2016年12月26日月曜日

化粧(2)

さて、電車内での化粧に関しては前のエントリで記した実害の有無以外にも”見苦しい”、”みっともない”、”恥ずかしい”などの不快感を示す声も散見されます。

批判の場は大量の藁人形生産工場と化しますが、声を拾ってみますと、個々人の価値観、独善が入り乱れていて、余り曖昧さに目眩がします。合理性、具体性を欠くこと、甚だしいなぁと。概ねそれらは、
1)化粧は身だしなみであって私的な行為である。自宅等、個人の空間で予め済ましておくべきであり、電車内という公共の場で行うのは、公私の区別、けじめができておらずみっともない。
辺りに纏められるのではないかと考えます。で、この抽象的な文言を虚心に眺めた時、その正当性を首肯できない強い抵抗感を覚えます。そこに更なる炎上を目論むが如く、”電車内の化粧”は、”爪を切る””歯磨き”、”着替え”、”オムツ替え”、果ては排泄”と同じなどと藁人形が追加燃料として焚べられたりしています。

その周辺では、

2)電車内での化粧は実害がないとしても、該行為を目にして不快と感じる人がいる以上、マナー違反であり、許されない。
と延焼し、遂には、
3)電車での化粧は是非ではなく、恥ずかしいか否かの問題である。恥ずかしいと思えないこと自体が疑問で、そういった教育を受けてこなかったのだろう。

という話にまで飛び火することもあるようです。
尚、

4)かつての日本や海外では"人前の化粧=身体売る女性"と捉えられる。
という話も出ていますが、全て伝聞で真偽を確認できませんので触れません。この写真はなんだ、とか、こんな話もあるようなので。その可能性は勿論排除しませんが、そういった職業の女性が偶々公衆の場で化粧していたに過ぎないとも考えられます。公共の場で化粧する女性は須らくそういった職に就いているとみなすことに不自然な印象を禁じえません。等号で関係付けてしまう手法に藁人形論法的なものを感じます。

1)〜3)において、1)が電車内での化粧を否定する方々の支柱的理由でしょう。化粧を身嗜みという私的行為と定義付け、それを公共の場で行うのは不適切であるとしています。

詳述しますと、
a.化粧の目的は他人に自分をキレイに?良く?見せることである。
b.化粧の動機は他人に自分をキレイに?良く?見せたいという自己顕示、承認欲求、及び/或いは、社会の同調圧力による義務感に由来している。
c.化粧の効果はあくまで化粧後の状態からのみ生まれるのであって、本質的に、その過程を他人に見せることは目的達成に何ら寄与しない。即ち、化粧の過程と効果の関係は連続的ではなく離散的であって、例えば、過程の50%を経ていても50%の効果が生じるものではなく、プロセスが終了(100%)して始めて100%の効果が得られる性質にある。 
d. 従って、化粧の過程を他人に見せる、見られることは、実害がない限り、単に”自分を美化できていない状態”を見せている/見られているに過ぎないはずである。では、それが何故他人に不快感を抱かせることに繋がっていくのだろうか。

e. ある第三者に美化した自分を見せる、見られる目的で化粧をする。その裏返しとして、電車内での化粧はそれを目にすることになる周囲に対し、”美化した自分を見せるつもりはない”、”化粧していない自分を見られても構わない”という意思表示をしている
ことになる。 
f.これは化粧後の自分を見せる、見られる第三者より、化粧行為を目にさせられる電車内の周囲を軽視していることに他ならない。電車内の化粧行為はその周囲の人々を、どこの誰ともわからない第三者より劣位に置いてしまう。無意識であっても、そういった意志を含む振る舞いと受け止められれば、車内の化粧が不快感を周囲に催させるのは当然である。
 g.特に、——化粧は女性社会人として必要不可欠なマナー、ノーメイクは女性社会人として失格——、——家から一歩外に出れば、そこは公的な場であってそういった公衆の面前では身嗜みを整えておくのは当然——、と信じている層が電車内での化粧を目にした場合、自身が恰も公衆の一員として認識されていないかの如くの印象を抱かされてしまう。周囲の目を気にせず化粧をする当人は、周囲を公衆(=人前)としてみていない、換言すれば、卑しめている、自分の化粧のための踏み台にしているとも解釈でき、周囲の顰蹙を買うことは必至である。
いうことです。ここで、化粧という行為の行動原理が本人の自発的意志にあるのか、或いは、社会の同調圧力による義務感に由来するのか、又、家以外の公的な場における化粧の身嗜みとしての要否は鑑みておくべきです。いずれか一方に偏向しているのではなく、各々が絡みあっているであろうことは容易に想定できますが。

全てに先んじて、(特に公的な場に出る際、)化粧は女性の義務という、同調圧力も含めた社会的圧力が存在しているのは紛れもない事実です。

事例には事欠きませんが、
ウィキペディアの”化粧”についてのノートには検証可能・確認可能な公的な根拠が示されないまま、「化粧は社会人女性に必要不可欠なマナー」、「化粧しない女性は社会人として不適格」という記載が”化粧のページ”の過去の版に掲載されていた。
ウィキペディアに根拠なく該記載があったということは明らかに圧力です。
電車で化粧させてよおおおお
のエントリも電車内の化粧の是非とは別に女性に化粧を強いる圧力が存在することの証左です。電通過労死事件で被害者となった高橋まつりさんの自死に至るまでのツィートにもそういった圧力の存在が見え隠れしていました。

他、発言小町、ヤフー知恵袋、教えて!gooといった質問サイトで”電車内”、”化粧”で探せば圧力を感じさせるコメントは枚挙に暇がありません。辟易します。

上述したように実際には、圧力と自発的意志のいずれか一方ではなく、割合に差こそあれ、両者は化粧の動機として共存しているとみています。個人の内面に関わる話でもあり、それを第三者が線引きすることは困難ですが、その比率は広い範囲に渡っているのではないかと憶測します。一方、化粧を目にさせられる側には、化粧は社会人女性の(マナーを通り越した)義務とする層から不要とする層、更には”どうでもいい”層が存在しているのも間違いありません。

おそらく該自発的意志や義務には、慣習や先述の社会的圧力が意志や義務を強迫した部分もあるのではないかと推察しますが、いずれにせよ
”社会人女性がノーメイクで人前に出る公共の場に素顔を晒すことは、恥ずかしいみっともない/はしたない/マナー違反である
に対する認識の隔たりに帰結できる話と考えます。社会人女性がノーメイクで人前に出ることに対し、特段否定する理由を持たない立場としてはここが理解できないままでいます。
化粧が、社会人女性にとってマナーであるとする合理的根拠が見つからないということです。実害がない限り、化粧しようがしまいが、それがマナー違反であろうがなかろうがどうでもいい、というのも素直な思いです。これまで知り得た所では、社会通念というバッサリ切り捨てるというか、”だめなものはだめ”的な思考を停止させるような理由ぐらいでしょうか。引き続き、客観的、いや、主観的であっても、”社会人女性が公共の場に素顔を晒すことはマナー違反である”という根拠について関心を寄せていきます。

この社会通念の正当性が肯定されるのであれば、中高生の化粧の是非、異物混入を低減すべき食品製造、クリーンルームを使用する半導体製造の職場は公的な場ではないのか、といった話に繋がります。更に言えば、ヨイトマケの唄はマナー違反の唄、女性社会人失格の唄ということなんでしょうか。この辺りの論理的整合性を求めたいところです。

