2014年10月28日火曜日

槍玉

”女性が輝く社会づくり”だそうです。

確かにダークに輝いて注目されているというか、炎上しているわけです。女性閣僚が...

観劇会、ネクタイ、下仁田葱、ベビー服、化粧品(小渕)、団扇(松島)、靖国参拝(高市、山谷、有村)と賑やかです。

で、思ったところを2つ程記してみます。


 1)タイミング


これまで四人もの宰相を輩出してきた上州です。これまで温存されてきた、保守王国の旧態依然とした北関東の田舎体質、政治に集る慣習が露呈したのでしょう。では、何故、今なんでしょうか。報道によれば、観劇会や身内への便宜供与の件は2010,2011,2012年の話です。それ以前も叩けば埃どころか粉塵が舞い上がるのは容易に想像できる話で、この時期に公になった理由がよく分かりません。

今朝の一週間を振り返る時事番組では、該問題の後、特定秘密保護法の運用基準と政令が閣議決定されたことを取り上げていました。飯の種の締め付けに対するメディアの抵抗、報復なんでしょうか。該法案の修正や運用上での骨抜きを取引すると...

 下衆の勘ぐりだとは思います。

北九州で漁協の元組合長、建設会社社長、飲食店関係者が殺傷された見せしめ事件に似た構図を連想してしまいました。

(追記)
カジノ法案成立阻止に向けた抵抗勢力の搦め手か、とも憶測しています。反対の理由は、単にカジノに対する懸念というより、パチンコに代表される既存業界の保護かもしれませんが...


2)利益供与


 上記観劇会の事案は、小渕氏の政治資金管理団体の劇場側への支払いが、観劇会参加者からの収入より大幅に上回っていることが問題となっています。有権者に不当に利益を供与している、買収しているのではないか、という疑義が生じているわけです。

公職選挙法や政治資金規正法に違反しているのではないかということです。

ここで、故意の有無を含めた記載漏れ、誤記載といった記載不備はさておき、不正な利益供与の是非について考えてみます。

公職選挙法の目的は公正な選挙の確保にあります。特定候補による買収や寄付行為は、本来、候補者の資質、能力、信条、人格に対して抱くであろう選挙人の自由な意思を阻害し、選挙の公正性を歪曲せしめてしまうとされています。

買収や寄付の原資をより多く持つ候補は、より多く”金で票を買う”ことができ、持たざる候補との不平等が生じ公平な選挙が実現されません。

公職に就く者は、一定のルールに従って、等しく同じ条件で選出されなければならないということなのでしょう。

加えて、該行為によって当選し、公職についた候補の場合、使った原資の埋め合わせ、次回選挙のための蓄積、自らの蓄財等を目的とした、利益誘導や贈収賄といった職務権限を悪用した不正に繋がりかねません。

こういった不正によって民主政治の健全な発達が損なわれることに対する牽制として、買収や寄附行為の禁止が規定されていると理解しています。


ところで、以前のエントリでも引用した、マイケル・サンデル教授の「民主主義の逆襲」ですが、その中に
 「裕福な学生の寄付金を貧困な学生の奨学金に」に納得できる?
 という部分があります。


寄付金を払えば大学の入学権を手にすることができるという話です。入学者のある割合を寄付金、家柄枠として確保し、寄付金を払えばその枠の入学が許可されるとのことです。寄付金は生半可な額ではなく、富豪の子女のための枠といった位置付けです。大学側はこの寄付金を経済的に困窮している学生のための奨学金、大学施設の充実、優れた教授の招聘等、良い大学の運営に活用します。

議論のためだけのテーマではなく、米国の有力大学ではよくある話のようです。裕福な家庭出身の代表例がブッシュ前大統領との話を耳にした覚えがあります。真偽は存じません。

当然、賛否両論が噴出します。

否定的な意見の根本は、機会が均等ではなく不公平、寄付金を入学の選考基準とするのは不適切、といったところでしょうか。

しかしながら一方、集められた寄付金が奨学金として適正に活用されるならば、経済的な問題によって就学を断念せざるを得ない、といった別の不平等の是正には寄与します。

元々、寄付入学枠の学生と一般枠の学生は同等ではなく、前者を大学のタニマチとみなせば、幅広い学生に対し入学の門戸を拡げる一つの方策とも受け止めることができます。

タニマチが当該大学の品位を大きく貶めない、といった前提は必須かもしれません。

ある不平等を容認することで、別のより深刻な不平等の是正、格差の縮小がなされ、結果として社会全体の利益が増大する、場合によるかもしれませんが、 こういった手法にも一定の意義が認められるべきではないか、と考えています。

