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2015年5月26日火曜日

阿吽

強い不快感を禁じえません。

そういった言動が発達障害と診断されるなら私は思いっきり該当します。
どう向き合う? 夫の発達障害
上記NHKのリンクには放送された事例が全て上げられていませんでした。他サイトに示されていた事例も併せて示し、反論します。

1.ストレートな言動

回りくどくオブラートに包むより、率直に指摘した方が、問題を的確に捉え解決を図るには適切です。


2.変化が苦手

文房具でも食品でも、これまであった場所にないとイラッとするのは確かです。探す手間が生じますから。保管場所定まっている方が使う場合に効率的です。何らかの理由によってその場所に落ち着いたと捉えていますから、理由なく保管場所を変えたり、使用後元の場所に戻せない方が問題です。使用したい他者に対する配慮が足りないかと。

3.気持ちを察することが苦手

たとえば、妻が熱を出して辛い状態にあり、妻は夫に気がついて欲しくてマスクをして咳をしながらお皿洗いをしたとします。発達障害の人は、妻が皿洗いをしているのであれば、大丈夫だと判断をして代わりに手伝うということをしません。
発熱があることを察しろと?辛そうだが、洗い物ができる程度なのか、という判断は誤りなんでしょうか。問題は様子を覗えない、覗わないことではなく、
”風邪で辛いから洗い物を代わって”
と口にしない、できないことです。

4.一つの物事に集中しだすと他のことに目もくれず、時間を忘れてやり続ける

否定的に扱っていますが、科学者や技術者といったいわゆる理系の人間だけでなく、研究者を否定しているんでしょうか?


5.自分の決めた手順に強いこだわりがあり、例外は認めない

自分の決めた手順とは、正誤はともかく、より良いものにしよう、生産性を向上させようという姿勢が根本にあるわけです。一般常識、通常の手順、合理的理由に自分なりの考えを加えて手順を決めていると推測します。

例えば料理において、野菜の切り方は火の通りやすさだったり、調味料の順番は味の滲み込みやすさといった理由があるかと。茶碗の位置や魚の向きは常識というか通例の話です。

そういった部分も含めた自分の決めた手順を、意味なく逸脱されたら、自らの考えを蔑ろにされているような印象を抱くのは私だけでしょうか。誤りがあったり、より良くなるといった理由があれば差し障りはないと思います。

”なんとなく”、”理由なく”という部分が不快感を与えているかと。

6.正確な表現への強いこだわり

ありとあらゆるものに対してではありませんが、もちろん拘ります。

番組中、そこそこの量の肉に対して”すごい”という表現が”2kg”と発達障害とみなされた夫に改められていました。おかしいのでしょうか?”すごい”という抽象的な表現より量に対する認識を共有できると思いますが。直感的に”すごい量だな”と思えば、袋に貼付てあるラベル記載の内容量を見たり、更に興味を持てば量ってみるのも自然な行為ではないでしょうか。

全てに当て嵌めたら疲れてしまうのは承知しています。

上記のように、コミュニケーションにおいて自らの意思をできるだけ正確に伝え、意図を正しく理解してもらおうと考えれば、認識を共有している語を使おうとするのは当然です。

”すごい”、”多い”、”少ない”と、”美しい”、”かわいい”、”醜い”、上述の方は前者の語については数値化して訂正されるかもしれませんが、後者について指摘されることはないと思います。興味深い点ではありますが...

普段料理に携わらない誰かにお使いを頼んだとします。
”野菜炒め作るから豚コマ買ってきて。”
”鳥の唐揚げ作るからモモ肉適当に買ってきて。”
”ローストビーフ作るから牛ロース4人分。塊で。”
不親切だなぁと思うわけです。実際に店頭で注文する、当事者意識に欠けているなぁと。頼む側は心得ているのかもしれませんが、相手の立場を慮れば正確に指示すべきでしょう。

己の意思を相手に正確に伝えるため、相手の立場に立って、客観的に、若しくは複数の同義語で表現することは、決して批判されるような姿勢ではないと考えます。

そもそも、時間、長さ、重さ、個数といった共有し得る尺度なしでは、研究、開発、設計、製造、施工といった文明社会に必須の作業に支障を来たします。


”共感性の欠如”が発達障害の一つであるASD(アスペルガー)の特徴だそうです。

かつて、文楽協会への補助金凍結の賛否を巡って、大阪市の橋下市長と作家の瀬戸内寂聴氏の間でやりとりがありました。その中で、瀬戸内氏の、
橋下さんは一度だけ文楽を見てつまらないと言ったそうですが、何度も見たらいい。それでも分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから
といった発言に、決して橋下擁護ではなく素直に、傲慢さというか選民意識を感じ強い反発を覚えました。
”わからない奴は黙ってろ!”
ということかと。

見て直感的に分からないからこそ、理解しようと言葉による詳しい説明を求めるわけです。

上記”共感性の欠如”は確かにASDの特徴かもしれません。しかしながら、これを発達障害とみなして、分からないことを理解しようとする姿勢が否定的に扱われてしまわないかと強い懸念を抱いています。極端に言えば、封殺に利用されかねないということです。考え過ぎでしょうか。

ところで、発達障がいや発達障碍ではなく、発達障害との表現に何か理由があるのでしょうか。文字の選択以前にもう少し別の表現があるのでは、とも思いますが...

