2014年12月29日月曜日

無駄

下衆な話で一寸一服。
NHKお天気お姉さん「岡村真美子」さんがW不倫&警察沙汰騒動で番組降板。
全くもってどうでもいい話題なんですが、 思ったところを記します。関係者の方はどなたも存じ上げません。

まぁ、
”根本的にテレビの一番組、或いは番組の一コーナーとしての天気予報はいらないんじゃないの?正に資源の浪費だなぁ。”
とは以前から感じていたことです。必要なんでしょうか。当然お天気キャスターと称される方々も含めてです。

どなたも気象予報士の資格をお持ちなので自らの考えで予報を公表できるのでしょうが、自分の言葉で解説していても予報にどこまで己の考察を加味しているのか、首を傾げています。

で、不倫はするが丁寧でわかりやすい解説と予報が確実に的中するお天気キャスターと、解説が判り難く予報も外れまくりだが不倫はしないお天気キャスター、有能なのはどちらなんでしょう。

結局、お天気キャスターという電波芸者であって、気象予報に関し突出して優れた何かを提示できていないわけです。気象庁由来の同じ元データの分析によるわけですから、予報や解説もほぼ一つに収束してしまいます。

残るはキャスターのパーソナリティで、特色はここで出す外ありませんがその必要はあるんでしょうか。

内容に差のない気象番組を各放送局がタレ流しても電波含め人、モノ、カネの無駄遣いです。もっと生産性の高いコンテンツの制作に資源を投入できないものかと。

昨今、天気予報は、テレビ、ラジオ、新聞、電話といった旧来メディアからだけでなくPCやスマホ経由でネットから、又、テレビでもデータ放送によりオンデマンドで知ることが可能です。

そういった環境の中で、各放送局が毎日定時に天気予報を流す有用性がどれほどあるのでしょうか。真に予報を必要とする属性の方々は積極的に予報を入手するでしょうし...

必要ではないが知りたい層、若しくは、番組と番組の間、番組内の一コーナー、さらに言えば、単にバックグラウンド天気予報として受動的姿勢で視聴する程度でしょう。

局の数、放送時間、ヒト、モノ、カネと見る側の受動的視聴時間を積算すれば、相当の資源が浪費されていることは容易に推測できます。

規制緩和の一環か否かは存じませんが、一般向け予報業務の民間への許可を可能にするため気象業務法が改正され、気象予報士という資格が創設されたわけです。

ところが、鳴り物入りで始めた資格制度にも拘らず資格の需要が大きくなかった、増えなかったと。今更なくすわけにもいきませんし...

何となく、硬直化している電波利権の中でしか生息できない気象利権といった感が否めません。

2014年12月27日土曜日

逆転

以前のエントリで記した喫茶店と同じく、名古屋に隣接した市の役所近くの定食屋?居酒屋?の話です。

昼食に天ぷら定食か天丼と迷って天丼を頼みました。

で、供された丼は紛うことなき天とじ丼だったわけです。いや、海老天入卵丼といった形容がより適切でしょうか。

海老天が小海老でしょぼいという意味ではありません。普通の天ぷら定食に添えられる一般的な大きさのものが三尾でした。

天ぷらは海老天のみ、ツユダクの状態でした。いわゆる天とじ丼でしたが、もう少し海老天をクタッと丼ツユで煮てあったかと。

味濃い蒟蒻入り土手煮が小鉢で、出汁のきいた赤だし、漬物といった陣容で、未だ尾張の食が残っているなぁ、と実感した次第です。

子供時分の家庭の天丼が正しくそれでした。
”天ぷらはカラッと揚がってなきゃ”
”パリッ、サクッとした歯応え”
カラッと揚た天ぷらが載った天丼、ナニソレ?全く別世界の食物でした。

後年、卵でとじていない、一般的な天丼を初めて口にした時、
”飯の上に天ぷらを載せただけの天ぷら定食じゃないか。飯との一体感に欠けるなあ
と思ったのも遥か大昔のことです。

いつしか、該天丼が当然となり天とじ丼は圧倒的マイノリティに逆転していました。ミートソースやナポリタンのスパゲティをおかずに飯を喰らう以上にマイノリティかと思っています。