社会のより高い生産性を目指して、選良の選出、議会、行政の運営にこういった手法が適用できないだろうか、ということです。 例えば、舛添現東京都知事が厚労大臣であった時の発言に対し、当時抱いた違和感を思い出しました。
――政治家としての正当な報酬を得て、国民の代表として職務に邁進するわけである。さもなければ、他に収入の道がある金持ちしか政治家になれないことになる。――
この後”議員歳費を削減するな”、”退職金がないから議員年金は必要だ”、”退職金も出ないような勤め先には、優秀な人材は集まらない”といった発言が続きました。

果たして政治家は職業なのだろうか、といった疑問を抱いたわけです。もはや政治家ではなく政治屋じゃないかと...

政治を生計を立てるための仕事、生業と捉えるならば、政治屋(家)が給料、賞与等の報酬や退職金、年金といった特典を要求するのも頷けます。自らが生活する糧を得るための手段なわけですから。

この場合、自己の利益最大化を図ろうとする意図が生ずることには抗えず、むしろ自然です。当然、国益に代表される公益と自己の利益との相反が起こる場合もあるでしょう。この時、果たして私欲を抑えて公益を優先できるのか、不信の念を払拭できないわけです。職業倫理、職責という語があるにしても、なんせ生業なんで...

本来であれば、外部からの監査、検証の仕組みがあって然るべきですが、”猫に鈴をつけることができるのは誰か”といった話になってしまいます。猫が自分で己に鈴をつけることはしないように、自律、自浄機能は期待できませんし、政治倫理審査会、メディア、検察?いずれもその任に適当とは思えません。

法に抵触しさえしなければ、自己の利益優先を図ろうとする意図を政治活動に込めても構わないことになってしまいます。

ノブリス・オブリージュの片鱗すら窺えません。端から放棄しているということでしょうか。


(続)

包隠

豆千待月グループはですね、宮沢経産相にお礼すべきだと思うわけです。

株主になってもらうか、献金するか、やはり件のSMバーでの接待でしょうか。飲み放題で4000円だそうです。

2014年10月23日木曜日

敷居(2)

前のエントリに続き、今度は高針のとんかつ屋です。

入店して、品書きに麦とろ定食をみつけました。で、この店も又、御飯のおかわりができるわけです。

とんかつ屋の定食ですから、勿論、とんかつがあって、更にとろろがついています。となると、とんかつで一膳、とろろご飯でもう一膳となるのは自明です。

決して、とんかつを避けているわけではありません。入店していますから。とんかつに加えて、ご飯が進むような副菜の用意があるのがもう...

臍を噛む気持ちです。

己の腹のキャパの問題なのは理解しています。

確かに、サイドメニューにはとろろがありました。ただ、とんかつ屋に入ってカツを食べることなく、とろろとご飯、汁物ではなんだかなぁというか失礼な話です。

結局、通常のとんかつ定食を頂きました。これでも十分満足なんですが、麦とろという語を目にするとやはり心惹かれるわけです。

とんかつという料理、それを提供する店には何ら責任はないのですが、罪作りだなぁと思いました。

こじゃれた小鉢、ましてやフリードリンクやデザート等は不要です。卵かけ御飯、麦とろ飯が主役となるような店など、そうそうないことを改めて実感した次第です。

勿論、美味くなければ話になりませんから、こういった簡素だが旨いを食事を提供する店というのは難しいのかもしれません。

ただ、おにぎりの旨い店は繁盛していますし...もう少し気に懸けてみようかと思っているところです

2014年10月19日日曜日

自爆

テレビの新しい潮流として、音声認識テレビが提唱されているようです。

3D、4Kと続く外れ製品でしょうか。

今、テレビに必要な機能は面白ボタンでは、と考えます。

以前のエントリでも記しましたが、Yahoo、Amazon、楽天といった物販サイトは、これまでの閲覧履歴、購入履歴からお奨め商品を提案してきます。これと同様に、このボタンを押下することで、これまでの視聴履歴からその時点で視聴者に最も興味を抱かせる番組を類推して、チャンネルを切り替えるという機能です。

推奨できる番組がない場合にはテレビの電源は切れてしまうと...