参考リンク


  1. 夫の発達障害|あさイチ
  2. NHKあさイチで「夫の発達障害」特集 妻が孤独を抱えて、うつ病を発症し…
  3. NHK「あさイチ」発達障害の夫に悩む妻が増大

2015年3月8日日曜日

根絶

川崎中学生殺害事件についての報道に触れると、
南幌町家族殺害事件
”永山則夫 封印された鑑定記録”(堀川 惠子 岩波書店 2013年)
を思い起さずにはいられません。 

加害者少年たちに事件の責任はないとするつもりは断じてありません。ただ、全面的、全ての責任、というか原因を少年たちに求めるのも違うだろうと思うわけです。

それは17、18才で未成年だからという意味ではありません。そういう行為に及んだ根幹に、自らの責に依らない部分があるのではないか、ということです。

”人は氏より育ち”
このことは全くもって正しいと信じています。ただそのような育て方(=生育環境)はどのように決定されてきたのでしょう。やはり、根本には自らが過ごしてきた環境で育まれてきた価値観、認識を基に、それを肯定し、類似した環境を用意してしまうということではないでしょうか。

確たる論拠、統計的な調査結果も持ちあわせていませんが...

同根に見える事件を時折見聞します。その環境が意図せずとも潜在的に代々連鎖しているとしたら...生物的な遺伝ではなく、親から子、そして孫へと受け継がれてしまう心理的な遺伝であるならば、抗えない無力感を抱いてしまいます。

子は親を選べませんが、その親もまた自身が育った環境を選んだわけではないのです。そういった印象が単に一人歩きしているに過ぎないことを願っています。
いずれにせよ、社会全体がもう少し賢くなるべきかと思うわけです。個性、個人の意思が尊重されなければならないのは理解していますが、継代してしまう生育環境の負の部分を社会全体で排除、緩和できないものかと。

初等教育課程において、道徳の教科化、評価の点数化が話題になっていますが、
――知らなかったから法的に問題はない――
とされる政治資金規正法、
この方の入院
は道徳的に何点になるのでしょうか。

社会が賢くなるのも難題です。

2015年3月1日日曜日

約束

戦時下のシリーズに入るとNHK朝ドラは、規定路線を寸分違わず類似した内容となります。

もはや、伝統芸能の様式美を追求しているのだろうか、とさえ思えてきます。

キーワードは、”鬼畜米英”、”非国民”、”国賊”等...朝から居丈高な怒声でそういった語を耳にします。

専横な軍、理不尽な官憲、手放しで国家を盲信する国防婦人会(マッサンには登場していないのですが、北海道には組織がなかったのでしょうか)や同級生、近隣住民...

家宅捜索で英和辞典を見つけてスパイ容疑ですか。一部、曽野綾子騒動ともシンクロしているなぁ、と思うわけです。他にも頭が悪そうな子供が石を投げる、窓ガラスを割る、といった嫌がらせが続きます。

終には準主役に次ぐ役どころで、前途ある好人物の青年が戦地に召集され、戦死すると...その後終戦を迎え、悲しみに打ち拉がれながらも懸命に生きていく、といった流れでしょうか。

朝ドラを通じて製作側が伝えたい意図を未だ掴みかねています。戦時下という特殊な状況で、理性でなく感性に訴えかけられて流され、翻弄される市民の弱さ、愚かさを描き出したいのかもしれません。

ラヂオを通じて情報というツールで扇動の片棒を担いできたNHK自身の過去をさておいてです。

ドラマを通じて戦争、差別、いじめ、軍国主義、全体主義に対する嫌悪感を植え付けたい意図があからさまです。NHKのその上から目線の教育的姿勢に押し付けがましさを感じます。不愉快です。

ところで、話が戦時下に移った時、ぎこちなさというか、こじつけのような印象を持ちました。上記意図を含ませるためでしょうか。史実がどうであったかは存じませんが...

自社ウィスキーの味わいが理解されず販売不振が続いていたニッカウヰスキーですが、人員整理に踏み切る直前、海軍にウィスキーを納入することで息を吹き返しました。

この納入要請時の海軍将校ですが、樽内の原酒を味見して、
――やはりこんなものか。――
――まっ、ウイスキーの味も分からんような連中には、この程度でも十分だろう。――
と宣うわけです。更に、
――実は、欧州の戦争の影響で、洋酒の輸入が難しくなってきてな。ウイスキーを大量に確保しておく必要に迫られている。――
といった言葉も。必要?

そもそもウィスキーは軍需物資なんでしょうか。贅沢な嗜好品として統制品に指定されるならまだ理解できますが...軍におけるウィスキーの軍需品としての位置付けを知りたい処です。日本酒や焼酎で代替できない理由もです。

ウィスキーは武器ではありませんから、軍に必要とされるなら、民需もあったはずです。であれば、もう少し売れていてもいいように思えますが。やはり、不味くて売れなかったのかもしれません。

で、上の海軍将校の言葉です。輸入ウィスキーを飲み馴れていて味に詳しい将校なんでしょうか。続く”まっ、ウイスキーの味も分からんような連中...”とは海軍でウィスキーを飲む層、将校や将官を想定しての感情の発露?