資生堂の新しい化粧品ブランド”インテグレート”のCMが”女性差別”、”セクハラ”との批判を浴び放映中止に追い込まれたのは耳新しい話です。このブランドは働く女性を購入層として想定していることがCMから伝わってくるわけですが、上記社会通念に則ったものとみて間違いないでしょう。その一方で、社会において女性の化粧に関わる時間的、経済的負担は、それを求める側から報われているようには見えません。タレント、モデル他の個人事業主が経費処理できることは承知していますが、一般の会社員女性の化粧に対し何らかの配慮があるという事例を知りません。

”腰掛け入社”という語が死語になって久しいわけです。かつてのそういう時代であれば暗黙の了解で俸給に含まれていたのかもしれません。当時の価値観を未だに引きずったまま上記社会通念が継承されてきたのでしょうが、現在の社会を取り巻く環境に適用するのは無理を感じます。


次のエントリに続けます。

2016年12月12日月曜日

化粧

移動に電車を使うことは非常に稀なんですが、車内で女性が化粧する姿を見かけます。数少ない利用時ですら必ずと言っていい程そういった場面を目撃しています。もはや車内における乗客の日常的な振る舞いの一つになっているのでしょうか。

今更珍しくもありませんが、定期的に車内での化粧の是非についてボヤ騒ぎが起こります。依然、社会的な合意が形成されるまでには至っていないようです。まぁ、メディアとしては燻り続けた方が定例記事として取り上げ続けられるわけですから、現状維持を望んでいるのかもしれません。

先日ネット上を賑わせたのは、
東急電鉄「車内で化粧はみっともない」 啓発広告に賛否両論の嵐
といった記事でした。

その際、様々な視点からの主張は繰り広げられたようですが、結局、混沌とした状態が整理されないまま騒ぎは収束を迎えました。

論争の中で、1)公共の場、電車内、更には混雑する電車内の、化粧の場としての適否、2)義務づけにも似た、女性の化粧を当然の身嗜み、マナーと位置付ける社会的価値観(圧力)の正当性、といった辺りが印象的でした。

どうでもいい話といえばその通りですが、少し考えてみます。こういった事案の中にも社会が賢くなる端緒が潜んでいるような気もしますので。

ある乗車率以上に混雑した電車内で化粧する女性に対する批判は理解に難くありません。閉じた空間内、乗客の密度一定以上になれば、粉や匂いを放散させ、場合によっては他の乗客の衣服を汚す可能性が予見される、というのがその理由です。周囲に実害を与える恐れがある迷惑行為として電車内の化粧を捉えているわけです。

で、該可能性が極めて低い条件下ならば、電車内の化粧は容認されるのか、更に電車内に留まらず公共の場ではどうなんだ、といった話になります。

今、乗車率50%、100%(定員乗車)の状況を想定してみます。
乗車率50%:ほぼすべての座席が利用されている。 
乗車率100%:定員乗車。座席に着くか、吊革に捕まるか、ドア付近の柱に捕まることができる。
ちなみに乗車率150%でも”新聞が楽に読める”ようです。

つまり、全ての乗客が必ずしも着席していないとしても、殆どの座席が埋まっていて乗客同士が隣り合っている状態が乗車率50%です。

乗客同士が隣り合っている、言い換えれば、他人と席を隣り合わせている状態で、隣客が化粧を始めたら...上記可能性は低いとは言い難いんじゃないでしょうか。

即ち、乗車率50%であっても電車内の化粧が他の乗客に対する迷惑行為となる可能性を否定できない、ということです。(一人おきに着席している)座席の埋まり具合が50%以下、乗車率25%以下のかなり低い乗車率であれば、そういった恐れがなく、電車内の化粧は容認される、ということかもしれません。勿論、この容認は実害の有無という視座からのものであり、見苦しいとか、マナーといった視点は考慮していません

この25%以下の低乗車率という条件は、パーソナルスペースという語を用いても説明できます。乗車率50%で、ほぼ全ての座席が乗客で埋められている場合、偶々乗り合わせた他人同士が隣り合って着座していることになります。勿論、家族、友人、同級生、同僚といった、ある社会的関係のある乗客がグループで着座している場合もありますが、該グループの両端はやはり全くの他人と隣り合っています。

つまり、対面状態ではないものの、明らかに双方のパーソナルスペースを侵している状態にあります。乗車中、乗客は自身のパーソナルスペースが侵されていたとしても、電車内が公共の場であることを踏まえて我慢しているわけです。お互いさま、ということで譲り合い不本意ながら耐えていると。

そういった心情を鑑みれば、周囲に不利益を及ぼすかもしれない化粧という行為が、自身のパーソナルスペース内で行われること不快感を抱くのも、まぁ、当然でしょう。

電車内という閉じた公共の場に、偶々乗り合わせた乗客各々のパーソナルスペースが互いに不可侵となる乗車率以下であれば、電車内での化粧に対する不快感はそれほどではないのかもしれません。ただ、おそらくその乗車率は25%以下かと推察します。都市部の路線ではなかなか難しいのではないでしょうか。電車内での化粧に対する拒絶感は今後も解消には至らないのかもしれません。

以上は、実害の有無から見た話です。実現可能性はともかく、乗車率さえ極めて低ければ電車内の化粧は容認されるのでは、といった見方です。

これは他の公共の場、特に屋外のような開放的な公共の場における女性の化粧から受ける印象からも説明できると考えます。

以前、土曜日の午前11時頃、ローカル駅のホームでベンチに腰掛けて化粧する女性の姿を目撃したことがあります。又、公園、海岸、漁港、スキー場、寺社の境内といった屋外と、映画館、ホールやホテルのロビー、役所、学校、図書館、病院、デパートやスーパー、レストラン等の屋内ではどうでしょうか。

全くの個人的印象かもしれませんが、屋外の場合には電車内ほどの違和感を生じないような気がします。漁港など、場合によっては多少の滑稽な印象が伴うとしても...屋内の場合は、なんとなく近付き難い、できれば距離をとっておきたいといった印象ですが、屋外と電車内の間に位置づけられます。

結局、開放的な屋外では公共の場であっても女性の化粧はそれほど気にならず、屋内であっても対象から距離を保てる、場合によってはその場から離脱可能であるならば、電車内ほど苦にならないんじゃないかと。しかしながら、乗客相互が近接し過ぎで、既にパーソナルスペースが侵害されている状況下にある電車内では、自分のパーソナルスペース内で化粧をされる懸念もあり、それが忌避感、不快感の由来ではないかと推察した次第です。先述したようにこの問題は、電車内という一定の閉じた空間における乗客の密度に関わる問題ですから、解決は容易ではありません。物理的に不可能ではありませんが...


次のエントリに続けます。

2016年11月19日土曜日

職人

前のエントリに関連した話です。


言葉の一人歩きというか語の価値のデフレということでしょうか。

”カレー職人”というレトルトカレーがあるわけです。
職・人・
一体どういった意図でこのようなネーミングをしたのか理解に苦しんでいます。由来を小一時間問い質したい気持ちで満ち溢れています。
職人とは、自ら身につけた熟練した技術によって、手作業で物を作り出すことを職業とする人のことである。
そういう熟練した技術によって手作業で作られたレトルトカレーなんでしょうか?それであの風味なら工場で大量生産されたレトルトカレーで私は十分です。該製品は比較的割安で販売されていますから、安い手間賃で職人がやっつけ仕事で作ったのかもしれません。

製品名に”職人”の語を含ませることでその言葉の持つ意味をイメージさせ、販売促進に繋げようということかと勘ぐりますが、中身が追いついていません。むしろ、”職人”という語に本来からは捻じ曲がった新しい意味が加わった、更に言えば、置き換わってしまった印象すら抱いてしまいました。

まぁ、致し方ないのかもしれません。釜飯の素も上市していますし。野菜を炒めて添えたり、スパイスを加えたりと食べる側がアレンジ職人になることを求める、という意味であれば反論できませんが、ちょっと違うような。

こういった語の一人歩きは全く好ましいことではないなぁ、と思った次第です。言った者勝ち、というか声の大きい側が正しい、に結びついてしまいますから。
公正中立を標榜し、社会の木鐸を自負するメディアとか、
法の支配、立憲主義を謳いながら憲法改正を目論む為政者とか、 
”安全”という語が一人歩きし神話になった結果、福島で何が起こったか、身に沁みてわかっているはずじゃないんでしょうか。で、このような語意の一人歩きが各人の受け止め方に差異を生じさせ、この差異が齟齬となってコミュニケーション不足が生まれると。典型は国会答弁でしょうか。相互の齟齬により不毛な質疑が延々と続くことも珍しくありません。噛みあわせないことを意図しているのかもしれませんが...

