2015年12月20日日曜日

墓穴

未だこれといった方策はなく、社会が賢くなる以外、解決には向かわないのかもしれません。善い方向に進んでいるとは思えないのですが...

定期的であるかの如くマイノリティへの口撃についての報道が後を絶ちません。先日も、岐阜県職員がツイッターに「同性愛は異常」などと書き込んでいた問題に絡み、自民系の藤墳守県議が、
――同性愛は異常――
とヤジをやじを飛ばして批判されています。で、その後墓穴を掘っています。
「子ども産むのは責務」=岐阜県議、同性婚も批判
リアル、バーチャルを問わず 日本のみならず世界中の至る所でマイノリティに対する差別的発言による舌禍は引きも切らず、学習効果が全く感じられていません。

最新では、米大統領選のドナルド・トランプ共和党候補でしょうか。

いつまでも物議を醸し続けるこの話題についてまとまりなく思う処を記してみます。結論はありません。


1.渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例を制定した渋谷区との大きな格差を感じました。第一印象です。それが岐阜県と渋谷区の寛容性、民度の差を忠実に反映したものかどうかは判りませんが。


2.上記県議から、
――生を受けたら子どもを産み育て社会に貢献する責務がある。貢献できる形を取れないことは理解に苦しむ――
といった発言がありました。責務ですか...責務として他人に強いることとは思えませんが。不妊に悩み治療に苦労している世帯への配慮に欠けた発言です。上から目線で責務などと押し付けられることなく自然にそう思える社会が望ましいかと。同性であっても、実子でなくとも養子縁組という制度だってあるわけです。こんな発言で物議を醸すより、こういった制度が十分利用されるべく尽力すべきではないでしょうか。

で、”社会に貢献したい”、”人の役に立ちたい”、自然にそう思える社会の実現には教育が不可欠なわけです。そういった教育を行う責務を果たしてこなかった一方で、他者に責務を強いる、というのも如何なものかと。今ある、こんな社会の構築の一部を担ってきたのは紛れもなく過去の現役世代(=今の高齢者)です。無自覚に自らの責任を省みない、身勝手な話かと受け止めています。


3.”社会に貢献する”、”人の役に立つ”という部分に着目してみれば、ここには”社会システムの維持といった意味合いも含まれています。その一部である、年金や健康保険といった世代間の扶助システム、後世代への負担の先送りシステムの持続には当然現行世代、将来世代の存在が必須です。少子化の加速は非常に拙いわけです。搾取しようにも、その将来世代がいなくなってしまいますから。

その意味で、将来世代→現役世代→引退世代と養う義務が”社会に貢献”を意味するならば、責務とするのもさもありなんかと。身勝手な理屈ですが、民主主義の本質ではあります。ただ、負担を先送りするシステムを利用しながら、この少子高齢化社会を招いた責任を無自覚のまま、責務などと言い放つ姿勢には反発を禁じ得ません。


4.上記例のようなマイノリティに対する差別的な発言が何に由来しているかについて考えてみます。

初めての海外旅行で米国を訪れた時、小腹を満たすため空港内のハンバーガーショップに入ったことを思い出しました。もう、随分昔の話です。列に並んでハンバーガーを購入したのですが、アフリカ系米国人の店員相手に、たどたどしい英語でどうにかこうにかハンバーガーを手に入れたことを覚えています。この店員とは緊張して話しました。海外で初めて実際に英語を使ったことは勿論ですが、相手がアフリカ系だったことも緊張の大きな理由だったかと思っています。簡単に言えば、”慣れていなかった”ということです。それまで直接対面して会話したことがありませんでしたから。

一方、マイノリティに対する差別発言は、相手が自分と違うことに違和感を持ち受け入れるには抵抗がある、自分と異なるものを排除したい、そういった感情が発露したものと捉えています。

人は群居本能に基づき、自分と同じ価値観を他人に求め、他人も自分と同じであることを望もうとします。この同質化を求める心理の裏返しとして、即ち同質化の見込みがない時、反動として排他的な差別発言が発せられてしまうのではないでしょうか。

で、慣れ/不慣れの感情の延長にこの同質化/排他の感情があるのではないかと考えます。不慣れの感情の増大が排他的な感情へと移行し、その変化は決して離散的ではなく連続的なものではないかと。即ち、著しく、全く、徹底的、極端に慣れていない感情こそがまさに排他的な感情であるということです。

不慣れと排他の感情が混在している両者の境界付近では、境界は曖昧で揺らいでいるはずです。従って、そういった位置からの発言は、たとえ不慣れな感情の発露のつもりであったとしても、差別的、排他的な発言として受け止められてしまう恐れがあることも容易に想像できます。

発言に丁寧さを欠いていたり、尊大な印象を抱かせていればなおさら、誤解や曲解は簡単に生まれ、炎上、袋叩き、撤回、謝罪へと追い込まれていきます。事例には事欠きません。

排他的な感情が生まれる芽は、”不慣れ”という新たな体験に直面した際の、受け入れるには抵抗がある違和感こそがその正体ではないでしょうか。その意味で、排他的な感情は誰にでも生まれ得る、そういった認識を心に留めおくべきかもしれません。


(続)

2015年12月17日木曜日

仕掛

ここ数年、今頃の時期になると”喪中見舞い”という語をよく見聞きします。

少し検索してみると、2001年以降から使われだした語のようです。それ以前には使用例が検索できませんでした。

で、検索された最も古いサイトは楽天市場にある、仏壇仏具通販のサイトなわけです。期間指定をせずに"喪中見舞"で検索しても線香メーカのサイトが最上位に検索されます。ウィキペディアやweblio辞書、コトバンク、或いはマナー、作法について記述されたサイトより上位です。

バレンタインデー(デパート)に通じる商業主義的仕掛の匂いを感じています。古くは土用丑の鰻(平賀源内)、婚約指輪は給料の3ヶ月分(デビアス)を経て恵方巻き(セブン-イレブン)、ハロウィン(ディズニーランド?電通?)へと続く販促キャンペーンと同種ではないかとみています。

便乗なんでしょうか、日本郵便も...喪中だろうが何か送れということなんでしょうか。
喪中のマナー
「喪中はがき」「喪中見舞いはがき」「寒中見舞いはがき」の販売開始

マナーとか気配り、心遣いといった言葉をツールとして人心につけこむ販促キャンペーンであるかの如く映ります。


すっかり死語となった、”マニュフェスト”、”アジェンダ”、”コミットメント”とは異なり、販促用語ですから今後も使われ続けるのでしょうが、義務感の押し付けにも似た作為的な印象は払拭されていくのでしょうか。

2015年12月15日火曜日

〆鯖

成城石井を訪れると、皮目が金色に輝く、いかにも脂ののったいい鯖を見ることがあります。池下、石川橋、藤が丘辺りの店の話です。

所が必ず、半身を更に二つに切り分けた切身の状態でトレイに入っています。

成城石井の来店客は〆鯖を作らないんだろうか、或いは、〆鯖を作る人々は成城石井に行かないのか、素朴な疑問です。

勿論、一夜干しを作ったって十分旨いんですがね...

2015年12月13日日曜日

孤立

一寸驚きました。

御器所で昼食を摂るため、二種のミニ丼を組み合わせたセットメニューが知られた店を訪れた時のことです。

着席後、何気なく店内を見渡すと、丼と箸を持って、食べながらテーブルに広げた雑誌を読んでいる先客に気づきました。で、丼と箸を置き、頁を繰って雑誌を持って読み出すと...食べ終わったかのかと思いきや、再び丼を持って食べ続けたわけです。同様に雑誌を読みつつです。

驚いたのは、その先客がオッサンやニーチャンではなく三十代位の女性だったことです。差別意識ではなく先入観に依る違和感と思っていますが。

大概、自身も品がいいとは思っていませんが、”なんだかなぁ”といった印象が拭えませんでした。周囲が見えないというか、自宅の延長という意識なんでしょうか。

ふと隣客も見れば、スマホをテーブルに置き、何やら横目で見ながら丼を食べ進めていました。件の女性客もこの延長という認識なんでしょうか。

”そんなことにいちいち目くじら立ててもきりがない”、周囲への目も周囲からの目も関心がない個人主義の徹底、そういった風潮を改めて実感した次第です。

2015年12月12日土曜日

下駄

先日、所用で栄に赴いた際、デパ地下をうろついてみました。何年ぶりでしょうか。

で、全く食指が動きませんでした。心躍らせる上質な食料品が見当たらないのです。美味そうに見せる陳列と能書き、”如何ですか。美味しいですよ。売り場店員の掛け声が一層、実質にそぐわない価値の底上げを感じさせます。

そういった言葉に乗せられ購入してみると、まぁ大抵は”やっぱり、こんなもんか。”という結果に落ち着きます。期待感が持ち上げられた分だけ評価のハードルは高まり、より強い満足感を求めてしまいますから。山高ければ谷深しで、当然その反動として不要な失望感を抱くことになるわけです。

一応、名古屋が本店となるデパートの食品売り場に、心惹かれる何かを求めて訪れたのですが...

