2015年5月17日日曜日

道理

なんとも辛く痛ましい事件です。
ビリギャル云々で騒ぐよりもう少し目を向けてもいいのでは、と思っています。まぁ、経済効果を鑑みれば、さもありなんということなんでしょうが...

現在、容疑者である学生の精神鑑定が進められているようですが、その結果如何によって責任能力有無の話になるのでしょう。

その部分については全くの門外漢であり何ら言及できません。しかしながら、被害者となった同級生に何ら落ち度のなかったことを鑑みれば、事前に何か術はなかったのだろうかという思いが過るわけです。

これが難問であり、不可能だったとされても首肯してしまう回答であるのは確かです。ただ、だからといって偶発的な事故として不可避だった、と結ぶことには強い違和感を抱きます。

たとえ、結果論であったとしても、どうすべきだったか、何ができたかの検証は、社会の責務とも考えます。道徳、倫理についての教育、環境で何とかなったのか、カウンセリング治療でコントロールできたのか、或いは、ゼロではない確率で避け得ない理不尽な事故なのか、法の枠組みとは別の診断があってしかるべき、ということです。

福島の原発事故、JR福知山線脱線事故、数多の交通事故にしても、根底では相当程度でヒトに起因しているわけです。そういった事故と同様に本事件についても、ヒトの判断、意思決定に纏わる検証が進められることを願ってやみません。

少なくとも、国の定めた、教科化された道徳で何とかなるような話ではないような気がしますが...

普段にも増して、生産的なことが記せない、自身の腑甲斐なさを実感します。

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