いつまでも残って欲しい、守って欲しいと思うほどの懐古趣味はありません。どっちがどうのとか、かくあるべしと講釈を垂れるつもりも毛頭ありません。

単に、ああ、昔はそんなだったなあといった思いです。

かつての狭い範囲の自分の当たり前が実はそうではなく、当初違和感を感じていたものに馴れていき、感覚が逆転していることに気がついた、それだけのことです。

ところで、海老のフライや天ぷらで、自分が海老の大きさにそれほど拘らない、むしろ、カラッとからっと揚がった小海老の方を好むのは、上記原体験と何か関連しているのかもしれません。

2014年12月26日金曜日

遺志

寒・北・雪・冬・海・寂・哀・黙・情・厳・忍・独・静、といった辺りが俳優 高倉健から連想される語でしょうか。

哀惜の念に絶えません。残念です。

映画”鉄道員”では、厳寒の中、駅舎で焚かれたストーブの際立つ暖かさが印象的でした。この暖かさが象徴するように、周囲とは対照的に、若しくは一線を画して、役柄の人間を孤高浮き上がらせる、そういった出演作ばかりでした。

多くの作品で、余韻が続いたというか、高倉健演じた人物の物語後を想像させました。

ただ、余りに役柄が固定化されてしまっていたかに見えました。御自身が役柄に共感した作品にのみ出演されていたとの話ですから致し方なかったのかもしれません。周囲が想像だにし得なかったような役も観てみたかったとの思いが残っています。

ところで、遺作となった映画”あなたへ”は散骨を扱った作品でした。

で、現実には既に故人となっている元妻江利チエミ
さんはお墓に納骨され墓参りを欠かさなかったと。又、水子のお墓も建てられ、生前その傍に御自身のお墓を用意されていたようです。

各々事情は異なるでしょうが、散骨とお墓への納骨、高倉健、或いは小田剛一としてどうお考えだったのか、気になるところではあります。
高倉健「去年5月に養子縁組」50歳の元女優...世話になった人に財産残したい
高倉健と子供のお墓は鎌倉に…元妻江利チエミのお墓は…
 どちらなんでしょうか。

2014年12月23日火曜日

懐旧

俳優菅原文太の訃報を耳にし脳裏を過ぎりました。

三十年以上昔です。東京吉祥寺の東映系映画館で”仁義なき戦い”を観ました。全シリーズをオールナイトで上映する企画でした。勿論再演です。

入場時並んだ記憶があり客席はほぼ満席だったかと。場内はある意味異様な雰囲気でした。危なっかしい客層だったのでしょうか。

まず、”仁義なき戦い”のタイトルが映し出されて拍手。観客全員ではありませんでしたが、それなりの一体感がある程度には...

で、オープニングクレジット中、出演”菅原文太”で再度拍手。一部掛け声も。”文ちゃ〜〜ん”だったか。

本編上映中は比較的静かでした。二列ほど斜め前の観客はサントリーの焼酎樹氷をラッパ飲み。場内の所々には赤橙色の灯が点々々と。煙草の紫煙がゆらゆらと立ち込めています。

エンディングクレジットの”菅原文太”で再度拍手です。結局、三、四作目で抗争場面が食傷気味になって寝てました。

ただ、一作目、二作目の躍動感と非日常的な場内の妙な高揚感は未だ印象に残っています。

当時、出演者にその後著名となった俳優の名が連なっていることに驚愕したのも大昔。改めて、時代の変化をまざまざと実感しました。

ええ、単なる懐かしい思い出です。

大志

さて、NHKの朝ドラ”マッサン”の中で、
――”日本で初めて”、”国産初”といった語に違和感を禁じ得ないものがあります。――
以前のエントリ記しました。

ことさら、”国産初のウイスキーを造る”と意気込まれても、素直に共感できないものがあるわけです。
”日本で初めて”に囚われ、それが目的になっていないか、単に”日本初”という冠を望む功名心に端を発してはいまいか、といった疑問を払拭できません。

それは確かに賞賛される功績であるのは間違いないところですが...