話を戻します。

その一方で、”職人”を過度に、不自然に持ち上げることについても素直に看過できないでいます。以前、NHKの朝ドラ”まれ”を眺めていてそんな思いが過りました。輪島塗の職人、製塩職人、洋菓子職人が役どころとして登場しますが、なんだか意識高い系職人のような印象を抱き違和感を拭えませんでした。

職人の仕事は趣味や道楽ではなく、あくまで生業です。時に職人と作家、芸術家が混同されているかに見受けられ、そこに独りよがりの矜持のようなものを感じたわけです。

おそらく職人本人より、職人仕事のイメージ
熟練の技能を有する職人が、時には採算を度外視して、納得できるまで念入りにした仕事
を植え付けたい周囲の思惑があるんじゃないかと勘ぐってしまいます。例えば輪島に代表される漆器産業ですが、
漆器産業全体の現状
明らかに衰退しています。そういった状況下、業界だか、組合、販売業者が活性化策というか販促活動の一つとして”職人の手仕事”という付加価値を載せて喧伝しているに過ぎない、ということです。

ざっくり言えば、需要の縮減に対し、”職人の手仕事”で立ち向かえるのかという話です。高齢化が進みシャッター通りと化した旧来からの商店街が、”人とのふれあい”をアピールして活性化を目論む話に通底した斜め上の哀しさを感じずにはいられません。

職人気質の強調には需要の減少に若干のブレーキをかける、延命効果はあるかもしれませんが、それを止める、根治するまでの力はないのです。

そういった現状を認識しないまま職人のイメージを等身大以上に持ち上げても、誇大広告としか受け止められず、”ああ、そうですか”程度の印象しかありません。モノにまとわせた、”思い”、”矜持””誇り”、”技”といった語が重苦しく鬱陶しい一方、モノそのものは黙して語らず、そんな事例がしばしば目につきます。

簡単には、需要があれば従事者が増え、工業化、技術革新といった仕事の効率化と共に産業は活性化します。換言すればいわゆる職人仕事に留まっている分野には相応した需要しか生まれなかったとみるのが妥当な処ではないかと。

”職人の手仕事”アピールで需要を伸ばそうとするのは、そんな理に逆らっているようにも受け止められ、なんだか整合性がないなぁ、と思った次第です。

2016年11月7日月曜日

錯誤

まぁ、テレビCMにいちいち突っ込んでもしょうがないわけなんですが...

最近、話題になっていますから少し。
ツナ缶の真ん中にゴキブリ1匹 はごろもフーズが自主回収しない理由
はごろもフーズに、ゴキブリ→ハエと続き今度はクモ混入!はごろも「コメントしない」
この辺りについて言及するつもりはありません。”鯖の水煮や味噌煮の缶詰を開けたらアニサキスが入っていた”というのも許されないのだろうか、そんな思いが過りました。

この話から離れ斜め上のテレビCMシーチキン食堂について記します。現在は放送されていません。自粛中でしょうか。

でですね、漁師町に開店した食堂が舞台となっています。その名もシーチキン食堂...店を訪れる漁師に様々なシーチキン料理が出されるCM
です。
シーチキンときまぐれ漁師のサラスパ
シーチキンマヨおにぎり
頭大丈夫なんでしょうか。漁師町の食堂、客も漁師を推察させる設定で...
漁師にシーチキン食わせてどうする?
旨そうにシーチキン料理を喰う漁師もどうなんだ?
ということです。魚が獲れない下手くそ漁師なんでしょうか。シーチキンが好きな漁師がいてもいいんですがね。自分が獲った、市場性はないかもしれないが新鮮な魚で飯を喰っている、というのは勝手な思い込みなんでしょうか。
シーチキン>自身が獲った魚
って漁師を莫迦にしてんのか?

実は漁師コスプレの客だった、というなら異論はありませんが。

2016年11月6日日曜日

回合

夜の焼肉が本業なんでしょうが、昼にはカレーうどんを出す店です。千種区仲田にあります。川崎のとんかつ勝義に比肩するメンチカツにはなかなか巡り会えませんでしたが、ようやく...

揚げたて熱々のメンチカツをガブリと齧れば、旨味が口内を満たし、残った齧り口からは肉汁流れ出しています。これで飯を頬張れば相好が崩れます。惜しむらくは、このメンチカツがカレーうどんのトッピングの一つであることです。ソースをガッーとかけて丼飯を掻き込める、メンチカツ定食の用意がないことです。

いや、決してカレーうどんが秀でていないわけではないのですが、やはりメンチカツが突出しているんじゃないかと。カレーうどん、メンチカツ、ご飯(小)で腹一杯胸一杯です。カレーうどんの抜き、メンチカツ、ご飯(大)の登場を願って止みません。メンチカツカレーはあるんですけどね。

2016年11月5日土曜日

手段

もうはるか大昔の話です。

小学校の頃か中学校か、いずれにせよ初等教育課程の社会科で、仏教を日本全国に広めるために聖武天皇が東大寺、国分寺を建立した、との知識を得ました。で、その目的は鎮護国家の思想に基づくものであったと。

国家の安寧というか内政の安定のためのツールとして仏教を利用したということです。社会の不満や不安を抑制するため、武力ではなくソフトパワーである、宗教の政治利用によって人心の掌握を図った、とも言えます。

当時、仏教によって社会が安定化する理屈が理解できないというか、腑に落ちませんでした。教師に質問もしませんでしたし。今であれば、小一時間は質問すると思いますが...

それはさておき、古今東西、統治者の威を借る寺院や僧侶が大きな権勢を振るい、良くも悪くも政治に関与してきた史実は枚挙に暇がありません。今日でも、宗教の政治利用を疑わせる、推察させる事案を挙げることは難しくありませんが、憲法の定める政教分離の下、少なくともおおっぴらな利用認められていません

又、時折散見されますが、皇族や皇室の政治利用に関する事案については厳しく指弾されています。東京五輪招致の際、首相官邸が宮内庁に高円宮妃久子さまのIOC総会参加を要請した件などは耳新しいところです。
「政治利用」とされている過去の事例
このような思想、信条、意識、価値観といった個人の主観に働きかけ得る事物を政治に利用することは慎まれるべきであって、現行憲法はこれを認めていない、と理解しています。
信仰、崇拝、尊崇を通じて政治が個人の内面に干渉すべきではない、ということです。

