ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年3月27日日曜日

真逆

”走る歓び”とは逆方向の話なんじゃないでしょうか。
自動運転タクシーの実証実験、来年初めから開始=政府

自動運転と言えば真っ先にGoogleで開発が進められているグーグル・カーが思い浮かびます。一方、”走る歓び”の文言で想起されるのは、マツダの

Be a Driver.
トヨタの

FUN TO DRIVE, AGAIN.
といったところでしょうか。
じゃ、”走る歓び”って一体何だと、運転者だか、同乗者、所有者を歓ばせる正体は自動車の何だろうという話になるわけです。

所有者であれば所有する歓びです。運転に関わらない同乗者が”走る歓び”を感じられるなら、上述のグーグル・カーを含めたバス、タクシーでも構わないわけですが、それも違うんじゃないかと。自動車メーカーが消費者の購買意欲を煽れませんから。プロモーションになりません。


やはり、運転者の、”運転する歓び”即ち”走る歓び”ということでしょうか。これはおそらく、”機械を自分の思い通りに操る歓び”なんでしょう。その結果、己の体力のみでは不可能な加速感や景色の変化を自在に体験できるわけです。

機動戦士を操縦する心情に通底したものがあるのかもしれません。

ただ、上記マツダのリンクにある、

ドライバーとクルマの関係を、
もっともっと深いものへと変えていく。
人とクルマが息を合わせる。
走る歓びを分かち合い、深い愛着を覚える。
ともに走り、ともに歓び、ともに生きていく。
クルマは単なる道具ではない。
私たちは、人とひとつになれるクルマをつくっている。
には素直に共感できないでいます。車は道具です。人馬一体が自動車でも起こり得るかの如く上記文言ですが、擬人(馬)化しても自動車は輸送機械の一つです。あくまでも、運転者が自動車に慣れ、習熟するのであって、単に人が車に合わせているに留まります。ミもフタもない話かもしれませんが...

トヨタのサイトには単に”クルマの楽しさ”とあるのみでその言葉が何を示しているのか不明です。抽象的な観念論ではなく、具体的な説明を望みたい処です。

勿論、だからといってマツダやトヨタの車を批判しているわけではないことは申し添えておきます。

このような視点に立ってみると、やはり自動運転は自動車という機械の到達目標の一つであるのは間違いありません。一部車種では、アイサイト(衝突被害軽減ブレーキ)、インテリジェントパーキングアシスト(駐車・車庫入れアシスト)といった運転アシスト機能は既に取り入れられていますし、単純なクルーズコントロールはかなり以前からありました。

何だか、”走る歓び”とは逆方向の車社会に進んでいくような気がしますが...自動車メーカが”走る歓び”と自動運転をどう折り合わせるつもりなのか、関心を寄せています。

いつまでも ”走る歓び”を謳って購買意欲を喚起するのもどうなんでしょうか、個人の所感です。

一方、そういった自動運転へと向かう流れに対し、”クルマの良さが失われる”、”自動車はやっぱり自らの意思で自由に操れなきゃ”といった否定的な声も上がっています。おそらく、自動運転による必要以上の便利さ、快適性に対する要求を不要のものとして拒みたいんじゃないかと推測しています。

思い違いです。他人の痛みがわからない、思いを馳せることができないということかもしれません。そうであろうことを理解することは容易です。容認しているわけではありませんが。

第一義的に便利さを求めるのではなく、交通事故による理不尽な不利益を少しでも減じる、これが自動運転の主たる目的と捉えています。酒酔い、高齢者、暴走、突然の疾患等、故意、過失を問わず、被害者自身の責に全く依らない悲惨な交通事故は未だ後を絶たないのが現状です。

このエントリを記し始めてもたもたしている間、今日までだけでも一体どれだけの、交通事故による理不尽な不利益を被った被害者が生みだされてしまったのか。

パトに追跡され暴走、4台事故 1人死亡 東京・世田谷
山陽道トンネルで車12台絡む多重事故 2人死亡 広島
【梅田・車暴走事故】重体28歳女性は横断歩道上、死亡65歳男性は歩道上で最後にはねられたか 死傷者の状況判明
十分ではないものの、こういった謂れのない事故被害の低減に寄与するであろう自動運転を、個人の趣味を優先した尤もらしい”走る歓び”の語で水さす物言いに独善的な印象を禁じ得ません。

それは恰も、天然鰻を出す料理店を、その写真と共に嬉々として紹介するグルメブログと同じ身勝手さを感じます。そういったブログで、天然/養殖、鮮度、食品添加物の問題に関連付けて健康、環境とかを上から目線で論じられても、誠実さ、真実味、信頼性を欠いているなぁ、と思うわけです。胡散臭さ、欺瞞性は伝わってきますが...

昨今、運動会や体育祭といった学校の伝統的行事の一つとして行われてきた組体操について、中止を求める声が上がっています。

【組体操】事故は年8000件だった「安全確保できない場合は中止を」スポーツ庁
事故の例
で、当然、”感動”、”達成感”、”団結心”といった語で組体操の意義を説く声も生まれます。
それでも私が組体操に取り組む理由。ある現役教師の告白
典型的な考えは、
大阪の現場の先生方、教育委員会の戯言は無視して、これからも、今まで通りに安全を確保しながら、挑戦すべきは挑戦していけばいいです。保護者たちも、ケガや骨折は成長の一環と受け止めてあげてください。今の日本に不足しているのは、そういった「覚悟」だと思う。
といったところでしょうか。”走る歓び”、”天然鰻”、更には、”事故前の原発の安全神話”にも通底した他人事感満載の意識だなぁと。


まぁ、自分(とその周囲)は大丈夫だろう、他人の痛みには共感できない、というのも尤もな話で、理解できないわけではありません。しかしながら、そうは言ってももう少し賢い一歩に駒を進められないものなのかと、改めて思った次第です。

2016年1月11日月曜日

墓穴(2)

前のエントリから続けます。

5.ではどういう姿勢が望ましいか、という話になるわけです。排他的な姿勢は否定されるべきですが、それでは無関心ならいいのか、という話でもないかと。以前のエントリで記しましたが、周囲の目を気にすることなく左手に丼、右手に箸を持って雑誌を読みながら食事を摂る、当事者も周囲も互いに無関心ならば、上記騒動など起こらなかったはずです。ただ、それは違うような気がします。

こちらも、関心-興味-好奇や無関心-無視-容認といった外からは窺い知れない、曖昧な感情の境界に纏わる話かもしれません。いずれにせよ好ましい姿勢を思いあぐねています。自然に、普通に、と言われても一定の違和感は拭いきれないんじゃないかと。


6.件の”異常”発言からは、他のマイノリティに対する差別的発言に比して、とりわけ嫌悪感に類したものが伝わってきます。この感情の由来は、自意識の強さにあるのでは、と想像しています。率直に言えば、自分が同性から性的な対象として見られることへの恐れ、不安の裏返し、ということではないかと。
――大丈夫、誰もアンタをそれ程気にかけていないから。自意識過剰です。――
更に根本にある承認欲求が満たされず、それはそれで不満を募らせることになるかもしれません。