まとめると、
ウィスキーの調達に訪れた海軍将校だけがウィスキーの味に詳しい。
海軍でウィスキーを飲む層は本物の旨いウィスキーの味を知らない。
にも拘らず海軍にとってウィスキーは必需品である。
そして、ニッカのウィスキーは(樽出しの若い原酒だったためかもしれないが)、大した味ではない。
といったところでしょうか。 これでは敗戦已む無しだったかも...

一方で、六年熟成させた原酒を使ったブレンドウィスキーは販売不振でした。自身が納得できる味わいで満を持しての発売だったはずです。本場スコットランドのウィスキーにも引けを取らない自信作だったかと...

これが日本人に受け入れられず売れないと...本場のウィスキーに精通しているかもしれない海軍将校からは”こんなもの”呼ばわり...

一体、誰に向けてのウィスキーだったのか、不思議です。結局、旨かったのか不味かったのか、よく分かりません。唯一考えられるのは、日本人に受け入れられる味も創り出せず、”こんなもの”しかできなかった、ブレンダーとしての亀山の能力不足ということなんでしょうか。

又、先行して国産ウィスキーを発売していた寿屋はどう対応したのかも興味をそそられます。通常であれば実績のある寿屋がまず要請されるのが自然かと思うわけです。蒸留所も京都に立地していますし。

何故破綻直前のニッカに白羽の矢が立ったのか気になるところです。

無頼

「NHK受信料をテレビ持たない人からも徴収」報道に高市総務相「何も決まっていない」
日経の記事、
――何も決まっていない――
確かにそうかもしれませんが、既にテレビを保有していなくともNHKとの受信契約を迫られる現状にあります。ガラケーやカーナビを持っているだけで...

所管大臣の見解を伺いたい処です。

新聞各社におかれましては、冒頭の方向に進むようでしたら惰性で続けている新聞の購読を中止しますので心して論陣を張って下さい。
――新聞は民主主義に不可欠――
などと意味不明の理屈をこねくり回して軽減税率の適用を乞う前に、NHK様をどうにかしたら如何でしょうか。

下衆

容疑者が未成年のため詳細な報道ができないのでしょう。

ただ、だからといってその反動であるかの如く、被害少年の顔写真をこれでもかと、執拗に垂れ流すのは許されるのでしょうか。

メディアに強い憤りを感じます。
川崎中1殺害事件

2015年1月23日金曜日

旧弊

相変わらず朝からイラッとさせられるわけです。

朝ドラ”マッサン”で亀山から発せられた言葉、
――どがぃなことがあっても親に手を上げたらいかん――
こういった文言の根底には儒教的な価値観があるわけです。この”儒教”という語の適否はともかく、旧来からの道徳観、倫理観に依っているのは間違いない処かと...

ただ、こういった有無を言わさない、権威主義に基づく理不尽な抑圧的姿勢が、正当なものらしく表現されてしまうことに違和感を禁じえません。

NHKの考える価値観の啓蒙、押し付けといった意図を感じます。

旧来から尤もらしく、非合理的であるにも拘らず、不可侵なものとされてきた価値観、社会を澱ませ、質的な進歩、成長を妨げている一因であると考えます。

2015年1月22日木曜日

反感

時代も場所も符合しているわけではありませんが、
家族の不和 借金 鰊漁の盛衰 リンゴ農家 博打
こういった語が、NHK朝ドラの今のキーワードです。


(堀川 惠子 岩波書店 2013年)
を連想してしまいます。

ところで、ドラマ中のセリフ、
"勉強し過ぎで頭がおかしくなっている"
耳にしたい文言ではありません。不快です。

極めて稀な場合としても、そういった事実があることを認めているかの如く言葉です。

NHKはこれを肯定し、視聴者の一部に共感させたいのでしょうか。反感は憶えますが...

2015年1月10日土曜日

過熱

先のエントリに関連してですが、 食品への異物混入について旬の主役といえば日本マクドナルドのわけです。

脇役陣は、ペヤング、日清食品、不二家、マルちゃん、ほっともっと、セブンイレブン、ワタミ、和光堂といった辺りでしょうか。

詳細について窺い知れない部分も多々あり、異物混入それ自体に関してはまだよくわかりません。

NHK的な表現ですが、”注意して見守っていく”に留めておきます。

ただ、日本マクドナルドについては、”下手打ったなあ”というのが率直な印象です。正にドブに落ちた犬は叩け、といった様相を呈しているかと。

イオンやセブンアイHD、ユニクロ、不二ビューティ(たかの友梨ビューティクリニック)、マルハン辺りに倣って出稿料、広告宣伝費、対策費をせびられるままにばら撒いていれば...