では、翻ってスポーツはどうでしょうか。ここで指すスポーツとは参加者としてのスポーツではなく、観戦者としてのスポーツを意味します。

スポーツの意義については例えば、
スポーツ振興基本計画 1総論
の中に
スポーツは、人間の可能性の極限を追求する営みという意義を有しており、競技スポーツに打ち込む競技者のひたむきな姿は、国民のスポーツへの関心を高め、国民に夢や感動を与えるなど、活力ある健全な社会の形成にも貢献するものである
とあります。勇気、感動、頑張る姿、可能性、ひたむき、共感、夢、成長、人間性、努力、真摯、極める、忍耐、不屈、精神力、大和魂、サムライ... そういったキーワードを用いて、スポーツの与えるもの、見せるものについて語られることが非常に多いように見受けられるかと。思いっきり個人の内面に働きかけているわけです。

本エントリでは、このスポーツの意義について云々する意図は毛頭ないことは明言しておきます。

言及する関心は、個人の内面に働きかけ得るスポーツの政治利用にあります。以前からそういった印象を抱いていたのですが、東京五輪の競技施設に纏わる一連の報道を見聞してより一層その思いが強まります。巨額な予算が絡むからでしょうか。

現役選手の発言の背景にある競技団体の意図、さらにその後ろ盾となるスポーツ行政に影響力を持つセンセイ...そんな構図が想起されます。以前のエントリでも記しましたが、やはりセンセイとしては墓標を残したいのでしょうか。或いは、負の遺産にできるだけ多くの予算を費消して関連企業に恩を売っておきたいのか。
虎は死して皮を留め、人は死して名を残す
と言いますが、センセイは死してハコモノ(=債務)を残す、ということかもしれません。

東京五輪、即ちスポーツを理由とした公費の費消も含め、スポーツと政治の関係は政教分離前の宗教と政治の関係を想像させます。政教分離以降かつての政治における宗教の役割をスポーツが担っているんじゃないかと。

確かに、スポーツの政治利用は憲法で制限されていません。だからといって、スポーツの絶対的正当性を前提とした、あからさまな政治利用というのも違和感を感じる次第です。

上述したようにスポーツの観戦は明らかに個人の主観に働きかけます。例えば、良くも悪くも国威発揚を目的としての利用は至極当然のように行われています。即ち、一般庶民の印象操作や煽動といった情宣活動の有用な手段とみて間違いないわけですが、その利用は全く規制されていません。

政治とスポーツの更なる強固な結びつきは、その延長にスポーツの国家神道化をも勘ぐらせます。国家、組織、国民が本分を知り、自律機能を作用させる、即ち賢くなればいいのでしょうが、それもなかなか難しい話かと。暴走を憂慮してしまいます。

2016年10月29日土曜日

須要

かつて、名古屋、及びその近郊においてエビ天の天とじ丼を以って天丼と称してきた、とみています。つまり、海老の他、メゴチ、鱚、烏賊、穴子等の魚介類に加え、茄子、南瓜、玉葱といった野菜の天ぷらを丼ツユに浸して丼飯に載せた、今日の天丼は当地では一般的ではなかったと。

記憶が定かではありませんが、そういった天丼を始めて口にしたのは二十歳前後で愛知県外でした。それまでは天丼即ち、エビ天の天とじ丼でした。ですから、何かで見聞きした、カラッと揚がったサクサクの天ぷらを頂いた天丼というものは想像だにしませんでした。丼ツユを吸った衣が溶き卵と渾然となった天丼しか知りませんでしたから。

いわゆる全国共通の天丼を始めて目にした際には、
”タレを飯にまぶしてその上に天ぷらを載せただけじゃないか”
というのが素直な印象でした。飯と天ぷらの一体感のようなものを感じなかったのです。

当地では歴史の浅い、専門の蕎麦屋、セルフの讃岐うどんチェーンの勢力拡大、昔ながらのきしめん屋の衰退に伴い、いつしか天とじ丼は天丼として当たり前ではなくなってしまったように思っています。どちらが秀でているかを云々するつもりは毛頭ありません。

そう言えば光村なんかは昔はどうだったんでしょうか。あそこはあそこでかき揚げ丼などは丼ツユを割としっかり吸わせていて、カラッ、サクサクという丼とは一線を画していたような覚えがありますが。

それはともかく、名古屋市東区出来町という正にザ・名古屋に位置するきしめん屋を訪れた方が撮影された店内お品書き、及び、召し上がられた天とじ丼の図を見て思った処を少し。

1610240200.JPG

天丼と天とじ丼が併記してあります。各々に”上”が設けられているのも気になりますがそれはさておきます。つまり、ザ・名古屋のきしめん屋で天丼=天とじ丼ではなく、両者が区別されているわけです。前のエントリで守山区、中区鶴舞、西区、更には隣接の郊外でも天丼=エビ天とじ丼と扱われていることを確認しているのですが。両者を区別しているきしめん屋がザ・名古屋の場所に位置していたとは...軽く驚きました。ま、どうでもいいことですが。

こうなると、上記天丼がいわゆる天丼なのか否か興味を引きます。或いは、単に玉子でとじないエビ天丼なんでしょうか。はたまた、鱚天や野菜天の入ったいわゆる天丼なのか...

ところで、下図は上記ブロガーの方が注文された天とじ丼ときしめん(小)の配膳写真です。

1610240204.JPG

ここで仮に、きしめんを注文せず丼物のみを頼んでいたとしたら、赤だし等、汁物もなくお茶と共に掻っ込むことになったのだろうか、ふとそんな思いが過りました。淋しいなぁと。

寿司屋で海鮮丼や散らし寿司を頼めば味噌汁がつきます。中華料理店の炒飯には通常中華スープ?、ラーメンスープ?がついてきます。鰻屋だってうな丼を頼めば吸い物が。肝吸いか否かは別ですが。牛丼チェーン、カツ丼チェーンでは味噌汁がついてきたりオプションだったり。これはまぁ、ファストフードのチェーンですから致し方ないかもしれません。

微妙なのはオムライスで洋食屋、喫茶店、定食屋、専門店と供される店も様々ですが、スープも店によってついたり、つかなかったりです。個人的には水やお茶と共にオムライスを口に運ぶのも物足りなさを感じます。ただ、スープがつかない店でも食後のコーヒーがセットで出されたりしますから、オムライスにはスープは不要という考え方かもしれません。個人的にはコーヒーよりスープを優先して頂きたいのですが。例えインスタントであっても。オムライスを注文して眼前にそのひと皿だけが配膳されると、旨いでオムライスであっても軽く落胆します。おそらく一汁三菜に近い状態を期待しているのでしょう。水やお茶、コーヒーは一汁には含まれませんから。

カレーは明確です。水と共に食べることになっているかと。しかしながら、自分としてはカレーでもスープが欲しいところです。味噌汁でも構いませんけど。ナポリタン定食?イタリア定食?と称されるもの、焼きそば定食、お好み焼き定食というものがあっていずれも味噌汁がつくわけですから、カレーに味噌汁でも何ら可怪しくないと考えています。

でですね、上記のようなうどん屋、きしめん屋、蕎麦屋で丼物を頼む際には必ずカツ丼とミニきしめん、ミニ天丼とかけそば、といったセットを注文してきました。丼物のみを単品で注文したことは全く記憶にありません。丼物単品のみを頼んだ時、汁物無しでそれだけ配膳されるのでしょうか。

うどん屋、きしめん屋、蕎麦屋で丼物単品のみを注文した場合にはお茶と共に丼を口に運ぶのが真っ当なのか否か、よく判りません。お茶をすすりながらというのも、物足りないというかか物悲しい気がしてなりません。

2016年10月25日火曜日

因習(2)

電通で起こった、女性新人社員の自殺事件を受け、会社側は
”月間の時間外労働時間の上限を65時間にする”
”社内全館を午後10時~翌日午前5時、毎日消灯する”
といった対応をを公表しました。ウェブサイトは今日も平常運転です。全く無風で凪状態です。CSRの姿勢は微動だにしておりません。

