2020年4月27日月曜日

典拠2

以前のエントリで、”姑息”の誤用について触れました。

そこでは誤用の原因の一つは政治の場にあると記しましたが、著作物でも(愚劣/低劣/卑劣/不当/無責任/不誠実)いった語感を催させる例に遭遇しましたので挙げておこうかと。


少し前に映画「日本の一番長い日」を観ました。役所広司が阿南陸軍大臣を演じた2015年版です。ポツダム宣言受諾〜玉音放送に至る政府首脳の動静、阿南陸軍大臣の割腹、並行して起きた宮城事件が題材です。

その中で、
――姑息な真似をするな――
という台詞を耳にしたわけです。ポツダム宣言受諾の可否について政府首脳間で議論が紛糾している際、大本営発表が発出されようとしました。ところがこの内容は、陸軍省の若手軍務局員が”勅命を拝した”と騙ってのものでした。これが偽であることが発覚して梅津参謀総長から出た叱責の言葉です。

虚言を弄して目的を達成しようとする姿勢には、その場しのぎというより、卑劣、愚劣といった語感をより強く感じます。この言葉が脚本、原作のいずれにあったのか、更に1967年版はどうだったのか、興味深い処です。

こういった事例の積み重ねが誤用の広がる一因であることは勿論ですが、
”募ってはいるが募集はしていない”
”要請に従わないパチンコ店は公表する”
という文言を見聞すると、著作物よりやはり(意図的に?)捻じ曲げた用法に依る処が大きいのかもしれません。




2020年4月25日土曜日

非情2

致し方ないのかもしれませんが心証は好くありません。以前のエントリはとんかつ店についてでした。此処の処、そういった事例が目につきます。そこまでの余裕がないのかもしれませんが、もう少し距離をとっても好かったのではないかと。
鰻が主力の仕出し屋の向かいに鰻屋(尾張旭市)
個人営業の寿司屋と、通りを挟んで斜向かいに大規模回転寿司店(名古屋市名東区)
揚げ物中心の持ち帰り弁当店と、その並びに躍進目覚ましいチェーンの唐揚げ店(名古屋市守山区)
町のパン屋と、数メートル離れてベーカリー(瀬戸市)
珍しい話ではありませんけど。 

余暇

パチンコ、パチンコ、パチンコに行くのさ
今日もパチンコ
明日もパチンコ
仕事自粛でラン・ラン
コロナなんてラン・ラン
10万貰ってラン・ラン
 仕事休みで今日もパチンコ、Everyday!
パチンコ、パチンコ、パチンコに行くのさ
今日もパチンコ
明日もパチンコ
大阪休みでラン・ラン
奈良でパチンコ、ラン・ラン
和歌山パチンコ、ラン・ラン
仕事休みで今日もパチンコ、Everyday!
パチンコ、パチンコ、パチンコに行くのさ
今日もパチンコ
明日もパチンコ

2020年4月21日火曜日

要請

何だかよく解らないのですが、休業や営業時間短縮の要請は、
”アナタの店は知事が決めた休業や時短の対象です。休業、若しくは時短を要請します。”
と個別に行政から直接要請されるものなんでしょうか。それとも忖度して言われずとも自発的に休業や時短営業を決めるものなのか

さて、
要請:必要だとして、強く願い求めること。強制性はないはずです。
ついでに
協力:ある目的に向かって力を合わせること。
との定義を念頭においた話です。

で、先程来、ネットやテレビの報道でやたらと”要請に従わない”という見出し、記事を目にします。例えば、
政府は21日、都道府県による休業要請に従わないパチンコ店などを対象に、自治体が新型コロナ特措法45条に基づいて、要請をより強めるための検討を始めたことが分かった。政府、休業要請の強化を検討 従わないパチンコ店など公表も
”要請”とは応じたり、受け入れたりするものであって、従う/従わないは”指示”や”命令”を受けての語、という認識なんですが...