電源が切れたままになってしまう恐れがあることがこの機能の問題点かもしれません。

2014年10月17日金曜日

公共(5)

元々、NHKについての一連のエントリを記そうとした動機は、いわゆる朝ドラを視聴した印象に端を発しています。

近年の朝ドラのシリーズとNHKの姿勢との関係について思いを巡らせるに辺って、NHKが公開している目的やガイドラインを斜め読みした所感がこれまでのエントリでした。

やっとこのエントリで、NHKの国内番組基準、特にNHKの掲げる公共放送の基本原則と照らし合わせながら、朝ドラの印象を通じてNHKの姿勢について記してみます。

以下はリンク先で公開されている、NHKの責務と、公共放送の期間としての基本原則です。
 日本放送協会は、全国民の基盤に立つ公共放送の機関として、何人からも干渉されず、不偏不党の立場を守って、放送による言論と表現の自由を確保し、豊かで、よい放送を行うことによって、公共の福祉の増進と文化の向上に最善を尽くさなければならない。
 この自覚に基づき、日本放送協会は、その放送において、
 1 世界平和の理想の実現に寄与し、人類の幸福に貢献する
 2 基本的人権を尊重し、民主主義精神の徹底を図る
 3 教養、情操、道徳による人格の向上を図り、合理的精神を養うのに役立つようにする
 4 わが国の過去のすぐれた文化の保存と新しい文化の育成・普及に貢献する
 5 公共放送としての権威と品位を保ち、公衆の期待と要望にそう
ものであることを基本原則として、ここに、国内放送の放送番組の編集の基準を定める。

特に朝ドラの視聴者というわけでもなく、偶々無為に見た近年の作品いくつかについての率直な印象です。

印象操作

”ゲゲゲの女房””カーネーション”の頃から何となく違和感がありましたが、昨今露になってきたような気がします。

現在放送中の”マッサン”では人種差別に対する嫌悪感を抱かせるかの意図を感じます。勿論、ドラマの舞台となった大正当時、登場人物のモデルとなった竹鶴リタさんに対する周囲からの奇異な目、差別があったであろうことは容易に想像できます。容姿、立居振舞、言語、慣習の違いに由来する、差別とは別の身構えてしまう部分も含めてです。

事実であったか否かはともかく、ことさらに人種差別に対する嫌悪感を増幅させる演出だなぁと受け止めました。昨今、しばしば見聞する、人種に起因する差別的思想、ヘイトデモ、ヘイトスピーチといった活動を連想させ、それに対するNHKの姿勢を窺わせるわけです。

勿論、人種差別を支持するつもりは断じてありませんが、思想介入、思想誘導というか大きなお世話です。ドラマ中で人種差別反対の意図を一方的に押し付けられているかに感じ、朝から気分が優れないこともあります。啓蒙しなくて結構、各々が考えることです。

こういった演出を、公正中立(両論併記)、上記公共放送としての基本原則、番組基準第1章 第2項 人種・民族・国際関係の、
1 人種的、民族的偏見を持たせるような放送はしない。
2 国際親善を妨げるような放送はしない。
に照らし合わせた時、整合性は保たれているのでしょうか。

例えば人種差別の是非に対する両論併記はないわけです。NHKが宣う中立性より、公共放送としての基本原則、番組基準を優先させているのでは、捉えてしまいます。


今後、話が進んで戦時下の日本も舞台となっていくかと思っています。となると、該差別と共に戦争に対する嫌悪感も増長させる演出が予想できます。

”ごちそうさん”、”花子とアン”のシリーズがそうであったように...

両シリーズの放送も安倍政権の憲法改正や集団的自衛権の論議とリンクさせ、抑制効果でも期待したのだろうかと勘ぐってしまいます。以前のいくつかのエントリ、錯誤解釈気概で疑問を呈しているように、安倍政権を支持してのことではありません。

”カーネーション”、”ごちそうさん”、”花子とアン”といった、作品中に戦時下の時代設定が含まれているシリーズの場合、まぁ必ず登場します。徒党を組んだ国防婦人会の面々が...

