2014年1月28日火曜日

内輪

やっと戻ってきました。
前のエントリの続きです。


――多様な価値観の存在は認識しているものの、好むと好まざるに拘らず直接的、間接的に価値観の衝突は起こり得、価値観の全てを無批判に容認することはできない――
が私の立場です。

この立場を背景に先のエントリに記したホワイトカラーの生産性評価で例示される、特定の価値観に基づく内輪の評価の曖昧さについて考えます。

価値観の多様性を容認するならば、一つの場に複数の異なった価値観が併存することになります。勿論、これが理想であり、営利企業における該生産性も、様々な価値観に基づいて多面的に評価されるべきが本来でしょう。

しかしながら、おそらくこれは不可能であり、混沌状態へと陥らせ、収拾がつかなくなります。特定の目的を持つ集団を問題解決に向かわせる、目標に近付けるには、組織として概ね秩序性、整合性のある意思決定が必要であるのは当然です。

正否はともかく、何らかの解を見出さねばならない、そういった状況では意思決定に当たって特定の価値観に基づかざるを得ません。 

営利企業における創造と判断についての生産性は、実は定性的要素が主であり公正、明確な評価は困難です。この生産性の評価も、客観的で妥当性のありそうな、ある意味テキトーな基準による、上記に該当するのではないでしょうか。時には適切か否かより、”評価した”という事実が優先される場合もあるような気がします。

で、この特定の価値観という基準が怪しげなわけです。前のエントリにも記しましたが、該価値観は同一グループ内において創造と判断の生産性を相対的に評価することを目的とするものです。

従って当然ですが、内輪の閉鎖的相対評価であるが故の問題が内包されてしまいます。斜に構えて言えばぬるま湯的、相互扶助的評価に向かう力を排除し得ないということです。

生産性の評価ではありませんが、最近報道で耳目を集めた、

日展の「書」、入選数を事前調整 篆刻「長年の慣行」日展審査員、自会派を事前指導 洋画と工芸、多数入選 
こんないい加減な選考基準では選手はやっていられない、日本フィギュア 

典型的な内輪というか相互扶助的評価の事例です。 

勿論、営利企では各部署単位はともかく、少なくとも組織全体としては相互扶助的部分はないはずです。まぁ、社内表彰のような制度があって、そこで相互扶助的印象を受けたこともあったのですが...おそらく...多分...ないのでしょう。社内の相互扶助には営利企業としての目的と合致する部分が見出せませんから。

ただ、そういった内輪の生産性評価が果して事業収益、企業利益とどれほど相関しているのか、疑問符のつく場合は少なからずあるものと考えています。

私が勤め人の職を辞して以来、随分の年月が経過しました。しかしながら、創造と判断生産性をどう評価するかについては未だ足踏み状態が続いているのではないでしょうか。生産性向上が絶えまなく求められているにも拘らず、こと該生産性を評価する仕組みに関しては進展のない硬直化を感じています。

繰り返しになりますが、生産性向上を図るという目的に対し、業務における創造と判断が的確に評価されているとは言い難い中、当事者意識を持つことなく、無責任に生産性向上を提唱する声には強い反発を覚えます。

尚、前のエントリの一節、
――数学の計算式と...言いに来ないでね――
と言われても、

営利企業で創造と判断の生産性を評価するに当たっては、

”その通りなんですが、そうは言っても何か一つを決めなきゃいけないんですよ。評価基準はテキトーなんですがね...”
ということです。


続けます。

2014年1月27日月曜日

人材(続)

5.欺瞞

作陶に勤しんできた方が脱原発を提唱していることに何とは無しに違和感を抱いています。

”反原発デモの集会に電車(地下鉄)で参集”に対して抱く気持ち悪さに似ています。

陶芸を含む文化的、芸術的活動は、極端には、社会に余裕があってこそ、社会が生産する富に余剰があってこそ存在し得ると考えます。

今日、電力システムは文明社会を維持するために欠くべからざる重要なインフラの一つです。このシステムの中で、原発は科学技術的、経済的、政治的役割の一翼を担ってきました。環境負荷が小さく、相対的に安価な電力を生み出し、該システムをを支える極めて重要な礎だったわけです。真に安価かはわかりませんが...つい最近までのことです。