この”要請に従わない”ことに対して、”非国民”視するような風潮が漂い始めていて、戦時中の国防婦人会、隣組で象徴される国家総動員体制への移行が進んでいるように見受けられます。何故、指示とか命令発出はされないのでしょうか。要請を強いる、そういう空気が醸成されていくことに陰湿さを感じてしまいます。

後から顧みた時、指示とか命令という強制性を思わせる語を記録に残したくない、という意図なのかもしれません。それこそ統制社会を連想させますから。記録が要請であれば、”要請に応えて自粛した”と記録できます。現実的には要請を強いていたとしても。

結局、
大阪府の吉村洋文知事は24日、新型コロナウイルス特別措置法に基づく休業要請に応じていないパチンコ店6店に対し、法に基づくより強い要請を出したと明らかにした。店名も正式に公表した。全国で初めて。(大阪府知事がパチンコ6店の名称公表
となったわけです。営業の是非はともかく、行政が事を進めるために同調圧力を利用するというやり口は全くもって気持ちが悪いものです。

ついでに記した”協力”も、当たり前のように強いる行政組織があることを付記しておきます。

2020年4月19日日曜日

除籍

身をもって”政治生命を賭して”という語を体現されました。

元立憲民主の高井崇志衆院議員。

自粛

ロケが中止、スタジオでの収録も腰が引けたようにおっかなびっくり。報道番組の出演者は、メインのキャスターと二、三人が距離を保って離れて位置し、ゲストを含む半分以上はリモートで画面越しに出演と。他にはアナウンサーが電話インタビューする姿を放送...

ラジオで十分では?

公共放送では新たな番組を制作することなく、再放送と過去のコンテンツの編集番組で時間枠を埋めています。これで、臆することなく同額の受信料を課すというのも如何なものかと思います。

飲食店が休業や短縮営業を余儀なくされ収入減を強いられているわけです。公共放送も不要不急の番組は控えるべきかと。受信料と税金の区別ができません。

反射

新型コロナウイルス対策で、
”国民1人当たり一律10万円給付”
へと方針の急転換がありました。で、
――今回は要望される方、手を挙げていただいた方に給付する――
と麻生財務大臣が横槍を入れて批判に晒されています。取り敢えず一律に給付して、高所得だったり前年比で収入の減少が大きくないのであれば、年末調整か確定申告で帳尻を合わせれば、とも思うのですが。

いずれにせよ、”他人の痛みは解らない”ことが分からないと、こういった応答が反射的に生ずるのかもしれません。

2020年4月18日土曜日

認識

ここに至ったプロセスにおいて混乱を招いてしまったことについては、私自身の責任であり、国民の皆様に心からおわびを申し上げたいと思います。新型コロナウイルス感染症に関する安倍内閣総理大臣記者会
”1世帯当たり30万円を給付する措置”から”1人当たり10万円の給付を行うこと”へとの変更に対する言及です。

いや、そっちより習近平 総書記訪日、東京オリンピック開催という二つのイベントが、中国からの入国制限や東京オリンピック開催の棚上げという決断を遅らせ後手に廻ったことに向けられるべき文言です。

未だ問題意識がないとすれば、危機は繰り返されると断じざるを得ません。変更できた給付額や仕組みについては謬りを認めても、時間を巻き戻せない判断については正当性を主張し続ける他ない、ということなのかもしれません。

2020年4月16日木曜日

字面

どうもよく分からないのですが...

今だに、
コロナはインフルエンザ未満の風邪だ
インフルエンザに毛の生えたようなもの
といった主張が散見されます。確かに、感染者数や致死率等、統計的な数値のみを比較すればそういった形容も外れていないのかもしれません。

ただ、昨今の医療体制の逼迫状況を鑑みると、果たして上記のような取り扱いは当たっているのでしょうか。脅威を過小にみている、楽観し過ぎでは、という疑問を払拭できないでいます。

今、仮にインフルエンザとコロナウィルスによる致死率が同じであったとします。それでも、インフルエンザに対し無警戒、無対策であった場合の致死率と、コロナウィルスに対し警戒し取り得る対策を講じた結果の致死率が一致したからといって、各々に対する脅威には格段の開きがあると考えます。

同じ結果(致死率)になったからといって、そこに至る前提、つまりプロセスについての負担や損失は異なります。無対策でもこの程度の致死率なったと、負担を強いて対策を講じても致死率を下げられなかった、ではその危険性はまったく異ります。

マスコミが騒いだ、WHOが「パンデミック」と宣言したことが、コロナウィルス感染を突出して恐れる理由とされています。それが主因であるとするならば、インフルエンザ流行時も医療体制の崩壊が危ぶまれているはずです。インフルエンザの院内感染が騒ぎになり、受け入れ病床数の逼迫、外来診療(新患)の受付制限、停止にまで至った記録はこれまであったのでしょうか。