7.さて、こうした問題にどう向き合うかなんですが、どうしましょうか。問題に対する正しい理解が必須であるのは間違いないところです。偏りのない情報とその理解...オープンな議論の場でしょうか。

LBGTを含むマイノリティに関する問題は世界の至る所で解決されないまま、未だ根深く残っています。社会の更なる成熟が望まれているのは確かです。駒を進めるにはやはり教育でしょうか。

旧来の価値観を盲目的に受け継ぐことなく、新たな視点から再評価して教育の場に反映させる、そういったことかとは思いますが大きな転換が必要です。自己変革は容易ではなく、明治維新や前の敗戦に相当する、強圧的な価値観の再構築に頼らざるを得ないであろう、難儀な話と受け止めています。

2015年11月1日日曜日

従順

江戸末期のええじゃないか騒動を連想させる一方で、平和な民主主義社会の一側面を象徴しているのかもしれません。
ハロウィーン 渋谷
【速報】渋谷駅カオス!ハロウィンで完全に制圧される!DJポリスもただの「DJ」になってしまう!
ルキウスさんのエントリ、
ロイ・アンダーソンを考える
では市場原理主義=刹那主義について記されていますが、この刹那主義的要素は、実は民主主義にも内包されている、そう思えてなりません。

”その場に居合わせたみんなの合意”に基づく民主主義は、刹那主義でもあるわけです。おそらく民主主義の無謬性のようなものがあって、合意に対する賢愚、是非、善悪の判断をさておいてしまうような気がします。

不利益は他国や後世に追いやるということです。

ところで、渋谷スクランブル交差点辺りの中継映像を見ていて、先日のSEALDs含む安保法案反対のデモの比ではないなぁ、と素直に思いました。権威に対する従順さは真逆かもしれませんが。

ハロウィンの群衆と該法案への支持不支持が繋がる理由はありませんが、社会のマジョリティはそういうことなんだと。改めて実感した次第です。

暴動の一つも起こってもおかしくないあの群衆が、概ね粛々と警察の指示に従って行動している、というのも不思議ではありました。羊と羊飼い、牧羊犬の関係を連想させました。至るところに糞を撒き散らす(ゴミを散らかす)マナーの悪い羊であっても羊飼いには従順でした。

そういった羊の群れがあの宰相を擁する社会を選んだ、受け入れたのか、或いは連綿と引き継がれたそういった社会が羊の群れを生み出してしまったのか、興味は尽きません。

2015年10月17日土曜日

去勢

――圧倒的な「第一党」は無党派層なのだが、国民の過半数を占める彼らを代表する政党が存在しない。これが日本の最大の不幸である。―― 
安倍首相はなぜきらわれるのかといったブログエントリにあった文言です。

で、以前のエントリに記したように、
近年の選挙における選択の動機は、当たりクジなど入ってないことを承知し、その上で消去法によって如何にマシな外れクジを選ぶか
といった状態から全く進展がありません。だからといって、選挙で票を投じないという行為には批判的な声もあるわけです。

例えば、
参院選迫る:投票したい人がいないから棄権、抗議の白票はイカン

選挙権のないひとりからのお願い、再び
といったブログエントリがあり、選挙にいかない奴は政治に参加していない、義務を果たしていないとか、投票しければ何も変わらない、といった声があるわけです。

――白票、棄権は白紙委任だ。最大政党に白紙委任したのと同じ。――
このことに異論があろうはずはありません。ただ、投票を棄権する有権者層は、政治に関心がない層とコミットする意思はあるものの意図的に棄権している層から構成されているはずです。白票を投じる有権者層からは勿論、政治に参加する意思が伝わってきます。

つまり、全有権者中に一定程度の割合で、政治にコミットする意思があるにも拘らず、無効票とされてしまう有権者が存在している、ということです。

無批判、盲目的、或いは、義理人情で候補者を支持し賛成票を投じる層がいる一方で、全ての候補者に対し不支持の意思表示をするために棄権、若しくは白票を投じる層は、その対極との見方ができます。

この時、両者の意思は、果たして平等に扱われているのか、公平に選挙結果に反映されているのかを問うてみれば、やはり片手落ちではないかと。

――不支持の意思は選挙結果に反映させない――

そういった不公平性が解消されないまま続いているのは、現行の選挙制度の不備であり、制度設計者、運営者の怠慢ではないでしょうか。賛成、支持、信任に対応した反対、不支持、不信任という選択肢がない制度は、実は公平性に欠いているのではないか、ということです。

”賛成”の対義語は”賛成しない”ではなく”反対”です。

やはりですね、もう少し漏れ無く、公平に民意を汲み取る制度設計が必要ではないかと考えます。

ただ、残念ながら、”誰が実行するか”の”誰”が見当たらないのです。この行き場がない民意の受け皿を設けようという姿勢は何処からも感じられません。

世界の中で日本の投票率が突出して低い、とするつもりはありません。独裁だったり、民主制だったりと、各国の国家運営の根幹や、元首や代議員の職責の重さ、といった政治体制が異なりますから。有権者の投票意識と投票率を結びつけた比較は困難です。

ただそれでも、少なくとも日本において、低い投票率に対し、
”有権者の意識が低い、政治についての関心が薄い”
と片付けることには違和感を禁じ得ません。

首長や議院を選出する選挙において、その制度の不備を疑うことなく低投票率のシステムを運営、維持し続けている、そういった現状に関し怠慢という認識は生まれないのでしょうか。政官学各々についての話です。

例えば、無党派層の意思を選挙結果に反映するといった、自らの不利益を顧みることなく、選挙制度を変革していこうとする政党、人材の出現を待望しています。

折しも、2016年の参議院選挙から、選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法が施行されます。それに伴い、高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」が総務省と文部科学省から作成されました。学校現場における政治や選挙等に関する学習の内容の一層の充実を図るためとあります。
政治や選挙等に関する高校生向け副教材等について
高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」について
こういった資料を利用した、高校生への政治や選挙についての指導、教育が、現状に対する問題意識を摘み取ってしまいかねないことを懸念します。

国家に限らず、組織、団体、個人は、自らの存在、行いを自発的に否定することはできないのです。自らは常に正当性を主張し、過ちを自認するには相当の困難を伴うわけです。

そういった無謬性を排除できない国家による教育は、自ずと現状を是認することに他なりません。”今は絶対的に正しい”、そういった認識下、政治に関する教育によって”現在が最良”と摺り込まれてしまうと、異を唱えたり、疑問を抱くことを封じる力が生まれます。

これは現体制にとっては好都合です。体制に抗わない従順な有権者層を拡大できますから。そういった思惑が意図されてか否かは存じません。ただ、現行の枠組みの正当性を尤もらしく騙って疑わせない、それを否定し超えていこうとする意思を抑圧してしまう、少なくともそんな方向にだけは進まないことを願って止みません。

2015年10月12日月曜日

狭間

一寸フィクションの読み物について記してみようと思います。

先日、NHKスペシャル「作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~」の再放送を何気なく眺めていた時のことです。

