰囲気を感じないでもなく、その辺りに違和感を抱いた次第です。

ゼロリスクとは危険の完全な排除を意味しますから、コロナ禍においてゼロリスクを実現するには感染の可能性をゼロにする必要があります。具体的には感染者が現れなくなるまで緊急事態宣言を解除せず継続し、感染の機会を極力減じた状態を継続する、ということです。これは”感染者が出ても、或いはクラスタが出現しても(フェイル)拡大させない”という点でフェイルセイフの施策の一つとみることができます。

逆に、ゼロリスクを求めないということは、感染者が出る、或いはクラスタが出現する危険を排除しない、ということです。新たな感染者、クラスタが出ることを一定程度容認しているわけです。これは感染拡大を抑制する方向の施策ではありませからフェイルセイフの姿勢とは相反します。ただそうであっても、検査、入院、治療に関わる医療資源が十分に備えてあるならば、感染者、クラスタが発生した際(フェイル)対処できます。つまり、安全を損なう施策であっても、起こり得る最悪の事態に対処するために十分な資源を備えておけば安全は保たれます。これが、ゼロリスクの否定と、且つフェイルセイフの実現です。

効果的な治療薬を欠いている今、用意可能な医療資源だけでフェイルセイフが実現できるのか、という部分を精査しなければならないのは云うまでもありません。

このようなフェイルセイフの部分を蔑ろにしたままでのゼロリスクの否定は蛮勇という印象を否めません。ゼロリスクの否定にのみ留まれば、”他人の痛みが解らない”当事者意識を欠いた判断、という辛辣な謗りは免れないだろうなぁと。

単なるゼロリスクの否定にはどうしても感染者切り捨てのイメージが付きまといます。フェイルセイフについての言及がないままですとそういった姿勢をより実感してしまいます。
実際の処どうなのか不明ですが、不慮の事態に備えないゼロリスクの否定には違和感を覚えます。

2020年5月9日土曜日

均等

前のエントリからの延長で公共放送を支える受信料負担の均等性について記してみます。

以前から該受信料負担の均等性について疑問でした。先日、コロナ禍における公共放送に関する衆院予算委員会質疑を耳にしました。この質疑は原稿受信料負担の均等性に対する疑義をより一層深めるものでした。

忖度、遠慮、力関係、自己防衛、相身互い、諸々の理由で、おそらくテレビの報道番組で取り上げられることはないだろうなぁと。(これは未確認です。)

この質疑内容は新聞記事として以下のような形で報道されたと思われます。
NHKの前田晃伸会長は28日、衆院予算委員会で、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けている中小企業を支援するため、受信料を減免する方針を明らかにした。対象条件など詳細を詰めている。総務省の認可を得た上で、来月にも実施したい考え。国民民主党の前原誠司氏への答弁。 前田会長は「特定の業種だけでなく、中小企業者全般にわたって減免できるような形にしたい」と述べた。(NHK受信料、中小企業減免へ コロナ対策で―前田会長
偶々ですが、実際の質疑を聞いていた側からすると随分さらっと、というか端折った、というか核心部分を避けた記事、という印象を抱きました。

正確ではありませんが以下概略です。
今般のコロナ禍で旅行やイベントがほぼ全て中止の状態です。観光バスも旅館、ホテルの各部屋も乗客、宿泊客、訪問客ゼロの状態が続いています。しかしながら、バスの車内テレビ、宿泊施設の客室等に設置されているテレビ各々にはNHKの受信料が課せられているわけです。稼働率ゼロであっても。
NHKの概要、受信料体系の現状について - 総務省
上記リンクの16ページあたりで”受信契約の単位”について記されています。
東横インの敗訴確定 NHK受信料19億円支払いの判決
といった報道も記憶に新しい処です。

で、”どうすんだ?”という質疑に、NHKの前田会長が、”減免を検討する”と。その後、”対象業種業種は?”、”いつから?”、”さっさとやれ!”という話が昇華した結果、上記記事になったという認識です。

えーと。
スクランブル化すれば問題解決
です。つまり放送の映像や音声信号を暗号化して受信した番組毎に課金するシステムに移行すれば該質疑そのものが無意味になるわけです。受信料を固定費から変動費に変更してしまえば、受信”量”ゼロなら受信料の支払い負担もなくなります。(基本料金のようなものを設定するかどうかは制度設計たか運用で別途定める話です。)