消灯した図です。午後10時に全館を消灯して社員の退社を促す、とのこと。

で、朝五時には明かりつきまくりと...退社してるんでしょうか。午後10時~翌日午前5時は、消灯下で仕事、社外で仕事、百歩譲って仮眠、といった処かもしれません。正に因習です。

現実的に毎日午後10時~翌日午前5時の間、業務停止など該企業で可能なんでしょうか。少し考えてみます。

該時間帯の業務が必須であるならば、当然翌日、或いは関係会社や外部の委託会社にそのシワ寄せが生まれます。出力を維持するには減じた投入資源を他で補う必要があるわけです。翌日への繰延や外注は通常、利益率を低下させます。では利益率を保とうとすれば、減じた投入資源に見合った出力となり、これは売上の減少を意味します。

営利企業として果たして利益率の低下、売上の減少を容認できるのか、といった話です。経営側、株主がそういった状態に甘んじるとは思えないのですが。過去に過労死があっても、労基署から是正勧告があっても、過重労働が受け継がれてきています。それこそが電通の体質、倫理基準であり因習なわけです。

それでは、毎日午後10時~翌日午前5時の間業務が適正に停止されても尚、これまでの財務状況が維持できたとします。これは即ち生産性の向上にほかなりませんが、これは換言すれば”元々しなくてもいいことを削った”、”穴を掘って埋める仕事をやめた”に過ぎません。

それは、人一人亡くなくならないと実現できない話ではないだろうと。つまり、是正の機会はこれまでも十分あったと考えます。過去の事件の時も、労基署からの是正勧告の際も...

組織の防衛本能、営利企業の飽くなき利益追求姿勢、時には変わらぬ伝統と賞賛される因習の、避け難い剛直性、普遍性に危うさを感じます。諦念せざるを得ないのでしょうか。

2016年10月21日金曜日

侵食

"神の雫"というワインを題材にした漫画が雑誌モーニング(講談社)で連載中です。

作品中に登場するワインの味わいを様々な絵と言葉で表現されても、バカ舌には共感も思い描くことも全くできません。めんどくさい漫画です。

で、タイアップ広告ってやつでしょうか。今週号(2016.11.3)で該漫画の作者がレギュラーソリュブルコーヒーと称されるインスタントコーヒーの味わいについて表現した漫画が掲載されています。クリームブリュレやガトーショコラとの取り合わせとか...

”料理の鉄人”で名を馳せた坂井宏行氏はネスカフェのボトルコーヒーを推しています。
「ラ・ロシェル」坂井宏行シェフが「ネスカフェ」を選ぶ理由
いや、ま、どうでもいいんですけど。自身のお店で提供されているんでしょうか...提供されていました。
これなら、私の店の料理に遜色のないアイスコーヒーです。コクが深いので、フルーツのペーストや蜂蜜で煮た生姜などを加えてもバランスがいい。爽やかでおいしいですよ
えーと、このラ・ロシェルという店は勿論存じませんが、供される料理はネスカフェのアイスコーヒーに見合ったもの、と理解すればいいのでしょうか。

こういった類の事例は枚挙に暇がありません。
「老舗の逸品 神田まつや監修 鴨南ばんそば」
祇園さゝ木 宇治抹茶ミルクレープ
イタリアンの巨匠落合務氏監修の本格的イタリアンスイーツのセット
カップ麺だったり冷凍ケーキだったり、更にはマンゴープリンの素まで...
1個約90円 辻口博啓監修ごろっと果実のマンゴープリン箱×32個
クーポン業者の商材やバルクで格安販売されているわけです。自身の名前がクーポン販売されていたり、まとめ売りされていることに抵抗はないのでしょうか。抵抗はないのでしょうか。 躍起になるほどの話でもなく、目くじら立ててもしょうがないのかもしれませんが。

食品に限らず、著名人の名を冠した製品には多くの場合”監修”の語で繋がれています。

監修とは、
著述・編集などを監督すること。また、その人。
であって、下リンクは一例です。
『猿田彦珈琲』監修とはどういう意味ですか?

スペシャルティーコーヒー専門店 猿田彦珈琲の知見からアドバイスを受けながら、共同で豆のブレンドから製法まで見直して生まれたコーヒーという意味です。
アドバイスを受けたことが監修であって、よく知りませんが高評価なんであろう猿田彦珈琲を再現した、近づけたということではないようです。全く言及していませんから。

権威商法とでも呼べばいいんでしょうか、監修商品とは商品の付加価値を嵩上げするために単に名前の威を借りたに過ぎない、と捉えています。

余りに氾濫する監修商品を目にしていると、料理携わる人物の目指す姿は、実は名前貸しなんじゃないかとすら思えてきます。斜めに見すぎでしょうか。

さて、ちょっと西友に行って見切り売りされているヤマザキのチョコレートケーキでも買ってこようかと、購買意欲を煽られたわけです。賞味期限の切れた、VドラッグのバローPBコーヒーと共にいただきます。

視点

以前のエントリ、退治

「ソース増量に、なんで100円取るのか。けち臭い店だなあ」と要は、ソース増量の対価として100円は適当かどうかということです。明らかに高いですよね。これは、お店のソース増量に対する拒否の姿勢です。
といったコメントを頂きました。そういった視点もあるのかと少し考えてみました。該エントリはルキウスさんのエントリ
「ソース多め人間」撃退さる

に端を発したものです。
[あんかけスパ屋で「ソース多め」を要求し、”ソース増量100円です”と応答された際、じゃあいいです”踵を返すように要求を撤回する
このことの適否を問うもの、と受け止めました。で、まずソース増量100円ついてですが、その妥当性は全く考えていません。100円が高ければ50円ならいいのか、10円でも高いのか...無料が当然とか、そういった価格以前の話と捉えています。

無料のつもりで頼むが有料と分かって取り消す”と一般化しています金額の多寡ではなく、10円だってそれならいいですと取り消していたかもしれませんし。


つまり、明示されていないことはあくまで客側のお願い、要求、若しくは我儘であって、その応諾・拒否と共に、相応の対価を求め自由も店側にある、という考え方を根本に置いています。

ランチサービスとして麺増量無料、或いは、ご飯無料というラーメン店がある一方、普通に有料の店もあるわけです。いずれも表示があればそれが店の姿勢と受け止めます。それ以上でもそれ以下でもありません。

ココイチに入って、ご飯やカレーが〇〇gで☓☓円追加とか、辛さ〇〇倍で追加☓☓円ときっちり加算されても、表示されているわけですから、”ああ、そうですか”と。納得できれば注文し、不満があれば注文しない、特段一方に偏った思いはありません。(別の理由で行かないんですが...)