原発と陶芸の社会的意義、各々の生産物は何か、更にそれらの生産性を考えた時、果たしていずれに社会的需要があるとみなされるでしょうか。

古くはともかく、現在の陶芸という文化的世界は、原発を利用した文明社会の一部として、既に強固に組み込まれ、或は取り込まれてしまっています。

そういった世界に長年携わってきた方が、果して、脱原発を進められるのだろうか、場合によっては陶芸を含む文化的分野と決別するまでの覚悟はあるのだろうか、疑問を持っています。

脱原発を進める過程において、環境面、経済面で妥当であり、原発に依らない電力の供給が直ちに実現できるとは思えません。かつて、原子力発電が当然だった頃の電力需要とのギャップがどのように埋め合わされ、解消されていくのか、関心のあるところです。

過渡的であっても原発の再稼働は表明できないでしょうし、環境負荷の問題に目を瞑りつつも火力発電に頼らざるを得ないのかもしれません。現時点で、再生可能エネルギーに賭すのも画餅に帰すような気がしてなりません。

こういった事態に直面した時、これを一つの契機として緊急非難的のみならず、中長期的に電力需要を収縮させることも一策ではないかと考えます。

自由主義に依って立つ経済社会において、電力需要の管理が経済的、文化的な活動に制約を課すことは認識しており、望むところではありません。

しかしながら、野放図な電力の浪費を抑え、無駄をぎ落し電力消費の効率化を図る、現状の消費状況を鑑みれば十分大きな削減余地があると捉えています。

省電力機器の利用といったハード面に留まらず、ソフト面においてもダブついた需要の贅肉をシェイプアップし、高効率化社会を目指すことこそ脱原発へと進む一歩ではないでしょうか。

少なくとも、自然エネルギー、再生可能エネルギーを利用した発電云々と同程度には電力需要の管理にも焦点が当てられてしかるべきです。

例えば、極論というか私見を以前記しています。

電力の使途を序列化することは、本来、自由主義経済社会において認められないことではあります。しかしながら、脱原発実現のため、電力需給の逼迫具合いによっては使途の管理、制限システムの導入もやむを得ないかと...
 
この時、優先されるべき使途の目的は国民(都民)の生命、安全の確保であり、社会の安定、経済活動の維持が続きます。文化、芸術といった文明社会としての余裕というか潤滑油的部分への電力の優先的使用には受け入れ難いものがあります。

電力需給がタイトな状況に陥った時、社会における文化、芸術活動の価値を後位に位置付けるという判断を、果して陶芸家だった方が下せるのだろうか、ということです。


本来、以前のエントリで記した閉鎖的で曖昧な生産性評価について記すつもりでしたが、未だ逸脱を続けています。 

実は、陶芸を含む工芸芸術といった文化的分野も客観性が不十分な該生産性評価を排除し得ない世界と受け止めています。

陶芸という創作活動の生産性どのように評価されるのでしょうか。生産量で決定されないことは勿論であり、質というか芸術性、意匠、創造性、美観といった要素に支配されるわけです。

おそらく、この質の評価指標は伝統という語で永年の継承、蓄積、洗練によって形成されたものではあります。しかしながら、この評価指標を共有できるのは同じ分野に携わる、即ちそのインナーのみです。

ただ、インナーであってもどこまで創作物に対する共通の価値基準を認識できているかよくわかりません。インナーであることと陶芸についての価値観を共有していることは一致しないはずですが、今日、あたかも同義になってしまっているような印象が否めません。

質の評価には透明で揺るぎない指標が適用されるべきですが、適正な評価基準を有しているはず、有しているであろうインナーによる相互の評価が相当部分含まれているような気がします。

このインナーによる内輪の評価については又、別のエントリで記します。

論理的に理解し難く感性による価値体系に依って立つ陶芸を含む文化的分野です。この価値体系に組み込まれている伝統、継承といった要素は、裏返せば前例踏襲、既得権保護を 意味します。