システムとしてPPVを導入さえすれば、上記の対象業種、時期、減免の程度についての検討も不要です。何より、減免に関わる、匙加減、裁量の入り込む余地を排除できるわけです。お上意識を護持して、
――お代官さま、お願いしますだ。どうか受信料を勘弁して下せえ。――
と請願させるのも、旧態依然過ぎます。一体、いつの時代の話なんだと。

受信料負担の均等性については以前から釈然としないものを感じていました。例えば、単身の勤労者世帯と複数台のテレビ保有の三世代同居世帯(六人家族)で考えてみます。両世帯の受信料負担は同額ですが、放送の視聴に充当できる延べ時間をみてみます。

単身世帯では勤務、睡眠、家事に要する時間を除いた時間を視聴に割り当てることになります。大雑把には平日最大4時間、週末で最大12時間程度でしょうか。週当たり44時間です

三世代同居世帯では適当に、引退世代二人、勤労世代二人、学生二人としてみると週当たり延べ344時間です。

つまり、ある世帯では週44時間分、別の世帯では週344時間分の視聴に対し同額の受信料支払いが課せられている現状にあるわけです。換言すれば、同額の受信料負担で、週344時間分の視聴権が付与される一方、週44時間分に至らない場合もある、ということです。ということです。負担、若しくは視聴権の余りに大きな格差があります。

更に、昨今著しく増加している再放送、総集編、[選]、アンコール放送といった焼き直しコンテンツにも現行制度では等しく受信料負担が発生しています。上記例で言えば、視聴可能な週44時間分の放送の中、焼き直し放送が80%でも30%でも負担は変わらないわけです。

PPV方式、即ち視聴した番組毎に視聴料を支払う方式に移行するとどうなるか。一つの番組を一人で視る場合と、複数人で視る場合でも、勿論、視聴料負担の格差は生じます。しかしながら、全ての場合において睡眠中や外出、就学、勤務中といった確実にテレビの視聴が不可能な時間帯に対する視聴料の負担は解消され、現在より負担格差が縮小するのは間違いありません。

視聴したい、したくないとか、番組の質以前の話です。学生や有職者であれば好むと好まざるに関わらず、番組が視聴できない時間帯が生じます。単身世帯であれば、テレビの電源が切られている時間帯です。

そういった視聴が適わない時間に対しても受信料の負担を強いられる現状には反発を覚えます。更に、昨今のやたら焼き直し番組が垂れ流されている現状を鑑みれば、これまで未放送の番組と焼き直し番組では受信料負担に軽重があって当然というか、あるべきだと考えます。

過去に何度も使い古され、そしてまた同じように再放送されるコンテンツと、予算を投じて制作した未放送のコンテンツの放送に関わる負担を合算混同することは予算管理の不透明さを増大させます。外部からの目が遮断されやすく不適切な会計に繋がるのは間違いありません。一般社会では、これを
どんぶり勘定
と呼びます。出演者の多くが物故者で、過去の遺物のような製作時期の古いコンテンツと、撮りおろしコンテンツが同じ経費で放送できるはずがありません。それらをどんぶり勘定で平準化することは、会計の透明性を下げ、外部からの目が届きにくくなります。不誠実な経営体質と言わざるを得ません。

公共放送、公益に資する、”みなさまのNHK”を標榜するのであれば、やはり早期のPPV導入による、各契約者の受信料負担の格差是正と、経営の透明性向上を図るべきと考えます。

では、当のNHKの、スクランブル放送に対する姿勢はどうかといえば、
NHKは、広く視聴者に負担していただく受信料を財源とする公共放送として、特定の利益や視聴率に左右されず、社会生活の基本となる確かな情報や、豊かな文化を育む多様な番組を、いつでも、どこでも、誰にでも分けへだてなく提供する役割を担っています。緊急災害時には大幅に番組編成を変更し、正確な情報を迅速に提供するほか、教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、視聴率だけでは計ることの出来ない番組も数多く放送しています。スクランブルをかけ、受信料を支払わない方に放送番組を視聴できないようにするという方法は一見合理的に見えますが、NHKが担っている役割と矛盾するため、公共放送としては問題があると考えます。また、スクランブルを導入した場合、どうしても「よく見られる」番組に偏り、内容が画一化していく懸念があり、結果として、視聴者にとって、番組視聴の選択肢が狭まって、放送法がうたう「健全な民主主義の発達」の上でも問題があると考えます。
なぜ、スクランブルを導入しないのか