おまけは頭の悪そうな子供たちです。石を投げて主人公宅のガラス戸を割る、”国賊”といった張り紙をするなどして、”非国民”と叫びながら逃げていくわけです。”国賊”とか”非国民”とか朝から聞きたい言葉ではありません。
3 教養、情操、道徳による人格の向上を図り、合理的精神を養うのに役立つようにする
5 公共放送としての権威と品位を保ち、公衆の期待と要望にそう
に適った演出なのか甚だ疑問です。

で、国防婦人会ですが、これがまた”お国のため”を盾にした横暴で理不尽な戦争協力を強いる姿を描き出しています。該婦人会は正に主人公の虐め役といった役割で、知性を欠いた、直情的、意地悪、醜悪、精神論、不当な要求といった語で形容される物言い、行動が印象づけられます。

確かに戦時下では、全体主義による強い同調圧力が生まれ、該圧力が具現化された、実働部隊が国防婦人会という団体なのでしょう。この力によって異論、出る杭、個性、特に西欧的雰囲気を醸し出す言動が必要以上に摘み取られていたであろうことは想像に難くありません。

しかしながら、該婦人会の会員各々は、果たして全員が全体主義を支持し率先して戦争協力に参加したとするのは無理があります。活動の原点となった中心人物の動機はともかく、多くの会員は実は、軍部に利用されることで自制が困難になった同調圧力によって加担させられてしまったのではないか、とみています。

当初は“善意”で始められた奉仕活動が次第に国家に絡めとられていき、周囲を巻き込んで暴走を続けた、ということです。軍による情報統制下ですから、いわゆる教養婦人ではない一般の主婦が該圧力には抗えず、元々本意ではなかったが知らず知らずの内に本意となってしまったわけです。教育、洗脳、印象操作の類でしょうか。

”ごちそうさん”、”花子とアン”の作品中では、ラジオに出演する登場人物はあくまで個人としてNHKの国威発揚、戦果報告等の戦争協力となる放送に苦悩しますが、NHKの組織として逡巡、抵抗する姿は窺えません。NHKという組織自体も軍部に利用された、強いられたという立場を遠まわしに印象づけたいのでしょうが、上記一般の主婦に対する情報統制、思想教育にNHKが一役買っていたのは間違いないところです。

2014年10月16日木曜日

敷居

先日、徳重辺りで昼食を取った時の話です。

目当ての店が閉店していたため、やむを得ず、傍にあった複合ショッピングビルに入りました。

フードコートに加え、多様な飲食店が並んでいます。特段、これを食べようと決めているわけでもなく、店内を物色していると、とんかつ屋のPOPに目が釘付けになりました。

ランチのとんかつ定食の紹介とその横に、
ご飯、キャベツ、みそ汁、生たまご 食べ放題
とあります。で、とんかつ定食や食べ放題の文言より卵かけご飯が脳裏に浮かび、心惹かれたわけです。

ただ、どうやら定食、或いは、カレーを注文した客に限り認められるサービスのようです。となると、とんかつ定食を注文した場合、とんかつで一膳、これは当然白飯と共にです。この一膳を平らげて、お代わりして卵かけご飯にたどり着くことになります。

いえね、最初の一膳で旨い卵かけご飯を掻き込みたいんです。できれば豚汁で...

勿論、とんかつ定食には何ら問題ありません。好物です。生たまごの語さえ目に入らなければ、この店でとんかつ定食を注文、飯一膳で”ああ、旨かった”と満足していたでしょう。

ここからの、追加の卵かけご飯は胃腸への負荷が過大です。年をした中年にとって卵かけご飯を口にするためには、とんかつ定食を平らげなければならない、というのは敷居が高いなぁと思うわけです。

おそらく、食べ切れないわけではない、というか、食べてしまうのはわかっています。キャベツ、みそ汁もお代わりして...

食後苦しむ姿が目に浮かびます。

これまで何度となく繰り返してきたことです。

思いに任せて入店し、その愚を冒すところでしたが、なんとか断念して他の店に入ることができました。

後ろ髪を引かれつつ、いつの日か豚汁定食(生たまご付)が用意されることを願って...


2014年10月12日日曜日

公共(4)

他にも、NHKのウェブサイトにある、
1.「NHKだからできる放送」とは何か
2.人権と放送についてどのように考えているのか
3.「公平・公正」、「不偏不党」とは具体的にはどういうことか
4.再放送が多いのはなぜか
5.なぜ、スクランブルを導入しないのか
といったfaqが興味を引くところであり、こういったfaqが、
I.国内番組基準
II.放送倫理の確立に向けて
III.NHK放送ガイドライン 
IV.NHK倫理・行動憲章/行動指針
を基に作成されているであろうことは間違いないところかと。

そういった中、
――意見が対立している公共の問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、公平に取り扱う。――
といった文言が目を惹きました。