主人公亀山の妻エリーが懐妊した時、嬉々としてゆりかごを作っていました。もう”日本で初めてゆりかごを作った男”でもいいじゃないか、と思ったわけです。真否は別にして。

日本人に、これまで知られていなかった、ウイスキーという新しい酒の旨さをを体験して欲しい、楽しんでもらいたい、が本来の動機であって然るべきではないでしょうか。

それが、結果として日本初であるならば申し分なしで、素直にその動機を尊び賛辞を送ることができます。

ただ、これまでの話で、同じ時代を過ごした人々の、或いは現代の視聴者の、一体どれだけにウイスキーの美味しさが伝わっているのか、又伝えることに注力したのか、そういった部分が蔑ろにされてきたのでは、と見ています。

で、単に”日本初”に固執しているかに受け止めた次第です。

ピートのクセは現代であっても馴染みのない人もいるわけで、当時果たして伝わっていたのか...諸手を挙げてウイスキーの美味しさを支持している登場人物は、亀山をスコットランドに派遣した住吉酒造の社長ぐらいでしょうか。

自身が試して美味かった、だから皆も美味いと感じて当然、というのも独り善がりだなぁといった印象です。

美味さが理解できないのは感性が鈍いから”といった優越意識が垣間見えます。現代でもそういった意識は、食についての評論、ブログの形として至る所に転がっています。
――そがいな飲み方はほんまもんのウイスキーの飲み方じゃなあ。ウイスキーを馬鹿にしとる。――
竹鶴12年を水割、お湯割り、時には炭酸で割って頂いている私はニッカウヰスキーから叱責されてしまうのでしょうか。




記念

”東京駅開業100周年記念Suica”について少し。

15000枚限定販売への殺到、涙と怒号、罵声、不手際の混乱を経て、希望者全員が購入可能になったようです。
「東京駅開業100周年記念Suica」の今後の発売について
この決定で転売価格が乱高下しているのは、元々のタイトな需給関係に基づく価格形成に、次元の異なるSuica緩和で、供給がじゃぶじゃぶになるであろうことによるものです。

同様な操作は国債を使っていくつかの中央銀行で進行中です。

偶々、今朝の報道バラエティ番組で、上記JR東日本の決定の賛否に対する街の声が取り上げられていました。で、賛成者と反対者のみの割合が示されていたのですが、”どうでもいい”、いわゆる白票、棄権者、無党派層の割合は端から排除されているのでしょうか。

先の国政選挙にも似て、低投票率の中での多数意見によって、あたかもそれが全体の信認された意見として伝えられてしまうのもどうなんだろうか、と思った次第です。

まぁどうでもいいことです。

本来、”記念”、”限定”といった語は価値体系を構築するキーワードの典型です。元締めである発行者はこういった語を巧に使い、人気や希少性、即ち価値を操作しながら市場を形成していくわけです。

付加価値、プレミアムとも称される下駄が履かされていることになりますが、この下駄が虚構か否かは各々の価値観によるのは勿論です。

オランダのチューリップバブル時の球根、コンプガチャが問題となったゲームアイテム、カードゲームのレアカード、切手、コイン等と根源は同じかと。
”持っててどうすんの?”
というのが素直な印象です。値上がり益云々はまた別の話です。

価値がわからない奴は黙ってろと言われれば、仰る通りでございます。

ところで、アベノミクスと称される経済政策で、異次元の金融緩和の真っ最中です。日銀が野放図に国債を引き受けて市場を金でじゃぶじゃぶしようと。ところが、民間の金融機関には貸出先企業が増えず、日銀が国債購入で供給した金は日銀の当座預金にブタ積みになっているとのことです。

ブタ積みされる日銀供給資金と退蔵される記念Suica、流動性が低く生み出すものがないという点で似たものを感じます。

定性的な話です。民間の金融機関が日銀に持つ当座預金から資金が動き出し、様々な経済効果を生みながらも最終的にSuicaとなって退蔵されると。以降は価値を生み出さないわけです。記念Suicaに限らず、他にも更に大きな規模でそういった、退蔵、ある意味需要不足が起きていないでしょうか。

この資金やモノの流動性が低く、澱んでいる状況ではなかなかいい話にはならないだろうなぁと思った次第です。

水は高きから低きに流れますが、この時、勾配が0に近ければ流れは緩慢です。場合によっては止まったり逆流したりします。で、上のタンクにどんどん水を追加して下へ流したいわけですが、上下のタンクを繋ぐ配管が細かったり、管壁、混入異物、フィルタによる抵抗が大きければ流量は上がりません。

更に、下のタンクが既に満水であるならば、水は流れません。上のタンクに水を追加し過ぎれば、タンクや配管は破裂してしまいます。

2014年12月22日月曜日

有体(2)

前のエントリに引き続き、もう少し食材とその付加価値について無責任に書き連ねてみます。

言うまでもなく、農産品典型的な食材の一つです。今般の衆院選で安倍政権の継続が決まり、農業分野でTPP(環太平洋連携協定)交渉が加速すると見られています

TPP交渉に反対の立場を取る JA全中などの農業団体に対し、経団連を含む経済界は交渉妥結を要望しているわけです。現在、交渉が進んでいるのか、暗礁に乗り上げているのかまったく存じませんが...