”問題がある”とのこと。公共放送としてスクランブル方式の導入を否定しています。この回答に見え隠れする自らの傲慢さに気づいているのでしょうか。承知の上、知らぬ存ぜぬで独善的な姿勢を保っているのかもしれませんが。いずれにせよ空々しさを禁じ得ません。

この辺りについては以前のエントリでも記していたものの、途中で放置したままでした。その続きというか延長になるわけですが、上記回答について考えてみます。

最初の部分で”NHKは公共放送として云々”とされていて、”NHK即ち公共放送である”が既成事実化されています。それ以前にNHKは果たして公共放送としての適格性を満たしているのか、その部分を検証することなくNHKが公共放送の代名詞として自称することには抵抗感があります。

一体、NHKは何に依拠して”NHK即ち公共放送である”と宣っているのか甚だ疑問です。この依拠する根幹を曖昧にしておく危うさというものがもっと懸念されるべきです。政治的プロパガンダのツールとして悪用されかねません。

公共放送が、公益に資する目的で不偏不党、公正、公平の立場を揺るがすことなく放送を行う責務を負っているのは間違いありません。換言すれば偏向していれば公共放送に非ずということです。

NHKが自らを公共放送であることを標榜していたとして、だからと言ってその適格性を満たしているかどうかは別の話です。不偏不党、公正中立であること不安定さ、そうあり続けることの難しさを踏まえれば、自身の言動について常にその中立性、公正性を自問し続ける姿勢が求められます。例えば、科学技術の進歩、グローバル化、自由化や民主化によって社会が時代と共に流転する中で、中立、公正の位置には確固たる普遍性があるとは断じきれません。

その時必要となるのはやはり、自身の位置の座標であり、中立性、公正性を測る尺度です。少なくともそれをNHKの契約者に向けて合理的に明示する義務があると考えます。その説明を欠いたまま
――公正です――
――中立です――
と宣われても放言に過ぎません。俯瞰することもなく、自らが公正、中立と宣言しさえしてそれが罷り通るのは危険です。自分の今の立ち位置が常に公正で中立との強弁は、公正で中立の真の座標をずらすことに他なりません。

内省なく自らを公正で中立と喧伝するその姿勢には、常に反発心が込み上げます。謙虚に己が位置を点検し続ける、そういった姿勢なくしては尊大な印象の先行が免れません。

ところで、この不偏不党中立についてかねてから不明な部分があります。ある施策、それはアベノマスクも、検察幹部の恣意的な定年延長を含む検察庁法改正でもいいのですが、こういった施策への批判や称賛は偏向に該当するのでしょうか。偏向した立ち位置からの批判、称賛と、中立の立ち位置からの批判、称賛というものが当然あるわけで、それらをどう峻別するのか、果たしてそれは可能なのか、関心を寄せています。

又、中立についても、今-10の思想、意見と+10のそれがあって原点に立っているとします。この時、何が-10で何が+10に対応し、目盛りは何を示すのかという話は勿論あるのですが、それはさておきます。単にそういった様々な思想、意見が渦巻く中で、全体の50%が-10の位置に、残り50%が+5の位置にある時、或いは全体の70%が-10、残り残り30%が+10にある時、中立=原点が成り立つのか、という話です。つまり、単に中立=原点ではなく、各々の思想、意見の声の大きさというか支持数を加重して中立の位置が決まるのではないか、ということです。

そういった部分が曖昧なまま自らを不偏不党や中立と宣っても、プロパガンダ的な胡散臭さが漂うのを抑えきれません。

更に、問題、懸念とされるのはすり替えです。
”公共放送としてNHKの放送は不偏不党、公正中立であらねばならない”
が、
”NHKは公共放送だから、NHKの放送は不偏不党、公正中立に違いない”
とすり替わって唯我独尊状態になる恐れです。容易に起こり得るというか、既にそうなっている兆候が垣間見えることがあります。それが胡散臭さの根源です。

確かにNHKの組織内には、
日本放送協会番組基準
NHK放送ガイドライン2020 インターネットガイドライン統合版
が策定されています。しかしながらその内容は、”不偏不党”、”寄与する”、”貢献する”、”尊重する”、”慎重を期する”という曖昧な形容が多用されていて、裁量で如何ようにも解釈可能な表現が目につきます。NHK内で、果たして不偏不党、寄与、貢献...を評価する機能があるのか、そして、あったとしてそれは何に依拠しているのか不明です。自ら規定していても評価や自律の仕組みがなければ、”体裁を取り繕っているに過ぎない”との指摘も否定できません。

折しも、検察官の定年延長問題の最中、渦中の黒川東京高検検事長が辞職に至りました。理由は、産経の記者、朝日の社員と賭け麻雀に興じていたとの文春報道です。この報道について見聞する中、検察庁によって「検察の理念」というものが公開されていることを知りました。その一部に、
1 国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を自覚し,法令を遵守し,厳正公平,不偏不党を旨として,公正誠実に職務を行う。(「検察の理念」より抜粋)
とあります。こちらも”厳正公平”、”不偏不党”、”公正誠実”と高邁な理念が掲げられているのですが、その結果が賭け麻雀辞職でその処分が訓告とのこと...

