2016年11月19日土曜日

職人

前のエントリに関連した話です。


言葉の一人歩きというか語の価値のデフレということでしょうか。

”カレー職人”というレトルトカレーがあるわけです。
職・人・
一体どういった意図でこのようなネーミングをしたのか理解に苦しんでいます。由来を小一時間問い質したい気持ちで満ち溢れています。
職人とは、自ら身につけた熟練した技術によって、手作業で物を作り出すことを職業とする人のことである。
そういう熟練した技術によって手作業で作られたレトルトカレーなんでしょうか?それであの風味なら工場で大量生産されたレトルトカレーで私は十分です。該製品は比較的割安で販売されていますから、安い手間賃で職人がやっつけ仕事で作ったのかもしれません。

製品名に”職人”の語を含ませることでその言葉の持つ意味をイメージさせ、販売促進に繋げようということかと勘ぐりますが、中身が追いついていません。むしろ、”職人”という語に本来からは捻じ曲がった新しい意味が加わった、更に言えば、置き換わってしまった印象すら抱いてしまいました。

まぁ、致し方ないのかもしれません。釜飯の素も上市していますし。野菜を炒めて添えたり、スパイスを加えたりと食べる側がアレンジ職人になることを求める、という意味であれば反論できませんが、ちょっと違うような。

こういった語の一人歩きは全く好ましいことではないなぁ、と思った次第です。言った者勝ち、というか声の大きい側が正しい、に結びついてしまいますから。
公正中立を標榜し、社会の木鐸を自負するメディアとか、
法の支配、立憲主義を謳いながら憲法改正を目論む為政者とか、 
”安全”という語が一人歩きし神話になった結果、福島で何が起こったか、身に沁みてわかっているはずじゃないんでしょうか。で、このような語意の一人歩きが各人の受け止め方に差異を生じさせ、この差異が齟齬となってコミュニケーション不足が生まれると。典型は国会答弁でしょうか。相互の齟齬により不毛な質疑が延々と続くことも珍しくありません。噛みあわせないことを意図しているのかもしれませんが...

話を戻します。

その一方で、”職人”を過度に、不自然に持ち上げることについても素直に看過できないでいます。以前、NHKの朝ドラ”まれ”を眺めていてそんな思いが過りました。輪島塗の職人、製塩職人、洋菓子職人が役どころとして登場しますが、なんだか意識高い系職人のような印象を抱き違和感を拭えませんでした。

職人の仕事は趣味や道楽ではなく、あくまで生業です。時に職人と作家、芸術家が混同されているかに見受けられ、そこに独りよがりの矜持のようなものを感じたわけです。

おそらく職人本人より、職人仕事のイメージ
熟練の技能を有する職人が、時には採算を度外視して、納得できるまで念入りにした仕事
を植え付けたい周囲の思惑があるんじゃないかと勘ぐってしまいます。例えば輪島に代表される漆器産業ですが、
漆器産業全体の現状
明らかに衰退しています。そういった状況下、業界だか、組合、販売業者が活性化策というか販促活動の一つとして”職人の手仕事”という付加価値を載せて喧伝しているに過ぎない、ということです。

ざっくり言えば、需要の縮減に対し、”職人の手仕事”で立ち向かえるのかという話です。高齢化が進みシャッター通りと化した旧来からの商店街が、”人とのふれあい”をアピールして活性化を目論む話に通底した斜め上の哀しさを感じずにはいられません。

職人気質の強調には需要の減少に若干のブレーキをかける、延命効果はあるかもしれませんが、それを止める、根治するまでの力はないのです。

そういった現状を認識しないまま職人のイメージを等身大以上に持ち上げても、誇大広告としか受け止められず、”ああ、そうですか”程度の印象しかありません。モノにまとわせた、”思い”、”矜持””誇り”、”技”といった語が重苦しく鬱陶しい一方、モノそのものは黙して語らず、そんな事例がしばしば目につきます。

簡単には、需要があれば従事者が増え、工業化、技術革新といった仕事の効率化と共に産業は活性化します。換言すればいわゆる職人仕事に留まっている分野には相応した需要しか生まれなかったとみるのが妥当な処ではないかと。

”職人の手仕事”アピールで需要を伸ばそうとするのは、そんな理に逆らっているようにも受け止められ、なんだか整合性がないなぁ、と思った次第です。

2016年11月7日月曜日

錯誤

まぁ、テレビCMにいちいち突っ込んでもしょうがないわけなんですが...

最近、話題になっていますから少し。
ツナ缶の真ん中にゴキブリ1匹 はごろもフーズが自主回収しない理由
はごろもフーズに、ゴキブリ→ハエと続き今度はクモ混入!はごろも「コメントしない」
この辺りについて言及するつもりはありません。”鯖の水煮や味噌煮の缶詰を開けたらアニサキスが入っていた”というのも許されないのだろうか、そんな思いが過りました。

この話から離れ斜め上のテレビCMシーチキン食堂について記します。現在は放送されていません。自粛中でしょうか。

でですね、漁師町に開店した食堂が舞台となっています。その名もシーチキン食堂...店を訪れる漁師に様々なシーチキン料理が出されるCM
です。
シーチキンときまぐれ漁師のサラスパ
シーチキンマヨおにぎり
頭大丈夫なんでしょうか。漁師町の食堂、客も漁師を推察させる設定で...
漁師にシーチキン食わせてどうする?
旨そうにシーチキン料理を喰う漁師もどうなんだ?
ということです。魚が獲れない下手くそ漁師なんでしょうか。シーチキンが好きな漁師がいてもいいんですがね。自分が獲った、市場性はないかもしれないが新鮮な魚で飯を喰っている、というのは勝手な思い込みなんでしょうか。
シーチキン>自身が獲った魚
って漁師を莫迦にしてんのか?