なんだか以前より劣化しているように思えてなりません。

同様な印象を抱くことは特段、珍しくもなくありふれています。食品、飲食店、音楽、映画、文学といった、評価に主観的要素を排除できない、換言すれば権威主義が跋扈しがちな分野で容易に見当たります。

以前にも記しましたが、オムライスもその一例です。オムライスが売りの洋食店、若しくは専門店を訪れると、
”特製”、”自家製”、”拘りの”、”当店オリジナル”
といった語が目に入ります。 トマトソースやドミグラスソースの形容です。否定するつもりはありませんが、そういった修飾語は期待感を過剰に高めてしまいます。概してその後酸味が強かったり濃厚過ぎたりで、”う〜ん...”となるわけです。

やはりですね。
――ごちそうさま。ケチャップが妙に旨かったんだけど...――
――ありがとうございます。自家製なんです。――
こちらの方が本来なんじゃないかと。最初に自家製だの、オリジナルだのと自ら進んで梯子を登ってどうするんでしょうか。期待先行となって当然の話で、それで美味くなければ目も当てられません。却って価値を貶めることになってしまいかねません。

このエントリ中のケチャップの赤を見て、そんな思いが脳裏を過ぎりました。

巷間、販促を目的としたそういった惹句は溢れかえっています。典型は”至高”、”究極”、”絶品”、”秘伝”でしょうか。ある意味、優良誤認ではないかと思わせる如く虚飾のインフレが進んでいます。実質との乖離は大きくなる一方で、即ち、過剰な期待感が裏切られた時の失望も留まることなく増大していくわけです。リピーターは生まれず、狩猟のように次から次へと新規客を誘引せざるを得ないのではないでしょうか。

”インフレ期待の喚起”などといった金融政策で、物価上昇への誘導を目論むものの、未だ達成できていない日銀と通底したものを感じています。

言葉や画像による煽動、虚飾で見掛けの価値を無理やり引き上げることに違和感や不信感を抱いてしまいます。過剰な期待が先行し、それが裏切られて却って低評価になってしまうんじゃないか、そういった話です。

2015年11月21日土曜日

表裏

ここ最近、NHK朝ドラ”あさがきた”を何気なく見ています。

幕末から明治維新にかけて、大阪有数の両替商に嫁いだ女性のドラマです。江戸から明治の激変期、主人公のあさは貸付先である諸藩の貸し倒れを不安視し、貸付金の回収に奮闘します。

宇奈山藩の蔵屋敷に日参、足軽部屋に押し込まれるものの居座って、一部貸付金の回収を成し遂げます。ドラマ中で、貸付金の取り立てにやりがいを感じる...返してもらえるまで居座る...

現代なら、貸金業法違反では?踏み倒しが予想できたにも関わらず、貸付の申し出に応じざるを得ない封建的時代背景があったのかもしれませんが。

いずれにせよ、正当と不当、道理と理不尽を分ける境目の曖昧さ、視点による揺らぎのようなものを感じた次第です。

これはドラマにおける女性の描き方からも感じます。朝ドラには、実在の女性の半生・生涯を題材としたシリーズが数多くあります。

ドラマの進行中に太平洋戦争戦後混乱期を含むシリーズも少なくなく、そういった作品では軍部の暴走、同調圧力が、石礫、”非国民・売国奴”と書かれたビラ、盲信的な国防婦人会による虐め、憲兵や警察の横暴といった形で具現化されてきました。戦争の理不尽さ、悲惨さ、即ち平和の大切さと厭戦・反戦を伝えると共に、愚かな為政者が国を司ることへの批判が見て取れます。

そういった全体主義時代の下で体制に翻弄される民間人の弱さ、この弱さが見る者に共感を抱かせ人気を呼ぶのでしょう。
 
ただ、現政権への配慮でしょうか。本シリーズの時代は幕末から昭和初期にかけてであり、おそらく太平洋戦争期は含まれないかと。

このシリーズでは、大阪の両替商が、大名貸しの焦げつきや、銀目廃止に伴う取り付け騒ぎで窮地に陥るわけですが、翻弄されるのは有数の両替商であって一民間人ではありません。後の政商です。

明治新政府への批判的な姿勢も憚られたのかもしれません。NHKですから。

で、”だす。”、”どす。”、”お家”、”旦那様”、”びっくりポン”、”燃える石”といった語を耳にしつつドラマを眺めていると、少子化、女性の社会進出、人権という今日でもしばしば論議を呼ぶキーワードが去来します。

この時、一体このシリーズは当時の旧習、旧弊を肯定したいのか、理解に苦しむことが少なくありません。

炭鉱事業の成功に向けて奔走する主人公”あさ”と新次郎夫婦が、なかなか子供に恵まれないことに対し、新次郎の母よのは妾を囲うことを進言...

当時から、女性が働くことと出産・育児は両立させ難かったと...えーと、その答えが妾を囲う?珍しいことではなかったとのナレーションも挿入されていた覚えもありますが、肯定したいのか。

女性の社会進出もその一因である可能性を否定しきれない少子化、この対策が”妾を囲う”...一寸、いや、断じて違います。

なんだか、”家政婦は見た”とダブる、お付きの女中とか、”お家を守る”、”旦那様”...そういった旧来からの身分制度、家父長制度を含む権威主義礼賛のような雰囲気がドラマ全体に臥していて、違和感を禁じえないでいます。

そういった違和感の最たるものが、
――相手を負かそうと武器を持つ。相手は負けないようにそれより強い武器を持つ、そしたらこっちはもっともっと強い武器を持とうとする。――

という新次郎の台詞です。九州の炭鉱で主人公あさが炭鉱夫を何とか働かせようと奮闘していた時、力ずくで物事を解決することがすべてではないことを、あさに伝えた言葉です。

ISISのテロに対する欧米諸国のシリア空爆について、NHKの思いを代弁しているのだろうか?思いが過ぎりました。

ドラマ中に反戦、平和のメッセージを織り込みたかったのでしょうか。ただ、明治維新という日本の大きな転換期において、炭鉱事業がどんな位置付けだったのかを慮れば、件の言葉も”なんだかなぁ”といった印象です。
――お前が言うか?――
石炭というエネルギーが何に利用されるのか。ドラマ中では陸蒸気の燃料として取り上げられていますが、殖産興業と富国強兵という掛け声の下、軍備増強の目的で石炭が求められていたのは間違いないところです。

当時の石炭事業はどう見たって軍需産業としての位置付けを否定できず富国強兵政策の一翼を担っていたわけです。”相手を負かそうと武器を持つ”、その礎となる石炭事業の推進にあたって、件の台詞を吐かれても...

言行不一致との誹りを受けても致し方ないのでは、と考えます。

2015年11月20日金曜日

天丼

鶴舞の定食屋で昼食を摂った時のことでした。何気に配膳された丼をちらっと見れば、エビ丼のようです。

いわゆる天丼と区別するため、海老天の天とじ丼をエビ丼と称してみます。特徴は、丼ツユで海老天をひと煮立ち、或いは掻き玉の加えられた丼ツユをたっぷりかけるため、衣がクタッーとしているところでしょうか。丼ツユの味はいわゆる天丼より薄味で甘めかと。

名古屋に隣接した市の役所近くの天ぷら屋、同市にある古びた商店街の一角にある茶屋?、喫茶店?、守山の居酒屋?、定食屋?で遭遇しました。名古屋中心部の蕎麦屋やうどん屋では、古くから営業している店であってもこれまでお目にかかっていませんでした。

そのため、該エビ丼が名古屋特有の丼、いわゆる、名古屋めしであるという確信を今一つ持てませんでした。名古屋めしとして取り上げた事例も存じません。

ただ、最近になって、西区あたりの天ぷら屋でも天丼としてエビ丼が提供されているらしいことを知りました。今回の鶴舞の定食屋訪問でも、
――ああ、名古屋の天丼はやはりこうなんだ――
と改めて認識した次第です。

 それがどうしたと問われれば、それだけの話です。別段、褒めそやす意図はありません。天丼として秀でているかどうかは別の話ですから。

2015年11月17日火曜日

反攻

ここの所、ウェブサイトをふらふら巡っていると、
日清e-めんShop
の広告が目につきます。日清食品の公式オンラインショップのようです。で、覗いてみるとですね、1DAYプライス、今月のセール、Just¥99Sale、アウトレットコーナーといった特売コーナーがあったわけです。