正に今、Yahoo!ニュースで
「マタニティマーク」ネットで論争 妊婦が権利振りかざしている?
といった実に上記文言に該当する記事が取り上げられています。

非生産的だなぁと常々思うわけです。

この類の問題は以前も記していますが、
(小児、幼児、乳児、妊婦)x(航空機、新幹線を含む鉄道、バス)x(ビジネスクラス、グリーン席を含む指定席、ベビーカー)
と同根です。

定期的に不毛な炎上がネット上で勃発、で、何ら解決せず収束し、次の炎上に向けエネルギーが蓄積されていきます。

ガス抜きなんでしょうか。

こういった問題をNHKが両論併記しても何ら解決に結びつかない、進展しないようにみえます。そういった理由であまり取り上げられないのかもしれません。

少し逸れますが、先日来始まっている衆参両院の予算委員会でやたらと”女性が輝く社会づくり”というキャッチフレーズを耳にします。

安倍総理大臣は、2020年までに女性の指導的地位に占める割合を30%にすることを目標に、女性の活躍の推進に官民挙げて取り組んでいきたいとのことです。

政府が女性の採用、任用を官庁や企業に指示、依願するそうです。しかしながらそれ以前に、上記に類した、社会に横たわる女性と出産、育児、子育てに関わる不毛な問題に終止符を打つことこそ優先されるべきではないでしょうか。

女性の労働を取り巻く現況は、社会全体の価値観に基づく環境、認識が反映されたものであり、切り離して独立に改善するとは不可能ではないかと思うわけです。

根幹の問題が解決に向かわない限り、目標達成は困難でしょうし、形ばかり目標に近づけることになり、無理矢理感が付いて回るような気がします。

話を戻します。

対立する問題について、中立を保つため両論併記することは、特定の立場に立たない、特定の意図に基づく誘導の排除である一方、見方を変えれば責任を回避していると捉えることもできます。

両論併記しても何ら解決に結びつかない、進展しないことをNHK自身が自覚しているためか、番組としてあまり取り上げられてこなかったような気がします。

単に両論を併記するだけに留めず、各々の立場が依拠する礎、各々の視点からの解決策等は提示されてもいいのではないでしょうか。イニシアティブを取って、一方が正しく、他は譲歩すべきといった判断を出すのではなく、社会が自ら解決していくための具体的、客観的、統計的な詳細情報を提供すべきということです。

対立する公共の問題は、社会が賢くならないことには解決に向け駒が進まないと考えます。

ところで、NHKは、自らが公共放送の機関であるという自覚に基づき、国内放送の番組基準を定め(H10.5改正)、又、放送に携わる全ての者が日々の取材や番組制作を行ううえでの判断の指針とすべき「NHK放送ガイドライン2011」を作成(H23改訂)しています。

この基準やガイドラインを無視、或いは軽んじた番組の制作はできないということでしょう。であれば例えば、対立する公共の問題において、一方の立場がNHKの番組基準に反し、他方が該基準に沿っている場合、公平な両論併記は可能なのでしょうか、疑念が払拭できません。

つまり、番組基準、ガイドラインがあることで、既に完全な中立性は損なわれており、制作された番組には該基準に沿った意図が込められてしまっている、ということです。

番組基準やガイドラインによるバイアスもそれが適正であれば公正中立を装い責任を回避するよりましかもしれませんが...今度は、バイアスが許容されるのか否か、適切性はどうか、公正中立を標榜するな、といった話になってきます。

この辺りの整合性はどうなっているのでしょうか。


(続)

2014年10月11日土曜日

敬意

マララ・ユスフザイさんのノーベル平和賞受賞は、全くもって喜ばしいことでした。

憲法第九条が選に漏れたこと、そんなことより遥に望ましいかと...

世界各地で未だに続いている、教育を受けたい、学びたいと願う心を摘み取ろうとする理不尽な抑圧、こういったに抵抗する彼女の勇気には心を打たれます。

彼女自身の安全と共に今後一層の活躍を願って止みません。

(追記)

憲法九条のノーベル平和賞受賞を目論んで署名活動やら陳情等の運動に勤しんでいた活動家、政党、代議士がいたようです。社民、共産、民主の一部といったところでしょうか。とても支持できません。