マスク着用や手洗い励行、不要不急の外出自粛、飲食店の営業制限が求められたコロナウィルス感染と、それほどまでの対策が講じられなかったインフルエンザ感染を、外形的な数値のみで同程度とみなすのは、適切性を欠いた見方と判断します。

2020年4月14日火曜日

選別(附言)2

以前のエントリに続けます。

c)次は鯖です。一時の鯖の不漁期は乗り越えたのでしょうか。ECサイトやスーパー店頭で鯖缶をそこそこ潤沢に見かけるようになりました。偶々、不漁の時期とテレビの情報番組で取り上げられたことが重なって需給が逼迫していたのかもしれませんが。その鯖不足以降、最近気がついたのですが、国産鯖とか日本産鯖使用と銘打ち、最終加工地が海外の鯖缶を頻繁に見かけるようになりました。最終加工地は、タイ、フィリピン、ベトナム、韓国の缶詰を確認しています。

最終加工地で直ちに優劣を云々するつもりはありません。が、それではなぜ国産とか日本産の語を目立つように表示しているのか、という話です。缶の上面や側面には大きく、”国産”、”日本産”の表示があって、裏?の原材料名、内容量、固形量が記載してある部分には併せて、上記原産国、最終加工地が記してあります。

これは主観に依る処が大きいのかもしれませんが、缶詰や干物といった水産物の加工食品は本来水揚げ港の近くで製造されるもの、と認識しています。不安定な漁獲量の調整弁、地元雇用の確保、地場産業の活性化、高鮮度の原料の入手性といった理由が容易に思いつきます。

今、(1)関鯖/金華鯖/八戸産鯖使用、国内加工、(2)国産鯖使用、国内加工、(3)輸入鯖使用、国内加工、(4)国産鯖使用、海外加工、(5)国外鯖使用、国外加工という組み合わせで鯖缶について考えてみます。(1)はまぁ、高級鯖缶ですからさておいて、一般的に想定される鯖缶は(2)のはずです。(3)、(5)は見かけた覚えがありません。海外産の輸入原材料を使って国内加工品というのは塩干製品、特に干物では頻繁に見かけます。トレイ表面のフィルムには国内加工とか沼津加工のシールが貼付してあって、トレイ裏面には国外産原料の表示があるわけです。低価格の輸入冷凍魚を国内加工して国内加工品であることを訴求して販売と。(4)とは逆です。ところが、この態様の缶詰は見かけません。想像するに、海外産の鯖となるとノルウェー産で、これはこれで大型で脂がのった鯖ですが缶詰向けの安価な原材料という条件を満たしていないのかもしれません。オイルサーディンやツナ缶で見かける(5)も鯖缶では記憶はありません。探せばオイル漬け缶詰位は見つかるかもしれませんがそれほど一般的ではないように思います。

で、(4)です。加工費(人件費)削減が目的なんでしょうか。国内産鯖をおそらく冷凍にして海外で缶詰に加工後再び国内に持ち込む形です。以前は見かけませんでした。上述の水揚げ地近辺で加工する以上の優位性があるとは俄には信じられないのですが。(冷凍保管費+輸送費*2)が加わるわけですから。ただ、現実にそういった鯖缶が流通しているわけですからコスト面で見合っているのでしょう。


少し検索してみました。まず、鯖の輸出入についてですが、日本は鯖を輸入するだけでなく輸出もしているようです。脂の乗った大型の鯖をノルウェーから輸入し、小型の鯖を冷凍してナイジェリア、エジプト、ガーナといったアフリカ諸国と東南アジアに輸出しているようです。アフリカ諸国はかつて旧宗主国であった欧州からの輸入に頼っていたようですが、近年の資源保護の流れを受けて高価な大型鯖のみが貿易の対象になったとのこと。そこで、規制の緩い日本で乱獲(?)した小型の鯖を冷凍して安価に輸出していると。下はJETOROの報告書へのリンクです。
品目別レポート さば
国外加工の鯖缶はおそらくこの冷凍で輸出された小型鯖の一部が加工されて国内に還流したのだろう、と推察しています。では、この海外で生産された国産小型鯖の食味はどうでしょうか。検索してみるものです。
評価は芳しくない
ようです。総じて上記(1)、(2)に比し、”生臭い、小さい”というレビューが目立ちました。つまり、国産鯖使用、国内加工と、国産鯖使用、海外加工の鯖缶では品質が異るということです。単に加工地の違いで質を云々するつもりはありませんでしたが、それなりの理由があって優劣があると判断するに至りました。