山崎豊子氏と言えば、
白い巨塔→大学医学部華麗なる一族
 山陽特殊鋼-倒産
 不毛地帯→伊藤忠商事-瀬島龍三
大地の子→中国残留孤児
沈まぬ太陽→日本航空-御巣鷹山
運命の人→外務省-沖縄密約-西山記者
といった作品が思い浮かぶわけですが、同時に、モデルとなった実在の社会的事件、団体は勿論、個人までもが特定できてしまいます。

作者の構想のもとに作られた虚構の話である小説において、実在の事件、人物を題材にすることは読者に現実感を抱かせるには好適な手法です。

事実や史実、及びそれらに対し読者一般が抱いている先入観、そこに嵌合するように人間的魅力にあふれた虚像をはめ込んでいくと。で、虚実入り混じった、何処までが事実かがにわかに判別できないモザイクができてしまうわけです。

こういった手法は特段珍しくもなく、司馬遼太郎氏、松本清張氏始め、著名な数多の作家が創作に取り入れています。城山三郎、清水一行、高杉良、各氏の経済小説の分野では至極当然というか欠くべからざる創作スタイルです。

百田尚樹氏の「海賊とよばれた男 」、「永遠の0」等が最近の該当例でしょうか。

上記作家らの著作について、勿論否定的評価が皆無ではないとしても、その発行部数から、総じて多くの読者からの支持を得ているのだろう、とみています。

ここで、事実を題材として脚色を加えた虚構の創作について云々するつもりは毛頭ありません。それが小説ですから。

ところが一方で、虚構であることが露見したことにより、激しい非難が浴びせられた読み物もあるわけです。

以前のエントリにも記したのですが、それは例えば「一杯のかけそば」であり、江戸しぐさが記載された道徳の教科書(p.58〜59)を含む江戸しぐさ推奨本です。

前者は上記Wikiに顛末が記され、後者については、
更に最近では、ネットワークを介して伝播している、真偽不明の”いい話”にも批判的な目が向けられています。

例えば、
【感動注意】黒人が差別された飛行機に、ぼく、偶然乗ってました!
Facebookはバカばかり
またきたコレ・・・いくらでも作れる「いい話」。もう回すなって!!お願い
といった処でしょうか。ちなみに最近見聞したいい話は、
ファストフードの店員がお金の足りなかった男の子に小さな親切、50倍の恩返しが待っていた。
です。真偽はまだ不明です。

興味深いのは、上述全てが虚構であるにも関わらず、小説のについては風当たりが強くない、ということです。プライバシーの侵害、名誉毀損で関係者との訴訟に発展することはあっても、虚構を理由に非難された事例を知りません。

多くの事実を織り込んだ創作であっても、虚構との指摘がなされないということは、読者は端から虚構、フィクションであることを念頭に読み進めているということなんでしょうか。

読者が冷静で創作の世界に踏み込めないでいるのか、入り込ませるだけのリアリティが作品に欠けているということなのか...

「一杯のかけそば」、「江戸しぐさ」は、実話、事実として受け止められた後、捏造であることが発覚、この裏切られ感が怒りや非難の根源となったのかもしれません。そういう意味で、こちらの方が現実感に優っていたとするのが妥当という見方も、素直に首肯できないでいます。

実は、読み物の信憑性に対する読者の先入観が、創作物の虚構、虚偽といった印象を決定しているようにみえ、であるならばそれはそれで釈然としないものを禁じ得ません。では、作品それ自体の力は一体?、ということです。
というブログエントリ中に佐村河内騒動について触れている部分があり、
――涙を流すほど感動していたのに、事実を知ってショックを感じ、白けてしまった――
とのコメントが発覚時に寄せられていたそうです(伝聞の伝聞ですが)。

まぁ、この類の話かもしれません。虚構と虚偽の狭間は、創作物そのものの評価を左右しかねないわけです。

背景や権威といった周囲の環境によって容易に動かされてしまうこの狭間の、危うさ、脆さ、曖昧さについてもう少し理解を進めたい処です。

ところで、上記虚構の読み物で、それが捏造であることが判明して以降も、肯定的に捉える声があります。

例えば、「一杯のかけそば」を「涙のファシズム」と批判する見方がある一方で、江戸しぐさについては、特に公教育関係のサイトからは依然として肯定的な姿勢が窺われたりします。
江戸しぐさ 京都しぐさ(京都市)
マナーアップ推進事業(守谷市)
道徳の時間や総合的な学習の時間などの学習で「江戸しぐさ」を取り上げており、礼儀やおもてなしなどにかかわる学習において取り扱う上では、特に問題はないと考えています。(板橋区教育長)
 歴史的事実として教えるものではなく、礼儀やマナーを考えるきっかけになればと作成した(文科省)
ネットワーク上に蔓延るいい話についても、
話の「真偽」は、さほど重要では無い。大切なことは、この話から、なにを受け取るのかだ。
といった旨の意見を見聞します。

史実と確認されていない虚構を道徳学習に採用する...真偽は重要でない...手放しで首肯するには抵抗を覚えます。

この部分について思いを巡らせてみると、その行き着く先には権威主義による管理と被管理といった語が朧気に見えてしまいます。

虚構の物語中に描かれた虚像を道徳、倫理、礼儀といった教育に利用する...広義には人格形成にも影響を及ぼしかねないそういった領域に虚像を挿入していくということです。それは言い換えれば、虚像の摺り込みでもあり素直には受け入れ難いものを感じています。

例えば、
故人の意思→(真意の確認が困難)
専門家の意見→(十分な理解が困難)
民主主義社会におけるみんな(民意)→(実体が不明)
に類した、虚像の一人歩き、極端には暴走の懸念を払拭できない、ということかもしれません。教育でも政治でも、ある意図の下創りだされた、管理側にとって都合のいい虚像、これが知らぬ間に絶対視され周囲に奉られてしまう、その結果醸成される無思慮な”...でなければならない”空気には反感を抱きます。

上述の「一杯のかけそば」捏造騒動における非難には、欺かれたことに対する怒りと共に、そういった虚像に振り回されたことへの反発も含まれていたのではなかったかと。

しかしながらその一方で、先述の著名な作家による小説に対しては、やはり虚構に対する抵抗は大きくないというか、むしろ虚構であるがゆえに受け入れられているとさえ、見受けられます。

そういった作品は、事実を作者の意図で脚色、歪曲した虚構ではなく、作者の意図を伝えるための創作に事実を織り交ぜている、というのがその理由でしょうか。判り難い話です。

文芸について思う処と共に、いずれ機会があれば記してみます。

2015年9月21日月曜日

机上

以前、目にした隣国の国会ハプニング映像とだぶって見えました。安保法案可決時の参院平和安全法制特別委員会です。
参院平和安全法制特別委員会
小学校の学級会だって...これが国権の最高機関で良識の府と称される場なのか。で、ダイビング、専守防衛(?)の拳、セクハラ、羽交い締めといった事態が勃発しているわけです。
なんという皮肉……民主党議員の「暴力行為」が、集団的自衛権の必要性を証明してしまった!
民主主義が体現された形の一つと捉えるには余りに躊躇します。この生産性の低さはもう少しなんとかならないのでしょうか。