日本の農業に対し、経済界を含めたTPP交渉推進派からは、
日本の高度な農業技術は、高品質の農産品を生産できる。輸出に活路を見出すことで農業分野の成長は十分可能である
の考えをよく見聞します。

例えば、

大分県特産の甘い日田梨は、台湾に向けて現地産の5倍という高い値段にもかかわらず、輸出されています。北海道では雪国の特徴を活かしたお米で、輸出を5年間で8倍に増やした例もあります。攻めの農業政策により農林水産業の競争力を高め、輸出拡大を進めることで成長産業にしてまいります。そのためにもTPPはピンチではなく、むしろ大きなチャンスであります。
2013.3.15 安倍内閣総理大臣記者会見 - 首相官邸
といった発言です。国内の反発を抑えて、TPP交渉を進めるための詭弁に聞こえるわけです。

耕作放棄地の現状、就農人口の将来予測、農業従事者の平均年齢、平均的な農業所得、公的資金投入による補助の状態等を鑑み、日本の農業は一産業としてどうなのか、と問うてみると、
”なかなか難しく、責任感にかける発言だなぁ”
というのが率直な印象です。

突出して優れた事例を列挙されても農業は産業であり、ワールドカップのようなスポーツの競技会ではありません。我が国農業が産業として存続、成長できる潜在的可能性と共に農業従事者の平均的なモデル像が描けない限り甘い言葉に踊らされかねません。

自動車産業において排ガス対策、省エネ対策のために導入されたトップランナー方式を同様に農業に持ち込むのは無理があると。基礎体力に差があり過ぎです。

農業の活性化とTPPへの対応への競争的な仕組みの導入は、補助金頼みの現状を鑑みれば、既に終わってるだろ、と思えてなりません。補助金を前提としたトップランナーでしょうから。

たとえ一強が生き残ったとしても、後は屍の山では産業として存続できているとは言えません。確かに日本の平均的農産品でも国際的に高品質かもしれませんが、果たしてそれでどれだけの競争力があるのか、といった視点からの客観的評価が必要ではないでしょうか。

ヒト、モノ、カネ、加えて時間といった投入資源に対し、農業単独では一体どれだけの投資効率があるのか、他産業との比較を踏まえた、地に足のついた提案を求めます。

更に言えば、この高品質な農産品が手間暇かけた労働集約的に生産されているならば、衣料品や電気製品と同じ轍をたどることも十分懸念されるます。遅きに失しているかも...

よくわからないまま勝手なことを記しています。

同様に地方創生が話題になる時、対策のツールとして必ず農業が挙げられ、差別化、高付加価値化の方向性が正しい解として示されているような気がします。


で、やはり平均的なモデル像を蔑ろにすべきではないかと。自由主義社会の競争経済をそのまま適用するのも如何なものかと思うわけです。特段、社会主義を支持しているつもりはありません。

農業の産業としての自立性、成長性の底上げに繋がるような技術レベル向上、高付加価値化を目指して頂きたいものです。競争激化による弱肉強食で”普通に”、”平均的に”農業を営んでいる農家が淘汰されるようでは、産業として消滅してしまいます。

付加価値競争の激化で、商業主義優先の実質の伴わない虚構の付加価値で粉飾された農産品の跋扈と共に、突出してではなく、”フツーに美味しい”農産品を手掛ける真っ当な生産家の疲弊を危惧します。

2014年12月21日日曜日

保身

戦後最低の投票率で衆院選を終え、如何にマシな外れクジを選ぶかという意味合いが一層強くなっています。

そんな中、
選挙をマーケティング視点で考えてみる「政治はクラウドファンディングじゃねえんだよ」
といったエントリがアップされ、全くもってご尤もと首肯しました。 

その中で、20〜30代の有権者が魅力を感じない政策を掲げても該年代層の投票率は上がる道理がない、というのも趣旨の一つかと受け止めました。

ただその一方で、国は投票率の低さに真摯に向きあっているのだろうか、首を傾げざるを得ません。

今回の衆院選では例えば、

投票所に爆竹配備…クマ対策です 岐阜・高山市
広島・庄原市では雪の中 投票所へ
といった報道がありました。物理的な話ではありますが、投票に向かう気持ちを削いでいるわけです。