ハンバーガーで接待でもして却ってメディアの神経を逆撫でしてしまったのでしょうか。

民放各局ほど、NHKが集中砲火的に報道していないように見受けられるのは、強請っても得るものがないためかもしれません。

ところで、国内の外食、食品メーカーの製品で続々と異物混入騒ぎが持ち上がっているのですが、諸外国ではどういった状況なんでしょうか。

食品への異物混入など、取るに足らない日常茶飯事の隣国二国はともかく、McDonald'sが国民食の一つであろう米国での異物混入事情が気になる処です。

さて、件の異物混入騒動に際し、朝のニュースバラエティ番組が外食大手10社に混入の事実、件数等異物混入に関する情報の公開性についてアンケートを取ろうとしたようです。で、回答は匿名でも可と依頼しても無回答だったり非公開だったようです。

番組のアナウンサーは、
”匿名でも答えて頂けませんでした”
などと、厭味っぽい口調で各社の秘匿的、内向きな姿勢を印象づけようとしていたわけですが、メディアの自覚の無さ、独善性を改めて実感した次第です。

”メディアが信用できないから、匿名でも回答が得られなかっただけじゃないの?”

2014年8月18日月曜日

収拾

事態をどう収束させるつもりなんでしょうか。朝日新聞は...
<ローマ法王>元慰安婦と初対面 ミサ参列の7人と握手
宗教の前では事実も霞んでしまいます。客観性、合理性も神の名のもとには...

各々の思惑が合致してしまい、バチカンを向こうに回すことは是非とも回避すべきです。

倫理観、道徳的、人道上といった語に依拠して貼られたレッテルは極めて厄介です。

国連憲章の敵国条項ですら未だ削除されてないのです。 

2014年8月9日土曜日

不実

瞬く間に、報道各社が笹井氏の自死について取り上げなくなりました。
問われる笹井氏自殺報道の倫理性
対外的にはおそらくこういった理由付けなのでしょうが、責任回避の言い逃れとしか受け止められません。 

2014年8月5日火曜日

引金

笹井氏のご冥福をお祈りいたします。 
STAP論文の笹井氏が自殺
公共放送を自負し、
"STAP細胞 不正の深層"(NHKスペシャル)
といった極めて中立公平で、全く客観的、すばらしく不偏不党の該コンテンツを制作した独善放送協会には、上記事件に関する検証番組を制作する重大な責任があると考えます。

以下のエントリが詳しいところかと...
(続)STAP細胞の悲劇;愚かなメディアと研究者集団
魔女狩り

メディアの、無自覚下で暴走する独善性、欠落する自律性が窺えます。実は意図的かもしれません。

該放送協会についてはいずれ記すつもりです。

2014年7月6日日曜日

野次(5)

比較論です。

以前のエントリでも記しましたが、
”本人の責に帰さない理不尽な暴力は到底容認できない”
が私の譲れない根本です。

で、”本人の責に帰さない”という視点から眺めた時、例えば、
ナイジェリア生徒拉致事件、
パキスタンのマララさん銃撃事件
インド、パキスタンで未だ頻発している名誉の殺人
等、現実に世界で起こっている暴力と今回のセクハラ野次騒動とでは理不尽さの次元が違うわけです。

他国の厳酷な理不尽は大きな話題にもならず、自国の”お前が言うな”的セクハラ野次には犯人探しに大騒ぎして謝罪を求める...

差別的な野次が許されないのは理解しているつもりですが、理不尽の程度に圧倒的な差があるにも拘らず、上記事件は今回の騒動ほど問題視されてきませんでした。

私が違和感を禁じ得なかった、手放しに件の女性議員を支持できなかった原因はその辺りにもあるような気がします。

相対的な話です。

2014年7月4日金曜日

野次(4)

4.黙殺

今回のセクハラヤジ騒動は、社会通念上、強者(与党、男性、年上)から弱者(野党、女性、年下)に浴びせられたヤジであったため、古くから日本人の好んできた判官贔屓ストーリーに仕立て上げようとメディアが煽動した要素も多分にあると捉えています。

例えば、独身、或いは子のいない中年のおっさん与党議員が少子化について質問している際、既婚、或いは子を持つ野党の若手女性議員から、

――自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか――


と野次を浴びせられたとしたら...

ここまでの騒ぎになったでしょうか。

野党のベテラン女性議員が与党の若手男性議員を野次ったとしたら...
男性議員が男性議員を野次ったとしたら...
女性議員が女性議員を野次ったとしたら...

いろいろな組み合わせが想定できるのですが、同じ内容の野次であっても、メディアに騒ぎ立てられ非難、糾弾される場合と、黙殺され殆ど問題とならないまま過ぎていく場合があるように見受けられます。

セクハラ野次ではありませんが、前のエントリで記した、(民主党議員から安倍首相に対して)
また下痢するぞ
真偽は定かではありませんが、
子供が出来ない安倍さんは種無しカボチャ。 そんな種無しスイカに何が分かるんですか。
などは本騒動以上に発言者の品性が疑われる発言だったわけですが、大きな騒ぎにはなりませんでした。

議場での野次ではありませんが、
塩村文夏氏による、男性タレントへの中傷発言。「みんなの党」党員は黙認
も...

ある意味、偏向したメディアの意図的な差別かと思うわけです。


ちなみに、同性からの野次ならばセクハラにならないのでしょうか。気になるところです。



5.地雷

一般論です。

本騒動の野次は、当初の
そんなことを言う前に、おまえが早く結婚しないのかっ!!