ダブついた在庫をメーカ直売で処分売りということなんでしょうか。食品が供給過剰状態にあることは実感していましたが...
興味深いのは、卸や小売、特に流通大手からの圧力をどのようにかわして、メーカー直売を実現できたのだろうかということです。まぁ、流通大手もPBなんてものをやりだしてNBを追いやっていますから、
――お前が言うな――
ということなんでしょう。

以前、Amazonに全農直営店が出店した時も驚きました。
JAタウン
Aコープといった実店舗ととどう共存を図っていくのだろうかと。

米価市況の変化については存じませんが、ここ数年の米価の下落はなんとなく感じています。人口減や食習慣の変化による年間消費量の減少と供給過剰、流通経路の効率化、多様化に伴う価格競争がその要因でしょうか。

米価は漸減の印象です。輸入が相当の割合を占めている、麺やパンに代表される小麦製品の価格が、ここ何年かの円安にも拘らず高騰している実感もありません。

需要が増えない中、生産性が上がれば価格が下がるのは当然です。勿論、TPP合意も下落圧力です。成長戦略?生産性が上がれば価格は下がるのは自明では。

相反するデフレ解消がどう進むのか、未だ理解できないでいます。

次元

Facebook(FB)の話です。

パリで発生した同時多発テロを受け、”パリ市民の安全と平和を願うプロフィール写真を設定しよう”と、フランス国旗のトリコロールを自身のプロフィールに重ねあわせることについての是非が巻き起こっています。
yahooニュース(個人)
「イスラーム国の衝撃」の池内先生にISについて疑問をぶつけてみた結果と、自分がトリコロールのアイコンに賛同しない理由
そういった議論が活発であるほど、何とも言えない無力感に囚われます。

その一方で、
2歳長男にたばこ吸わせた疑い 無職の父親ら逮捕
幼い息子が「タバコ吸う」動画 FBに載せた両親が大炎上、謝罪するも批判止まず
同じプラットホームにあるとは思えないこの著しい隔たりに驚きを禁じ得ません。 

2015年11月16日月曜日

異状

テレ朝だかメ〜テレ壊れたんでしょうか?

11/16(月)21:40〜22:00の間、エバラの”プチッと鍋”という鍋物のタレのCMが交互に延々と流れました。一つおきに...で、もう一方は引越社と不動産情報会社”ハウスドゥ”のCMです。

よほど枠の買い手がいなかったのか、不祥事で流せなくなったCMがあったのか...

障壁(3)

先のエントリに続けます。

さて、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)は、自由貿易協定であり、以下がその目的と理解しています。
関税、非関税障壁をなくすことで締結国・地域の間で自由な貿易を実現し、貿易・投資の拡大を目指す
そういった観点から、不透明な非関税障壁が取り除かれることを希望します。上述の農業に対する国からの補助金もある意味非関税障壁です。農業国の補助金による価格ダンピングは、価格競争力で優位となり他国への輸出圧力になります。これは言い換えれば他国から流入に対する非関税障壁にほかなりません。

対抗措置としての農業への補助金拠出がやむを得ないことは先述しましたが、非関税障壁の事例はこれに留まりません。

この不透明な非関税障壁の撤廃に向けて動きなんを進めずして、声高に”貿易・投資の拡大を目的として自由な貿易の実現”と叫ばれても、なんだかなぁといった感があります。非関税障壁は自国の事情によって、”保護と自由”を裁量で按配できますから。

極端な一例を挙げれば、
――米アマゾンやe-bayからのガソリン購入は可能になるか?自動車をワンクリックで個人輸入できるか?――
ということです。

現在、1Lのガソリンには53.8円の「揮発油税及び地方揮発油税」が課されています(内25.1円は暫定税率分。ガソリンの精製元となる原油ほぼ全量を輸入に頼っているのは言うまでもなく、いわゆるガソリン税は見方によっては関税ともみなせます。更に、消費税との二重課税になっている部分に目を向ければ質が悪いなぁと。二重課税の合理的理由も存じません。

物流に関わる情報技術は、自由な貿易の実現による恩恵を消費者が直接に享受できるまでに進歩しています。米アマゾンからガソリンが販売されることを強く希望します。

ちなみに、ガソリンを米アマゾンから購入するということは、個人レベルの消費量を輸送するという意味ではありません。ガソリンを入手できる商品券のような権利を米アマゾンから購入するということです。図書カードやデパートの商品券、ビール券と同様な証券がガソリンにあってもいいんじゃないでしょうか。それを購入して国内のスタンドから給油するといった枠組みの話です。

元々手掛ける気は毛頭ありませんが...――自動車の個人輸入――少し調べてみましたが、代行業者が存在する程度の、かなり手間と費用が必要のようです。

運送費、右側通行仕様から左側通行仕様への変更費用はともかく、ローカライズやその検査費用...非関税障壁と受け止められなくもありません。自由な貿易の実現には未だ遠い道ではないでしょうか。

2015年11月15日日曜日

催事

時折、アピタで買い物をします。で、お客様感謝デー?、UCSカード会員さま 特別感謝デー?だったかに行くこともあるのですが、その度に気分が滅入るというか、不快な場面に遭遇します。

特段、アピタ特有という事ではないはずですが、妙に印象に残っています。思い起こしてみると売り場の効率の悪さに由来しているような気がします。スムーズに買い物ができないことにイラッとしているのかも。

そういった催事(?)の日の午前中は駐車場も満車で空き待ちの列を作ることもあるようです。掲示がありました。で、来店客の店内の滞留時間が長ければ入れ替わりは進まないだろうな、と...効率良く買物ができれば店と客、双方に無駄な滞留時間がもう少し短縮できるんじゃないかと思った次第です。

根本は、店の規模、通路、ショッピングカート、子供用カートの幅、大きさのバランスが悪すぎ、ということに尽きると考えます。これに催事特有の試食コーナー、来店客の民度なのかモラルが触媒となって苛つきを増幅させるわけです。

店内の通路幅に比して、ショッピングカート特に子供用カートが大き過ぎてすれ違えない場所があります。通路の交わる辺りは、行く手を阻むかの如く、一時的な特売品が山積みされていたりして対向客との交互の通行を余儀なくされます。

通常でもこの有様です。上記催事日になると更に試食コーナーが設けられるわけです。至るところに...

方々で鳴り響く試食を勧める声が気に障らないわけではありませんが、それよりそこに群がる客をもう少しなんとかできないのか、と滅入ります。正確には通路中央に放置されているカートと、そうやって通路を塞ぐことに何ら思いが及ばない試食客の態度に失望することしきりです。

友人だか知り合いの二人がそれぞれ押しているショッピングカート、或いは、親子がショッピングカートと子供用カートを通路に放置して試食テーブルに向かう...
”他の客の通行を阻むほど大したもんじゃないから”
口には出ていないと思います。

他にも主はどこに行ったのか、商品満載で通路中央に放置されているカートはよく見ます。夫婦は通路中央で商品を指さし品定め、こっちの女性客達はカートを脇に立ち話...さして広くない通路を自分たちが塞いでいるという意識が持てないのでしょうか。滅入ります。一部呟いてしまったこともありました。

後ろを確かめず後退、周囲を見ずにUターン、商品に目を向け、脇見したままカートを押し進んで対向する客を全く避けない、譲らない、自動車であれば大惨事続出です。この辺りはどこのスーパーでもよく見かける光景ですが...

おそらく、上述の通路の狭さとカートの大きさ、試食コーナー、混雑具合、そういった諸処の要因が相互に組み合わさって、アピタ店内の動きにくさを際立たせているのでしょう。多くの来店客で賑わったとしても、”滞留時間を長引かせるだけで効率良くないなぁ”が素直な印象です。
ファミマとユニー、統合合意でも待つ障害
最大の課題は総合スーパーの不採算店閉鎖にある。佐古社長は約230店の2割以上に相当する「最大50店閉鎖」との一部報道については否定するが、「(閉鎖は)是々非々で考えていく。契約満了や継続的な赤字が続いている店舗もあり、これを機に集中と選択を進める」と話す。実際、「前期末では経常利益段階での赤字店舗が4割に達している」(ユニーグループ幹部)としており、水面下では数十店規模での閉鎖を予定しているようだ。
なんとなく頷けてしまいます。イオンに負けじと対抗していこうということでしょうか。でもまぁ、そもそもイオンが...

その後バローの某店舗に立ち寄ったのですが、その閑散とした清々しさといったら...実に心地よいものでした。広い通路を縦横無尽に動き廻ることができる、自由を満喫致しました。ありがたい話です。いや、決してバローが流行っていないということではなく...平日の中途半端な時間だったからなんですが。


付記

ところで、陳列棚から商品を手に取り品定めして、価格、消費期限、品質だかの理由でしょうが、不要とみるや商品を戻のに放り出すような光景をしばしば目にします。概して六十代以上の年齢層で性別問わず見かけます。


”食物を粗末に扱うな”といった注意を、子供時分に耳にした憶えがあるのですが...自身が購入品ではないから関係ない、ということなんでしょうか。

勇気

勇気があったら...