先日から国勢調査が始まりましたが、今回からネット経由での回答が可能になりました。国会の質疑応答もですね、いっそネットの掲示板を活用したらどうかと思ったわけです。
物理的な議事進行妨害の排除
審議日程目一杯で昼夜兼行、不眠不休の討論
不規則発言などと称される野次の排除
多対多の質疑応答が可能
発言者自らが文字起こしすることによる失言の低減
一字一句、句読点に至るまで衆目に晒されることによる、議論の噛みあわなさ、論点のすり替えの可視化
等が期待できるのではないかと。野次や物理的妨害に端を発する審議停止のような無駄を排除できるということです。実現に向けての障害は問題は質疑応答の関係者全員に不利益をもたらす恐れがあるといったところでしょうか。

客観的な視座や議論の生産性についての認識が求められますから、自らの責務に対する自覚を欠いたままではなかなか難しい話なのかもしれません。

ところで、上述の根本は無駄を排して効率を上げる、といった話です。ただ、一方で、果たしてそこに全く公明な理があるんだろうか、そういった疑いを払拭しきれないでいます。

いずれ機会があれば記します。

2015年9月13日日曜日

希臘(2)

前のエントリで記した、ある意味粉飾された潜在的為替レート、これは通貨統合を優先すれば避け得なかったのかもしれません。しかしながら、見方を変えれば、結果としてEU内に為替を利用した新たな搾取、被搾取構造を生み出してしまった、とも受け止められます。

勿論、ギリシャの公務員比率、年金、産業といった構造的問題に起因する国家としての生産性に問題はない、とするつもりはありませんが...
”皆仲良く手を取り合って”
叙情的に表現すれば、現代西側社会に根ざしたそういった欺瞞が吹き出したかに見てとれます。

身近な例を挙げてみますと、

今日、幼稚園、小学校の運動会で催される徒競走では、みんな一緒にゴールして順位をつけない、といった話を伝え聞くことがあります。どの程度一般的な話かは存じません。

更に加えれば、初等教育課程における、習熟度に依らない画一的な教育プログラムも同根です。

伸びるべきを伸ばし、不足分は補っていく、そこに恣意的に下駄を履かせたり、ハンデをつけて横並びに扱っても、内部応力が増大するばかりでは、と思うわけです。増大した応力は遂には枠組みの歪、綻び、破綻へと繋がってしまいます。
 
やはりですね、

”魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える”
”魚のもらい方ではなく、獲り方を考える”

ことこそが真っ当な取り組み方じゃないでしょうか。

ちなみに、ここの所、某為替操作国も景気というか株価対策の目的で頻繁に為替レートを弄っていますが、自国内には結構応力が溜まっているなぁ、とみています。その綻びが発端となって世界が振舞わされるのもなんだかなぁ、といった思いです。

2015年7月4日土曜日

相殺

自宅から徒歩二、三分の所です。幹線道路の信号付近で愛知県警守山署が頻繁に取締りを実施しています。

古くからの街道でそれ程速度を出せる道路ではありません。シートベルトの未装着や運転中の携帯電話の使用が取締りの対象のようで、結構な人数の運転者が違反切符を切られている模様です。

その付近一帯には、何とも言えない、やってしまった感が立ち込めています。自宅まで押し寄せてきそうです。一回の取締時間はそれほど長時間ではありませんが、多い時には週に二度ほど実施されています。絶好の漁場なんでしょうか。

で、果たして警察には業務の生産性という概念があるのだろうかと、疑問が生じました。生産性の高い警察業務と、例えば上記取締において、少数、短時間で多くの違反切符を交付することが符合しないのは明白であり、疑問の余地はありません。

それはノルマの遂行だったり、点数稼ぎに過ぎません。シートベルトの未装着は事故が起こってから重大な被害へと繋がり得る違反ですが自己責任の部分もかなりあるでしょう。運転中の携帯電話の使用も重大事故を引き起こさない、とするつもりはありません。

しかしながら、飲酒、或いは酒気帯び運転、速度超過、一時停止違反、信号無視となると話は違います。自損事故に留まらず、重大な対人、対物事故の原因となる恐れは、シートベルト未装着や携帯電話使用の比ではないはずです。

そういった、より危険性の高い違反を、例え件数が少なくとも、取り締まることこそが生産性の高い交通業務ではないかと思うわけです。

ヒト、モノ、時間を使ってシートベルト未装着や携帯電話使用の切符を交付してどうする?他に取り締るべき違反があるんじゃないだろうか、ということです。

信号無視や一時停止違反には始終遭遇しています。2014年時点、愛知県は交通事故死者数12年連続ワースト1位のようですが、その主原因がシートベルト未装着や携帯電話使用にあるとは考えられません。

まぁ、飲酒、或いは酒気帯び運転を検問で取り締るより、シートベルト未装着等で違反切符を交付する方が着実に数字を稼げる、ということかもしれません。大体、飲酒、或いは酒気帯び運転の検問は夜間実施することになります。帰宅が遅くなってしまいますしね。

では、一時停止違反はどうでしょうか。見通しの良くない交差点で車対車の事故のみならず、人身事故も頻発しています。まぁ、速度を落としてはいますから重大事故に至ることは少ないかもしれませんが...

しばしば通りがかる交差点で、一時停止違反の取締を見かけたことがあります。二名の警官が乗車したパトカーが、交差点で一時停止違反を目立たない位置から監視していました。

どの程度の時間監視を続ける のかは存じませんが、一箇所の交差点当たりパトカー一台に警官二名...生産性が低いなぁ、と思った次第です。

かつてに較べ圧倒的低コストで長時間、高精細の画像記録が可能な今日、少人数による同時多点取締ができないものなんでしょうか。

例えば、スーパー、コンビニ、銀行といった不特定多数の人間が出入りする場所では、防犯カメラによる来客の行動記録はもはや当たり前に行われています。賛否があろうことは承知していますが、トラブルによる被害の最小化が目的であり、やむを得ない対応かと受け止めています。

そういった環境を鑑みれば、いわゆる事故多発地点での事故を抑止する方策として、ネットワークカメラによるリモート監視がもう少し活用されてもいいのでは、と思っています。

複数地点を同時に一人で監視可能な上、記録も行われるわけですから、取締りの生産性が著しく向上するんじゃないかと。

では、一時停止違反に起因する事故の効率的な低減に有用とみられる、交差点でのリモート監視がなぜ進まないのでしょうか。それはやはり監視者に対する根強い不信感に依拠する部分が大きいためではないかと、憶測しているところです。

タイムリーな話題は、俳優 萩原流行氏のバイク事故でしょうか。真偽は存じませんが...
ようやく非を認める…萩原流行さん死亡事故は全容解明に向かうことができるのか?
こんなおまけつきです。
実際、『直撃LIVE グッディ!』(フジテレビ系)は、1日の会見を番組冒頭から「注目の会見が始まります」「生中継でお届けします」と煽りながら、内容が警察批判であることがわかると、短時間で打ち切り。番組の最後の方で簡単に内容をまとめるだけに終わった。
他には、
富山事件
 志布志事件
 足利事件
 袴田事件
大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件
などが記憶に新しい事件かと。