早く結婚しろ!!
から、実は
お前が早く結婚したほうがいいんじゃないのかー
だったわけです。この後、”産めないのか”、”まずは自分が産めよ”といった野次があったとされていますが、これは客観的には確認できていません。

上記”結婚する”という部分を”子を産む”に置き換えれば、”...子を産まないのか”、”...子を産め”、”...子を産んだほうがいいんじゃないのか”となります。より酷いセクハラ野次とされる”産めないのか”とは意図が異なります。”産めないのか”は”結婚できないのか”に相当しますから。

自らの意思で選択した場合も含む”する”、”しない”に対し、”できないは”本人の希望に反してであり、資質、能力を問う意味合いが含まれてきます。

ここで、配慮に欠けた田母神氏のツイートです。
塩村都議へのヤジがどうして女性蔑視なのか。いいじゃないかそのくらいというのが正直な気持ち

野次のどの部分に対して”いいじゃないかそのくらい”なのかはわかりません。

例えば、家族の介護等で結婚できない、或いは、不妊治療を続けているにも関わらず子を授からない。そういった本人の責によらない何らかの理由で意思に反して結婚できない、子供を持てない場合があるということは容易に想像できるわけですが...

田母神氏の価値観が、全ての女性は結婚して出産でき、又、そうするのが当然であり、できない場合が脳内で排除されているのであれば、ある程度の年齢の女性が未婚、或いは、子がいない場合、”する意思がない”と捉えて該ツイートに至るのも致し方ないことなのかもしれません。

いずれにせよ軽率なツイートであり批判は免れない、というのが正直な気持ちです。


その一方で、肝胆相照らす友人、NHK朝ドラの言葉を使えば”腹心の友”でもない、いわゆる知人や疎遠になっている縁者の集まり、具体的には職場、慶弔の場、町内会等で、見知らぬ他人でもない上司、同僚、親戚、隣近所のおじさんやおばさんから似たような発言が聞かれます。その意図はともかくとしてです。

友人、親しい間柄であればある程度の察しはつくのかもしれませんが、そうでなければ事情を知る由もないのは当然で、相手の事情もおかまいなしにこういった言葉を投げつけてくるわけです。

この時、場の状況、語尾や語気、言回し、更にはお互いのこれまでの先入観、印象によって悪意あるハラスメントになってしまう恐れがあります。ガサツで配慮を欠く人間の、”そんなつもりではない”発言が相手に不快感を催させることはよくあることです。

では、結婚や子供について尋ねることは全否定されるべきなのでしょうか。相手に不快感を与える恐れがあるからと、結婚や子供についての話題を意識的に避けるというのも息苦しさを感じてしまいます。


例えば、二、三十年ぶりに中学の同窓会に出席した場合など、同級生の名前が記憶の片隅にわずかにあるのみで、顔と名前が一致しないことだってままあります。そういうほぼ他人に対し、近況を(=家族について)尋ねることすら許されないなら場が持ちません。同級生の女性とは会話ができなくなってしまいます。まぁ、尋ねられるのを待ってればいいのかもしれませんが...

誰にも話しかけられなかったとしたらそれはそれで辛いものがあります。

ーどうして結婚しないの
(どうしてお子さんがいないの)?ー
ーどうして結婚しないの(どうしてお子さんがいないの)?ー
ー結婚してないの(お子さんはいないの)?ー
はともかく、

ー結婚は(お子さんは)?ー
ーご家族は?ー

も許されないのでしょうか。

ー今、どちらにお住まいですか?ー
から初めて安全を確かめながら徐々に話を広げつつ、常に警戒を怠らない、疲れますし、話も画一的になってしまいます。

酒食の席でそんな器用なこと...自信がありません。

”結婚”、”子供”そういった単語それ自体がアンタッチャブルな地雷とみなされることがないように願っています。

英国在住の日本人ジャーナリストの方が、
...塩村都議に向けられたような言葉は公の場ではもちろん、友人たちとの私的な集まりでも、家庭の中でも口にできない。そんなことは怖くて、とても口にできない。
と述べられていますが、英国では結婚、子供についてどこまでの発言が容認されているのか知りたいところです。

私には住む資格がないのかもしれません。住みませけど...


(続)

2014年7月2日水曜日

野次(3)

3.切り売り


又、過去のバラエティ番組での発言を元にした、”おまえが言うな”的姿勢に対し、根拠なく”演出、ヤラセを鵜呑みにするのか?”といった非難のコメントも寄せられています。

勿論、私には真偽の判断はできません。ただ、ご当人の過去のツイート、放送作家としてのこれまでの作品は、あながち虚構と否定しきれない部分をを覗わせていますが...

まぁ、演出、ヤラセであったとしても、尊厳とまでは言いませんが、人格、品性、誇りを切り売りしていることは間違いありません。

で、結局、都民の代表としての適格性に疑問符がついてしまうわけです。



4.華

さもそれが真理であるかのように...
誰も認めたわけじゃないのに...
といった扱いで、エントリの筆者であるやまもといちろう氏の発言であるかの如く「野次は論戦の華」が批判されています。

この”野次は議場の花”といった言葉はその来歴を議会政治発祥の国である英国に求められたかと...

議場における野次の是非については賛否両論あるわけですが、総じて政治家、メディアを除く所謂一般市民には不必要な行為、禁止すべき行為と捉えられているような気がします。

政治家の場合、少なくない方々が野次を肯定しています。取り敢えず橋下大阪市長は否定されているようでが...