上記日本放送協会番組基準にも同根のものを感じます。

こういった、お手盛り視する批判を封じ込めるためにしばしば講じられる対策として委員会制度があります。例えば、外部の有識者や企業経営者を集めて権威付けした委員会からの答申を盾に使い、自身の姿勢を正当化する手法は珍しくありません。NHKの番組については、
放送倫理・番組向上機構(BPO)

放送番組審議会(NHK独自の取り組み)

がその任に当たることになります。しかしながら、両者の審議対象は共に番組そのものであって、放送事業の姿勢は審議対象外です。ですから民放がスポンサー偏重の番組を製作しても審議の対象にはなりません。BPOによる審議対象は主として人権侵害、捏造、虚偽、やらせが疑われる番組という認識です。勿論、NHK自体の公正性や中立性も審議の対象にはなり得ません。では、NHK内部に設けられた放送番組審議会はどうかといえば、やはりこちらも審議対象は番組です。

それでも中央2019.4〜2000.3の議事録に目を通してみました。NHKの、若しくはNHKが手掛ける事業の中立性や公正性は審議の対象外です。議事録の内容は、特定の一つの番組と出席委員各々が視聴した番組に関する感想や質問と、NHK側からの見解の開陳といったところでしょうか。(経営計画における達成状況の評価、管理や、視聴者意向報告もあるようですが詳細資料が不明なため言及しません。)誤解を恐れずに言えば、番組についての井戸端会議、居酒屋談義という印象すらも否めないものがあります。総じて、番組へのヨイショが多くの割合を占め、残りは要望でしょうか。この要望が委員各々の視点から出されていて、小姑か?的な...番組の時間が長過ぎ/短すぎ、深堀りが足りない/概略だけで十分、あの部分は不要だ/必要だ...いや、そんな要望、そもそも一放送局の力量では無理、といったものもありました。

そんな中、少数ですが報道の政治的中立性を問うたり、含意のある報道ではないか、という疑義の声があったのも確かです。表現としては、オブラートに包んだような指摘抑制的な批判ですが。このような意見に対するNHK側の回答は、定型的なものにに終始し、
――真摯に受け止め現場に伝える――
――指摘は今後の報道に活かしていきたい――
とか、
――慎重に検討する――
――総合的に判断したい――
といったようなものでした。端的に言えば、何がどうなるわけでもない回答ということです。見方によっては誠実さを欠いていると看做すこともできます。

この部分が典型的なわけですが、議事録全体を通じて何か決定があるわけでもなく、又、判断が下すわけでもない審議会という感が否めません。言うならば、議事録を残す、”審議した”という事実こそが重要であって、アリバイ作りか?、といった疑念すら抱いてしまいます。

ところで、もたもた書き進めている間、巷では新型コロナウィルスを巡る専門家会議で議事録が作成されていなかった点が問題視されています。
専門家会議の記録を巡っては、出席者の発言内容を記した「議事概要」が公表されていますが、誰が発言をしたのかを記す「議事録」が作成されていないことから野党などから「政策決定の根拠が検証出来ない」との指摘が挙がっています。(菅官房長官、専門家会議の議事録 見直しを示唆
その意味では、上記審議会の議事録も発言者と発言内容が紐づけされておらず、果たして議事録という呼称が適切なのか、疑問ではあります。

いずれにせよ、
「第三者委員会の欺瞞」-不祥事の呆れた後始末
に通底したものを拒絶することは難しいだろうなと。

さて、引き続き前記”スクランブル放送を導入しない理由”を見てみますと、興味深い文言が散りばめられています。”特定の利益や視聴率に左右されず”、”社会生活の基本となる確かな情報”、”豊かな文化を育む多様な番組”、
”教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、視聴率だけでは計ることの出来ない番組”あたりです。スクランブル化による”「よく見られる」番組に偏り、内容が画一化していく懸念”や「健全な民主主義の発達」の上でも問題がある”というのも詳述を求めたい処です。

