2015年12月12日土曜日

下駄

先日、所用で栄に赴いた際、デパ地下をうろついてみました。何年ぶりでしょうか。

で、全く食指が動きませんでした。心躍らせる上質な食料品が見当たらないのです。美味そうに見せる陳列と能書き、”如何ですか。美味しいですよ。売り場店員の掛け声が一層、実質にそぐわない価値の底上げを感じさせます。

そういった言葉に乗せられ購入してみると、まぁ大抵は”やっぱり、こんなもんか。”という結果に落ち着きます。期待感が持ち上げられた分だけ評価のハードルは高まり、より強い満足感を求めてしまいますから。山高ければ谷深しで、当然その反動として不要な失望感を抱くことになるわけです。

一応、名古屋が本店となるデパートの食品売り場に、心惹かれる何かを求めて訪れたのですが...

なんだか以前より劣化しているように思えてなりません。

同様な印象を抱くことは特段、珍しくもなくありふれています。食品、飲食店、音楽、映画、文学といった、評価に主観的要素を排除できない、換言すれば権威主義が跋扈しがちな分野で容易に見当たります。

以前にも記しましたが、オムライスもその一例です。オムライスが売りの洋食店、若しくは専門店を訪れると、
”特製”、”自家製”、”拘りの”、”当店オリジナル”
といった語が目に入ります。 トマトソースやドミグラスソースの形容です。否定するつもりはありませんが、そういった修飾語は期待感を過剰に高めてしまいます。概してその後酸味が強かったり濃厚過ぎたりで、”う〜ん...”となるわけです。

やはりですね。
――ごちそうさま。ケチャップが妙に旨かったんだけど...――
――ありがとうございます。自家製なんです。――
こちらの方が本来なんじゃないかと。最初に自家製だの、オリジナルだのと自ら進んで梯子を登ってどうするんでしょうか。期待先行となって当然の話で、それで美味くなければ目も当てられません。却って価値を貶めることになってしまいかねません。

このエントリ中のケチャップの赤を見て、そんな思いが脳裏を過ぎりました。

巷間、販促を目的としたそういった惹句は溢れかえっています。典型は”至高”、”究極”、”絶品”、”秘伝”でしょうか。ある意味、優良誤認ではないかと思わせる如く虚飾のインフレが進んでいます。実質との乖離は大きくなる一方で、即ち、過剰な期待感が裏切られた時の失望も留まることなく増大していくわけです。リピーターは生まれず、狩猟のように次から次へと新規客を誘引せざるを得ないのではないでしょうか。

”インフレ期待の喚起”などといった金融政策で、物価上昇への誘導を目論むものの、未だ達成できていない日銀と通底したものを感じています。

言葉や画像による煽動、虚飾で見掛けの価値を無理やり引き上げることに違和感や不信感を抱いてしまいます。過剰な期待が先行し、それが裏切られて却って低評価になってしまうんじゃないか、そういった話です。

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