上述のあんかけスパ屋でも、端から”ソース増量には追加料金と頂きます”との表示があれば、そういった要望は出なかったであろうことは十分推測できます。店の負担は大したことないはず、といった客側の価値観で、明示されていない要望に無料を期待するというのもちょっと違うような気がします。
.
.
.
.
.
.
ここまで記しておいてなんですが、ふと気になって調べてみました。

と、メニューに明示してあるわけです。

表記があるにも拘らず、おそらく店側が客との齟齬を防ぐために”ソース増量100円ですが”と念を押したのが実のところと思料します。むしろ誠実な店とも言えるのではないでしょうか。

以降、牛丼屋のツユだく、マクドナルドの特殊オーダーサブウェイの野菜増量、或いは、御飯の減量とか、食べられない、嫌いな食材を除いてもらう等、他の明示されていないオプションとも比較してみようと思ったのですが...
メニューをよく見て注文しろ
この言葉に尽きてしまいました。

尚、頂いたコメント中に、店に対して損して得とれ”といった指摘がありましたが、私はどうでもいい、といった見方です。それで営業不振になったとしても関知しない話ですから。

2016年10月11日火曜日

因習

因習なんでしょう。
「死んでしまいたい」過労自殺した電通の新入社員 悲痛な叫び
それが広告代理店という業態によるものか、電通という一企業に伝承され続けてきたものかは存じませんが。

同日(10/07)の電通報と電通ウェブサイトのCSR。
キング・カズらが新テレビCMに!「キリンファイア」、焦がし焼き製法でフルリニューアル
知らぬ存ぜぬの方々。

人権の尊重
電通グループは、広告をはじめ事業活動に関わるすべてのコミュニケーション活動を、人権の観点からも豊かなものにしたいと考えています。そのため、社員一人一人が人権について正しい知識を身につけて理解を深め、その知見を業務活動に生かしていくことを目指しており、電通グループ全体で各種の社員研修を定期的に実施しています。また社員の能力発揮のためにも、ハラスメントの防止を徹底し、社員の人権を守ることも、重要なテーマであると考えています。
労働環境の整備
サステナブルな社会を実現するには、多様な社員の能力を最大限に引き出して活用することが欠かせません。「人が財産」の電通では、社員が高いモラルとモチベーションを持ち、能動的に仕事に取り組める環境を整えることが、極めて重要な課題であると考えています。そのため、能力開発、ワーク・ライフ・バランス、そして健康・安全管理体制の整備の観点などから、きめ細かい対応を施してます。
(太字は本エントリで修飾)
”人権について正しい知識を身につけて理解を深め、その知見を業務活動に生かしていくことを目指して”いく過程での避け得ない事故だったということでしょうか。ああそうですか。

この悲報を目にした時、スタンフォード監獄実験を想起しました。

電通という舞台装置の上で、人々は電通マンという役を担っていたわけです。各々、管理職、部長、上司、マネージャ、ディレクタ、更には新入社員と...率先して、或いは強いられて、舞台を下りない限り配役を演じ続けることになります。

特定個人ではなく、脈々と継承されてきた電通イズムを根幹に、電通の管理職としては至極当然言動が今回のような痛ましい結果を引き起こしたとみています。おそらく、自分達もそうだったとか、育、育成の一環といった名の下に...

上記スタンフォード監獄実験では、看守でも受刑者でもない普通の人々が被験者とされ、看守役、受刑者役を演じさせられました。これは、”受刑者や被疑者・被告人などを拘禁する”という監獄本来の目的を果たすものではありません。つまり、看守役、受刑者役各々の言動に意味はないわけです。当然ですが実験であってフリですから、虚構の場です

そういった場では、被験者自らがそれまでに見聞した情報を元に役を演じるであろうことは容易に想像できます。その情報はおそらく映画、小説といったフィクションが殆どではないでしょうか。ノンフィクションの情報が皆無というわけではないでしょうが、フィクションから得た看守と受刑者についての先入観が被験者の演じる各々の言動を発現させているとみるのが妥当な処かと。

つまり、該実験では、イメージが脹らんだ、おそらく過激にエスカレートした看守像、受刑者像が演じられていた、ということです。

翻って、広告業界の雄である電通は、と考えれば、まぁ、広告代理店という業務がそもそも虚業なんじゃないかと思料する次第です。

広告代理店の業態と言えば、媒体の広告枠を顧客に販売する手数料ビジネスに端を発しますが、今日では広告の制作、マーケティング・リサーチ、イベントやキャンペーンの企画運営等も一事業となっています。まぁ、煽動、プロパガンダに関わる一切を請け負う仕事といったところでしょうか。自社の広告、或いは、イベントやキャンペーンの企画といった無形物がいかに創造的で効果的であるかの如く矯飾し、付加価値を高めるというか元々の価値に下駄を履かせ口銭を稼ぐ、といった処が率直な印象です。(個人の感想です。認知には個人差があります。)

で、広告やイベント、キャンペーンといった成果物の創出において、果たして設計、生産といった概念が含まれているのか、甚だ疑問です。顧客の要求、─これが往々にしてデスマーチの原因であるのは確かです─これを満たすことを目的に達成し得る手段を考案し、成果物として創出していく、その際、投入資源(ヒト、モノ、カネ)の最小化を図るのは事業会社として極当たり前の行動と考えます。

設計の根幹は恣意や感性ではなく論理性、合理性であるべきであって、又、効率性を考慮しない生産などあり得ません。

しかしながら、現実には、
打ち合わせは、素晴らしいアイディアのためには必要なもの。全員出席を求め悶絶8時間マラソン!
「てっぺん」(深夜0時)を超えてからの会議がカッコイイ
ワシも若い頃は残業が多かった、だからお前もできるはずだ
あるクライアントさんの担当者が異動することになり、送別会をするとなれば、もう毎晩夜中12時から部内で企画会議です。
といった話がある、(あった)ようです。理不尽この上ないぁと。

この体質は是正できるのか、についてですが少なくとも自力更生は困難です。組織内のルールとして、法令順守の名の下、労働時間の規制は徹底できたとしても、”理不尽な過重労働、パワハラの否定”といった意識改革は不可能でしょう。それが因習というものです。

今後、過重労働によるいたましい自死の再発防止策が図られたとしても、あくまで本件を受けての”仕方なく”の措置であって自発的なものではありません。ルールによる強制力で抑制するに過ぎず、本質的な過重労働の否定に至るものでは決してないのは明らかです。

児童虐待が負の連鎖として受け継がれる傾向にあるように、企業の悪しき体質も容易には排除できないのかもしれません。私企業において組織防衛は本能であって、これまでの理不尽な環境を当然と受け入れ、継承してきた集団では自己変革は不可能です。華々しい過去との決別や自己否定を意味しますから。

電通の意向を忖度しない外部委員会による調査と監査は勿論必須ですが、そうであっても根本的な変革には世代交代は欠くべからざる要件であり、相当に時間を要するのは間違いありません。
―――――――――――――――――――――――――――
ところで、本事件では月100時間を超える残業、即ち
長時間労働が自死のきっかけとされています。実際には、対外的な、記録にある残業が100時間であって、実質はその程度でではなかったであろうことは彼女のツイートから容易に類推できます。勿論、この残業が彼女を精神的に追い込んだのは間違いありませんが、時間という定量的な部分以上にという定性的な部分こそ大きな原因があったのでは、と推量しています。

100時間を超える残業は確かに長期間労働です。(それ以上の部分については状況証拠のみですから言及しません。)しかしながら、たとえ僅かであっても結果に寄与している、目標達成に貢献している、そういった実感が得られていればもう少し違ったんじゃないかと。それさえ押し潰す圧倒的な残業があったと言われればそれまでですが、これは今後調査が進められるべき話です。

上述の監獄実験は、女の生前のツイートから、長時間の”穴を掘って埋める仕事”を連想させたことによります。本件に対し、”100時間程度の残業など過重労働ではない”といった趣旨の意見が非難を呼び、炎上を引き起こしています。一例です。
長谷川秀夫教授「残業100時間超で自殺は情けない」 投稿が炎上、のち謝罪
しかしながら、実は過重労働の時間ではなく、質、即ち精神的な過重労働こそが問題だったのではないかと考えています。
「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」
「今の業務量で辛いのはキャパがなさすぎる」
といった管理職の言葉からは全く生産的な印象を受けません。
 「休日返上で作った資料をボロくそに言われた もう体も心もズタズタだ」
勿論、入社一年目の新人が作成した資料など危なっかしくて使えないのは当然です。期待する側がおかしいわけで、そういった部下を使えるように仕立てあげるのが管理職の職務じゃないでしょうか。芽を摘み取ってどうする