”特定の利益”の典型はおそらく民間企業、或いは特定商品の宣伝に繋げない、という趣旨と解しています。ただ、規制はかつてより随分緩やかになりました。もう二十年以上昔の話です。ラリーだったか秘境の特集だったかで、道なき道を踏破する?往く?ドキュメンタリ番組がNHKで放送されました。その時番組で日産の4WDが使われていて番組に"NISSAN"のロゴが映ってしまったと。これがNHKにあるまじき特定企業の宣伝広告であるとして物議を醸しました。結構大きな騒ぎだった記憶があります。当時を思えば様変わりです。今日、テレビではゲスト出演者が自社名の入った制服を着用していても、撮影場所が特定企業で画面に企業名が映っていても何ら伏せられることはありません。企業名、商品名が容易に思い当たる場合すらあります。”発声はしない”というのが最低限の規制なんでしょうか。まぁ、ゲスト出演者が何気なく商品名を連呼したりすることもありますがかつて程問題視されなくなったようです。ラジオでもゲスト出演者が”千葉に在るネズミのアニメをモチーフにした遊園地のような施設”を、NHKのアナウンサーから”いいですよ”と許可を得て”ディズニーランド”の語を発声するのを聞いたことがあります。

ここで少し逸れます。上記"NISSAN"のロゴが映り込んだ件について興味を持ったので調べてみました処...

詳細は、
”NHKの番組に民間企業のロゴが映り込んだ”程度の生やさしい話ではありませんでした。
金銭を渡して住民に雨乞いをさせたり、取材スタッフに高山病のまねをさせるなど、番組制作にあたって数々のやらせ行為があったことを朝日新聞にすっぱ抜かれ大きな問題となった中の一部に過ぎませんでした。
NHK関連会社が日産自動車からPRビデオ制作などの名目で1000万円超の資金提供を受けていた
疑惑もあったようです。

話を戻して、理解し難いのはこの”特定の利益”より”視聴率に左右されず”や、
”視聴率だけでは計ることの出来ない番組”の部分です。ここに、曖昧さや傲慢さ、主張と放送事業の姿勢との間の矛盾を感じます。根幹にある、番組に対する姿勢というものに、どうにも杳として知れない不明瞭さ、曖昧さ、ご都合主義、整合性の欠如が見え隠れするわけです。つまり、”視聴率に左右されない”のであれば何に依拠して番組を制作するのか、番組を視聴率で計らないのであれば何を指標とするのか、その部分が欠いている、或いは不明確なことこそに根本の問題が横臥していると考えています。

”視聴率に左右されない番組”とは一体どんな番組でしょうか。素直に考えれば、視聴者が僅かであっても構わない、視聴されないことに由来する問題が発生しない番組と解釈できます。換言すれば視聴者数、視聴者の質、属性を鑑みない番組とも見做せます。そういった立ち位置の是非はともかく、その姿勢に整合性を持たせるのであれば、番宣は不要です。紹介や予告ですらその必要性を感じません。”視聴率に左右されない(≒支持されなくとも構わない)”のであれば視聴を誘引する放送は勿論、番組内容も視聴者の嗜好や要望に応える必要すらありません。

それは当に視聴者に歩み寄らない、迎合しない姿勢ではあります。この姿勢であっても放送に関わる事業費は潤沢です。法律で放送を受信できる機器を保有する者には受信料の支払い義務が課せられていて、これがある意味既得権益化していますから。

そうなると、当然、NHKには番組を制作し、放送を行うにあたって依拠するものを明らかにする義務が生じるにも拘らず、これが全く不明様な開示に留まっているわけです。上記国内番組基準には
放送による言論と表現の自由を確保し、豊かで、よい放送を行うことによって、公共の福祉の増進と文化の向上に最善を尽くさなければならない。
とありますが、放送によって公共の福祉がどう増進したのか、結果的に文化がどの程度向上したのかについての言及を見た記憶がなく、全くもって不明瞭です。生産技術分野でよく用いられるPDCAサイクルが全く回っていません。立派な放送基準や理念が打ち立てられていても単に体裁が整えられているに過ぎない、というのが正直な印象です。
視聴率に左右されない番組で一体どうやって公共の福祉を増進し文化の向上を図るのか?
という甚だ根本的な疑問も依然残ったままです。