そういった世界に長年浸っていた方によって、典型的な内輪の世界である原子力分野、その数少ない巨額で大規模な産業応用である原発に終止符打つことが果してできるのか、違和感を禁じ得ない次第です。

かつて、家電エコポイント事業という制度がありました。結局、景気対策だったわけですが、あたかも地球温暖化防止を主目的としたかのようなネーミングでした。

この時、”温暖化ガス排出削減に貢献するためテレビを廃棄する、エアコンは購入しない”といった声は抑えつけられていたような気がします。

似たものを感じています。

2014年1月22日水曜日

人材

都知事選が近づいてきました。

更に脇道に外れます。

メディアが演出する、憶測と思惑に満ちた三文芝居というか、政治バラエティを否応なしに見せつけられるわけです。


有権者でなくとも、既にかなり食傷気味です。

で、この人材の枯渇ぶりは...




もはや、Dr.中松氏に託す外ないのでしょうか。

以前にも記しましたが、為政者として期待できる人物が払底しています。

投票日に向かってエントロピー増大の一途となる、都知事選という政治パフォーマンスについて、思ったところを無責任に挙げてみます。


1.争点

前都知事辞職の理由を鑑みれば、不透明な政治資金の排除が争点一つとなってしかるべきかと考えます。しかしながら、それほど重視されていないように見受けられます。

首都とはいえ地方自治体の首長選程度では争点となり得ないのか、或いは、前都知事に特異な事由ということで収拾してしまったのでしょうか。

どういった条件ならばこの問題に焦点が当たるのか、果たして指摘できる誰かが存在するのか、関心を持っています。


2.分断と除名

隠遁老人を俗世に引っ張り出し、脱原発の神輿に仕立て上げるのは、脱原発支持者の分断を目論んだものかとの勘ぐりが頭を過らないわけではありません。

過去の都知事選でネームバリューを利用された元国連事務次長の姿と重なって見えてしまいます。

シングルイッシューの連呼による、天性の人心掌握力を誇るあの元首相が除名されるのか否か、興味は尽きません。


3.迷走

当初、脱原発を謳う陶芸家に出馬の打診をしたのは民主党と聞いています。大飯の再稼働決定は民主党政権下での判断ではなかったかと。迷走は続いています。


4.逆世代交替

原発が都知事選の争点となり得るのか、といった問いに対し、自治体首長の権限の範囲内で脱原発に向かう政策が実現可能であると考えています。

ただ、脱原発とか原発推進といった是非論以前の話です。

隠棲し作陶に勤しむ年寄を、今更都知事選に引っ張り出してどうすんだ、というのが率直な印象です。山で政の修行をしていたわけでもないでしょうし...表舞台を退いてかなりの時が経過しているわけですが、その後のギャップを埋められるほど政治は停滞していたということでしょうか。

この方を強く後押ししたのも又、政界を引退したはずの隠居老人です。加えて、この御仁は現役時代、自民党総裁の座にあった時、世代交代、若返りの名目で宮沢元総理らに代議士引退を迫り引導を渡しています。

全くもって世代交代に逆行しています。代謝を妨げる老害以外の何者でもないと考えます。

更に言えば、右的政策を主張されている他候補の背後にも依然として暴走老人の姿があります。この候補を、思想、信条の面で前都知事の後継と表面的には連想できないのですが、いずれも該暴走老人の傀儡とみれば、大きな矛盾はないのかもしれません。

”老いては子に従え”ではありませんが、いつまでも引退世代の政への介入を許し、委ねてしまうのは果して適切なことなのでしょうか。

社会牛耳る元気な高齢者の存在は、長寿社会では当然であり、民主主義社会の本質かもしれません。ただ、若年層への責任や負担の押しつけ、将来世代への問題の先送りは止むことなく続いてしまいます。

本来ならば、平和的、対立的を問わず、とうに後継世代がこういった老人の跋扈を容認せず、引退を迫っていてしかるべきではないでしょうか。それは後継世代に課せられた義務の一つでもあると捉えています。

未だ権勢を振るわんとする高齢者に対し、これに抗い世代間対立を躊躇うことなく引退に追い込まんとする、後継世代の気概、力量、冷徹さの欠如に淋しさを禁じ得ません。




繰り返しになりますが、だからと言って私自身が原発推進を支持する立場ではないことを重ねて強調しておきます。

まぁ、冒頭の中松氏も高齢者だったわけですが...
 