自党の衰退の理由が未だ理解できていないのでしょうか。


為すべきは、自らの受賞に向け跋扈することではなく、マララさんの活動を支援することです。


2014年10月8日水曜日

天職

国会で予算委員会が始まっているわけですが、民主党議員が生き生きとしています。水を得た魚のようです。

責任とか、力量とか、そういった意味も含めて野党の器ということなんでしょうか。

2014年10月7日火曜日

片棒

詳細には存じませんが、FC2を利用したブログについて、幾つかの更新が滞っているように見受けられます。
「FC2」関連会社家宅捜索 謎の会社のベールは剥がれるか?
FC2でブログやってる人は引っ越ししたほうがいいんちゃう?
味覚の鋭敏さを誇示して、料理レビューやら飲食店紹介といった食べ歩きのブログ記事をアップする前に、御自分が何の片棒を担いでいるのか自覚されたほうが賢明ではないでしょうか。

2014年10月6日月曜日

公共(3)

(g)市場原理だけでは律することのできない公共性


視聴者が望む番組ばかりを放送しないということでしょうか。公益に資するならば、視聴率によって放送内容を変えることはない、と理解しました。換言すれば、公益に資するという根拠を構築できれば視聴率は低くても構わないとも受け止めれてしまいます。

とすれば、重視すべきは、公共性の程度、資する公益の大きさをどう見積って番組を制作するかであり、放送によって番組が寄与した公益の評価でしょう。これらが適切公正に行われているのか、否か、よくわかりません。

公共性の拠り所、依拠する行動原理がそもそも不明ですし、その判断、監査、責任の主体部分が不透明です。

市場原理や公共性といった抽象的な語に留めず、具体例を挙げた丁寧な説明を願いたいところです。

例えば、公共放送は必要だがNHKは不要といった話にも成り得るかもしれません。

かつて民放のニュース番組で放送された、故筑紫哲也氏によるライブドアの堀江元社長へのインタビュを思い出させます。NHKではありませんが...

確か、ライブドアによるフジテレビの買収云々と騒がれた、ライブドアが絶頂期の頃でした。内容自体は総じて噛み合ってないな、とか、テレビに一番組ですから、ジャーナリズムの語を利用したテレビ寄りの内容だな、といった印象でした。

それはさておき、その中で筑紫氏から
――例え視聴者に興味がなくとも、意味のあるコンテンツを流さなくてはいけないのがジャーナリズムだが――
といった意味の発言があり、強い違和感を禁じ得なかった覚えがあります。

”一体何様?”というジャーナリストと称される人々の驕りというか傲慢さを感じたわけです。上記”市場原理だけでは律することのできない公共性”も同じ姿勢ではないでしょうか。


(h)特定の利益や視聴率に左右されず...


特定の利益にはNHKはともかく、子会社、関連会社の利益は含まれていないのでしょうか。”NHK 子会社 利益”で検索すれば色々な話が出てきます。

まぁ、違法ではないのでしょう。そのために放送法を改正したとの記事もありますし...

さて、上記”特定の利益や視聴率に左右されず...”の後、
――...教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない、重要な役割を担うものが多くあります。...――
と続いていきます。

こういった文言は、大阪市の文楽協会への補助金凍結騒動で、作家の瀬戸内寂聴氏による発言を思い起こさせるわけです。
――世界の見るべき人が見て素晴らしいと言うのだから、それで十分でしょう――
――橋下さんは一度だけ文楽を見てつまらないと言ったそうですが、何度も見たらいい。それでも分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから――
橋本大阪市長を支持する意図は毛頭ないことは明確にしておきます。

で、強い選民思想、優越意識が伝わって来るわけです。見るべき人が見て価値を感じればいい、それ以外の人は理解出来なくても構わない、分からなければ黙ってろ、ということですか。口をつぐんで補助金(公金)をつけ、見るべき人のためだけに保護しろと...

この”見るべき人”と”市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない”には共通の根幹があるわけです。価値、重要性の責任ある判断、その依拠する所、主体が曖昧です。私にセンスがないということかもしれません。恥ずかしくて恥ずかしくて堪りませんので匿名を続けます。

分からないことを分からないと意思表示すること、これを恥ずかしいこととして封じ込めようとする発言の中に、品性を疑わせる作家だなぁと思わせる姿勢を感じた次第です。

文芸でも、映画、舞台、絵画、書、音楽、料理、酒でも、更には科学の分野でも、その評価を感性に頼らざるを得ない分野、或いは、いわゆる評論家が跋扈する分野において、しばしばその秀逸さが理解できない方に問題がある、わからない奴は黙ってろといった雰囲気を感じることがあります。

”大したことない”、”つまらない”といった批判的、無理解な発言に対し、反論するわけでもなく”わかる人だけわかればいい”といった、口を噤ませるようなやり口のことです。

