2015年12月20日日曜日

墓穴

未だこれといった方策はなく、社会が賢くなる以外、解決には向かわないのかもしれません。善い方向に進んでいるとは思えないのですが...

定期的であるかの如くマイノリティへの口撃についての報道が後を絶ちません。先日も、岐阜県職員がツイッターに「同性愛は異常」などと書き込んでいた問題に絡み、自民系の藤墳守県議が、
――同性愛は異常――
とヤジをやじを飛ばして批判されています。で、その後墓穴を掘っています。
「子ども産むのは責務」=岐阜県議、同性婚も批判
リアル、バーチャルを問わず 日本のみならず世界中の至る所でマイノリティに対する差別的発言による舌禍は引きも切らず、学習効果が全く感じられていません。

最新では、米大統領選のドナルド・トランプ共和党候補でしょうか。

いつまでも物議を醸し続けるこの話題についてまとまりなく思う処を記してみます。結論はありません。


1.渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例を制定した渋谷区との大きな格差を感じました。第一印象です。それが岐阜県と渋谷区の寛容性、民度の差を忠実に反映したものかどうかは判りませんが。


2.上記県議から、
――生を受けたら子どもを産み育て社会に貢献する責務がある。貢献できる形を取れないことは理解に苦しむ――
といった発言がありました。責務ですか...責務として他人に強いることとは思えませんが。不妊に悩み治療に苦労している世帯への配慮に欠けた発言です。上から目線で責務などと押し付けられることなく自然にそう思える社会が望ましいかと。同性であっても、実子でなくとも養子縁組という制度だってあるわけです。こんな発言で物議を醸すより、こういった制度が十分利用されるべく尽力すべきではないでしょうか。

で、”社会に貢献したい”、”人の役に立ちたい”、自然にそう思える社会の実現には教育が不可欠なわけです。そういった教育を行う責務を果たしてこなかった一方で、他者に責務を強いる、というのも如何なものかと。今ある、こんな社会の構築の一部を担ってきたのは紛れもなく過去の現役世代(=今の高齢者)です。無自覚に自らの責任を省みない、身勝手な話かと受け止めています。


3.”社会に貢献する”、”人の役に立つ”という部分に着目してみれば、ここには”社会システムの維持といった意味合いも含まれています。その一部である、年金や健康保険といった世代間の扶助システム、後世代への負担の先送りシステムの持続には当然現行世代、将来世代の存在が必須です。少子化の加速は非常に拙いわけです。搾取しようにも、その将来世代がいなくなってしまいますから。

その意味で、将来世代→現役世代→引退世代と養う義務が”社会に貢献”を意味するならば、責務とするのもさもありなんかと。身勝手な理屈ですが、民主主義の本質ではあります。ただ、負担を先送りするシステムを利用しながら、この少子高齢化社会を招いた責任を無自覚のまま、責務などと言い放つ姿勢には反発を禁じ得ません。


4.上記例のようなマイノリティに対する差別的な発言が何に由来しているかについて考えてみます。

初めての海外旅行で米国を訪れた時、小腹を満たすため空港内のハンバーガーショップに入ったことを思い出しました。もう、随分昔の話です。列に並んでハンバーガーを購入したのですが、アフリカ系米国人の店員相手に、たどたどしい英語でどうにかこうにかハンバーガーを手に入れたことを覚えています。この店員とは緊張して話しました。海外で初めて実際に英語を使ったことは勿論ですが、相手がアフリカ系だったことも緊張の大きな理由だったかと思っています。簡単に言えば、”慣れていなかった”ということです。それまで直接対面して会話したことがありませんでしたから。

一方、マイノリティに対する差別発言は、相手が自分と違うことに違和感を持ち受け入れるには抵抗がある、自分と異なるものを排除したい、そういった感情が発露したものと捉えています。

人は群居本能に基づき、自分と同じ価値観を他人に求め、他人も自分と同じであることを望もうとします。この同質化を求める心理の裏返しとして、即ち同質化の見込みがない時、反動として排他的な差別発言が発せられてしまうのではないでしょうか。

で、慣れ/不慣れの感情の延長にこの同質化/排他の感情があるのではないかと考えます。不慣れの感情の増大が排他的な感情へと移行し、その変化は決して離散的ではなく連続的なものではないかと。即ち、著しく、全く、徹底的、極端に慣れていない感情こそがまさに排他的な感情であるということです。

不慣れと排他の感情が混在している両者の境界付近では、境界は曖昧で揺らいでいるはずです。従って、そういった位置からの発言は、たとえ不慣れな感情の発露のつもりであったとしても、差別的、排他的な発言として受け止められてしまう恐れがあることも容易に想像できます。

発言に丁寧さを欠いていたり、尊大な印象を抱かせていればなおさら、誤解や曲解は簡単に生まれ、炎上、袋叩き、撤回、謝罪へと追い込まれていきます。事例には事欠きません。

排他的な感情が生まれる芽は、”不慣れ”という新たな体験に直面した際の、受け入れるには抵抗がある違和感こそがその正体ではないでしょうか。その意味で、排他的な感情は誰にでも生まれ得る、そういった認識を心に留めおくべきかもしれません。


(続)

2015年12月17日木曜日

仕掛

ここ数年、今頃の時期になると”喪中見舞い”という語をよく見聞きします。

少し検索してみると、2001年以降から使われだした語のようです。それ以前には使用例が検索できませんでした。

で、検索された最も古いサイトは楽天市場にある、仏壇仏具通販のサイトなわけです。期間指定をせずに"喪中見舞"で検索しても線香メーカのサイトが最上位に検索されます。ウィキペディアやweblio辞書、コトバンク、或いはマナー、作法について記述されたサイトより上位です。