これらは結局、労働生産性に繋がる話で、

電通「過労自殺」事件にみる労働生産性の低さ
では、広告代理店という業態を切り捨てています。そういった方向に進むのは避け得ないのでしょうが、旧来からの非効率な業務の放置は動きを加速させます。この動きを押しとどめるには生産性の向上が急務なのは言うまでもないことです。

ただ、それが可能かとなると...現状ですら適正な生産性評価がされていない虚業の業界と思われます。長時間労働の対価云々以前に、労働の質に対する適切な評価、或いは評価可能な業務の指示、この部分を蔑ろにして不毛な業務を強いられれば自虐的閉塞感が生じてしまいます

自ら(の業務)に価値を見出ださせず追い詰める、そういった環境こそが指弾されるべきと考えます。

2016年10月7日金曜日

移行

連日の築地市場の豊洲移転問題に関する報道に辟易しています。
実は、中央市場というものは、もともと必要ない。現在の発達した情報社会では、市場を各地に分散した方が、効率はいい。つまり、地産地消だ

とあるように、”中央市場”の機能が時代にそぐわなくなってきている今、豊洲の新市場に移転する意味がどこまであるのだろうか、と身も蓋もないことを記してみます。だからといって、老朽化が進み、一部アスベストの問題も危惧されていいる築地市場に留まり続けるべき、という論とは勿論異にします。

豊洲市場へのあゆみ
によれば、築地市場の施設老朽化を含めた問題はかなり以前から認識されていて、平成11年に移転へと意見集約され、平成13年に豊洲への移転が決定したとのこと。一方、その間のネットワーク技術、物流技術の発達には目を見張るものがありますし、水産資源を取り巻く環境は様変わりしました。

公共事業では、一旦動き出した計画が撤回、修正されることは稀有なんでしょうが、新しいハコモノで旧態依然とした市場のシステムが温存され続けることに違和感を覚えるわけです。

取引機能の仮想化と産直ネットワークの活用で、より効率的な市場システムへの実現が可能であり、移行すべきと考えます。

暴論を承知で言えば、
e-BayかAmazonに委託しとけ
ということです。楽天やYahoo!はちょっと...ですが。TSUTAYAも任せた図書館の運営がアレですし...

市場の機能は価格が仲介する需要と供給の突き合わせですからネットオークションや証券取引所と理屈は同じです。大きな違いは上市品の品質チェックでしょうか。生鮮食品であるがため鮮度や品質のばらつきが大きく、適正に評価できる目利き(=仲買人)が実物を見て品定めする必要があると。

ただこの辺りも供給者の提供する情報を需要側がどう判断するかの話であり、本気で取り組めば仮想化に対し大きな障害にはならないと考えます。

鮮度や品質に関わる情報の規格化は勿論ですが取引参加者の誠実さこそが要です。市場取引では、供給者はできるだけ高値で売りたい一方、需要家は安値で買いたいわけです。質と量を基に行われるこの突き合わせにおいて、提供される情報が正確でなければならないのは当然です。

しばしば、ネットオークション、ネット通販で”欺かれた!”、”掴まされた!”といった事例を見聞します。後を絶たないと指摘されればそうかもしれません。ただこれは、”B to C(Business-to-consumer)”の事案に比せば、”B to B(Business-to-business)”の事例は少ないとみています。”B to B”において持続的な取引を望む参加者は一旦失墜した信用を取り戻すことは容易ではないことを認識しているはずです。

何より、これまでの食品偽装事例を鑑みれば、リアルの取引が安心を担保する根拠にはならないのは言うまでもないことです。

この信用の価値は、顔が見えない仮想市場こそむしろ高まっていくとみています。仮想市場においては情報が全てで、正確な情報を誠実に提供する取引者が優遇されるという点ではリアルの市場より優っているのではないでしょうか。

勿論、そうは言っても不正な取引は根絶できないとは思います。仮想市場における参加者の自主的な誠実さに頼るのみでは市場での公正な取引に対する信認には心許ないものがあります。

最近でも、”B to C”の場合ですが、
トクホ全製品、成分調査やり直しへ 消費者庁が指示
特定保健用食品に対する今後の品質管理等の徹底について
といった事案があり、事業者の自主性のみを手放しで信用するわけにはいかないと。 

そこで、e-BayやAmazonへの委託となるわけです。公設の市場では産地や品質、鮮度に関わる欺瞞的取引が発覚した場合、法規で規定された範囲内の処分までしか下せません。

悪質な場合は詐欺罪適用もあり得るでしょうが、JAS法、食品衛生法、計量法、景品表示法、不正競争防止法辺りが適用法規かと思います。これが健康に関わる事案となれば行政処分として営業禁止にまで至るでしょうが、食品偽装の多くの場合、行政指導に留まるのが実の処ではないかとみています。行政側としては、徒に経営を圧迫しないという事業者側への配慮も否定できないような気がします。

それに対し、そういった欺瞞的取引へのe-BayやAmazonの対応は、情け容赦ないものであろうと推量致します。共に電子商取引の信認に依拠した私企業です。この信頼性を毀損する行為に対してはグレーの段階での切り捨て疑わしきは退場といった措置で臨むのではないでしょうか。不透明な規約を盾に一方的との指摘があろうとも...

このある意味、独善的で行き過ぎた姿勢で上記二社は電子商取引への信任を堅持してきたと捉えています。

是が非でも外資系IT企業に委託、といった主張をする意図はありませんが、市場というシステムそのものの効率化を図れないかということです。旧来の陳腐化した市場機能をそのまま新しいハコモノに移しても生産性の向上は見込めません。

”困る人がいる”、既得権が損なわれる”、”計画は動き出している”、そういった理由による旧態依然としたシステムの温存は、変化への抵抗であり、新しいもの、異質なものの排除に他なりません。

ハコモノ、ハード部分は著しい技術革新が進んでいる一方で、それらを利用する社会そのものは変わらないなぁと。技術の進歩に相応して社会は賢くなっているのだろうか、依然首は傾いだままです。

2016年10月6日木曜日

退治

ルキウスさんのブログに、
「ソース多め人間」撃退さる
といったエントリがあります。無料が当たり前と思い込んでいるあんかけスパ屋「ソース多め」注文に纏わる話です。

似たような事例を最近耳にしました。

名古屋郊外で、地域振興の一策としてでしょうが、地元商工会主催でスタンプラリーを行っている市があります。該市内で参加事業者の店を廻って台紙にスタンプを集めるという催しです。所定数のスタンプを集めた台紙は、期間終了後に開催される空クジなしの抽選会に抽選権として引換られる仕組みになっています。

この台紙は、新聞の折り込み分(各世帯一枚)に加え、銀行、スーパーといった参加事業所で入手できます。例年ですと、"ご自由にお持ちください"と銀行、スーパー、コンビニに置いてあるこの台紙は瞬時になくなっていました。

一人あたり制限枚数一杯まで台紙を確保しさえすれば、スタンプの押印は無料ですから後は銀行、スーパー、ドラッグストアを廻れば、抽選権を獲得できたわけです。現在一人当たりの制限枚数は7枚のようですが、以前は制限もなかったんじゃないかと。まぁ、何度も並び直せば制限を超えて抽選に参加できるでしょうから制限自体無意味なんでしょうが。

台紙の束を持って抽選会に現れる常連が、総抽選数の中でそれなりに割合を占めてしまっている、といった話も聞いていました。振興に繋がっているとはとても言い難い状況だったんじゃないかと。

ところが、今年度はあちこちで台紙が余りまくっているようです。なぜか?