以前のエントリで、某食品メーカの釜飯の素について記しました。自宅のIH炊飯ジャーを使用して釜飯を炊いた処、ソレはもう何とも不味い代物が出来上がった話です。食品メーカや炊飯器メーカに問い合わせて一応の理解を持ち、機会があれば再度試してみると...

実は、機会があって二度ほど該シリーズの釜飯の素を使いました。但し、炊飯用の土鍋で炊きました。問題なく、上手くできあがったわけです。

現時点で、箱裏の能書きに
※IH炊飯器では美味しく炊けません。土鍋を使用して下さい。
の一文が加わっています。私の脳内で...

で、再度慎重に”よくかき混ぜ”てIH炊飯器で炊くかです。二の足を踏んでいます。臆病者です。上手い方法が見つかったのに、あえて挑戦するか?

いや、失敗はいいんですが、あの忌まわしい食物を再び片付けなければならないことを想像すると...

勇気が欲しいです。覚悟でもいかもしれません。

2015年11月13日金曜日

障壁(2)

前のエントリから続きます。

翻って農業分野を鑑みてみた時、果たして日本の行政府は、自国農業の持つ課題を解決すべく真摯に取り組んできたのだろうか、疑念を拭えないでいます。

件のTPP合意に関連し、日本の果物の安全性、美味しさを自賛し、果物の輸出拡大に活路を見出すべき、といった論をしばしば目にします。ドバイやシンガポールの富裕層に、自国内消費者からは信じ難い高値でスイカ、メロン、桃を売る...果実生産者の一部は生き残るでしょうが、違和感を抱きます。果物という嗜好品の輸出で国内農業の衰退が食い止められ、成長産業化が可能なんでしょうか。少なくとも食料の国内自給率に象徴される食料安全保障の状況は、さらなる輸入食料の流入で改善どころか弱体化が進むのでは、と危惧します。

工業製品と同列の比較が適当というわけではありませんが、例えば強引に自動車産業と対比してみます。日本国内の自動車市場は、乗用車分野では輸入車が一定の割合を占めるようになって久しく、今後もこの傾向は変動があったとしても続いていくでしょう。”人や物資を輸送する”といった機能以外の部分、例えば、走行性能、所有欲、個性、見栄といった嗜好や趣味が車種選択に影響を及ぼしますから。消費者から選択の多様性も求められています。

ところが、輸送や移動といった自動車本来の機能が優先される、トラックやバス等の商用車については国産車のほぼ独占です。

需要が消費者の嗜好に依存するフェラーリやポルシェといったスポーツカーメーカだけで当該国の自動車産業は維持できるのでしょうか。やはり、商用車メーカーとしてのVW、メルセデス、フィアットがあっての自動車産業ではないだろうか、ということです。

諸外国の富裕層向けに上質な果物を高値で輸出、というのはなんとなく農産物のフェラーリやポルシェを目指しているんじゃないか、と連想させます。このことを否定する意図は毛頭ありませんが、商用車に対応する、自国内の穀物、野菜、酪農、畜産といった基盤となる食料生産を蔑ろにして、高級果物の輸出生産が成り立つものなんでしょうか。

果物という嗜好品の輸出で稼いで、主食や飼料とる穀物、畜肉を輸入する...釈然としません。”だからこそ、備蓄と国際友好、平和外交を...”という声を理解できなくはありませんが、想定から目を逸らして
―― 全電源喪失はありえない――
で、福島原発はどうなったか、という話でもあります。

それじゃどうするんだ、という話になるわけですが、国内農業の生産性向上を図るのは当然として、やはり補助金政策に頼らざるを得ない、と思っています。

消極的ですが補助金農政を肯定する、ということです。ダンピング価格で流入する輸入食料には対抗ダンピング以外に方策があるのでしょうか。ある意味チキンレース、消耗戦であるのは否めませんが...

だからといって、既得権化した従来制度の延長に対しては全く支持できません。
田舎移住した人を待ち受ける落とし穴
両親が過疎地に移住しました。
「過疎地に若者を呼ぶにはまずそれだけのメリットを与えなければならない」という現実 対する画期的な案

問題の根幹は、こんな処にあるような気がします。TPP絡みの農業支援としては、

TPP対策 農業支援「15年以上」 政府・与党素案 牛肉配慮し長期間に
牛・豚肉、赤字の補填割合9割に 自民、TPP対策
といった報道があるわけですが、ガット・ウルグァイ・ラウンド合意時の経験は織り込まれているのでしょうか。

該合意時に拠出された莫大な農業合意関連国内対策事業費、行政の無謬性を自覚した上でこの費用対効果の検証を糧とすべきです。単に赤字の補填では...国内農業の生産性向上をどのように図っていくか、ここに合理的なビジョンが示されない限り同じ愚の繰り返しです。


明治政府の”富国強兵”、”殖産興業”以降、戦後高度成長期の”兼業農家”、”三ちゃん農業を経て現在に至るまで、労働力を工業へと振り向ける政策が採られてきたように思います。その流れは未だに歯止めがかからず、離農率や耕作放棄地の増大に繋がっているわけです。

以前、TPPに対する是非論が闘わされていた頃、NHKの朝ドラ”花子とアン”が放送されていたかと。このドラマで描かれていた、日本農業の源流である明治〜昭和初期の貧農の姿を見て、生業としてではなく産業として日本の農業には可能性はあるのだろうか、ぼんやりと思いが過ぎりました。

勿論、時代は全く異なり、当時とは様変わりしていることは承知しています。ただ、当時の地主-小作農の関係は早期に会社形態の農業組織を実現する機会となり得たはずです。厳しい封建主義的関係から脱し、上手く近代化されればの話ですが...こういった農業組織が現代に引き継がれていれば、今ほど農業は衰退しなかったかもしれません。勝手な想像です。

現実には、戦後、GHQの強い力による農地改革で、農地は小口に分割され各々の元小作の所有となったわけです。系はエントロピーが増大する方向に進みます。農業の生産性向上の一策として農地の集約を考えた時、GHQの強制力で分割離散した農地を再集約するには、該強制力以上の強い力が必要でしょう。バラバラにするのに要した以上の力でなければ集約させまいとする抵抗力に打ち勝てません。GHQ以上の力?難しい話です。

この難しさ、実現可能性の低さが農業への補助金拠出に対する拒否反応の根源になっている気がしなくもありません。


(続)

2015年11月3日火曜日

販促

巷間、横浜傾きマンション問題の話題で持ちきりです。収束の兆しは一向に見られません。

一方、ネット上では密かにステマの疑念が払拭できないノンクレジット(広告主の名前を表記しないこと)広告の話題が、こちらも依然燻り続けています。下記は代表例です。
ベクトル社が名指しステマ記事にホームラン級にアレな反論をして広告業界大困惑の巻
思ったところを少し。

広告は物品、サービスといった商品の販売側が売上を上げるための手段です。ところが、売り手側からの商品の情報提供はしばしば誇大広告になりがちで、商品の価値が底上げされています。様々な媒体に掲載された広告による商品選択、消費活動を通じて、消費者側も売り手側から発信される広告の欺瞞性をなんとなく感じ取っているわけです。

そこで、ウェブ上だけでなくテレビ、ラジオ、雑誌といったあらゆる媒体で、消費者側からの声、いわゆる口コミや、専門家と称されるライターのレビュー、比較記事が重用され、広告としての役割を担わされるようになってきています。

使用者としての評価は購入者の側に立った有用な情報、専門家としての評価は客観的な情報であり、商品選択、購入の判断に大きな影響を与えます。

で、こういった情報の発信者と販売側に何らかの金銭の授受があった場合には、情報の真偽、信頼性如何に関わらず、当該情報にはその旨表示せよ、という話です。

この時、風味、面白さ、洗練、格好といった主観に基づく評価はともかく、計測可能な仕様情報の提供に対してすらそういった扱いが要求されるのだろうか、との思いが去来しました。例えば、長さ、重さ、速さ、時間、温度といった客観評価には恣意性は込められないんじゃないかと...