これを前提とすれば、(4)の鯖缶で国産とか日本産鯖の語を目立つように表示する手法は、誤認を期待しての表示である、という見方が否定できません。それだけが目的ではないとしても一定程度そういった効果も狙ってのことではないかと。前述したように、水揚げ地近くで魚介のの缶詰は生産されている、既成概念としてそう認識してしまっていれば、”国産鯖”、”日本産鯖”使用の表示が目に入れば、即ち国内生産と受け止めてしまうのが自然です。

裏側面には原産国に記載がありますから法的には問題なく、消費者に購入を促す訴求方法なんでしょうが、誠実さを欠いている、というのが正直な処です。

d)最近では殆ど行かなくなりましたが、デパートの物産展やスーパーの臨時の産直市のような催し物があります。このような売り場では、販売員が声を上げて安さや美味しさを通りががる客を呼び込んでいます。そんな中で行儀の悪さを感じたことがありました。烏賊の塩辛とか白菜の漬物のような量り売り販売の食品も扱っている店でした。

ポリ袋に入った商品を各々の手に持ち、その商品を両方とも高く掲げて、
”安いよ、安いよ、100円!”
とか
”最終日だから70円!
といった文言で客足を引き留めようとします。で、足を止めて購入しようとすると、

”ハイ!700円!ありがとうございました。”
と。なかなか学習できないまま何度か経験しました。当初はよく判らなかったのですが、100g単価を連呼して客寄せをする仕組みだったわけです。商品を見せながらその商品の100g単価を叫ぶと。なんとなく釈然としないものを感じます。脳内で視覚と聴覚の情報を勝手に結びつけている、と指摘されればその通りなんですが。行儀のいいやり方とは思えず好きではありません。

この物産展のような売り場には他にも思う所があるのですが、それはまた機会があれば。

e)しばしば、”盛る”とか”下駄を履かせる”といった言葉を耳にしますが、その典型と云えばファミレスやファストフード等大手外食チェーンのメニュー写真です。写真がふんだんに載せられたメニューを見て注文するわけですが、この時脳内に入力された料理の視覚情報と、実際に提供された料理からの視覚情報は一致しないことが殆どです。テレビCMからの視覚情報も含めて、看板に偽りありではとの思いを抱くことはしょっちゅうです。看板画像が粉飾されたものか、演出されたものかは存じません。何故景品表示法上の優良誤認に当たらないのか不思議です。視覚情報の不一致はその隔たりの評価が難しいのでしょうか。

かつて雑誌の裏表紙で見かけた、幸運をもたらす、開運、病が完治する開運ネックレス?ペンダントと一線を画す何かがあるのかもしれません。通底したものを感じないわけではありませんけど。

f)意図的か否かはともかく、視覚、聴覚から入力される情報と実際が大きく隔たることは珍しくありません。これが期待以上、想定以上であれば言うことはないのですが、そのようなケースは稀です。特にテレビでは、おそらく意図してのことなんでしょうが本編、CMを含めて日常過ぎてある意味麻痺しています。一部具体的な商品名も記します。差し障りがあればご指摘下さい。

クックドゥという中華の合わせ調味料があって、一箱で3〜4人前分の料理ができあがる分量となっています。作り方通りの材料でどう調理すればパッケージに印刷してある調理例やCMで放送されているような一皿になるのか不思議です。巷間では豆腐1/4〜1/3丁分が麻婆豆腐一人前なんでしょうか。

興味を抱いたのでNHKきょうの料理で少し調べてみた処、4人分で2丁が頻出のようです。面白かったのは日本における四川料理の祖とされる陳氏三代です。一人分がバラバラです。
陳 建民 氏 2丁(4人分)
陳 建一 氏 1丁(4人分)
陳 建太郎 氏 1丁(2~3人分)
どうでもいい話でした。

食品の新製品の時期になると大手の調味料メーカーから目新しいドレッシングのテレビCMが流れ出します。何か新製品を登場させたい意図は解らないでもありませんが、少なくない率で、
このドレッシングの製品化を決めたのは誰だ?
とか
”このドレッシングを市販化できる(=売れる)理由を述べよ
と問いたいドレッシングが必ずあります。実際、開発者の声を聞いてみたい処です。

