2016年12月26日月曜日

化粧(2)

さて、電車内での化粧に関しては前のエントリで記した実害の有無以外にも”見苦しい”、”みっともない”、”恥ずかしい”などの不快感を示す声も散見されます。

批判の場は大量の藁人形生産工場と化しますが、声を拾ってみますと、個々人の価値観、独善が入り乱れていて、余り曖昧さに目眩がします。合理性、具体性を欠くこと、甚だしいなぁと。概ねそれらは、
1)化粧は身だしなみであって私的な行為である。自宅等、個人の空間で予め済ましておくべきであり、電車内という公共の場で行うのは、公私の区別、けじめができておらずみっともない。
辺りに纏められるのではないかと考えます。で、この抽象的な文言を虚心に眺めた時、その正当性を首肯できない強い抵抗感を覚えます。そこに更なる炎上を目論むが如く、”電車内の化粧”は、”爪を切る””歯磨き”、”着替え”、”オムツ替え”、果ては排泄”と同じなどと藁人形が追加燃料として焚べられたりしています。

その周辺では、

2)電車内での化粧は実害がないとしても、該行為を目にして不快と感じる人がいる以上、マナー違反であり、許されない。
と延焼し、遂には、
3)電車での化粧は是非ではなく、恥ずかしいか否かの問題である。恥ずかしいと思えないこと自体が疑問で、そういった教育を受けてこなかったのだろう。

という話にまで飛び火することもあるようです。
尚、

4)かつての日本や海外では"人前の化粧=身体売る女性"と捉えられる。
という話も出ていますが、全て伝聞で真偽を確認できませんので触れません。この写真はなんだ、とか、こんな話もあるようなので。その可能性は勿論排除しませんが、そういった職業の女性が偶々公衆の場で化粧していたに過ぎないとも考えられます。公共の場で化粧する女性は須らくそういった職に就いているとみなすことに不自然な印象を禁じえません。等号で関係付けてしまう手法に藁人形論法的なものを感じます。

1)〜3)において、1)が電車内での化粧を否定する方々の支柱的理由でしょう。化粧を身嗜みという私的行為と定義付け、それを公共の場で行うのは不適切であるとしています。

詳述しますと、
a.化粧の目的は他人に自分をキレイに?良く?見せることである。
b.化粧の動機は他人に自分をキレイに?良く?見せたいという自己顕示、承認欲求、及び/或いは、社会の同調圧力による義務感に由来している。
c.化粧の効果はあくまで化粧後の状態からのみ生まれるのであって、本質的に、その過程を他人に見せることは目的達成に何ら寄与しない。即ち、化粧の過程と効果の関係は連続的ではなく離散的であって、例えば、過程の50%を経ていても50%の効果が生じるものではなく、プロセスが終了(100%)して始めて100%の効果が得られる性質にある。 
d. 従って、化粧の過程を他人に見せる、見られることは、実害がない限り、単に”自分を美化できていない状態”を見せている/見られているに過ぎないはずである。では、それが何故他人に不快感を抱かせることに繋がっていくのだろうか。

e. ある第三者に美化した自分を見せる、見られる目的で化粧をする。その裏返しとして、電車内での化粧はそれを目にすることになる周囲に対し、”美化した自分を見せるつもりはない”、”化粧していない自分を見られても構わない”という意思表示をしている
ことになる。 
f.これは化粧後の自分を見せる、見られる第三者より、化粧行為を目にさせられる電車内の周囲を軽視していることに他ならない。電車内の化粧行為はその周囲の人々を、どこの誰ともわからない第三者より劣位に置いてしまう。無意識であっても、そういった意志を含む振る舞いと受け止められれば、車内の化粧が不快感を周囲に催させるのは当然である。
 g.特に、——化粧は女性社会人として必要不可欠なマナー、ノーメイクは女性社会人として失格——、——家から一歩外に出れば、そこは公的な場であってそういった公衆の面前では身嗜みを整えておくのは当然——、と信じている層が電車内での化粧を目にした場合、自身が恰も公衆の一員として認識されていないかの如くの印象を抱かされてしまう。周囲の目を気にせず化粧をする当人は、周囲を公衆(=人前)としてみていない、換言すれば、卑しめている、自分の化粧のための踏み台にしているとも解釈でき、周囲の顰蹙を買うことは必至である。
いうことです。ここで、化粧という行為の行動原理が本人の自発的意志にあるのか、或いは、社会の同調圧力による義務感に由来するのか、又、家以外の公的な場における化粧の身嗜みとしての要否は鑑みておくべきです。いずれか一方に偏向しているのではなく、各々が絡みあっているであろうことは容易に想定できますが。