で、実はこういった有形無形の投票に対する障害が放置されているのではないか、とも憶測しています。投票を促す努力が、運用に十分織り込まれていないということです。

その証左の一つに、ネット投票が未だ実現されていないことが挙げられます。問題があることは承知していますが、実現に向けて進む気配すら感じられません。

在宅で、或いはモバイルからの投票が可能になることで、投票のハードルを劇的に下げることは容易に想像できます。投票率、コストを含めた投票制度の効率的運用も十分期待できるわけです。

勿論、付随する特有の不正が起こるかもしれないことは否定しません。起こり得る問題に対する対応は必須です。ただ、現行制度下でも、ワインやら団扇やら、挙句にはドリル破壊の疑惑が最近でも湧き出ており、現状が一方的に公正、清廉と断じるには無理があります。

ではなぜネット投票の実現を含め、投票に関する制度的な改正が進まないのでしょうか。選挙制度は民主主義を具現化する根幹の手段であり、本来、投票率の向上、民意の忠実な反映といった、その最適化には多大なる資源が投入されてしかるべきです。

前のエントリとも関連しますが、やはり、自律性と矜持の欠如かと。

与野党含めて、
”制度を設計、運用する側自らは、己に不利益となりかねない選択をするはずがない。たとえ、それが公益に資するとしても。”
と見るのが自然なところです。瓢箪から駒で、首相公選制や直接民主主義に繋がりかねませんから。議席、利権、権威の堅守も重要な職務の一つなんでしょう。 

違憲判断が下されながらも一票の格差が解消されない、議員定数の削減が進まないのと根源は同じと考えれば、さもありなんと頷けるわけです。

正に
――無党派層は寝ていてくれればいい――
は正直というか的確な発言だなぁ、と改めて思うわけです。現行の小選挙区比例代表制と低投票率、高齢者優遇政策を組み合わせて、与党の座を維持すると共に、負担や責任は次世代に先送りしていく、現行民主主義の抗えない本質でしょうか。

もう少し、公益に目を向けた効率的な制度設計、民主主義の手続き最適化に焦点が当てられて然るべきでは、と考えます。誰が、という部分が難題ですが。


どうでもいい追記です。

AKB総選挙、結果も含めてそれこそどうでもいいわけですが、その圧倒的に高い投票率と投票者の意思と結果の相関には注視すべき部分があるのかもしれません。ないですかね。当然と言えば当然なんですが...購入しているわけですから。

2014年12月20日土曜日

信者

LC-630を使っていたのは太古の昔です。
Appleが日本に研究施設を作るらしい件について
歯に衣着せて表現すればそういうことなんでしょう。ただ実際にはもう少しえげつない話かと見ています。

身も蓋もない表現をすれば、
胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るもの
ということです。シェアの伸びが鈍ってきたんで、少しテコ入れしときましょうと。

割高な端末を惜しげもなく買い換える信者が多いわけです。日本人向けの機能を適当に付加しとけば、もう少しぼったくれるんじゃないか、という思惑ではないでしょうか。

優良顧客の国です。ローカライゼーションを少し進めればマイクロソフトオフィスと同様に内外価格差を生み出せます。

同時に未だ世に出ぬ有用な素材技術、デバイス技術は囲い込んで独占を目論むわけです。アップルが”この指止まれ”と宣えば、指が折れんばかりに有用無用の技術が群がってくるのは明らかです。

取捨選択の圧倒的な優位性を保ちつつ、その中で労働集約的な部分は他国へ移管すると...

書いていて気づきました。これは研究ではないですね。下衆の勘ぐりでした。

絶句

STAP細胞検証実験の結果について理研の会見がありました。

昨日の報道ステーションでも偶々、該会見の報道を視ていました。こういった注目されるニュースの場合、報道前にキャスター古舘氏がコメントします。

余りに・・・(的)な発言に絶句というか吹きました。
(・・・には独善、身勝手、厚顔、傲慢、不遜、高飛車、尊大、第三者、いずれか、或いは全てが当て嵌めます。)

”自戒”、”自省”は単に修辞のための語句なんでしょうか。朝日の体質の揺るぎない普遍性を感じます。

(上記コメントの書き起こしは、見つかれば追記します。)