守山署に限れば、
証拠品投棄容疑で警部補を書類送検
巡査部長が証拠品など自宅に持ち帰る
調書改ざん、破棄容疑
副署長や地域課長が酒気帯び運転で処分
といった事案が検索されるわけです。これじゃぁなぁ...リモート監視以前に上記を何とかしたほうが生産的かもしれません。

先のエントリのコメントで、
改憲はすべきだが、”あんな連中にはしてほしくないなぁ”、というのが素直な印象です。
と記しているのですが、似たものを感じています。

ところで、テレビの番組改編期に各放送局で一度は”警察24時”のような特番が放送されます。警官個々人に焦点を当て職務の崇高さ、正義感、真摯さを伝えようという意図なんでしょう。

当然ですが、直近で不祥事を起こした部署は取り上げられないわけです。で、なんとなくなんですが、警察の不祥事発覚が多ければ多いほど該特番の本数が増えているように感じています。広報の一部として、相殺というか、不祥事以上に特番を流すことで覆う意図でもあるんでしょうか。気のせいかもしれません。

又、冒頭の取締りも署内の不祥事が発覚後、比較的直ぐに実施されているような印象を持っています。市民の批判を封じ込める、或いは、上記番組のケースと同様な意図があるとするならば、強い反発を禁じ得ません。専横です。勘ぐり過ぎとは思いますが...


下の画像は街中を走行中のワンカットです。数台の自転車が車道を逆走しています。小学生でしょう。危ねえなぁ、近寄りたくねえなぁ、と思うわけです。



冒頭の取締り時も、両耳にイヤフォンを装着してたり、スマホを弄りながら歩道を逆走する自転車を目撃しています。歩道の逆走、傘さし走行は年少者、高齢者問わず見かけますが、自転車は注意されることなく取締り現場をスルーして行きました。
ケースバイケースとなる裁量部分も含め、自転車の運転者に誰がルールを教えるのか?どうやって遵守させるのか?
自動車運転中の携帯電話の使用やシートベルト未装着を取り締るより、こっちの方が喫緊の為すべき責務じゃないでしょうか。

2015年6月7日日曜日

漫画(3)

前のエントリに続けます。

類似した話は枚挙に暇がありません。折よく、
[江川達也]<漫画「日露戦争物語」の真相 (2)>明治元年・松山生まれの秋山真之が主人公では「日露戦争」は描けない
[江川達也]<漫画「日露戦争物語」の真相 (3)>司馬遼太郎財団からきた苦情が漫画の方針を変節させた
といったエントリがありました。同じく漫画の例です。 「日露戦争物語」....面白くありませんでした。知らず知らずの内に連載中止になったか、雑誌の購読を止めたかです。とにかく、連載の途中から読み飛ばしていましたから。

それはさておき、少年誌、特に該漫画を掲載した雑誌では、
 因果関係を語る歴史漫画を日本の漫画読者が求めていないのでそういう漫画は描かれず、勝利や友情や戦争の高揚感勝利感という下らない(史実分析にとって)快楽を描いた歴史漫画が描かれるという現実は続くのである。
当時、連載されていた作品がどの程度事実に基づき、客観性があったか否かは存じません。ただ、友情・努力・勝利といった人気を博すための処方箋があったわけです。

連載中、作者、或いは編集者が、史実を利用した友情・努力・勝利といった価値観の、読者への植え付けを意図していたとみています。該目的に対し、場合によっては史実のデフォルメすら当然あったかと...ある時点で作品は処方箋から逸脱し始めたようですが。

加えて、ネットワーク内を賑わせる、虚構の”いい話”、”感動する話”についても、
Facebookはバカばかり
やっぱりFacebookはアホばかり
といったエントリがあり、こちらは、
またきたコレ・・・いくらでも作れる「いい話」。もう回すなって!!お願い
によれば、 
デマのいい話の作り方のポイント
1 差別意識がけしからんというオチを用意する
2 スタッフが最初に差別者の味方をするように見える
3 ところが・・ということで落とす。
といった処方箋に基づく話です。

少し話が逸れますが、こういった虚構の”いい話”、”感動する話”に対し、

”つくり話でもいい(感動できれば)”
といった 声があるようで驚いています。事実だからこそ感動できるのでは、と考えますから。感動に伴う脳内物質でも欲しているのでしょうか。

まぁ、”この話は架空ですが...”と始まる”いい話”と、”いい話”の後で”この話は架空です。”と明らかにされる場合で、同じように感動できる方なら話は別です。

かつて、実話という触れ込みで日本中で話題となった、
”一杯のかけそば”(栗良平)
という童話がありました。この話は後に虚構であることが判明し、作者の不祥事も相俟ってブームは収束しました。

インターネットが未だ黎明期の頃の話です。”つくり話でもいい”とされている方々が、背景とその後の経緯を踏まえた上で、”一杯のかけそば”を読んで感動できるのか、 興味のある処です。

又、こういった話になると、
”いやなら読まなければいい”
という声が湧き上がってくることも想定できます。ブログに寄せられた心ないコメントに対する応えとしてしばしば目にします。

これについて言及するのは別の機会に譲りますが、この考えに与するつもりはありません。



話を戻します。

科学的事実、史実といった客観性の強い情報を場合によっては都合良く編集加工して利用する。
料理の美味しさに代表される、客観的評価が難しく主観に頼らざるを得ない指標については、権威を擁立し、その声の大きさに基づく価値体系(序列化するための座標軸)を構築する。
こういった手法を駆使した印象操作がされ得ることに危うさを抱いています。漫画の場合については、実は作者や編集者すら意識していない、無作為の摺り込みも起きているのではないかと思っています。好評を得るための処方箋が結果として特定意図への誘導に結びついてしまうということです。

例えば、前出の”インベスターZ”では、学生が大学卒業後、成功の姿、目指す方向として起業や投資の成功が示されており、企業など組織に属して禄を食む姿勢は否定的に描かれています。

で、独善的な価値観の当て嵌めかと、素直に首肯できず違和感を抱くわけです。市場原理主義の正当性を絶対とし、これを前提に、自らの能力や可能性を経済的価値に置き換え、その極大化を図るべき、ということなんでしょう。

市場原理主義や自己の換金極大化の正当性について描かれないまま、二者択一の形で選択を迫るのも如何なものかということです。

利益至上主義というか拝金主義のみを行動原理として認めていて、他の選択を排除しているかに見受けられます。

知的探求心や社会貢献を行動原理の主軸とする考え方も決して否定されるべきではないはずです。ウィリアム・ショックレーとゴードン・ムーア、リーナス・トーバルズとビル・ゲイツ及びスティーブ・ジョブズは同列に称賛されて当然です。素粒子物理学の小柴、小林、益川、といった方々は起業とは無縁です。

また、例えば宇宙や海洋資源開発、国産旅客機や核融合炉の実用化といった巨大なプロジェクトには組織に属さない限り携われません。

そういった自らの能力や可能性を経済的収支のみで片付けることができない、市場原理の枠内に留まらない部分を蔑ろにすべきではないと考えます。二項対立的な表現ではこの部分は埋没してしまいます。