この辺り、以前記した文楽の補助金を巡る橋下元大阪府知事と作家の瀬戸内寂聴氏にとのやりとりで感じた傲慢さに似たものがあります。公共放送において、”視聴率だけでは計ることの出来ない番組”を、それじゃ一体何で計るのか?、を明示することなく
――見たい人だけ見ればいい――
――分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから――
という姿勢で相対するのであれば傲慢以外の語が見つかりません。

スクランブル化による”「よく見られる」番組に偏り、内容が画一化していく懸念”というのもよく判りません。裏返せばスクランブル化せず「よく見られない」番組も放送したいということなのか。この部分が「視聴率に左右されない質の高い番組」に相当するのかもしれません。であれば、番組を視聴率以外のどういった指標で評価するのか、高評価であるにも拘らず「よく見られない」番組を放送することの意義、質を保持したまま「よく見られない」から「よく見られる」番組への改善努力はしないのか、全く説明を欠いています。

例えば、NHKで放送中の朝ドラ「エール」は時代が大正〜昭和初期の時代を経たドラマです。ヒロインの実家は陸軍を取引先とした馬具製造業でした。馬具、馬車、人力車、刀剣、時代は進んで蒸気機関、薪釜、和船、真空管、ブラウン管、和文タイプ、レコード、録音録画記録の磁気テープ、銀塩写真のフィルム...一体どれだけの製造業が代替品の登場に伴う需要の減少と共に衰退、淘汰されてきたか。勿論、完全に消失したわけではなく今尚製造が続いている製品もあります。ただ、それらはもはや産業としての製造業の域外ではないかと。需要の拡大が見込めない中、既存製品のメンテナンス、技術の継承、趣味がその存在理由という見方はあながち外れてはいないと思います。

翻って、芸能と称される表現技法が発祥して以来、今日まで数多の芸能が需要の減少に伴って衰退、消失したであろうことは想像に難くありません。発祥以来全ての芸能が今日まで継承され続けているとはとても思えず、今日の伝統芸能もある種の淘汰の結果とみるのが自然です。

このことは、見方によっては今在る芸能が他を駆逐して生き残ってきたことを意味します。つまり、現行の芸能も常に消滅するかもしれない恐れに晒されているということです。それは必ずしも芸能間の競合に留まりません。

該淘汰について、生活と労働を除いた余暇の時間が何で費消されるか、需要とか関心という視点から考えてみます。様々な伝統芸能が古来から今日まで受け継がれてきていますが、発祥時、或いは全盛期当時には、今日当然のように在る”余暇を費やす何か”は存在しなかったわけです。その何かは例えば、映画、演劇、ジャズ、クラッシック他の洋楽、テレビ、スマホ、ゲーム、スポーツやスポーツ観戦、旅行、娯楽としての飲食などが容易に思いつきます。これだけ多様で刺激の強い”余暇を費やす何か”が増加の一途にある一方、万人に等しく与えられた8760時間/年は不変です。そう考えれば伝統芸能が”余暇を費やす何か”の中に埋没し淘汰されていくのも十分起こりうる話です。歴史という長い時間のスパンでみれば、伝統芸能に対する需要が相対的に減少していくというのは避けられない、ということです。

このような、不可避とも思われる、需要や関心(≒価値)の相対的減少に伴う芸能の衰退の流れに抗って、自身の立場を安定、盤石にしようとする方策の一つに聖域化があります。

歴史上、又は、芸術上価値の高い、例えば、伝統という形で永らく継承されてきた、日本固有の文化である、国外からの評価が高く世界に誇ることができる、深遠孤高で容易に真似ることができない域にまで昇華している、多大な感銘を与える、といった様々な理由から保護すべき対象として認められれば、不可侵に似た位置を獲得する/付与される仕組みです。

今日の硬直した社会の枠組み内にあって、普遍性を有するものが占めるその位置は、一旦組み入れられれば安定で強固です。その位置は淘汰に対する抵抗力を持ち、換言すれば相対的に他を淘汰され易くします。これは枠組み内に在る様々な位置相互の互恵関係と自己防衛本能が、自らの枠組みを護持せんと作用することによるものです。枠組み内の定位置に在れば安住でき、そうでなければ排除され易い、というのは当に社会の枠組みの持つ排他的性質そのものであって、よくある話です。