例えば、上記エントリ中でリンクされている、
【ステマ症候群:拡大版】iPhone商戦の陰で広がるステマ記事発注の舞台裏
では、
記事の書き手は、東京メトロ銀座線の各駅で、NTTドコモ、KDDI、ソフトバンクという通信3社それぞれのiPhone6sの通信速度をアプリで計測。その結果、銀座線の19駅のうち13駅においてau(KDDI)が勝利したと調査結果を掲載している。
とあるのですが、誰が測定しても同じ値となる測定法を採用しているならば問題ないのでは、と思った次第です。広告主であるKDDIでも競合となるドコモ、ソフトバンクのいずれが測定しても測定値の優劣に揺るぎがない、そういった客観的手法で得られた、事実を用いた記事ならばノンクレジットでも容認できるのではないか、ということです。

とは言うものの、理想に過ぎない話でしょうか。昨今の様々な企業不正を鑑みれば、測定値ですらその信憑性に疑問符を付けざるを得ないのが実状です。測定値の改竄、流用(旭化成建材杭打ち問題)、不正ソフトによる規制クリア(VW排ガス不正)などが明らかになっていますから。

不正とは断定されずとも、評価に際し、”当社比”従来比”同クラス内での比較当社測定による、等の枕詞は頻繁に目にします。さすがに、数値で表示される評価で”個人の感想です”といった注釈を見たことはありませんが...

いずれにせよ、企業倫理の問題に行き着く話です。ステマだとか誤認といった欺瞞的な広告以前の不正事件が頻発している現状です。違法ではないノンクレジット広告、ステマを自粛すべきと認識する、そういった誠実さを企業にどこまで期待できるのか、疑念を拭えないでいます。 

2015年11月1日日曜日

従順

江戸末期のええじゃないか騒動を連想させる一方で、平和な民主主義社会の一側面を象徴しているのかもしれません。
ハロウィーン 渋谷
【速報】渋谷駅カオス!ハロウィンで完全に制圧される!DJポリスもただの「DJ」になってしまう!
ルキウスさんのエントリ、
ロイ・アンダーソンを考える
では市場原理主義=刹那主義について記されていますが、この刹那主義的要素は、実は民主主義にも内包されている、そう思えてなりません。

”その場に居合わせたみんなの合意”に基づく民主主義は、刹那主義でもあるわけです。おそらく民主主義の無謬性のようなものがあって、合意に対する賢愚、是非、善悪の判断をさておいてしまうような気がします。

不利益は他国や後世に追いやるということです。

ところで、渋谷スクランブル交差点辺りの中継映像を見ていて、先日のSEALDs含む安保法案反対のデモの比ではないなぁ、と素直に思いました。権威に対する従順さは真逆かもしれませんが。

ハロウィンの群衆と該法案への支持不支持が繋がる理由はありませんが、社会のマジョリティはそういうことなんだと。改めて実感した次第です。

暴動の一つも起こってもおかしくないあの群衆が、概ね粛々と警察の指示に従って行動している、というのも不思議ではありました。羊と羊飼い、牧羊犬の関係を連想させました。至るところに糞を撒き散らす(ゴミを散らかす)マナーの悪い羊であっても羊飼いには従順でした。

そういった羊の群れあの宰相を擁する社会を選んだ、受け入れたのか、或いは連綿と引き継がれたそういった社会が羊の群れを生み出してしまったのか、興味は尽きません。

2015年10月25日日曜日

ビラ

公職選挙法の寄附行為にあたるのでしょうか。
島尻安伊子
ポスターとしての価値がマイナスなのでカレンダーの価値で相殺しているとみれば、問題ないのかもしれません。まだマイナスかも...

かつて、団扇としても使えるかもしれない、討議資料、ビラの配布騒動を思い起こしました。選挙管理委員会の証紙付きであろうとなかろうとどうでもいいんですが。
蓮舫さんが「うちわ問題」で勝利したワケ
この時もですね、
”討議資料としての価値がマイナスなので、団扇で損失の補填を図りましたが埋め切れませんでした。”
と応じるのが適正ではなかったかと思った次第です。

ちなみに

看過

連日、杭打ちデータ改竄による横浜市のマンション傾斜問題に関する報道が巷を賑わせています。
横浜市のマンション傾斜問題
こっちの問題を覆い隠さんばかりです。
「盟主」巨人から賭博選手がボロボロ出てくる 「平成の黒い霧になるのか」疑心暗鬼のプロ野球界
絶好のタイミングです。そういった力が働いているのでしょうか。

それはさておき、件のマンション傾斜問題で、どうにも腑に落ちない疑問が思い浮かびました。問題の発端は、マンションの棟と棟を繋ぐ渡り廊下の手すりに2cmの段差が床には1.5cmのズレが生じていたことのようです。で、市建築局が確認、三井不動産レジデンシャルが52本の杭を調べた結果、虚偽データを使用した施工不良が明らかになったと。

このズレが生じた部分は、電車に例えるならば連結部に相当するのでは、と思ったわけです。マンション各棟に生まれる応力や歪を吸収するといった役割は全くなかったのでしょうか。ズレが生じたことを肯定するという意味ではなく、杭の上に建築された棟の、居住部分の傾きとの関係はどうなんだろう、ということです。

杭の施工不良で棟が傾斜してしまったのであれば、居住部分の床も相応して水平がずれてしまっているような気がします。ただ、住民の方々の居住部分や棟内の共用部分についてのズレや傾きは報道されていないような...

そういった意味で、件の手すりの段差や床のズレは、果たして、杭の施工不良によってのみ生じたのだろうか、よく判りません。杭の施工不良と渡り廊下の手すりの段差、床のズレの間の関係について説明が不十分なような気がします。

又、該杭の施工不良は杭打ち作業の現場管理人?責任者のずさんな施工、施工データの改竄によるとされています。杭の長さが足りなかったと...支持層に到達しなくとも打ち込めるだけ打ち込んで届いたことにしようと...

 設計に基づいて資材を用意していたなら、通常資材は余らないのでしょうか。その時点で異常に気づけたんじゃないかと。杭の太さ、長さといった規格、打ち込む本数、位置、深さが設計され、設計に基づいて用意された資材を指示通りに施工した...

元々の設計ミス、支持層までの距離の見積り不足の可能性も否めない...素人の勘ぐりです。用意された資材で指示通りに施工した、それを杭の打ち込み不足と非難されても...確かに支持層に到達したことの確認作業を怠った責任はあります。

しかしながら、この確認作業で打ち込みが不十分、且つ資材も不足といった事態に直面した時、
どういう対応をすべきか
それは現場の判断のみで十分か
責任の所在は何処に求めるか
そういった危機管理というか、トラブルシューティングの仕組の不備こそが問題の根幹であると考えます。元請けや設計会社に施工不良の原因があっても、下請けの施工会社がその責任を負わされるのか、といった話です。
建て替えとなった場合は、販売会社の三井不動産レジデンシャルや施工会社の三井住友建設と費用負担を協議する
旭化成側の発言ですが、この辺りに”一方的に責任を求められても...”と元請けや販売会社の押し付け体質に対する反発が滲んでいます。と記していた処、
マンション傾斜の発端は三井住友建設のミス…短いくい発注
といった記事が...本問題は発覚した一例ですが、氷山の一角のように思えてなりません。

2015年10月20日火曜日

障壁

時流に乗ってTPPについて少し記してみようかと。門外漢ですが...

TPP環太平洋連携協定)による関税撤廃品目の全容が明らかになりました。
TPP重要5項目 3割174品目の関税撤廃
TPP「関税」撤廃するモノ 残るモノ
(TPP協定)における工業製品関税 - 経済産業省
驚いたのは11年後とはいえ、革靴の関税撤廃が決まったことです。国内事業者保護の名の下、30%又は4300 円/1足という税率が撤廃されるとは思ってもみませんでした。

この理不尽な高税率は様々な事情によるもので、撤廃には至らないかも、とみていました。

撤廃までの11年、又撤廃以降も保護、競争力育成、振興、対策、合理化といった名目で無駄な国費が投入されないことを願うばかりです。

ガット・ウルグァイ・ラウンド合意で徒費した農業合意関連国内対策事業費(6兆100億円)の轍を辿らないという理由が見当たらないのです。規模はともかくとして。

で、TPPと言えば取り敢えず農業が俎上に上がるわけです。安価な輸入農産物が国内農業を壊滅に追いやる、と。

農業については不案内で傍観者の立ち位置から記すことになりますが、素朴な疑問を少し。


自由主義経済社会にとっては、自由な物品の交易こそが生命線です。モノの動きの駆動力は、原則として需給と価格、機能、品質といった競争力のみに依るべきであって、保護主義に基づく関税制度は円滑な流れを阻む抵抗以外のなにものでもないとみています。

そういった理由で例えば繊維製品、陶磁器などかつて隆盛を誇った産業が衰退の道を歩みつつあるのではないでしょうか。電気、電子製品も競争力が低下しつつある現在、その今後が安穏とできる状況とは言い難いのは明らかです。

では、農業を特別扱いして、国内産業保護が声高に叫ばれる理由は何かと考えれば、やはり就労人口や、食料安全保障に関わる自給率が想起されます。農業従事者の生計のみならず、国民全体の健康や生命に影響を及ぼす事態が生じかねないということなんでしょう。