野次を肯定する典型的発言は、
ヤジにもいろいろありまして、これは議場の華とも言われる場合もありますし、正直、私も若いころはけっこうヤジった方でございます
でしょうか。(2013.4 安倍首相答弁)



で、”また下痢するぞ”、”種無し南瓜(真偽不明)”などと本騒動以上に酷い野次を浴びせられているわけです。


こんなブログも
やはり、政策を論ずるヤジは必要!

政治家の方々は自らの存在を誇示するために野次を肯定されるのでしょうか。眠気覚ましの役目も含めて。

これまで散々野次を飛ばしてきた側にしてみれば、今更否定もできませんし...自己否定になってしまいますから。

加えて野党にとって野次行為は牛歩戦術と並ぶ最重要な抵抗手段です。野党にとってはです。禁止されてしまうと他に何をすればいいのか...

メディアやジャーナリストも野次行為を支持する傾向にあります。飯の種にするためハプニングを期待してのことではないでしょうか。下衆な記事ほど注目されますし。

理屈は、
で引用されているように、
野次は議会における討議を活発にし、提起された問題に対し、与野党双方が深く考え、ベストの回答を模索するきっかけを与える。だから野次は民主主義のプロセスとして欠かせない
や、
だったりします。後者は訳のわからない指摘ですが...

こういった野次行為を容認する側からは、野次将軍とも呼ばれた故三木武吉氏の名がしばしば挙げられます。昨今の下品な野次と異なり、氏の野次は機知に富んでいて議場を和ませたものだ、と。

いや、場は笑いに包まれ眠気は覚めたかもしれませんが、建設的な結論は得られたのでしょうか。

是非ですね、野次によって議論の生産性が向上した事例を知りたいものです。過去にあったのでしょうか。野次った意義があった、野次られて良かった、質の高い議論を通じて優れた成果が得られた、そういった具体例です。

本論が捨て置かれ、不毛な事態へと陥った諍いしか思い浮かびません。


(続)

2014年6月27日金曜日

野次(2)

1.突沸

その後(6/5以降)も、件の女性議員について真偽不明のいろいろな噂が伝わってきています。

前のエントリで引用させて頂いた、セクハラ野次@都議会事件に関する一般論による解説では、当事者、関係者を除き、比較的早く、即ち、周知が進んでいない段階でセクハラヤジ問題が取り扱われています。

鋭敏というか、反射的、過敏なまでの速度でコメントが多々寄せられ、その吹き上がり具合は正に見事という他言葉が見つかりません。該ブログの平時のエントリにおける閑散とした様相とは様変わりでした。

これがこの騒動の率直な第一印象です。

2.多勢

寄せられたコメントは、エントリの内容に対し賛否両方あるわけですが、否定的なコメントが多いようです。で、これら否定的なコメントの中に、不倫という行為を容認、或いは追認する姿勢を感じました。総じての話です。

件の女性議員が、以前テレビのバラエティ番組で告白した御自身の過去の行状、不倫遍歴を批判する声は多くはなかったということです。

社会は不倫に対し、更に言えば、都政運営の一端を担い、相応の能力、人格が求められるはずの都議会議員の不倫に対し、何故そこまで寛容になれるのか、理解に苦しみます。

都議会議員として選出される以前の、過去の発言としても如何なものかと思うわけです。

結局の所、多くの都民が当該議員のそういった行為の当事者、関係者であるはずはなく、いわゆる他人であり、又、該行為は都議会議員の職務には影響しない、ということなのでしょうか。

まぁ、”失楽園”がベストセラーとなり、故人となったその著者も作家として評価されていた社会です。加えて、それなら現都知事はどうなんだ、といった話にもなってきますし...

有権者の民度、品性、倫理観、価値観が反映されていると言われれば致仕方なく、又、斯様に人材が払底していることの顕れかもしれません。

で、私も含めてですが、本騒動において過去の言動を問題視し、”なんだかなぁ”というか釈然としないものを感じる姿勢に対し、

過去の言動は無関係
過去をほじくりかえしてもきりがない。都議会議員として成果を出してくれれば構わない
不倫しても、政治家として結果を残してくれればどうでもいい
過去はどうあれ、未来に向っていい仕事をしてくれたらいいのでは
過去に問題を起こしていてもやり直せないような不寛容な社会こそおかしい
といった、過去を不問に付す意見が散見されます。

現在は過去の積み重ねの結果と考える私にとって頷けないわけです。一部、改心、心機一転といった語がありますが、それが確かでないならば、現在に反映されているかは不明です。自らのツイートについての謝罪と該ツイートの削除がこれに該当するのでしょうか。って、次々に流れてくる噂がす凄過ぎて並の改心では追っつかないのでは...


ちなみに、有権者の方々は該女性議員のそういった過去をご存知の上で選良として選出されたのでしょうか。気になるところではあります。

それはさておき、この騒動の舞台は東京都議会であり、役者は都民を代表する選良です。決して、中間的な都民、平均的社会市民ではありません。

やはり、倫理面、道徳面において、少なくとも平均以上の善良な一市民であることが、都民の代表としての必要条件の一つではないのかと...