喰い物の恨みは恐ろしい、というわけではありませんが子供時分に経験した、飲食に纏わる視覚、聴覚情報で脳内に創られた美味しさと、実食した際のズレ、違和感についてです。CMからの予断による期待が見事に外れたということなんですが、不思議なことにいい歳になっても未だ記憶に残っています。

子供時分、網目模様のあるメロンという果物は手の届かない別格の存在でした。近所の青果店の目立つ位置に当に鎮座ましましていて威容を醸し出していました。感冒で発熱し床に伏していてもすりおろしたリンゴや桃がせいぜいで、メロンなど今際の際になってようやく口にできるか、といった思いの果物でした。勿論その味など想像することすらできませんでした。

そんな折、テレビから流れてきたわけです。粉末のメロンソーダのCMが。飛びついたのは言うまでもありません。メロンの名を冠し、例の網目模様の写真が載ったパッケージです。疑いもなくメロンの味が体験できると思い込み駄々をこねたのは言うまでもありません。炭酸飲料の甘い味でしたがそれがメロンの味として脳内に刻まれました。その後も喫茶店などでソーダ水(メロン)を口にする機会もありそれがメロンの味として記憶され続けました。プリンスメロンの時期を経てマスクメロンの実食に至ったのは二、三年?五、六年後でしょうか。

初めてマスクメロンを食べた時の印象は、
”これはメロンの味じゃない”
でした。脳内に記憶されたメロンソーダ由来のメロン味の記憶と眼前のメロンの味が一致しませんでした。記憶が誤りなのか、眼前のメロンが実は偽物なのか...混乱したのは確かです。結局この記憶の是正には再度のマスクメロンの実食が必要でした。”メロンソーダマスクメロンの味は違うもの”という事実は、なんとなく釈然としないものを子供心に抱かせました。

同時期の話です。生家ではほぼ米食でしたが、偶にパン食だったことがありました。トーストしてバターを塗って食べるのですが、冷蔵庫から出して直ぐのバターは固いわけです。バターナイフで切り分けられたバターの小片を塗ろうとしてもパンにめり込んでしまいます。バンカーに捕まったゴルフボール?そんな体です。その難儀な作業は忘れられません。

テレビから流されるマーガリンのCMを見たのはその頃です。確か外資系日用品メーカのブランド、ラーマでした。バターナイフで軽く撫でるだけで、クリームのように柔らかく滑らかにトーストを覆っていくマーガリンに目を奪われました。当然駄々をこねて、冷蔵庫の一角を占めるに至ったわけです。で、初めて口にしたその味ですが...バターとはかけ離れたものでした。薬品のような人工的な脂っぽさとでも形容すればいいでしょうか、まぁ、就学前の児童には不味いとしか言いようがありませんでした。最初の一口でお手上げでした。その後、その残ったマーガリンの行方は杳として知れません。

ただ就学後の学校給食以降、抵抗なくマーガリンでパンを食べてきました。今でも問題なく口にすることができます。当時のそのラーマの風味か、或いは子供舌マーガリンを拒ませたのか、今となっては分かりません。昔のマーガリンの味を確かめてみたい気持ちがないではありませんが、難しい話です。

いずれにせよ、これもテレビからの視覚情報で脳内で形成された、パンに滑らかに塗布できるマーガリン”は、バターと同じ風味に違いない”との想定?思い込み?が外れた例です。勿論、CMには”バターと同じ風味”とか、”バターのような風味”という文言はありませんでしたから、勝手な思い込みとの指摘には何も反論できませんけど。


しばらく続けます。

独自

新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、愛知県の大村知事が独自というか、勝手な緊急事態宣言を発出しました。
――現時点で愛知県、その他の自治体を加えるべきだとの評価に至っているとは聞いていない――
(菅官房長官)
とのことですから、より的確な”勝手”という表現で脳内変換されています。

まぁ、理由は
愛知県の大村秀章知事は2日、新型コロナウイルス対策を巡り、政府の専門家会議が同県など5都府県の医療体制が切迫していると指摘したことに「十二分に対応できる。事実を踏まえない発言は大変迷惑であり遺憾」と反論し、厚生労働省に抗議したことを明らかにした(中日新聞)
こんな処だろうと。で、狸vs.狐の面子の潰し合いとか意趣返しはどうでもいいわけですが、国の後追いではなく、先んじて大村知事が緊急事態宣言を出していたならば、当に”独自”と評価しました。その先見性というか危機管理能力があったとは思えませんけど。