2014年1月16日木曜日

度量

創造と判断が根幹であるホワイトカラーの業務において、該業務の生産性向上を図る際の、生産性評価の曖昧さについて前のエントリで触れました。

引き続きこの閉鎖的で曖昧な評価について記すつもりですが、少し斜め上方に脱線します。

以前引用させて頂いたブログ内のあるエントリの一節です。
数学の計算式と体重計の数字以外に、客観的なものは無く、割れ鍋に閉じ蓋、蓼食う虫も好き好きで、全ては成り立ち、そのお陰で、人類は滅びるどころか、人口の増加を招いている訳で有ります。
私の好きは、貴方の嫌い。
それでイインです。
おじさんは、貴方の好きに文句を言いませんから、貴方も、私の好きに、文句をわざわざ言いに来ないでね
こういった多様な価値観の存在を認め、各々は尊重されるべきであることを示唆する主張は、他にも少なからぬブロガーの方々が展開されています。

等のエントリで容易に知ることができます。

全くもってご尤もな言葉であり、飲食の好みに留まらない幅広い事象において、本来であれば素直に首肯したいところです。

しかしながら、果して見聞する数多の問題に対する様々な価値観を一律、寛容に容認できるかと自問した時、私には許容し難い事案があることを自覚しています。

例えば、最近衆目を集めている防空識別圏の設定を含む国境、領土に纏わる隣国の姿勢、従軍慰安婦問題に代表されるいわゆる歴史認識に関する彼我の差異等、相容れない異なった価値観は厳然と存在します。

卑近な例では、以前のエントリで記したさかもと未明氏乙武洋匡氏の話題、これらのエントリで例示した、電車内へのベビーカー持ち込みや新幹線車内での子供が座る座席についての論争も、その端緒は各々の価値観の相違に依る部分があると捉えています。

多様な価値観が渦巻く中、全てを寛容に受け入れるだけの度量は私にはありません。

直面する事態、問題に対して何らかの解を見出す必要がある場合、収束や解決といった目的を達成するための方策について意思決定を迫られます。その際、各々の価値観の衝突を回避し得ない事例も少なからずあるはずです。(勿論、あえて解決しない、収束させないという判断も一つの選択ではあります)

そういった場に直接に居会わせなくとも、上記論争で特定の意見に違和感を持つことも広義には価値観の衝突が生じていると考えます。

捕鯨禁止を迫る力に反発を抱いたり、パキスタンでのマララさん襲撃事件に代表される、イスラム圏における女性の不当な差別に憤りを感じることも、間接的な価値観の衝突ではないでしょうか。

私自身、互いに相違する考えがある時、その礎となる価値観を理解したいと率直に思っています。ただ、それでも尚、理解の範囲を越えた、受け容れ難い上記のような事例には依然として歩み寄れないままでいます。

斯様に、 
――多様な価値観の存在は認識しているものの、好むと好まざるに拘らず直接的、間接的に価値観の衝突は起こり得、価値観の全てを無批判に容認することはできない――
が私の立場です。

ところで、先述の多様な価値観を容認し尊重しようとする姿勢についてですが、依拠する二つの行動原理があると考えます。

一つは個の自由は尊重されなければならず、例え自分と異なる価値観であっても本質的にそれを侵すべきではない、といった立場です。一方で、実は己れの価値観を固守せんがため、この目的のために対立、摩擦を避ける、といった動機もあるような気がします。

衝突の回避、相互不干渉という点で、両者は見掛け上違いはないかもしれません。ただ、後者には自己の領分への干渉さえ拒められれば、その他は我関せずといった心理も一部窺われます。

何とはなしに想起された彼らが最初共産主義者を攻撃したとき”(ニーメラー)は度を越した妄想でしょうか。