斯様な価値観の当て嵌めは漫画に限られた話ではなく、ネットワークメディア、新聞、雑誌、文芸作品、テレビ、ラジオ等、媒体に依らず通底したものであることは承知しています。

本質的には、
操作-被操作の戦場としてのインターネット、コミュニケーション
で記されているように、
コミュニケーションの対象が自分にとって都合が良い行動をとってくれるよう、モチベーションや欲求を修正しようとする不断の試みが含まれている。
ことには相違ありません。

ただ、漫画には特有の、より強い影響を懸念しています。それ以前に元々、漫画の公正中立は望むべくもないことは明らかなんですが...建前であったとしても社会の木鐸、公正中立を標榜する新聞、テレビですらあの有様です。

漫画はその内容の客観性や信頼性、事実性に疑義が生じるのは当然です。漫画ですから。

新聞は世論の形成、印象操作を目的とした場合であっても、おそらく事実の編集までに留まっているかと。誤報や捏造報道に対しては厳しい目が向けられ撤回や謝罪を求められます。最近では朝日新聞による従軍慰安婦報道の撤回、謝罪が記憶に新しい例でしょうか。遅きに失していたわけですが...

一方、漫画は、人気獲得(=売上増加)が主たる目的でしょうが、例え事実の歪曲があったとしても容認されるのが、社会の大方の共通認識ではないでしょうか。で、創作物と言う理由が虚構、虚偽に対する抵抗を緩和し、批判や反発を起こり難くしています。

元々、客観性や真実性が求められているわけでもなく、あたかも事実であるかの如く虚構を流布したからといって、咎められることはありません。例外は性的な表現、モデルとなった当事者からの名誉毀損による訴訟程度でしょうか。
雑誌編集倫理綱領
といったガイドラインはあるようですが、とても遵守されているとは思えません。審査機能もないようです。最初の項に”言論・報道の自由”が掲げられていますから、続く”人権と名誉の尊重”、”法の尊重”、”社会風俗”、”品位”は体裁を整えるための項目に過ぎないのかもしれません。

唯一と言っていい掲載基準は人気です。人気を一定程度獲得した漫画でありさえすれば、物議を醸す内容であっても”言論・報道の自由”に守らせることができてしまいます。

勿論、”人気”が重視されるべき指標の一つであることは否定しません。前のエントリでも触れましたが、漫画は理解させることに力点を置いています。理解されなければ支持されないのは当然ですから。そのために、表現力、描写力、話の筋立てを工夫して読者に現実感を抱かると共に、優しく向き合うわけです。

読者側も好んで漫画を読むわけですから、理解しよう受け入れようといった姿勢で互いに向き合います。その距離感は読者-新聞間の場合より近いのではないでしょうか。で、この漫画に対する読者の親近感が、共感や思い入れを生み出す根源ではないかと思っています。

こういった読者と漫画の関係がある下で、作者、或いは編集者が特定の意図を刷り込む目的で漫画を利用すれば、それは極めて効果的なツールになり得ます。

漫画は作者の主観、価値観を読者に伝えるメディアですから、例え上記意図の刷り込みを意識していたか否かに拘らず同じ結果に向かうことになりますが。

政治的、社会的な関心事について、予備知識なくそういった問題に関する漫画を目にした時、その内容、主張が正当なものとして予断を抱かせることにならないか、そういった恐れを危惧した次第です。

登場人物の台詞に意図が忍ばされ、あくまで作品の世界観において論理的、尤もらしい事実として読者に固定観念が植え付けられてしまうのも好ましいことではありません。

”美味しんぼ”の原発事故に関する描写や”はだしのゲン”はその典型です。かつてより政治的、社会的問題を題材とした漫画が増加していると感じる現在、思想的落とし穴に陥る危険性も高まっているのではないでしょうか。

難しい話で、相反する部分があるのも確かですが、思想信条、表現、言論の自由が侵されるべきではないことは承知しています。

ただ、それを嵩に野放図に漫画をツールとした印象操作、誘導、思想教育が蔓延ることには強い反発を覚えます。表現の自由を理由にそういった部分の考察、議論が封印されているのではないか、時折物議が醸されるものの沈静化してそれまで、といった場合が多いように見受けられます。

頸木なく創作の自由を謳歌してきた作者や編集者には不都合かもしれませんが、表現の自由に対する盲目的な信奉について議論の深化を望みます。

2015年5月26日火曜日

阿吽

強い不快感を禁じえません。

そういった言動が発達障害と診断されるなら私は思いっきり該当します。
どう向き合う? 夫の発達障害
上記NHKのリンクには放送された事例が全て上げられていませんでした。他サイトに示されていた事例も併せて示し、反論します。

1.ストレートな言動

回りくどくオブラートに包むより、率直に指摘した方が、問題を的確に捉え解決を図るには適切です。


2.変化が苦手

文房具でも食品でも、これまであった場所にないとイラッとするのは確かです。探す手間が生じますから。保管場所定まっている方が使う場合に効率的です。何らかの理由によってその場所に落ち着いたと捉えていますから、理由なく保管場所を変えたり、使用後元の場所に戻せない方が問題です。使用したい他者に対する配慮が足りないかと。

3.気持ちを察することが苦手

たとえば、妻が熱を出して辛い状態にあり、妻は夫に気がついて欲しくてマスクをして咳をしながらお皿洗いをしたとします。発達障害の人は、妻が皿洗いをしているのであれば、大丈夫だと判断をして代わりに手伝うということをしません。
発熱があることを察しろと?辛そうだが、洗い物ができる程度なのか、という判断は誤りなんでしょうか。問題は様子を覗えない、覗わないことではなく、
”風邪で辛いから洗い物を代わって”
と口にしない、できないことです。

4.一つの物事に集中しだすと他のことに目もくれず、時間を忘れてやり続ける

否定的に扱っていますが、科学者や技術者といったいわゆる理系の人間だけでなく、研究者を否定しているんでしょうか?


5.自分の決めた手順に強いこだわりがあり、例外は認めない

自分の決めた手順とは、正誤はともかく、より良いものにしよう、生産性を向上させようという姿勢が根本にあるわけです。一般常識、通常の手順、合理的理由に自分なりの考えを加えて手順を決めていると推測します。

例えば料理において、野菜の切り方は火の通りやすさだったり、調味料の順番は味の滲み込みやすさといった理由があるかと。茶碗の位置や魚の向きは常識というか通例の話です。

そういった部分も含めた自分の決めた手順を、意味なく逸脱されたら、自らの考えを蔑ろにされているような印象を抱くのは私だけでしょうか。誤りがあったり、より良くなるといった理由があれば差し障りはないと思います。

”なんとなく”、”理由なく”という部分が不快感を与えているかと。

6.正確な表現への強いこだわり

ありとあらゆるものに対してではありませんが、もちろん拘ります。

番組中、そこそこの量の肉に対して”すごい”という表現が”2kg”と発達障害とみなされた夫に改められていました。おかしいのでしょうか?”すごい”という抽象的な表現より量に対する認識を共有できると思いますが。直感的に”すごい量だな”と思えば、袋に貼付てあるラベル記載の内容量を見たり、更に興味を持てば量ってみるのも自然な行為ではないでしょうか。

全てに当て嵌めたら疲れてしまうのは承知しています。

上記のように、コミュニケーションにおいて自らの意思をできるだけ正確に伝え、意図を正しく理解してもらおうと考えれば、認識を共有している語を使おうとするのは当然です。

”すごい”、”多い”、”少ない”と、”美しい”、”かわいい”、”醜い”、上述の方は前者の語については数値化して訂正されるかもしれませんが、後者について指摘されることはないと思います。興味深い点ではありますが...