この辺りが例えば他の産業に対する見方と異なるというのは十分理解できます。ただ、だからといって関税や補助金によって国内農業を保護すべき、という論に手放しの支持はできないでいます。保護の農政は即ち既得権も維持されるという事であり、国全体の生産性低下を意味します。

一方、農業国である米国やフランスでもあっても、食料安全保障や競争力維持のため、補助金が拠出され農業従事者の所得補償に充てられていると漏れ聞きます。

大雑把には、輸出国の農業従事者は大幅にダンピングして農産物を輸出し、輸入国の購入者は輸出価格に関税が課税された農産物を購入していると受け止めています。

農産物輸出国の農業部門の国庫は赤字で、輸入国の農産物にかかる関税による税収は黒字ということでしょうか。後者に該当する、例えば日本では該黒字は国内農業への補助金や所得補償に廻されていくのでしょう。では、前者に該当するフランスや米国では赤字をどのように埋め合わされているのか、何がダンピングの原資となっているのか、興味のある処です。

これは例えば、大規模量販店がある商圏に進出、不当廉売で当該地域の小規模店舗を壊滅させた後、市場を独占する、そういった構図に似たものを感じないわけではありません。日本国内ではシャッター商店街としてよくある話です。まぁ、誤算だったのは高齢化、人口減少に伴う購買力の低下と物流技術進化に伴う通販の増加でしょうか。今日、大規模量販店であっても不採算店の撤退が盛んに報じられています。
ヨーカドーもアピタも…大型スーパー“冬の時代” 店舗閉鎖ラッシュ、消費者ニーズに対応しきれず
この不採算店の撤退の話も含めた、そういった自由主義経済の仕組を農産物貿易にそのまま当て嵌める、これを是とするのは躊躇を覚えます。
”ことさら国内農業を保護する必要はない。競争力のない国内農業から撤退して安価な外国産農産物を輸入すればいいじゃないか。”

そういった声があがるであろうことは承知しています。国際秩序が保たれている状況ならば合理的な話です。しかしながら、国際間に経済的、政治的な摩擦が予想される場合、食料は外交上の取引材料として使われ得ます。水産物、農産物といった食料が、エネルギー(石油、天然ガス)鉱物資源(鉄、銅、アルミ)に続く戦略物資であることは間違いありません。

輸出国による補助金に与って、日本の食料供給は割安価格の輸入に傾倒していく、TPP合意でこの流れが更に加速していくのは明らかです。ここで、食料という戦略物資の供給をどこまで他国に委ねられるだろうか、依存してしまっていいのだろうか、といった疑問が生じるわけです。

需給が緩い時、買い手市場の場合、いわゆる平時ならば問題ありません。しかしながら、気候変動による不作や災害、輸出国との関係悪化や紛争といった不可避の要因によるタイトな市場、売り手市場になった場合、食料輸入国は該市場の緊張に対する備えを持ち得だろうか、という話です。

不作や戦乱などで食糧危機が起こった時、農作物の価格は高騰しますし、又、自国優先で輸出制限もするだろうことは十分予想できます。この時、自国の食料供給を割安な農産物の輸入に頼り切った国家は、高騰した価格を甘受せざるを得ないわけです。おそらく、自国農業は衰退しきっていて食料供給に関わる扇の要を押さえられていますから。

戦後日本の、米食からパン食への食習慣の移行もその一例かとの見方も否めませんし、先々、捕鯨に対する規制というか締め付けの取引材料とされかねないことも容易に想像できます。

構図は、ほぼ全量を輸入に依存している原油や天然ガス、その他レアアースの場合と類似しています。相違は輸入依存度と自給可能性の多寡でしょうか。そういったエネルギー資源、鉱物資源に乏しいことは、かつてのオイルショックで実感させられた通りです。依然として、為替や産出国の思惑に右往左往させられ、資源獲得競争の真っ只中にいる状況には変わりありません。

数年前、石炭、鉄鉱石等、資源価格高騰の頃、円高基調であったにも関わらず周辺国に買い負け、といった話題も記憶に新しいところです。

こういった経緯から、日本は工業立国を志向する上で最重要の資源問題に比較的地道に取り組んできたと思っています。それは備蓄、資源国からの利権買取や共同開発、資源探査、新エネルギー研究、省エネ技術の開発であり、当時の是非の判断の正当性はさておき、原子力の利用もその一つです。

自然エネルギー(太陽光、地熱、風力...)の発電への利用、高速増殖炉、核燃料サイクルの開発、核融合の実証は勿論、工業製品の小型、軽量化、高耐久、高効率化、全て資源問題の改善へと帰結していくわけです。


(続)

三択

テレビからタレ流される情報バラエティ番組で、実に常套的な手法として、三択のクイズ形式があります。

例えばNHKあさイチで、料理、健康を含む生活に関わる様々な小ネタ、裏ワザ、ちょっとしたコツといった、何か目新しい情報を伝えるのに多用されています。

この時、三択のクイズ形式ですと、必要な情報一つに二つの誤りが付随してきます。最初に正しい情報が示され、その理由を問う形であっても二つの不要な情報が示されるわけです。

情報の希釈による、電波、時間といった資源の甚だしい浪費を思わせます。一分で伝えられる情報に何故五分も費やすのか、不思議です。もう少し要領よく、記憶に留め置けるようなやり方はないのでしょうか。

尤も、視聴者が明確に記憶してしまうと、類似した内容の焼き直しが難しくなりますから、適度に忘れるような伝え方を選んでいるのかもしれませんが...

一つの小ネタを拡げ、他番組(あさイチ↔ためしてガッテン)で使い廻す...更には再放送して時折総集編を制作すると。制作側からすれば少ないリソースによる効率的な番組制作ということでしょう。

ただ、視聴者側からすれば、無駄が多くて実になる部分が少ないなぁ、というのが正直な印象です。もう少し何とかならないものでしょうか、公共の福祉のために。

2015年10月19日月曜日

学習

漫然と民放、特に民放のBS放送を眺めれば、放送内容はテレビ通販ばかりです。特段珍しくもなく、健康食品絡みの通販がかなりの割合を占めていることにもさほど驚きはしていません。いずれ記すかもしれません。

ただ、先日思ったのですが、やたら流れているような気がします。フライパンの通販が...

よくわからないのですが、世の中、それほどまでにフライパンが欲しがられているのでしょうか?不思議でなりません。

大方のセールスポイントが焦げ付かない、油不要とか、手入れの容易さだったりします。そういった機能を付与するコーティングの耐久性もセールスポイントでしょうか。

で、アマゾンや楽天といった通販サイトのレビューを見ると怨嗟の山が築かれているわけです。
”購入後数ヶ月の使用でこびりつくようになった”
これが代表的なコメントです。であれば、1年2年と経過していくに従い、こびりつくフライパンが幾何級数的に増殖していくのでしょう。重量比にすれば極僅かな、おそらく表面数〜数十μmのコーティング層の劣化、損傷がフライパンとしての機能を死に至らしめ、金属屑、ガラクタの山を築いていくと。

となれば、次のこびりつかないフライパンを探す必要に迫られます。”そういうもんだ”と、消耗品として購入→使用→廃棄の逃れられないサイクルに囚われてしまっていくということです。
料理道具のプロが語る!メーカーが絶対に教えないフライパンの売り文句の真実②
フッ素樹脂加工したフライパンのテスト
フライパンの磨耗テスト
鉄のフライパンを使い続けていて買い換えたことがない側からすれば、一般に、どの程度の耐久期間があれば不満が出ないのか、興味深いところではあります。

併せて、何故そこまで表面加工されたフライパンに拘るのかも不思議でならないわけですが...