法で規定された要件さえ満たされていれば、候補としては十分かもしれませんが、だからといって、議員としての職責を果たすために必要な資質、適性が備わっているとは限りません。



該女性議員の過去の言動は、平均以上の善良な一市民のものとして受け入れられるでしょうか。

そういった視点から、例えば、民主党細野衆議院議員、橋下大阪市長も同様とみることができ、選良、為政者として如何なものかと思っています。国民、市民としてとやかく言うつもりはなく、あくまで、国民の代表、大阪市の統治者としてです。

少なくとも教育行政には携わってほしくない、というのが率直なところです。倫理面、道徳面で規範にできない、言い換えれば示しがつかないということです。

しばしば、政治家、為政者を含む著名人が法的、或いは道義的不祥事を引き起こしたとしても、改心、更生しそれを上回る活躍をし、成果を出せば構わない、責めるべきではない、といった声が上がります。市井の一般市民ならば首肯できる話で再起の道は閉ざされるべきではないのは当然です。

しかしながら、だからといって市民の規範となるべき議員や為政者にもそういった言動が許容されてしかるべきなのか、甚だ疑問です。公人の不祥事や不適切な発言を他の成果と通算して容認することは、社会をミスリードする恐れがあると懸念します。即ち、公人が問題を起こしても償えば、埋め合わせれば許される、で、この時”許される”という結果が先に固定化されていると、不祥事や不適切な発言の抑止力が減じられてしまうということです。

規範であるべき立場から社会全体へのこういった雰囲気の浸透は、自律、品性のタガが緩んだ、ぬるま湯的寛容な社会へと向かわせてしまう気がします。踏み止まらせるハードルが低くなってしまい、不祥事や不適切発言は時代を経ていつまでも続いていくわけです。

2014年6月25日水曜日

野次

依然、STAP細胞問題についてその行動原理や科学研究における成果の開示と秘匿といった対義的な関係について思いを巡らせているのですが、徒に時間を費やしている内に新たな騒動が勃発し、またたく間に沈静化しました。

多くの論者が様々な立場から言及されています。そんな中、
では、寄せられた多くのコメントに対し作者自らが対応され、その丁寧な姿勢には頭が下がります。

本騒動において野次った自民党議員は糾弾され、結局、名乗りでて謝罪し、会派を離脱することで騒動は幕引きに向かうようです。ただ、野次られた女性議員は果たして謂われなく清廉だったのか、口撃される隙すら全くなかったのか、諸手を挙げての賛同には躊躇しています。この種の躊躇いが上記エントリで言及されている野次の一般論に結びついていったのではないでしょうか。

私自身の姿勢は、”本人の責に帰さない理不尽な暴力は到底容認できない”であり、この部分は微塵も揺るぎがないことを明言しておきます。該暴力には身体的攻撃は勿論ですが、騒動の原因となった野次に類する精神的なものも含みます。

――自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか――



件の自民党議員が擁護される余地はなく、糾弾されて然るべきではあります。ただ、脛に傷が見え隠れし、叩けば埃が舞い上がるかもしれない方が被害者だからこそ一般化して論じざるを得なかったかと...


その辺りの、筆者と様々な立場にある読者の捉え方の違いや価値観の相違が、誤解や齟齬、早合点、思い込み、先入観を触媒にして後々の賑やかなやり取りへと繋がっていったわけです。

以降、該エントリのコメント欄でのやりとりを材料として、この騒動の捉えられ方について思う所を雑然と挙げてみます。

(続)

2013年5月11日土曜日

進展

ここの所のアベノミクス騒ぎに覆われ、身近なメディアによるいじめに関する報道は少なくなりました。衆目を集めるセンセーショナルな事実、問題解決に向かう進展がないためでしょうか。

メディアが大きく取り上げることはなくなりましたが、一時的なものと考えます。私には依然、この問題が解決に向かっているとは思えず、手詰り状態に陥っているのでは、と憶測しています。


いじめの定義自体には曖昧な部分があるものの、いじめそのものがなくなれば問題解決ではあります。残念ながら、現時点で私は”いじめをなくすことは不可能”といった立場です。ただ、問題解決がいじめ撲滅と等価である、即ち、いじめをなくすことが問題解決の唯一の方策であるとは考えていません。いじめをなくす方策についての検討が不要という訳ではありませんが、優先すべきはいじめによる被害をなくすことに注力すべきでしょう。

勿論、いじめ撲滅を唱わなければならない、或は、撲滅が可能と信じなければならない立場の人々がいることも承知していますが...
 

先の改憲についてのエントリで、法治や遵法意識が優先されるべきであり、これらの価値観はいじめ問題と関連付けられると記しました。憲法違反すら自律的に解消できない姿勢でいじめが撲滅できるのか、ということです。

遵法意識、即ち、”何故法は守らなければならないのか?”と同じく、いじめの加害者、或は、その予備軍に対し、”いじめはしてはいけないことである”と理解、納得させることは果して可能なのでしょうか。 


道徳的、倫理的にではなく、或は、感性に訴えることなく、合理的に理解させる論理を私は持ち合わせていません。以前、”いじめの正当性と道徳教育”といった記事を拝見しました。頷く部分は多々あるものの、やはり理解、納得段階の手前で留まっているように見受けられます。