普段料理に携わらない誰かにお使いを頼んだとします。
”野菜炒め作るから豚コマ買ってきて。”
”鳥の唐揚げ作るからモモ肉適当に買ってきて。”
”ローストビーフ作るから牛ロース4人分。塊で。”
不親切だなぁと思うわけです。実際に店頭で注文する、当事者意識に欠けているなぁと。頼む側は心得ているのかもしれませんが、相手の立場を慮れば正確に指示すべきでしょう。

己の意思を相手に正確に伝えるため、相手の立場に立って、客観的に、若しくは複数の同義語で表現することは、決して批判されるような姿勢ではないと考えます。

そもそも、時間、長さ、重さ、個数といった共有し得る尺度なしでは、研究、開発、設計、製造、施工といった文明社会に必須の作業に支障を来たします。


”共感性の欠如”が発達障害の一つであるASD(アスペルガー)の特徴だそうです。

かつて、文楽協会への補助金凍結の賛否を巡って、大阪市の橋下市長と作家の瀬戸内寂聴氏の間でやりとりがありました。その中で、瀬戸内氏の、
橋下さんは一度だけ文楽を見てつまらないと言ったそうですが、何度も見たらいい。それでも分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから
といった発言に、決して橋下擁護ではなく素直に、傲慢さというか選民意識を感じ強い反発を覚えました。
”わからない奴は黙ってろ!”
ということかと。

見て直感的に分からないからこそ、理解しようと言葉による詳しい説明を求めるわけです。

上記”共感性の欠如”は確かにASDの特徴かもしれません。しかしながら、これを発達障害とみなして、分からないことを理解しようとする姿勢が否定的に扱われてしまわないかと強い懸念を抱いています。極端に言えば、封殺に利用されかねないということです。考え過ぎでしょうか。

ところで、発達障がいや発達障碍ではなく、発達障害との表現に何か理由があるのでしょうか。文字の選択以前にもう少し別の表現があるのでは、とも思いますが...

参考リンク


  1. 夫の発達障害|あさイチ
  2. NHKあさイチで「夫の発達障害」特集 妻が孤独を抱えて、うつ病を発症し…
  3. NHK「あさイチ」発達障害の夫に悩む妻が増大

2015年5月23日土曜日

想定

ドローンの自律機能に習って、もう少し自律できないものかと思います。

ドローンに纏わる報道が世間を賑わしています。その中で、
三社祭でドローン予告、15歳逮捕 威力業務妨害の疑い
少年は今月1日に京都市の東本願寺付近、3日に兵庫県姫路市の姫路城付近でドローンを飛ばし、「人混みで落下すると危ない」と警察から注意され、9日には長野市の善光寺で、法要行列の間に落下したドローンを操縦していたとして長野県警に指導されていた。また、国会近くなどで再三ドローンを飛ばそうとする様子をインターネットで配信。警視庁が少年を保護し、注意していた。
が耳目を集め、更に、
ドローン:善光寺や姫路城…15歳少年、支援金で賄う?
ドローン逮捕少年を「支援」 25万円提供の男性が出頭
 といった話に発展しています。少年の動画配信を促し、経済的支援をする人物がいたと。

リテラシー、倫理、道徳、未成年、情報技術、過信、立法化、不当逮捕、教育、規制と緩和、バカの可視化、煽動、メディア、無人、及び自動操縦技術といった様々なキーワードが連想されました。思ったところを記してみます。



まず、”少年”、”未成年”といった部分は切り離しても構わないと考えます。メディアが衆目を集める枕詞かと...バカはどこにでも、あらゆる年齢層にいるわけで、本件が偶々少年によって引き起こされたに過ぎない、ということです。

これまでもツイッターに代表されるSNSでバカが可視化されてきました。少年でなくても、
USJで迷惑行為を繰り返した大学生ってどんな人?
といった事例もあります。最近では、自称ネットアイドルが、都内の交番で踊ったり、 20代の男が金銭を請う物ごい行為の動画が投稿されたりしています。

この可視化は情報技術の発達に依るものですが、生産や、制御技術の普及、パーソナル化に伴って、バカがネットワーク内に収まりきらず、現実社会に漏れ出つつあるというわけです。
3Dプリンター銃製造事件
を鑑みれば、本件に未成年であることによる特異性は見出せません。

こういった騒動を引き起こす共通した原動力は自己顕示欲、承認欲求から発せられている、といった推測には概ね異論はありません。そういった力を抑制、制御できない思慮分別の無さは未成年であるが故ではない、ということです。

保護者の監護下にあって、それまで僅かな失敗経験しか持ち合わせていない年少者の場合、自らの行為の及ぼす結果を想定する力が不十分かもしれません。その結果、衝動に対し弱い抑制力しか働かず、バカが可視化されがちになる、ということも考えられますが、本質的には想定力の程度に依るのではないでしょうか。この力は必ずしも年齢のみに相関するものではないとみています。



本件で、少年であるが故という部分があるとするならば、それは自らの置かれた状況から来る疎外感ではないだろうか、と想像します。

家庭、学校、地域、社会といった集団の中で、ヒトは成長とともに徐々に馴染んでいくだろうと...言い換えれば、コミュニケーションを通じて相互に折り合い、迎合し合う能力を身に着けていくだろうということです。

穿った見方と承知していますが、
何らかの原因で集団に溶け込めず、退学と不登校、家庭内に引きこもる。
で、家族からも疎外感を抱き、自分の身の置き場を確保しようと自立を図る。
とは言っても、職業経験のない少年が糧を得る手段などそうそうなく、動画投稿による収入程度しか思いつかなかった。
動画投稿という手段の選択も、それで糧が得られるという発想も安易というか浅知恵ですが、頼らざるを得なかったのでしょう。自分のアイディアを動画にして投稿すれば稼げる、稼がなければならないと...