2015年10月17日土曜日

去勢

――圧倒的な「第一党」は無党派層なのだが、国民の過半数を占める彼らを代表する政党が存在しない。これが日本の最大の不幸である。―― 
安倍首相はなぜきらわれるのかといったブログエントリにあった文言です。

で、以前のエントリに記したように、
近年の選挙における選択の動機は、当たりクジなど入ってないことを承知し、その上で消去法によって如何にマシな外れクジを選ぶか
といった状態から全く進展がありません。だからといって、選挙で票を投じないという行為には批判的な声もあるわけです。

例えば、
参院選迫る:投票したい人がいないから棄権、抗議の白票はイカン

選挙権のないひとりからのお願い、再び
といったブログエントリがあり、選挙にいかない奴は政治に参加していない、義務を果たしていないとか、投票しければ何も変わらない、といった声があるわけです。

――白票、棄権は白紙委任だ。最大政党に白紙委任したのと同じ。――
このことに異論があろうはずはありません。ただ、投票を棄権する有権者層は、政治に関心がない層とコミットする意思はあるものの意図的に棄権している層から構成されているはずです。白票を投じる有権者層からは勿論、政治に参加する意思が伝わってきます。

つまり、全有権者中に一定程度の割合で、政治にコミットする意思があるにも拘らず、無効票とされてしまう有権者が存在している、ということです。

無批判、盲目的、或いは、義理人情で候補者を支持し賛成票を投じる層がいる一方で、全ての候補者に対し不支持の意思表示をするために棄権、若しくは白票を投じる層は、その対極との見方ができます。

この時、両者の意思は、果たして平等に扱われているのか、公平に選挙結果に反映されているのかを問うてみれば、やはり片手落ちではないかと。

――不支持の意思は選挙結果に反映させない――

そういった不公平性が解消されないまま続いているのは、現行の選挙制度の不備であり、制度設計者、運営者の怠慢ではないでしょうか。賛成、支持、信任に対応した反対、不支持、不信任という選択肢がない制度は、実は公平性に欠いているのではないか、ということです。

”賛成”の対義語は”賛成しない”ではなく”反対”です。

やはりですね、もう少し漏れ無く、公平に民意を汲み取る制度設計が必要ではないかと考えます。

ただ、残念ながら、”誰が実行するか”の”誰”が見当たらないのです。この行き場がない民意の受け皿を設けようという姿勢は何処からも感じられません。

世界の中で日本の投票率が突出して低い、とするつもりはありません。独裁だったり、民主制だったりと、各国の国家運営の根幹や、元首や代議員の職責の重さ、といった政治体制が異なりますから。有権者の投票意識と投票率を結びつけた比較は困難です。

ただそれでも、少なくとも日本において、低い投票率に対し、
”有権者の意識が低い、政治についての関心が薄い”
と片付けることには違和感を禁じ得ません。

首長や議院を選出する選挙において、その制度の不備を疑うことなく低投票率のシステムを運営、維持し続けている、そういった現状に関し怠慢という認識は生まれないのでしょうか。政官学各々についての話です。

例えば、無党派層の意思を選挙結果に反映するといった、自らの不利益を顧みることなく、選挙制度を変革していこうとする政党、人材の出現を待望しています。

折しも、2016年の参議院選挙から、選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法が施行されます。それに伴い、高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」が総務省と文部科学省から作成されました。学校現場における政治や選挙等に関する学習の内容の一層の充実を図るためとあります。
政治や選挙等に関する高校生向け副教材等について
高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」について
こういった資料を利用した、高校生への政治や選挙についての指導、教育が、現状に対する問題意識を摘み取ってしまいかねないことを懸念します。

国家に限らず、組織、団体、個人は、自らの存在、行いを自発的に否定することはできないのです。自らは常に正当性を主張し、過ちを自認するには相当の困難を伴うわけです。

そういった無謬性を排除できない国家による教育は、自ずと現状を是認することに他なりません。”今は絶対的に正しい”、そういった認識下、政治に関する教育によって”現在が最良”と摺り込まれてしまうと、異を唱えたり、疑問を抱くことを封じる力が生まれます。

これは現体制にとっては好都合です。体制に抗わない従順な有権者層を拡大できますから。そういった思惑が意図されてか否かは存じません。ただ、現行の枠組みの正当性を尤もらしく騙って疑わせない、それを否定し超えていこうとする意思を抑圧してしまう、少なくともそんな方向にだけは進まないことを願って止みません。

2015年10月12日月曜日

狭間

一寸フィクションの読み物について記してみようと思います。

先日、NHKスペシャル「作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~」の再放送を何気なく眺めていた時のことです。

山崎豊子氏と言えば、
白い巨塔→大学医学部華麗なる一族
 山陽特殊鋼-倒産
 不毛地帯伊藤忠商事-瀬島龍三
大地の子中国残留孤児
沈まぬ太陽→日本航空-御巣鷹山
運命の人外務省-沖縄密約-西山記者
といった作品が思い浮かぶわけですが、同時に、モデルとなった実在の社会的事件、団体は勿論、個人までもが特定できてしまいます。

作者の構想のもとに作られた虚構の話である小説において、実在の事件、人物を題材にすることは読者に現実感を抱かせるには好適な手法です。

事実や史実、及びそれらに対し読者一般が抱いている先入観、そこに嵌合するように人間的魅力にあふれた虚像をはめ込んでいくと。で、虚実入り混じった、何処までが事実かがにわかに判別できないモザイクができてしまうわけです。

こういった手法は特段珍しくもなく、司馬遼太郎氏、松本清張氏始め、著名な数多の作家が創作に取り入れています。城山三郎、清水一行、高杉良、各氏経済小説の分野では至極当然というか欠くべからざる創作スタイルです。

百田尚樹氏海賊とよばれた男 」、「永遠の0」等が最近の該当例でしょうか。

上記作家らの著作について、勿論否定的評価が皆無ではないとしても、その発行部数から、総じて多くの読者からの支持を得ているのだろう、とみています。

ここで、事実を題材として脚色を加えた虚構の創作について云々するつもりは毛頭ありません。それが小説ですから。

ところが一方で、虚構であることが露見したことにより、激しい非難が浴びせられた読み物もあるわけです。

以前のエントリにも記したのですが、それは例えば「一杯のかけそば」であり、江戸しぐさが記載された道徳の教科書(p.58〜59)を含む江戸しぐさ推奨本です。

前者は上記Wikiに顛末が記され、後者については、
更に最近では、ネットワークを介して伝播している、真偽不明のいい話”にも批判的な目が向けられています。

例えば、
【感動注意】黒人が差別された飛行機に、ぼく、偶然乗ってました!
Facebookはバカばかり
またきたコレ・・・いくらでも作れる「いい話」。もう回すなって!!お願い
といった処でしょうか。ちなみに最近見聞したいい話は、
ファストフードの店員がお金の足りなかった男の子に小さな親切、50倍の恩返しが待っていた。
です。真偽はまだ不明です。

興味深いのは、上述全てが虚構であるにも関わらず、小説のについては風当たりが強くない、ということです。プライバシーの侵害、名誉毀損で関係者との訴訟に発展することはあっても、虚構を理由に非難された事例を知りません。

多くの事実を織り込んだ創作であっても、虚構との指摘がなされないということは、読者は端から虚構、フィクションであることを念頭に読み進めているということなんでしょうか。

読者が冷静で創作の世界に踏み込めないでいるのか、入り込ませるだけのリアリティが作品に欠けているということなのか...

「一杯のかけそば」、「江戸しぐさ」は、実話、事実として受け止められた後、捏造であることが発覚、この裏切られ感が怒りや非難の根源となったのかもしれません。そういう意味で、こちらの方が現実感に優っていたとするのが妥当という見方も、素直に首肯できないでいます。

実は、読み物の信憑性に対する読者の先入観が、創作物の虚構、虚偽といった印象を決定しているようにみえ、であるならばそれはそれで釈然としないものを禁じ得ません。では、作品それ自体の力は一体?、ということです。
というブログエントリ中に佐村河内騒動について触れている部分があり、
――涙を流すほど感動していたのに、事実を知ってショックを感じ、白けてしまった――
とのコメントが発覚時に寄せられていたそうです(伝聞の伝聞ですが)。

まぁ、この類の話かもしれません。虚構と虚偽の狭間は、創作物そのものの評価を左右しかねないわけです。

背景や権威といった周囲の環境によって容易に動かされてしまうこの狭間、危うさ、脆さ、曖昧さについてもう少し理解を進めたい処です。

ところで、上記虚構の読み物で、それが捏造であることが判明して以降も、肯定的に捉える声があります。

例えば、「一杯のかけそば」を「涙のファシズム」と批判する見方がある一方で、江戸しぐさについては、特に公教育関係のサイトからは依然として肯定的な姿勢が窺われたりします。
江戸しぐさ 京都しぐさ(京都市)
マナーアップ推進事業(守谷市)
道徳の時間や総合的な学習の時間などの学習で「江戸しぐさ」を取り上げており、礼儀やおもてなしなどにかかわる学習において取り扱う上では、特に問題はないと考えています。(板橋区教育長)
 歴史的事実として教えるものではなく、礼儀やマナーを考えるきっかけになればと作成した文科省)
ネットワーク上に蔓延るいい話についても、
話の「真偽」は、さほど重要では無い。大切なことは、この話から、なにを受け取るのかだ。
といった旨の意見を見聞します。

史実と確認されていない虚構を道徳学習に採用する...真偽は重要でない...手放しで首肯するには抵抗を覚えます。

この部分について思いを巡らせてみると、その行き着く先には権威主義による管理と被管理といった語が朧気に見えてしまいます。

虚構の物語中に描かれた虚像を道徳、倫理、礼儀といった教育に利用する...広義には人格形成にも影響を及ぼしかねないそういった領域に虚像を挿入していくということです。それは言い換えれば、虚像の摺り込みでもあり素直には受け入れ難いものを感じています。