契機

ロシアを支援すべき時が近づいているかと。特に、極東に円を投入してはどうでしょうか。
 ロシア・ルーブルが下落、プーチン大統領の会見に失望感

圧縮

再び、NHKの朝ドラ”マッサン”についてです。

国内でのウイスキー生産が始まりつつあるわけですが、 何だか”生産”という行為が軽んじられているなぁと。

登場人物間のやりとりによる悲喜交々に対し、ウイスキー生産は大した問題もなく進んでいるかに見受けられます。

前のエントリは、
”一体何時になったら造り出すのか”
”つくらないまま最終話になってしまうのでは”
といった印象でした。

ところが、今日(12/20)の時点では、
”もうここまでできたのか”
”一体いつの間に進んだんだろう”
立所に初仕込みの日を迎えてしまいました。飛ばし過ぎでそこに至るまでの、初生産の苦労が伝わってきません。

まぁ、帰宅もできていたようですし、大きな問題は起こらなかったのかもしれません。

で、週の終わりの最後の数分間でいきなり養子を迎えています。

これはこれで、”子を持つ”ということに対し、端折り過ぎに見え、安易、軽々といった感が残っています。

隠滅

小渕ドリルはホームセンターで購入できるのでしょうか。

栃木の渡辺商店店主の事情聴取とは対照的に、これで一件落着の方向に進もうとしています。
小渕氏の政治資金問題 家宅捜索前にHD破壊 ドリルで穴開けたパソコン発見
証拠不十分ということで。

さすが、上州。唖然とします。

小渕ワインより小渕ドリルの方が破壊力の点で有用です。インパクトがあります。

都合の悪い事実が偶発的に消滅してしまう小渕ドリル、アマゾンやYahoo!ショッピングで探してみようかと。

Yahoo!ショッピングにも腐食液 (塩化第二鉄液)などではなく、こういった重宝な製品を勧めて頂けたら、と思った次第です。

2014年12月18日木曜日

老醜

喪中の知人に御供えを送った所、礼状を頂きました。亡くなられたのはご子息で十八才に満たない若さでの夭折。

生まれながらにして呼吸器系の疾患を背負っていたことは存じていましたが、何とも心が痛む報せでした。

一方同日、ある物販店で高齢者が、
――消費税分を値引け――
とごねている場面を目の当たりにしました。ちなみに税別3000円の品物でした。

もう、どうしようもないなと...

消費税の主な使徒を、本音はともかく、認識した上での物言いなんだろうか、と思ったわけです。老害こそ社会の最たる迷惑であり、
”人は長生きしてはいけないなぁ。順番通りに適当に逝かないと...”
そんな思いを一層強くしました。

2014年12月16日火曜日

有体

度々閲覧しているブログサイトに、
身土不二の赤玉と、アクアファーム秩父の彩美卵 輝の卵かけご飯
といったエントリがアップされていました。思ったところを少し記します。該エントリ、及び、ブロガー、卵の生産者の方々に対し特に意図はありません。単なる端緒です。

旧小原村の卵1kg分でも一個すら購入できない高級卵とこの卵を使った卵かけ御飯についてのエントリです。美味しいであろうことは想像に難くないわけです。

ただ、果たして自分はその特別な旨さを実感できるのだろうか、といった疑問を抱きました。 

前のエントリでも触れていますが、”卵かけ御飯”が好物なわけです。溶いた卵に、醤油のみならず、白醤油、出汁醤油、果ては鰻のタレ、昆布やアサリの佃煮の煮汁等々を加え、そこに炊き上がった直後の白飯を投入する、これでもう十分満足してしまう気がします。

熱々の白飯で適度に加熱され、濃厚になった卵の味わいといったら...

卵かけ御飯好きが、該高級卵の真価を実感するには、それなりの条件を整える必要がるでしょう。卵かけ御飯だからなのか、卵が優れているからなのか、単に、”旨い、旨い”で終わってしまうようにも思え、なかなか難しい話にもみえます。

ライ麦入りパンのエントリと同様に卵や卵かけ御飯が好きでも嫌いでもない、それほど関心がない、といった層に対してこそ初めて該高級卵の真価が伝わるのかもしれません。
――わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~――
と 問いかけられれば、”わかりません”と応える外ありません。