しばらく続けます。

2020年5月5日火曜日

角度

どうも整合性を欠いているように思えます。

前のエントリにも記しましたが、コロナウィルス感染による致死率は、インフルエンザほどではないとの声があります。
アビガンを飲まなくてもほとんどの新型コロナ患者は良くなる
そもそも新型コロナウイルス感染症はほとんどの方は治癒する感染症です。2020年4月24日時点で日本における新型コロナウイルス感染症の致死率は2%未満です。つまりほとんどの方が治癒する感染症であり、アビガンを飲んでも飲まなくても良くなるということです。(アビガン 科学的根拠に基づいた議論を
との見方を医師の方が記しています。つまり、1)患者の殆どは治癒する、2)一部基礎疾患のある人、特に高齢者は重症化して死に至ることもある、3)但し、感染者全体における致死率はインフルエンザのそれよりかなり低い、と。

これまで幾度となく見聞した話です。

一方、大阪府では吉村知事がパチンコ店に対し休業要請をしていて、要請に応じず営業を継続しているパチンコ店の店名を公表する事態に至っています。このことは、営業中のパチンコ店を大阪府が告知しているとも云え、該パチンコ店に客が集中する結果を招いています。この上、日本の居住者に一律10万円を給付する「特別定額給付金(仮称)」が実施されると...
府が公表するパチンコ店の営業状況を元に、国から給付された軍資金を持ってパチンコに行く
ことができてしまいます。

1)〜3)を予断を持たず、素直に踏まえると、これらがパチンコ客の抑制力になっているか、甚だ疑問です。ヒトは見たいものしか見ませんから、1)と3)には抑制効果は期待できません。むしろ、パチンコ店に足を運ばせる安心材料になり兼ねません。

勿論、店に集まっているパチンコ客が果たして1)〜3)を知ってか知らずかは存じません。存じません。

ここから少し話を脱線させます。

真偽はともかくネット上のニュースから、休業要請に応じることなく営業を継続しているパチンコ店に集う客からの声を拾ってみると、
――全然コロナにかかってもいいやと思ってる――
――スーパーマーケットも人いっぱいいるじゃない?同じだよ、そう考えれば――
――家にいても退屈だし。感染のリスク管理は個人の問題。本当にかかりたくない人は来ないだろう――
――自分の体やから、俺はべつにどうでもええ――
――感染しないよう気をつければ大丈夫だと思う――
――ストレスをためる方が体によくない――
――新型コロナに感染しても自分のせい。一人暮らしだし気にしない。スーパーやコンビニに行くのと同じだ――
依存症的な要因もあるとは思いますが、ここでは考えません。この要因を含めると逆にそれで話が終わってしまいますから。

で、上記文言には”殆どが治癒する感染症だから”という理由はありません。少なくとも表面的には。読み取ることができるのは正常性バイアスであり、当に”他人の痛みは分からない”典型例です。

身内、知人、友人といった周囲に発症者がなく、新聞を読まず、ニュースも視なければ、まぁ妥当な行動だろうなと頷いけます。新型コロナウィルスによる著名人の死亡も別の世界の出来事ですし。

パチンコ客にとって大事なのはそれより出玉なわけですが、ただ、それではこれは特異なケースでしょうか。分かりやすく明らかな正常性バイアスの具現化例であるのは間違いありません。しかしながら、単に、同調圧力の強まる社会そのものがストレスのはけ口を求めた結果、”パチンコにストレスのはけ口を求めた”パチンコ客に焦点が当たったに過ぎない、ようにも思えます。

この正常性バイアスは危機管理におけるフェイルセイフの姿勢と逆方向に働きます。正常性バイアスが働いてパチンコ客が店に集まることと、新型コロナウィルスの国内流入の水際対策において、フェイルセイフの視点を欠いた結果として国の対策が後手に回ったことは、本質的な部分に大きな違いはありません。

戻ります。

さて、冒頭に記したように、コロナウィルスの脅威はインフルエンザに及ばない、という見方があるわけです。外出自粛、移動制限、休業、営業時間短縮と過度に恐れる余り社会が萎縮し、図りしれない経済的損失が生じている、この損失は失業者や自殺者の増加といった社会不安を引き起こしかねない、脅威はそれほどではなく収束しつつあるから非常事態宣言を解除して経済活動を再開すべき、といった意見を散見するようになりました。