例えば、
故人の意思(真意の確認が困難)
専門家の意見(十分な理解が困難)
民主主義社会におけるみんな(民意)→(実体が不明)
に類した、虚像の一人歩き、極端には暴走の懸念を払拭できない、ということかもしれません。教育でも政治でも、ある意図の下創りだされた、管理側にとって都合のいい虚像、これが知らぬ間に絶対視され周囲に奉られてしまう、その結果醸成される無思慮な”...でなければならない”空気には反感を抱きます。

上述の「一杯のかけそば」捏造騒動における非難には、欺かれたことに対する怒りと共に、そういった虚像に振り回されたことへの反発も含まれていたのではなかったかと。

しかしながらその一方で、先述の著名な作家による小説に対しては、やはり虚構に対する抵抗は大きくないというか、むしろ虚構であるがゆえに受け入れられているとさえ、見受けられます。

そういった作品は、事実を作者の意図で脚色、歪曲した虚構ではなく、作者の意図を伝えるための創作に事実を織り交ぜている、というのがその理由でしょうか。判り難い話です。

文芸について思う処と共に、いずれ機会があれば記してみます。

2015年10月11日日曜日

伝統

もう少し慮った呼称はなかったのでしょうか。端から物議を醸すことを狙ってのことか、と勘ぐってしまいます。
首相「1億総活躍社会の実現を」 第3次改造内閣が発足
未だ”1億総...”といった表現を選んでしまうあたり、政権から滲み出る国家主義的なものが伝わってきます。換言すれば、
学校はなぜ「巨大組体操」をやめられないのか
に通底した日本の伝統、大本営的な同調圧力を感じるということです。

いっそ、国民総活躍社会として説明の端々に”火の玉”とか”一丸”といった語を散りばめればセンスが際立ったかもしれません。
炎上すること、請け合いです。

確かに、何も決まっておらず、単にキャッチフレーズに過ぎない、批判は当たらないという声もあります。しかしながら、戦後尚も脈々と受け継がれてきている精神論偏重、これを未だ国家が担いでいるんじゃなかろうか、そういった見方を払拭できないでいます。

ところで、日本の人口約1億2千6百万人余りに対し”1億”という物言いはどういった含意があるのでしょうか。

キリのいい数字で端折った?一寸雑なんじゃないかと。

2千6百万人余りの国民は活躍できない?元々、生産年齢人口(15~64歳)は7千9百万人程度(H.25.10.1)ですし...

”活躍”についてもう少し丁寧な説明が必要です。

2千6百万人の側からの記述でした。ちなみに、テレ朝の報道ステーションでよく耳にする文言、
――ともすると我々は...――
この”我々”の中に括られることも拒否します。

2015年10月4日日曜日

欧州(2)

さて、脱線からVW排ガス不正問題に戻ります。

特段、自動車に詳しくなく根拠のない所感です。

”クリーンディーゼル”の語を耳にしたのはトヨタのハイブリッド車プリウスが注目されて以降だったかと。プリウスが話題になる中、気がつけばヨーロッパではクリーンディーゼル搭載の自動車が席巻し主流になっていたと。素直にフォルクスワーゲン、メルセデス、BMWにルノーを加えたヨーロッパの自動車会社の技術の凄さには驚きました。

自動車の性能は軽量、高馬力、高トルクで決定され、軽量化、耐久性や信頼性向上には簡素な構造が好ましいのは当然ですから。

ハイブリッドのようにシステムを複雑化することなく、燃費や排ガスといった環境性能に優れた自動車が上市されたわけです。調べてみるとクリーンディーゼルの根幹を支えるコモンレールシステムはボッシュとデンソーから各自動車メーカーに供給されていました。

デンソーのシステムがクリーンディーゼルに採用されているなら、何故日本でディーゼルカーが販売されないのだろうか?作れるはずなのに...


”ああ、そうか。トヨタはハイブリッドカーを売らなきゃいけないからね。莫大な開発費を取り戻して大量生産大量販売でコストダウンを図るにはディーゼルカーは邪魔なんだろう。”
と、納得していました。その一方で、何故ヨーロッパではプリウスは支持されないのだろうか、との疑問を抱いていました。米国で俳優ブラッド・ピットやレオナルド・ディカプリオがプリウスに乗っている、と騒がれた頃だったでしょうか。

ハイブリッドとクリーンディーゼル、性能面で優るのは実の所どちらなのか、何故棲み分けができているのか不思議ではありました。

今にして思えば、トヨタのプリウスを脅威に感じ、自国自動車産業保護を目論んで、ヨーロッパではクリーンディーゼルを盾にハイブリッドを締め出したのではないでしょうか。

一方、産油国になりつつあった米国では安価な軽油を使うディーゼルカーで環境基準をクリアする必要性に乏しいわけです。自国の安価なガソリン車で環境基準を満足すれば十分で、クリーンディーゼルを開発する動機に乏しいと。必要なのは、やはり自国自動車産業保護のため、ディーゼルカーに厳しい環境規制を設けてヨーロッパからのディーゼルカーの進出を食い止めることだったのではないかと憶測しています。

そういった構図が腑に落ちてしまいます。根拠の無い勘ぐりであるのは勿論ですが。


さて、前のエントリでは、一事業者の不正による同業他社の逸失利益について触れましたが、これが賠償された事例を知りません。ただ、本不正事件でヨーロッパの同業他社やトヨタには利益の逸失それなりにあったであろうことは容易に推測できます。

こういった場合の賠償責任というものは法的裏付けが無い限り発生しないのでしょうか。特許制度では権利の侵害が認められれば損害賠償は極めて当然に請求が行われますが...よくわかりません。

で、この排ガス不正問題ですが、どういった形の幕引きになるのでしょうか。

VWの支払い能力の範囲内に収まれば課せられた制裁金も、損害賠償も支払えるはずですが、回収、修理命令が規制当局から出された場合、改修のために代替する技術があるとは思えないのです。

無効化したソフトを常時作動させれば、排ガスは基準値内に抑制できますが、所定の走行性能は満たせなくなります。デンソーのシステムに交換?難しいかと...

結局、最も現実的な落ち着き所として、メーカー、当局が一体となって、
目を逸らして時間による解決を待つ
という対応が想定できるわけです。言い換えれば、徳政令的に猶予、繰延、といった言い方が適切かもしれません。

ヨーロッパでは、時限的に排ガス規制の基準を緩和し、その猶予期間中に基準を満たす技術の開発を進めていくと...規制の先送りです。都合よくルールを変更するのはヨーロッパ諸国の伝統的お家芸です。そういった勘ぐりを否めません。

米国ではどうでしょうか。改修が困難という結論となれば、返品、返金に応じざるを得ないといった状況にも追い込まれかねない話です。

そうなると、排ガス規制の緩い国に転売、投げ売りする他、手段が見当たりません。どの程度の猶予期間が許容されるかは判りませんが、米国からVWのディーゼルカーの姿を消していく、そういった結末をも視野に入れざるを得ない話ではないでしょうか。当然、計り知れない損失がVWに生じます

ただ、少なくとも欧州において、VWはToo Big to Failな存在ですから、ルール変更という鎧に守られて存続するであろうことは確かかと。VWの米国撤退に併せて米国車の欧州からの締め出し、といった保護主義的状態がより顕著になることも予想に難くありません。

このVW排ガス不正の問題において、
EU、2年前にVWの不正把握か 規制運用問われる
と、EUの規制当局は座視していたようです。トヨタが抗議していたにも拘らず、それでも...

欧州の身勝手、独善をまざまざと見せつけられたわけですが、しかし、まぁ、これまでの行状を鑑みればさもありなんと得心が行ってしまいます。

例えば、

『なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか』 - 是非とも読んでほしい
といったブログエントリもありますし、独禁法(欧州連合競争法)絡みでは、
マイクロソフトの欧州連合における競争法違反事件
がよく知られています。 2015年でも、
欧州委がGoogleの正式提訴を決定か、競争法違反巡り

欧州委、アマゾン調査 電子書籍巡り独禁法違反の疑い
とEUが自らの正義を主張する事例には事欠きません。

確かに公正な競争の阻害は問題ですが、”不公正”を盾にした保護主義は双方にとって不利益であり、非生産的と考えます。EUという経済共同体を挙げた対外排除は、内なる変革を阻むと共に、周囲、外部の欺瞞、消耗に繋がるということです。

先日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉について
TPP大筋合意、巨大自由貿易圏誕生へ前進 米議会は懐疑的
といった報道を目にしました。TPP内部での貿易に関わる障壁を低減、撤廃する一方、EUの保護主義への対抗措置としての経済共同体の結成といった見方もできるのではないでしょうか。