確かに、上記各々の分野の極めて専門性が高く、高次というか深遠なレベルでそういった部分が生じるであろうことは否定しません。

しかしながら、新聞や雑誌に掲載される、文芸、映画、料理等の作品紹介や評論を装った宣伝広告、テレビ番組から垂れ流される演出された映像と美辞麗句、食べログに代表されるネット上の飲食店や料理のやらせと思しき評価、、以前のエントリで記した日展の事案その後の経緯等からは、真っ先に胡散臭さを感じるのが率直な印象です。

感性が鈍いのか、視力の衰えを常に色眼鏡で補っているせいかもしれません。

ヨイショ営業とでも呼べばいいのでしょうか。名の売れた、弁の立つというか声の大きな演者と業界が共謀して虚構の価値体系を構築しておきます。

で、
――良さがわかる繊細な感性をお持ちのそんなあなたに...――
――分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから――
と批判や異論を封じ込め、優越感を煽る宣伝広告で碌でもないものの営業に利用する、そういった事例は通販番組は言うに及ばず、文芸、飲食、映画等でも散見されます。

姑息な手法だなぁ、と思うわけです。

この辺りはいずれ別エントリで記すつもりです。

上記”市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない...”からは、
”では、一体何を評価尺度とするのか?”
といった疑問を抱くと共に
”わかる人だけわかればいい、分からなければ黙ってろ。でも受信料は払ってね。
というのも横暴だなぁと感じる次第です。


(続)

2014年10月5日日曜日

公共(2)

最初に、ウェブ上で閲覧可能なNHKの目的、ガイドラインを確認すると共に所感を記します。

NHKのサイトによれば、放送法で制定されているNHK(日本放送協会)の目的は、
《第15条》《目的》
協会は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送を行うとともに、...を目的とする。
とあります。

上記URLのページには続いてNHKによる説明が加えられています。冒頭部の引用です。
NHKは、全国にあまねく放送を普及させ、豊かで良い番組による放送を行うことなどを目的として、放送法の規定により設立された法人です。
意図的か否かは存じませんが、放送法にある、”公共の福祉のために”という語がありません。

豊かな番組、良い番組の定義もなかなか難しいわけですが、公共の福祉に適うことこそが一義のはずです。この視点から”豊かな”、”良い”が判断されるべきですが説明はありません。更に、番組が公共の福祉にどう寄与していくかといった姿勢もよくわかりません。

続いて、”よくある質問集”に、”公共放送とは何か”、”公共放送は本当に必要なのか”、といった問いに対するNHKの回答が掲載されています。
---------------------------------------------------------------------------------
公共放送とは何か(一部抜粋)

...公共放送とは営利を目的とせず、(a)国家の統制からも自立して、(b)公共の福祉のために行う放送といえるでしょう。
NHKは、政府から独立して 受信料によって運営され、公共の福祉と(c)文化の向上に寄与することを目的に設立された公共放送事業体であり、...
---------------------------------------------------------------------------------
公共放送は本当に必要なのか(一部抜粋)

公共放送は必要であると考えています。
公共放送の使命や役割は、視聴者のみなさまからの受信料をもとに、(d)放送の自主自律を貫き、(e)質の高い多様な番組や正確で迅速なニュースを全国で受信できるよう放送することで、(f)民主主義社会の健全な発展と公共の福祉に寄与することです。 NHKは、市場原理だけでは律することのできない公共性を強く意識し、特定の利益や視聴率に左右されずに放送事業を行っています。
NHKの番組には「大河ドラマ」や「紅白歌合戦」のように視聴者のみなさまの関心の高い番組だけでなく、教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない、重要な役割を担うものが多くあります。また、緊急災害時に大幅に編成を変更し、ニュース・報道番組を放送することなどは、スポンサーの意向に左右されずに行うことのできる公共放送ならではの役割です。
(略)
東日本大震災からの復興、長引く経済の停滞、急速に進む少子高齢化など、日本が数多くの課題を抱える中、国民の生命・財産を守り、視聴者の判断のよりどころとなる信頼できる情報や番組をお届けする公共放送の役割は、ますます重要になっていると考えます。
また、放送と通信の融合が一段と進み、さまざまな端末を通して多種多様なコンテンツを誰もが自由に利用できるようになる中で、最新の技術を活用して利便性を高め、信頼されるコンテンツをお届けすることも、新しい時代の公共放送に求められる責務と考えます。 
(以下略)
---------------------------------------------------------------------------------