”なぜいじめはいけないのか”といった問いに対し典型的な回答を幾つか耳にしますが、未だ十分な合理性を満たしているとは思えません


”法によって罰せられるから”や”因果報応”、”己がされて不快な行為を他人するべきではない”、”社会の要請”とか、”公共の福祉に反するから”といったところでしょうが、これら事由がどこまでいじめの抑止力として働くのでしょうか。 



思い浮かんだ事例を二つ程。



麻雀放浪記

読んだのはもう三十年以上前です。

社会に出る前の学生時分の印象として、読後感はとても爽やかといえるものではなく、寂寥感を覚えました。幼い自分の周囲と無頼の世界との間の相当な乖離を感じたのでしょう。   

それはさておき、”なぜいじめはいけないのか”について考えた時、漠然と本書が思い起こされました。詳細な言葉は思い出せなかったため検索してみた所、正しくこの言葉が浮かんだわけではありませんが(他の台詞だったような気もしますが)、

――負けた奴は、裸になる。――

――年を老ったら、博打打ちらしく野たれて死ぬこった。お前さんそういう生き方をしてきたんだろう。――

――指だろうが足だろうが、千切ってどっかへ持っていくがいいや。手前等が力ずくで何をしようと文句は言わねえ。俺だっていかさまをやる人間だ。今まで力で、金を奪って生きてきたんだ。力に泣くのはしょうがねえ。だが、その力に頭を下げることだけはしねえんだ。――

確かにその言葉かと問われても確信はありませんが、こういった趣旨の言葉でした。

年端のいかない生徒、学生の口からこういった言葉を聞くならば愕然とするわけですが、意識の底流にこういった考えが潜んでいる可能性を否定できるのでしょうか。

即ち、”己も傷つけられないために他者を殴らない”の裏となる、”己が責められることも厭わないが、他者をも攻撃する”といった考えを否定し得るか、ということです。自己責任という言葉の下、両者の例は枚挙に暇がありません。

後者で受ける責めは、報復、賠償、罰だったりします。勿論、被る損害と与えたそれは必ずしも等価にはなりません。又、この場合については、結果として社会全体の損失、不利益に繋がっていく恐れはあるかもしれませんが、上記二つの姿勢は意識として対等の関係にあると考えます。


後者は他者に被害を与える行為ですが、それはあくまで行為の結果としてであって、行為の直前まではイーブンの関係です。

私はこれに坑って否定する論拠を見出せないままでいます。
報復、賠償、罰を覚悟し、更には、あわよくば逃げ切ろうという姿勢、換言すれば、開きなおりに対抗する合理的な術はあり得るのでしょうか。

解があるとすれば前の違憲状態も判決が下される前に解消されているのでは、と考えます。



スポーツ


反則や罰則に対する捉え方がスポーツの種目で大きな差異があると感じています。ラグビー、サッカー、水球といった選手同士の接触を伴う格闘技型(?)と野球やバレーボール、ゴルフといった非接触のスポーツの違いでしょうか。

例えば、サッカーの試合において、ゴール前で反則してでも得点されるのを阻止する光景は珍しいものではありません。全く以って当たり前に見ることができます。

この行為がペナルティという代償を課せられることを承知の上でなされているのは明らかです。

この時、反則か否かといった判断は審判にのみ委ねられており、審判に反則を指摘されなければ尚好ましい、といった心理もなくはないだろうと憶測します。

 ”ばか正直の飛雄馬”(巨人の星)のような実話は寡聞にして知りません。

実は反射的なものかもしれませんが、こういった行為に至らしめる意識は、スポーツという枠組内のみに留められているものでしょうか。

ある特定のルール下にあるスポーツという場、法を拠り所にして秩序を維持しようとする現実社会の場、構図自体には大きな差異はないものと認識しています。スポーツは社会の中に内包された一部ではありますが、該意識が両者の間で適切に峻別、制御されているのでしょうか。実際には切り分け、切替えは曖昧になっていると感じます。

即ち、現実社会においても、法に対する意識は必ずしも、法を逸脱したら代償を払わなければならない、或は、代償を払わなければならないから逸脱しない、といった姿勢のみで構成されてはいないと推測しています。代償を払えば法を逸脱しても構わない、或は、代償を払う覚悟で逸脱する、といった姿勢も多分にあるものと考えます。

代償と引換に違反、反則が正当化されていると捉えることができます。

スポーツの世界と現実社会を同一視するのは適切ではありませんが、メディアが臨場感やリアリティを観衆に実感させようと垣根を取り払うべく煽っている気もします。 

スポーツの世界と現実社会、法(ルール)に対し同根の意識があると考えます。こういった意識といじめの防止、どのように整合性を図るべきでしょうか。

当事者間、延いては社会全体の不利益を抑えるため、程度しか私には思いつきません。これではいじめ加害者の理解を得て納得させるには理が不十分です。

初等教育課程、家庭教育におけるこういった部分の欠如、不足がいじめに纏わる問題が燻ぶり続ける要因と推測します。

明解な論拠の提唱は現在の所、難題であると思います。新たな価値観の創出とまで至らずとも、指針になり得る論理の進捗を期待し、問題解消に向けたなんらかの光明が差し込むことを願います。

2013年1月19日土曜日

同根

勇気、元気、希望、絆と、体罰、いじめ、しごき、全て同一のプラットホームに在るように見えます。

同根ではないでしょうか。