2014年1月27日月曜日

人材(続)

5.欺瞞

作陶に勤しんできた方が脱原発を提唱していることに何とは無しに違和感を抱いています。

”反原発デモの集会に電車(地下鉄)で参集”に対して抱く気持ち悪さに似ています。

陶芸を含む文化的、芸術的活動は、極端には、社会に余裕があってこそ、社会が生産する富に余剰があってこそ存在し得ると考えます。

今日、電力システムは文明社会を維持するために欠くべからざる重要なインフラの一つです。このシステムの中で、原発は科学技術的、経済的、政治的役割の一翼を担ってきました。環境負荷が小さく、相対的に安価な電力を生み出し、該システムをを支える極めて重要な礎だったわけです。真に安価かはわかりませんが...つい最近までのことです。

原発と陶芸の社会的意義、各々の生産物は何か、更にそれらの生産性を考えた時、果たしていずれに社会的需要があるとみなされるでしょうか。

古くはともかく、現在の陶芸という文化的世界は、原発を利用した文明社会の一部として、既に強固に組み込まれ、或は取り込まれてしまっています。

そういった世界に長年携わってきた方が、果して、脱原発を進められるのだろうか、場合によっては陶芸を含む文化的分野と決別するまでの覚悟はあるのだろうか、疑問を持っています。

脱原発を進める過程において、環境面、経済面で妥当であり、原発に依らない電力の供給が直ちに実現できるとは思えません。かつて、原子力発電が当然だった頃の電力需要とのギャップがどのように埋め合わされ、解消されていくのか、関心のあるところです。

過渡的であっても原発の再稼働は表明できないでしょうし、環境負荷の問題に目を瞑りつつも火力発電に頼らざるを得ないのかもしれません。現時点で、再生可能エネルギーに賭すのも画餅に帰すような気がしてなりません。

こういった事態に直面した時、これを一つの契機として緊急非難的のみならず、中長期的に電力需要を収縮させることも一策ではないかと考えます。

自由主義に依って立つ経済社会において、電力需要の管理が経済的、文化的な活動に制約を課すことは認識しており、望むところではありません。

しかしながら、野放図な電力の浪費を抑え、無駄をぎ落し電力消費の効率化を図る、現状の消費状況を鑑みれば十分大きな削減余地があると捉えています。

省電力機器の利用といったハード面に留まらず、ソフト面においてもダブついた需要の贅肉をシェイプアップし、高効率化社会を目指すことこそ脱原発へと進む一歩ではないでしょうか。

少なくとも、自然エネルギー、再生可能エネルギーを利用した発電云々と同程度には電力需要の管理にも焦点が当てられてしかるべきです。

例えば、極論というか私見を以前記しています。

電力の使途を序列化することは、本来、自由主義経済社会において認められないことではあります。しかしながら、脱原発実現のため、電力需給の逼迫具合いによっては使途の管理、制限システムの導入もやむを得ないかと...
 
この時、優先されるべき使途の目的は国民(都民)の生命、安全の確保であり、社会の安定、経済活動の維持が続きます。文化、芸術といった文明社会としての余裕というか潤滑油的部分への電力の優先的使用には受け入れ難いものがあります。

電力需給がタイトな状況に陥った時、社会における文化、芸術活動の価値を後位に位置付けるという判断を、果して陶芸家だった方が下せるのだろうか、ということです。


本来、以前のエントリで記した閉鎖的で曖昧な生産性評価について記すつもりでしたが、未だ逸脱を続けています。 

実は、陶芸を含む工芸芸術といった文化的分野も客観性が不十分な該生産性評価を排除し得ない世界と受け止めています。

陶芸という創作活動の生産性どのように評価されるのでしょうか。生産量で決定されないことは勿論であり、質というか芸術性、意匠、創造性、美観といった要素に支配されるわけです。

おそらく、この質の評価指標は伝統という語で永年の継承、蓄積、洗練によって形成されたものではあります。しかしながら、この評価指標を共有できるのは同じ分野に携わる、即ちそのインナーのみです。

ただ、インナーであってもどこまで創作物に対する共通の価値基準を認識できているかよくわかりません。インナーであることと陶芸についての価値観を共有していることは一致しないはずですが、今日、あたかも同義になってしまっているような印象が否めません。

質の評価には透明で揺るぎない指標が適用されるべきですが、適正な評価基準を有しているはず、有しているであろうインナーによる相互の評価が相当部分含まれているような気がします。

このインナーによる内輪の評価については又、別のエントリで記します。

論理的に理解し難く感性による価値体系に依って立つ陶芸を含む文化的分野です。この価値体系に組み込まれている伝統、継承といった要素は、裏返せば前例踏襲、既得権保護を 意味します。

そういった世界に長年浸っていた方によって、典型的な内輪の世界である原子力分野、その数少ない巨額で大規模な産業応用である原発に終止符打つことが果してできるのか、違和感を禁じ得ない次第です。

かつて、家電エコポイント事業という制度がありました。結局、景気対策だったわけですが、あたかも地球温暖化防止を主目的としたかのようなネーミングでした。

この時、”温暖化ガス排出削減に貢献するためテレビを廃棄する、エアコンは購入しない”といった声は抑えつけられていたような気がします。

似たものを感じています。

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