それは先般の豚コレラ感染拡大時の知事の発言を思い起こさせます。この事案で後手に回った経験を真摯に糧としておけば、”感染”という危機への対応力の向上もできなかった話ではない、と考えます。
転んで負傷して傷が癒える前に再び躓く
そんな印象が拭えません。

そうなると、何が愚を繰り返させるのか、という話になってくるわけです。が、先手を講じることは不可能で、後手に回って被害は”避けられない”というのが現実です。

残念ながら、大きな被害が出ていない段階で、将来の不確定の被害、損失を回避するために、自らが進んで眼前の損失を選択することは極めて困難です。当然、利害関係者からの圧力にも曝されます。

偶々、

屋久島への移動自粛要請に観光業者「撤回を」…町長「命が最優先」
石川知事、一転来県自粛を
といった記事を目にしたのですが、まぁ、そういうことです。全国的に感染拡大中であってもこういった圧力が生まれるわけですから、感染が報告され出した初期に移動制限や営業自粛を要請することなどできないだろうと。

更に、あくまで仮定の話として、中国 武漢で新型コロナウィルスによる感染爆発発生の情報を受けて直ちに入国規制等の対策を講じ、これが功を奏したとします。

危機を予測し、適切、或いは過剰かもしれない対策によって感染の拡大を抑え込んだ、大事に至らなかった、という状況を想像してみます。この収束後、間違いなく批判や不満の声が噴出します。牛刀を以て鶏を割いた、と。

習近平 総書記の訪日は実現可能だったんじゃないのかとか、東京オリンピックも開催できたはずでは、から始まって責任論というか責任者探しへと進むであろうことは既定の流れです。

事なきを得た後で、”やり過ぎだった”、”そこまでの対応は不要だった”、”収束させるために支払った代償は余りに大きかった”、挙句には”そもそもコロナ渦なんて大したことなかった”そんな文言が飛び交うわけです。

水際対策が効果的だったのか、脅威を過剰に捉えていたに過ぎなかったのか、各々の立場を有利にすべくマウンティングというか、中傷合戦が始まるであろうことは想像に難くありません。

そう考えれば、負担や損失を強いる対策を強硬に発動することに否定的となることも頷けます。初動は常に遅れ、当に歴史は繰り返すという文言が符合するわけです。

ついでに、

首相、布マスク配布は「合理的」 野党の対応遅れ指摘に反論
の中で、布製マスク2枚の全世帯配布を、非常に有効で理にかなった方策と述べ、緊急事態宣言などの対応が遅いとの指摘に対し、”諸外国と比しても、わが国の対応が遅かったとの指摘は当たらない”と反論したとのことです。

自身の正当性の主張、”間違ってない”との強弁は、”同じ愚を繰り返します”との宣言と何ら変わりません。

演出

NHKのニュースか何かで、医療か介護の施設関係者に電話インタビューする映像が流れました。インタビュワーもマスク着用です。

ウィルスが電話回線を伝搬する?というか、そもそもその映像必要か?もし、危機感の雰囲気を演出する小道具としてマスクを着用しているなら、そのマスクをとっととマスク不足で困窮している医療関係者に廻したらどうなんだ、率直な印象です。

削減

緊急事態宣言の下、首相は”オフィス出勤者の最低7割削減”を要請しました。自身の周囲を見て出勤者を7割削減してテレワークに移行できると踏んだのでしょうか。

言い換えれば、出勤者を7割削減しても社会は廻ると...自宅にこもってPC弄ってりゃ仕事になる?そんな作業のどれだけが社会に不可欠なのか。不要な作業を抽出し、無駄をなくして生産性向上を図るいい機会かもしれません。勿論、政府も含めて。

提言

テレビ、ネット、新聞その他で連日のように提言やら宣言、要請が出されています。政治家、有識者、政府関係者、医療関係者、評論家、街のおじさん、おばさん...

検査をしろとかするなとか、あれが効くとか効かないとか、休め、自粛しろ、家に居ろとか、金よこせとか...

その挙句が、
船頭多くしてマスク二枚...