さて、それはさておき、というか、そういったことを前提としてです。近年、テレビの料理バラエティ番組、雑誌の特集、更にはネットからの情報、冷蔵や冷凍宅配便といった物流技術、荷物のトラッキング、多様な決済手段といった情報技術が反映されてか、日本全国から多種多様な食材を居ながらにして入手できるようになりました。個人輸入という形で海外からの入手もかつてほどハードルは高くありません。

物資の世界中を駆け巡る流動性が極めて高くなっているわけです。全国津々浦々の特産品、生産地でのみ消費されてきた希少品が容易に入手できる一方、汎用的な生産物は大げさに言えば世界中の産地との競争を強いられています。

こういった輸送技術や情報技術の発達に伴う産地間の競争は避け得ないものであり否定するつもりは全くありません。水が低きに流れるが如く、需給に応じて物資の動きが変化するのはやむを得ないことです。

ただ、時折競争を有利に進めようと、売らんかなを目的に、実体価値以上に宣伝広告で購買意欲を煽る風潮を感じます。ブランド化、差別化などで付加価値をつける、言い換えれば本来の価値を虚飾して下駄を履かせているわけです。

食材、食品では、産地、売上、人気ランキング、生産者の弁、評論家含め著名人の推薦、口コミ等がツールとして利用されています。線引きが曖昧ですが、いわゆるステルスマーケティングはその延長に位置付けることができます。

勿論、真っ当な付加価値が加えられた食材、食品があることも十分認識していますが、そういった真価を埋没せしめ、足を引っ張らんとする虚飾に溢れていることも事実です。

評価が味覚という主観的感覚に依存せざるを得ない食の分野では、そういった虚飾から逃れられない、受け入れざるを得ないのかもしれません。評価の曖昧さ、客観性という点で文芸、映画、音楽、服飾、陶芸、絵画、陶芸、建築等でも、特にメディアの介在が顕著な場合、似た印象を抱くことが少なくありません。

古くはエコポイントという経済政策、和食の文化遺産登録や富士山、富岡製糸場の世界遺産登録といった観光振興策にも共通した、内容の伴わない気持ち悪さを感じます。これらも環境、文化の名を借りたあからさまな景気対策、観光資源の収益化でした。

かつて、物価の優等生とも言われてきた卵です。特段、安価であって欲しいわけではありません。ただ、こういった身近な食材こそ、虚飾を排し有体であって欲しいと思っています。質の伴わない過剰な煽り文句こそが不要です。

(続)



2014年12月15日月曜日

矯飾

衆院選への小選挙区制導入は、二大政党制実現に向けての意図によるものと理解していました。

対立軸を明確にした二党のいずれかを有権者が選択することで、多数党による混迷する政治から脱し、決められる政治を目指すと...

で、このありさまなわけです。提唱していた方の一人も今選挙で当選を果たしていますが、離合集散の結果、少数野党の代表です。

二大政党制は各々の政党が政権担当能力を有することが前提です。一方の政党に該能力が著しく欠如していた場合、小選挙区制は一党優位政党制へ進む好例かもしれません。勿論、自民党に十分な担当能力があるわけではないことは明確に申し添えておきます。

共に力不足だが差があり過ぎで、如何にマシな外れクジを選ぶかということです。

その結果が、一強他弱で有象無象が束になっても敵わない、与党安定多数です。現世利益を願う新興宗教にも似て、自己の利益を追求する、正に日本的民主主義を具現化したかの如く状況にも見え、懸念します。

戦前、若しくは明治維新の頃からか、旧来から脈々と継承されてきた全体主義、国家主義を受け入れ、盲従してしまう、従属的な国民性に由来しているのかもしれません。

かつて、政権交代による民主党政権の誕生前二大政党制の必要性が、更に、誕生直後には該時代の到来が叫ばれました。今や見る影もありません。

対自民というだけの旗の下に結集した雑居政党と自民党のある意味ヴァーチャルな、上辺だけの二大政党制時代でした。結局、二大政党制を維持するほどの政治的な対立の基軸を民主党は持ち得なかったため、政権の奪取で目的を達成したことになり以降瓦解が始まっていくわけです。

与党安定多数の結果に、このヴァーチャルな二大政党制時代が如実に反映されているのは疑う余地のないところです。

こういった状況に至らしめた大きな一因は、野党ボケした政治家にあり、与党が優れているわけではないことは明らかです。自民圧勝を許した戦後リベラル層には重い責任があると考えます。(進歩的、進取的といった本来のリベラルではなく左寄りという意味で”戦後リベラル”としました。)