リアルな社会で、集団におもねらず、馴染めなかった少年は、バーチャルな空間を通じたネットワークの向こう側にいる支援者に媚を売り、且つ煽られて行動がエスカレートしていったのではないでしょうか。

この歯止めの効かない仕組には悲壮感にも似た印象を抱かせます。

 こういった事態を招かない、或いは、回避するための方策について、様々な方々が各々の立場から提案されています。

ドローン操縦の免許制、購入時の登録制導入だったり飛行区域についての規制等、ドローンに関する規制に加え、

ドローン絡みで世の中がゴタゴタしているようです
ネット事業者は未成年の将来を台無しにしていることを自覚した方がいい
動画共有サイトを通じて支援者となった大人(囲い)の対応を問うたり、未成年による該サイトの利用に対する機能制限を求めたりされています。

”総合的な学習の時間”での情報リテラシー教育、道徳教育、キャリヤ教育に結びつけた話に広がっていたりもしているようです。


ドローン少年事件から、既存のキャリア教育が危ういと感じた件
では、これらの提案を実現することはできるのか、或いは実行されていたならば、本事態は回避し得たのでしょうか。同じ愚が繰り返されないための方策という点からも、効果を考えてみると、なかなか難しいのではないだろうか、というのが率直な印象です。

件の少年は難関中学に入学後不登校になっています。その後地元公立中学に転校、卒業しています。仮に学校にリテラシ教育に関する適切なカリキュラムが用意してあったとしても身についていたとは思えません。

勿論、道徳教育も含めて用意されているカリキュラムが適切とも思っていませんが...

支援者となった大人(囲い)の対応に期待するのも、風俗店で来店客が風俗嬢に注意、忠告するようなもので効果は期待できないとみています。

未成年に対する動画共有サイトの機能制限は確かに効果的かもしれません。収入の道を閉ざすわけですから。ただ、コンプガチャを規制する以上に法的根拠に乏しいような気がします。ユーザー間の投げ銭行為を規制できるのでしょうか。

更に、ドローンの飛行規制と併せて対症療法のように思えます。本件と同じ場合なら即効性はあるかもしれませんが、
IT絡みでバカが何かしでかして騒動を起こす
ことに対する根治には繋がらないということです。

以前のエントリで
”乙武洋匡氏の入店拒否騒動”や”SNSによるバカの可視化”について触れていますが、本件にも共通したもの感じています。それは、
リスクを想定する力の欠如
に他なりません。自らの行為が引き起こすかもしれない危険、事故、炎上、騒動といった負の事態を想定できないということです。

この想定力は本来ITとは無関係です。その一方で、SNSに代表されるITによって自らの行為に関する情報が瞬時、可逆的に拡散する現在、以前にも増してリスクを想定する力が不可欠になっていると考えます。

本ドローン騒動で言えば、事の善悪はともかく、墜落や傷害事故の可能性とその危険性を想定できれば、自重、若しくは操作の習熟も含めた周到な準備に思いが及ぶかと。

従来からある、ラジコンのヘリコプタや飛行機ををどこで飛ばすか、との問には落ちても危険のない処という答えは当然のように出てきます。ドローンは特別だったのでしょうか。

おそらくここに技術に対する過信があったのかもしれません。最新の技術が盛り込まれた、自律的な姿勢制御を行う飛行体...落ちるわけがない、落とすわけがないと...

思い込みが激しく、稼ぐ必要に追い込まれている15才の少年なら、物事を全ていいように解釈していても不思議ではありません。

世界に誇る技術力と自負し、日本の優秀な研究者、技術者を含む産官学が一体となって推進してきた、原子力発電ですら、安全神話に囚われ、絶対安全と思い込んだ結果があの有様ですから....
  • 信号無視
  • 指定場所における一時不停止
  • スマホを操作しながらの運転、
等は危険行為に該当することになります。こういった行為による交通事故が耐えないことが規制強化繋がったようです。これもリスクを想定しない、できない好例です。で、規制に頼らざるを得ないと...

斯様にリスクを完全に想定するということはなかなか難しいわけですが、私達の判断、考察、言動を決定する礎の一つです。であるが故に教育の分野でもう少し目が向けられてもいいのではないでしょうか。

電子教科書、IT、道徳、リテラシー、グローバル化等の流行りに乗じたカリキュラムを課す以前の話です。与えられた事実、条件、材料、状況といった既知の情報を基に、そこから何が有り得るか、起こり得るかを想定する力を涵養する、そういった教育こそが全てに先んじられるべきと考えます。

2015年5月17日日曜日

道理

なんとも辛く痛ましい事件です。
ビリギャル云々で騒ぐよりもう少し目を向けてもいいのでは、と思っています。まぁ、経済効果を鑑みれば、さもありなんということなんでしょうが...

現在、容疑者である学生の精神鑑定が進められているようですが、その結果如何によって責任能力有無の話になるのでしょう。

その部分については全くの門外漢であり何ら言及できません。しかしながら、被害者となった同級生に何ら落ち度のなかったことを鑑みれば、事前に何か術はなかったのだろうかという思いが過るわけです。

これが難問であり、不可能だったとされても首肯してしまう回答であるのは確かです。ただ、だからといって偶発的な事故として不可避だった、と結ぶことには強い違和感を抱きます。

たとえ、結果論であったとしても、どうすべきだったか、何ができたかの検証は、社会の責務とも考えます。道徳、倫理についての教育、環境で何とかなったのか、カウンセリング、治療でコントロールできたのか、或いは、ゼロではない確率で避け得ない理不尽な事故なのか、法の枠組みとは別の診断があってしかるべき、ということです。

福島の原発事故、JR福知山線脱線事故、数多の交通事故にしても、根底では相当程度でヒトに起因しているわけです。そういった事故と同様に本事件についても、ヒトの判断、意思決定に纏わる検証が進められることを願ってやみません。

少なくとも、国の定めた、教科化された道徳で何とかなるような話ではないような気がしますが...

普段にも増して、生産的なことが記せない、自身の腑甲斐なさを実感します。

2015年3月8日日曜日

根絶

川崎中学生殺害事件についての報道に触れると、
南幌町家族殺害事件
”永山則夫 封印された鑑定記録”(堀川 惠子 岩波書店 2013年)
を思い起さずにはいられません。 

加害者少年たちに事件の責任はないとするつもりは断じてありません。ただ、全面的、全ての責任、というか原因を少年たちに求めるのも違うだろうと思うわけです。

それは17、18才で未成年だからという意味ではありません。そういう行為に及んだ根幹に、自らの責に依らない部分があるのではないか、ということです。

”人は氏より育ち”
このことは全くもって正しいと信じています。ただそのような育て方(=生育環境)はどのように決定されてきたのでしょう。やはり、根本には自らが過ごしてきた環境で育まれてきた価値観、認識を基に、それを肯定し、類似した環境を用意してしまうということではないでしょうか。

確たる論拠、統計的な調査結果も持ちあわせていませんが...

同根に見える事件を時折見聞します。その環境が意図せずとも潜在的に代々連鎖しているとしたら...生物的な遺伝ではなく、親から子、そして孫へと受け継がれてしまう心理的な遺伝であるならば、抗えない無力感を抱いてしまいます。

子は親を選べませんが、その親もまた自身が育った環境を選んだわけではないのです。そういった印象が単に一人歩きしているに過ぎないことを願っています。
いずれにせよ、社会全体がもう少し賢くなるべきかと思うわけです。個性、個人の意思が尊重されなければならないのは理解していますが、継代してしまう生育環境の負の部分を社会全体で排除、緩和できないものかと。

初等教育課程において、道徳の教科化、評価の点数化が話題になっていますが、
――知らなかったから法的に問題はない――
とされる政治資金規正法、
この方の入院
は道徳的に何点になるのでしょうか。

社会が賢くなるのも難題です。