実は漁師コスプレの客だった、というなら異論はありませんが。

2016年11月6日日曜日

回合

夜の焼肉が本業なんでしょうが、昼にはカレーうどんを出す店です。千種区仲田にあります。川崎のとんかつ勝義に比肩するメンチカツにはなかなか巡り会えませんでしたが、ようやく...

揚げたて熱々のメンチカツをガブリと齧れば、旨味が口内を満たし、残った齧り口からは肉汁流れ出しています。これで飯を頬張れば相好が崩れます。惜しむらくは、このメンチカツがカレーうどんのトッピングの一つであることです。ソースをガッーとかけて丼飯を掻き込める、メンチカツ定食の用意がないことです。

いや、決してカレーうどんが秀でていないわけではないのですが、やはりメンチカツが突出しているんじゃないかと。カレーうどん、メンチカツ、ご飯(小)で腹一杯胸一杯です。カレーうどんの抜き、メンチカツ、ご飯(大)の登場を願って止みません。メンチカツカレーはあるんですけどね。

2016年11月5日土曜日

手段

もうはるか大昔の話です。

小学校の頃か中学校か、いずれにせよ初等教育課程の社会科で、仏教を日本全国に広めるために聖武天皇が東大寺、国分寺を建立した、との知識を得ました。で、その目的は鎮護国家の思想に基づくものであったと。

国家の安寧というか内政の安定のためのツールとして仏教を利用したということです。社会の不満や不安を抑制するため、武力ではなくソフトパワーである、宗教の政治利用によって人心の掌握を図った、とも言えます。

当時、仏教によって社会が安定化する理屈が理解できないというか、腑に落ちませんでした。教師に質問もしませんでしたし。今であれば、小一時間は質問すると思いますが...

それはさておき、古今東西、統治者の威を借る寺院や僧侶が大きな権勢を振るい、良くも悪くも政治に関与してきた史実は枚挙に暇がありません。今日でも、宗教の政治利用を疑わせる、推察させる事案を挙げることは難しくありませんが、憲法の定める政教分離の下、少なくともおおっぴらな利用認められていません

又、時折散見されますが、皇族や皇室の政治利用に関する事案については厳しく指弾されています。東京五輪招致の際、首相官邸が宮内庁に高円宮妃久子さまのIOC総会参加を要請した件などは耳新しいところです。
「政治利用」とされている過去の事例
このような思想、信条、意識、価値観といった個人の主観に働きかけ得る事物を政治に利用することは慎まれるべきであって、現行憲法はこれを認めていない、と理解しています。
信仰、崇拝、尊崇を通じて政治が個人の内面に干渉すべきではない、ということです。

では、翻ってスポーツはどうでしょうか。ここで指すスポーツとは参加者としてのスポーツではなく、観戦者としてのスポーツを意味します。

スポーツの意義については例えば、
スポーツ振興基本計画 1総論
の中に
スポーツは、人間の可能性の極限を追求する営みという意義を有しており、競技スポーツに打ち込む競技者のひたむきな姿は、国民のスポーツへの関心を高め、国民に夢や感動を与えるなど、活力ある健全な社会の形成にも貢献するものである
とあります。勇気、感動、頑張る姿、可能性、ひたむき、共感、夢、成長、人間性、努力、真摯、極める、忍耐、不屈、精神力、大和魂、サムライ... そういったキーワードを用いて、スポーツの与えるもの、見せるものについて語られることが非常に多いように見受けられるかと。思いっきり個人の内面に働きかけているわけです。

本エントリでは、このスポーツの意義について云々する意図は毛頭ないことは明言しておきます。

言及する関心は、個人の内面に働きかけ得るスポーツの政治利用にあります。以前からそういった印象を抱いていたのですが、東京五輪の競技施設に纏わる一連の報道を見聞してより一層その思いが強まります。巨額な予算が絡むからでしょうか。

現役選手の発言の背景にある競技団体の意図、さらにその後ろ盾となるスポーツ行政に影響力を持つセンセイ...そんな構図が想起されます。以前のエントリでも記しましたが、やはりセンセイとしては墓標を残したいのでしょうか。或いは、負の遺産にできるだけ多くの予算を費消して関連企業に恩を売っておきたいのか。
虎は死して皮を留め、人は死して名を残す
と言いますが、センセイは死してハコモノ(=債務)を残す、ということかもしれません。

東京五輪、即ちスポーツを理由とした公費の費消も含め、スポーツと政治の関係は政教分離前の宗教と政治の関係を想像させます。政教分離以降かつての政治における宗教の役割をスポーツが担っているんじゃないかと。

確かに、スポーツの政治利用は憲法で制限されていません。だからといって、スポーツの絶対的正当性を前提とした、あからさまな政治利用というのも違和感を感じる次第です。

上述したようにスポーツの観戦は明らかに個人の主観に働きかけます。例えば、良くも悪くも国威発揚を目的としての利用は至極当然のように行われています。即ち、一般庶民の印象操作や煽動といった情宣活動の有用な手段とみて間違いないわけですが、その利用は全く規制されていません。

政治とスポーツの更なる強固な結びつきは、その延長にスポーツの国家神道化をも勘ぐらせます。国家、組織、国民が本分を知り、自律機能を作用させる、即ち賢くなればいいのでしょうが、それもなかなか難しい話かと。暴走を憂慮してしまいます。