以前は、無料で、しかも手持ちの台紙全てに同時に押印できたスタンプが、
300円以上のお買い上げ、もしくはご利用をされたレシートにスタンプラリー印を押印してもらい台紙に添付してください
と規程が変更されたことによるものと推測しました。銀行でも台紙は配布するがスタンプの用意はなくなったと。

本来の意図であろう、購買による消費の活性化、振興への参画を促した途端、台紙の余剰が顕著に...

無料でスタンプを獲得できるなら目一杯台紙を集めるが、買い物がスタンプの条件となると一気にトーンダウン...スタンプのために買い物などする気はないということですか。ああそうですか。

冒頭の「ソース多め」に通底するなぁと、そのさもしさに頭が下がる思いです。

2016年9月5日月曜日

権高

――判決は放送法64条の受信設備の設置についての解釈を誤ったものと理解しており、直ちに控訴します――
に対するNHKの対応です。

 「ワンセグ機能付き携帯電話での受信契約に係るさいたま地裁判決」について
強い反感を抱いています。以前のエントリで記した通り、ワンセグ受信機能付きガラケーの保有のみでNHKとの受信契約を求められた実例を知っていますから。勿論、テレビを所有せずとも、です。

ワンセグ受信機能のある携帯電話やカーナビを持つだけでNHK受信料の支払い義務が生じる...全くもってその論拠を理解できません。

自分が支払っている受信料のわずかであっても、それが本訴訟関連費用の一部に充当されてしまうことは、憤懣やるかたない思いを去来させます。全く不本意に上記地裁判決を否認する片棒を担がされているわけですから。地裁判決とはいえ真っ向から司法の判断を誤りと指摘するその独善的姿勢に強い反発を覚えます。

行き着くところ、最高裁判決まで出て”主張が認められなかったのは残念”という形になるまで正当性の主張は続くのでしょう。で、”支払い義務なし”という判決に対し”やむを得ない”という姿勢で応ずるものと予想できます。つまり、
断じて自らの誤りは認めない、正すつもりもない
いうことです。正にそういった部分に、皆様のNHKの根幹にある中立を装った無謬性を認めることができます。

例えば、NHKのサイトでは放送倫理の確立に向けてには、放送倫理基本綱領として、
放送は、意見の分かれている問題については、できる限り多くの角度から論点を明らかにし、公正を保持しなければならない。
とあり、NHK倫理・行動憲章/行動指針には、
NHKは、公共放送として自主自律を堅持し...
と記されています。

本件、ワンセグ受信機能付き携帯保有者に対する受信料支払い義務の是非について、多くの角度から論点が明らかにされているのか、公共放送としての自律機能は働いているのか、”言行不一致以外の言葉が見つかりません。

放送法、番組基準、放送倫理、ガイドラインに倫理・行動憲章/行動指針...どんな文言でも構いませんが、大上段にというか、臆面もなく”不偏不党”とか”自主自律”などと宣ってしまうと...

それが一人歩きを始め、是正されないまま暴走せざるを得なくなってしまいます。様々な規定で”不偏不党”、”自主自律”を自負しておりそれが遵守されているはずだから、自分達に誤りはない、間違っているのは相手であり、司法であると。独善的体質に陥っているとみています。

それは是正し得ない公的組織の体質かもしれません。近代以降、公益を目的とした”官庁、公共団体”に、幾度の失敗も糧とすることなく未だ受け継がれ続けてきているやに思います。

その後、更に燃料投下...

高市総務大臣、ワンセグ付き携帯電話はNHK受信料の対象との見解を示す
ここにも無謬性は余さず発現されています。最終的な司法判断は仕方なく(事務的に)受け入れられても、価値観の是正、その判断の依拠する価値観に自らのものを差し替えることは不可能です。余計な発言などしなければと思うわけですが、資質の問題なんでしょうか。 

2016年8月23日火曜日

情弱

情報弱者なので、家電量販店には殆ど入りません。PC関連のチェーン店には近寄りません。二年に一度ほどケータイ販売店に行く程度でしょうか。サポートとレ点商法で尻の毛まで抜かれて鼻血も出なくなっちゃいますから。
「高額請求」で大炎上、PCデポは氷山の一角だ

サポート?修理保証?ユーザー登録?何ソレ?

白物家電を除き、自分で対処、できなきゃ廃棄で買い換えが基本姿勢じゃないかと。

2016年8月3日水曜日

必勝

博打で勝つ方法として、
”勝つまで止めない”
という一策があり、古今東西、博打による生活破綻者の多くはこの理屈から生み出されてきたわけです。
アベノミクスは失敗していない。だが道半ばだ
未だ違いが見出せないままです。

2016年7月24日日曜日

醜態

情けない
以外に言葉が見つかりません。2016都知事選の投票日が近づくに従い、魑魅魍魎が跋扈し、真偽が定かでない誹謗中傷や、強圧的文書が飛び交うんだろうなあとの予測はできました。

案の定、
平行して猪瀬前都知事も絡んだ自民党東京都連との場外乱闘も勃発しています。
猪瀬直樹が語る「東京のガン」
内田茂幹事長の陰湿ないじめに耐えられず自殺、樺山都議の遺書、擲り書き切ない。

都知事選に絡んだ話では、”親族まで、従わなければ処罰する”という通告でしょうか。

「北朝鮮じゃないんだから」猪瀬直樹氏も苦笑した自民都連の通告とは?【都知事選】

都知事選に絡んだ話では、”親族まで、従わなければ処罰する”という通告でしょうか。

「北朝鮮じゃないんだから」猪瀬直樹氏も苦笑した自民都連の通告とは?【都知事選】
------------------ここから----------------------------
平成28年7月11日
地域総支部長・選挙区支部長 殿
各級議員 殿
自由民主党東京都支部連合会
会長 石原伸晃
幹事長 内田茂
党紀委員長 野沢太三

都知事選挙における党紀の保持について


今般の参院選では多大なるご尽力を賜り感謝申し上げます。
引き続きの都知事選は、本日開催いたしました都連支部長・常任総務合同会議において、わが党の都知事選挙推薦候補に元総務大臣の増田寛也氏(64歳)を決定いたしました。

都知事選挙は、東京オリンピック・パラリンピックを控えた東京都政の舵取り役を決める極めて重要な戦いであります。都連並びに総支部、各級議員が組織総力を挙げて臨まなければなりません。更に党員・党友は団結し、より一層の挙党一致で勝利を目指して奮闘しなければなりません。

このような折、下記に挙げる事項を遵守され、わが党の候補者を強力にご支援下さるよう何卒、ご理解とご強力をお願いいたします。
1、党員は、党の決定した公認・推薦候補者を応援し、党公認・推薦候補者以外の者を応援してはならないこと。

2、党員は、反対党の候補者を応援し、または党公認・推薦候補者を不利に陥れる行為をしてはならない。
3、各級議員(親族等含む)が、非推薦の候補を応援した場合は、党則並びに都連規約、賞罰規定に基づき、除名等の処分の対象となります。

------------------ここまで---------------------------

与党自民党の強権的体質が如実に伝わってくる文面です。


先日、新たに選挙権が付与された18~19歳の有権者が政治から目を背けたくなる、失望するのも致し方ない選挙戦が繰り広げられています。

彼等がこの国の有権者であることを誇れる、票を投じることに意義を見出だせる選挙からは遠く離れているように感じます。
もう都知事はAIに任せとけ
繰り返しになりますが、率直な印象です。