全てに先んじて、(特に公的な場に出る際、)化粧は女性の義務という、同調圧力も含めた社会的圧力が存在しているのは紛れもない事実です。

事例には事欠きませんが、
ウィキペディアの”化粧”についてのノートには検証可能・確認可能な公的な根拠が示されないまま、「化粧は社会人女性に必要不可欠なマナー」、「化粧しない女性は社会人として不適格」という記載が”化粧のページ”の過去の版に掲載されていた。
ウィキペディアに根拠なく該記載があったということは明らかに圧力です。
電車で化粧させてよおおおお
のエントリも電車内の化粧の是非とは別に女性に化粧を強いる圧力が存在することの証左です。電通過労死事件で被害者となった高橋まつりさんの自死に至るまでのツィートにもそういった圧力の存在が見え隠れしていました。

他、発言小町、ヤフー知恵袋、教えて!gooといった質問サイトで”電車内”、”化粧”で探せば圧力を感じさせるコメントは枚挙に暇がありません。辟易します。

上述したように実際には、圧力と自発的意志のいずれか一方ではなく、割合に差こそあれ、両者は化粧の動機として共存しているとみています。個人の内面に関わる話でもあり、それを第三者が線引きすることは困難ですが、その比率は広い範囲に渡っているのではないかと憶測します。一方、化粧を目にさせられる側には、化粧は社会人女性の(マナーを通り越した)義務とする層から不要とする層、更には”どうでもいい”層が存在しているのも間違いありません。

おそらく該自発的意志や義務には、慣習や先述の社会的圧力が意志や義務を強迫した部分もあるのではないかと推察しますが、いずれにせよ
”社会人女性がノーメイクで人前に出る公共の場に素顔を晒すことは、恥ずかしいみっともない/はしたない/マナー違反である
に対する認識の隔たりに帰結できる話と考えます。社会人女性がノーメイクで人前に出ることに対し、特段否定する理由を持たない立場としてはここが理解できないままでいます。
化粧が、社会人女性にとってマナーであるとする合理的根拠が見つからないということです。実害がない限り、化粧しようがしまいが、それがマナー違反であろうがなかろうがどうでもいい、というのも素直な思いです。これまで知り得た所では、社会通念というバッサリ切り捨てるというか、”だめなものはだめ”的な思考を停止させるような理由ぐらいでしょうか。引き続き、客観的、いや、主観的であっても、”社会人女性が公共の場に素顔を晒すことはマナー違反である”という根拠について関心を寄せていきます。

この社会通念の正当性が肯定されるのであれば、中高生の化粧の是非、異物混入を低減すべき食品製造、クリーンルームを使用する半導体製造の職場は公的な場ではないのか、といった話に繋がります。更に言えば、ヨイトマケの唄はマナー違反の唄、女性社会人失格の唄ということなんでしょうか。この辺りの論理的整合性を求めたいところです。

資生堂の新しい化粧品ブランド”インテグレート”のCMが”女性差別”、”セクハラ”との批判を浴び放映中止に追い込まれたのは耳新しい話です。このブランドは働く女性を購入層として想定していることがCMから伝わってくるわけですが、上記社会通念に則ったものとみて間違いないでしょう。その一方で、社会において女性の化粧に関わる時間的、経済的負担は、それを求める側から報われているようには見えません。タレント、モデル他の個人事業主が経費処理できることは承知していますが、一般の会社員女性の化粧に対し何らかの配慮があるという事例を知りません。

”腰掛け入社”という語が死語になって久しいわけです。かつてのそういう時代であれば暗黙の了解で俸給に含まれていたのかもしれません。当時の価値観を未だに引きずったまま上記社会通念が継承されてきたのでしょうが、現在の社会を取り巻く環境に適用するのは無理を感じます。


次のエントリに続けます。

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