”脅威はそれほどではなく”は、感染しても80%は重症化しない、感染が拡大しても致死率は小さい、ということが論拠となってます。
多くの人は感染しても全然症状がないままに終わってしまうし、症状が出ても喉が痛いとか、咳が出るとか、微熱が出るとかの軽いもので始まって、1週間ぐらいそんな症状が続き、8割の方はそのまま治ってしまいます。 (岩田健太郎「世界中がコロナ甘く見ていた理由」
該意見は、新型コロナウィルスが及ぼす健康被害の受け止め方、即ち、[感染者の80%もそのまま治癒する、20%しか重症化しない]と見方に基づくものです。しかしながら、その一方で[感染者の80%しかそのまま治癒しない、20%も重症化する]とみることも勿論可能です。積極派と慎重派に分かれるわけです。

ここで、先述の正常性バイアスが生じているグループはいずれに該当するかを考えると、勿論積極派に含まれます。

この時、矛盾というか違和感を感じるのは、コロナウィルスの脅威がインフルエンザに及ばないことを理由に経済活動の早急な再開を声高に叫ぶ一方で、パチンコ店の営業については口を閉ざしているような論調が見受けられることです。

今般のコロナウィルス禍で損失を被っているのは、旅客輸送、宿泊、飲食は勿論、パチンコやカラオケスナック、ナイトクラブ、キャバレーといった接客を伴う飲食店等の風俗業、スポーツジム、興業、冠婚葬祭、旅行商品販売も含めたサービス産業です。製造業や農林水産業に影響がないというつもりは毛頭ありませんが。

経済活動の再開を要求するに当たり、業種を限定して休業や営業時間短縮の要請解除を要求するのは整合性が欠けているように感じます。

脅威がインフルエンザ程ではないならば、パチンコ店に対する休業要請継続には疑問を禁じえません。インフルエンザ流行でパチンコ店に休業要請が出されたことなどかつて聞いたことがありませんから。

特段、パチンコを擁護する意図はありませんが、浪費、無駄遣い、泡銭、暴利はある意味、経済を廻す効率的な原動力です。観光や飲食以上に生産性の低いパチンコは、他の風俗業と並んで経済活性化には最適な気がします。

更に言えば、この”新型コロナウィルスの脅威はインフルエンザ程ではない”という見立てにはどうにも首肯できないものを感じます。感染者の致死率は確かにインフルエンザ程ではないのかもしれませんが。

何がそう思わせるのか。確かに有効な治療薬やワクチンがないことが、重篤状態に対する恐怖や感染に対する不安を煽っていることは否めません。しかしながらそれ以上に、医療体制の逼迫の程度がインフルエンザの比ではないという点こそが、インフルエンザ以上の脅威を思わせる主因ではないかと考えます。
1)インフルエンザの流行時、今日の新型コロナほどの院内感染はあったのか。
2)インフルエンザ感染の疑いがあった場合と同程度容易に新型コロナ感染の検査を受けることができたか。
3)軽症のインフルエンザ感染者が重症化した場合と同程度の円滑さで重症化した新型コロナ感染者が治療を受けることができたか。
新型コロナとインフルエンザ、各々の感染対策や治療に投入される医療を含む社会的資源量は同じではないはずです。この投入資源量の差を考慮しないまま、各々の感染者の致死率の大小から脅威を比較するのも妥当性に欠けていると考えます。現在、海外から日本への入国は制限されていますが、インフルエンザ流行時と同様に入国を許可していたら新型コロナ感染による致死率はより悪化していたのでは、と推量します。

感染対策や治療に投入された社会的資源の定量化は容易ではないかもしれませんが、”インフルエンザより致死率が低く脅威ではない”との見方には安直な、若しくはポジショントーク的な印象が拭えません。

2020年5月1日金曜日

上級

――私達は...――
――我々は...――
で始まる呼びかけを皆様の公共放送から耳にするとイラッとします。

公共放送の番組表でニュースとニュースの間が、[再]、[]、場合によっては[選再]だったり、総集編、”もう一度見たい...”、”あの試合をもう一度...”、”伝説の名勝負...”で埋め尽くされています。後は映画や海外ドラマでしょうか。

新たなコンテンツの制作がままならず、時間枠を過去のコンテンツで埋めているわけです。時局柄理解できないわけではありません。

だた、営業の自粛、若しくは短縮営業を強いられている飲食店が苦肉の策でテイクアウトや弁当販売をせざる負えないのとはわけが違います。

収入が激減し生計の維持するための業態変更と、安定した受信料収入の下で時間枠を埋めるための垂れ流しは全く異なります。後者の安定した立場から冒頭のように一体感?同体感?を煽られても、その我々私達の中に取り込もうとする姿勢が垣間見え、忌避感のほうが先行してしまいます。