バレンタインデー(デパート)に通じる商業主義的仕掛の匂いを感じています。古くは土用丑の鰻(平賀源内)、婚約指輪は給料の3ヶ月分(デビアス)を経て恵方巻き(セブン-イレブン)、ハロウィン(ディズニーランド?電通?)へと続く販促キャンペーンと同種ではないかとみています。

便乗なんでしょうか、日本郵便も...喪中だろうが何か送れということなんでしょうか。
喪中のマナー
「喪中はがき」「喪中見舞いはがき」「寒中見舞いはがき」の販売開始

マナーとか気配り、心遣いといった言葉をツールとして人心につけこむ販促キャンペーンであるかの如く映ります。


すっかり死語となった、”マニュフェスト”、”アジェンダ”、”コミットメント”とは異なり、販促用語ですから今後も使われ続けるのでしょうが、義務感の押し付けにも似た作為的な印象は払拭されていくのでしょうか。

2015年12月15日火曜日

〆鯖

成城石井を訪れると、皮目が金色に輝く、いかにも脂ののったいい鯖を見ることがあります。池下、石川橋、藤が丘辺りの店の話です。

所が必ず、半身を更に二つに切り分けた切身の状態でトレイに入っています。

成城石井の来店客は〆鯖を作らないんだろうか、或いは、〆鯖を作る人々は成城石井に行かないのか、素朴な疑問です。

勿論、一夜干しを作ったって十分旨いんですがね...

2015年12月13日日曜日

孤立

一寸驚きました。

御器所で昼食を摂るため、二種のミニ丼を組み合わせたセットメニューが知られた店を訪れた時のことです。

着席後、何気なく店内を見渡すと、丼と箸を持って、食べながらテーブルに広げた雑誌を読んでいる先客に気づきました。で、丼と箸を置き、頁を繰って雑誌を持って読み出すと...食べ終わったかのかと思いきや、再び丼を持って食べ続けたわけです。同様に雑誌を読みつつです。

驚いたのは、その先客がオッサンやニーチャンではなく三十代位の女性だったことです。差別意識ではなく先入観に依る違和感と思っていますが。

大概、自身も品がいいとは思っていませんが、”なんだかなぁ”といった印象が拭えませんでした。周囲が見えないというか、自宅の延長という意識なんでしょうか。

ふと隣客も見れば、スマホをテーブルに置き、何やら横目で見ながら丼を食べ進めていました。件の女性客もこの延長という認識なんでしょうか。

”そんなことにいちいち目くじら立ててもきりがない”、周囲への目も周囲からの目も関心がない個人主義の徹底、そういった風潮を改めて実感した次第です。

2015年12月12日土曜日

下駄

先日、所用で栄に赴いた際、デパ地下をうろついてみました。何年ぶりでしょうか。

で、全く食指が動きませんでした。心躍らせる上質な食料品が見当たらないのです。美味そうに見せる陳列と能書き、”如何ですか。美味しいですよ。売り場店員の掛け声が一層、実質にそぐわない価値の底上げを感じさせます。

そういった言葉に乗せられ購入してみると、まぁ大抵は”やっぱり、こんなもんか。”という結果に落ち着きます。期待感が持ち上げられた分だけ評価のハードルは高まり、より強い満足感を求めてしまいますから。山高ければ谷深しで、当然その反動として不要な失望感を抱くことになるわけです。

一応、名古屋が本店となるデパートの食品売り場に、心惹かれる何かを求めて訪れたのですが...

なんだか以前より劣化しているように思えてなりません。

同様な印象を抱くことは特段、珍しくもなくありふれています。食品、飲食店、音楽、映画、文学といった、評価に主観的要素を排除できない、換言すれば権威主義が跋扈しがちな分野で容易に見当たります。

以前にも記しましたが、オムライスもその一例です。オムライスが売りの洋食店、若しくは専門店を訪れると、
”特製”、”自家製”、”拘りの”、”当店オリジナル”
といった語が目に入ります。 トマトソースやドミグラスソースの形容です。否定するつもりはありませんが、そういった修飾語は期待感を過剰に高めてしまいます。概してその後酸味が強かったり濃厚過ぎたりで、”う〜ん...”となるわけです。

やはりですね。
――ごちそうさま。ケチャップが妙に旨かったんだけど...――
――ありがとうございます。自家製なんです。――
こちらの方が本来なんじゃないかと。最初に自家製だの、オリジナルだのと自ら進んで梯子を登ってどうするんでしょうか。期待先行となって当然の話で、それで美味くなければ目も当てられません。却って価値を貶めることになってしまいかねません。

このエントリ中のケチャップの赤を見て、そんな思いが脳裏を過ぎりました。

巷間、販促を目的としたそういった惹句は溢れかえっています。典型は”至高”、”究極”、”絶品”、”秘伝”でしょうか。ある意味、優良誤認ではないかと思わせる如く虚飾のインフレが進んでいます。実質との乖離は大きくなる一方で、即ち、過剰な期待感が裏切られた時の失望も留まることなく増大していくわけです。リピーターは生まれず、狩猟のように次から次へと新規客を誘引せざるを得ないのではないでしょうか。

”インフレ期待の喚起”などといった金融政策で、物価上昇への誘導を目論むものの、未だ達成できていない日銀と通底したものを感じています。

言葉や画像による煽動、虚飾で見掛けの価値を無理やり引き上げることに違和感や不信感を抱いてしまいます。過剰な期待が先行し、それが裏切られて却って低評価になってしまうんじゃないか、そういった話です。