NHKが依拠する根幹を踏まえた、詳細な説明を求めたい文言が満載なわけです。正否はともかくとしてです。順次記していきます。


(a)国家の統制からも自立

当然憲法やその他法令からは逸脱できませんし、放送法による規制もあります。あくまで法令の枠内で国家の統制から自立であり、時の政府の干渉を受けないということでしょうか。では、法令、例えば放送法の改変に対して、自立を保つために抗うのか否か、いずれにせよ政治的な主義主張を持つことになってしまうような気がします。


(b)公共の福祉

上述しましたが、まず、NHKが礎とする公共の福祉についての十分な説明が必要と考えます。その上で、公共の福祉に対する放送内容の制作意図を明らかにし、更には結果として番組が公共の福祉にどう寄与したかを評価すべきかと。

未だNHKのサイトで公共の福祉についての詳細な説明を見つけられないでいます。


(c)文化の向上

(b)と同様に、文化の向上を云々する以前に、文化に対するNHKの認識が明確にされて然るべきではないかと考えます。NHKに限った話ではありませんが、概念が過度に抽象的、曖昧なままでは、本来認識が異なっているのか、実は同じだが齟齬があって共有できていないだけなのか区別ができません。

文化の向上という目的に対し、文化という概念の捉え方が異なれば、該概念を基にした、番組制作に関わる計画(意図)、実行、評価にボタンのかけ違いが生じるのも当然です。

具体的な疑問の一つを後述します。

(d)放送の自主自律


結構なことなんですが、何に依って立つのか、自らを律する行動規範が重要かと。で、この自主自律の程度は誰がを公正中立、客観的に評価することになるのでしょうか。

NHK経営情報のページにある、番組基準・編成計画 等、放送倫理・コンプライアンスも含めて後で考えます。

(e)質の高い多様な番組


やはり番組の質はどう評価されるのかに尽きるわけです。NHKの公共放送としての目的があり、該目的に沿った制作意図が番組に込められているはずです。で、放送によって意図が伝わったのか、目的に対する達成度はどうなのか、といった視点で質の評価はされているのでしょうか。

前記NHK経営情報のページには放送番組審議会へのリンクがあります。議事内容を閲覧することで答に近づけるかもしれませんが...

(f)民主主義社会の健全な発展

NHKだけを云々する意図は断じてないのですが、金科玉条のごとく民主主義を掲げるのも如何なものかと思っています。以前のエントリでも触れましたが、
”不確定の未来に責任の所在を先送りする”
ことは民主主義社会の一つの本質と捉えています。

上記文言からは、この民主主義を絶対不可侵のものとみなしているかの印象を抱いてしまいます。最上のシステムと盲信してその枠組み内に留まることは、枠組みの外から民主主義を俯瞰し、付随する問題が見えなくなる、目を瞑ってしまうのではないか、といった懸念を持つわけです。

現在の、例えば少子高齢化といった多くの先進国が抱える諸問題は、民主主義システム、正確には現在の民主主義システムに原因を求めることができるのではないでしょうか。

勿論、民主主義社会を否定する意図は毛頭ありません。ただ民主主義社会という社会システムを予断を排除して中立公正に捉えるためには、手放しの支持、安易な賛同ではなく、枠組みの外からの客観的な観察も必要ではないかということです。

民主主義が内包する問題から目を逸らさず対峙してこそ、自律する社会、賢い社会の実現に繋がっていくのでは、と考えます。

こういった観点から、民主主義ありきという出だしもなんだかなぁ、と思った次第です。

ところで、民主主義社会の健全な発展とありますが、では健全でない発展とはどういう事態を想定しているのでしょうか、興味のあるところです。


(続)

2014年10月4日土曜日

気骨

最近の香港における、行政長官の自由な選挙を求める動きも含め、ここ数年来世界各国で民主化を望む運動が盛んです。実は、民主化という目標に真っ直ぐ向かう動きではなく、単に独裁的な現体制、或いは、圧政に対する反抗、若しくは、国内の政争かもしれませんが...

で、こういった世界各国の動きに対する、日本の姿勢について寡聞にして知りません。国内では与野党問わず、一言目、二言目に”民主主義が...”、”民主主義を...”といった声を鬱陶しいくらいに耳にするのですが...

内政干渉の語を盾に言及を避けているように思えてなりません。

人権や民主主義を普遍的価値として捉えているなら少しは意思の表明がされて然るべきではないでしょうか。