2019年2月24日日曜日

威光

今、何かと話題の厚労省 統計不正問題について少し記してみます。

国会ではこの統計不正問題に関し、”実は実質賃金の増減率がマイナスだったにも拘らず不適切な統計調査でこれをプラスに粉飾した”とか、そのことを指して”アベノミクス偽装”などと連日紛糾しています。

安部内閣 厚労省は、この統計調査を操作して、”実質賃金は増加→好況は依然持続→消費増税の環境は整った”という虚偽の流れを捏造したのではないか、そんな疑義まで生じているようです。

で、連日の報道を見聞していると、前の大戦において軍の存在意義を喧伝し、且つ国民の戦意高揚のために行われた、軍による虚偽の過大な戦果の公表、いわゆる大本営発表と相通ずるものの存在に気づきました。

該統計不正に関わった厚労省の担当者、責任者は、当該行為が不正であるとの意識が希薄だった、謬りと認識していなかったのではないか、と見立てています。従来の延長として恣意的に該行為を続け適法か否かを判断するにまで至っていなかったのでは、ということです。

通常、組織の活動は対外的に公開されている法令の範囲内にあるわけですが、これとは別に内規とか運用と称される非公開の枠組みが設けられてあることは珍しくありません。この組織内での活動の生産性を上げるための内規や運用は本来、法令の下になければならないはずです。しかしながら、組織の論理を優先するため、法令を逸脱して内規とか運用といった俺ルールを作って不正に及んだというのが実の処かと捉えています。

いわゆる感覚の麻痺の語に集約する話です。

ちなみに、一連の行為を擁護する意図は毛頭ありません

では、上記大本営発表はどうでしょうか。統計不正と同様に過大な戦果を捏造した大本営にも、それを伝えるメディアにも国民を欺いているという咎めの意識は勿論なかっただろうと。むしろ、国家、国民のため正しい行為に携わっている、という認識すらあったのでは、と思料しています。

ここで、これらの根底には”統計”や”皇軍”という権威が横臥していて、この権威により醸成された無謬の空気が、是正されない上記独善的行為に至らしめている、と推論してみます。

現象を数値で客観的に示す統計と階級組織である軍隊には、共に無謬であることが求められ、両者の存在はそれを前提としています。この延長が”自分達は無謬である”との過信、思い込みに繋がっていくであろうことは想像に難くありません。

無謬の空気が蔓延する組織内では、この思い込みが更に、”自分達に謬りなどあろうはずがなく、常に正しい”を経て、歯止めの効かない”自分達が採った行為、下した判断ならば常に正しい”へと掏り替えられていきます。

無謬性によって”自分達は正しい行動を採り、適切な判断を下さないはずがない”から、”自分の行動、判断ならば須く正しい”へと増長してしまうわけです。

この閉塞した状況に陥ってしまうと、もはや是正や訂正方針変更や撤退のための客観的、及び合理的判断はあり得ません。”常に正しい”が第一義的に揺らぐことなく固定化されてしまっていますから。常に前進あるのみです。

この前進を続けて結果が伴わない場合、努力不足ならまだしも気合とか根性といったメンタル部分の怪しい方向に踏み出す恐れもあります。特に、スポーツ関連分野で彼我の力の差を精神力で補うといった話は珍しくもなく、未だ広く深く根付いている見方です。

さて先日、この問題を取り上げたクローズアップ現代+で、歴代の担当課長の対応が報じられていました。
不正を始めた理由について、(中略)ところが課長には、重大な決裁だという覚えはなく、後任の課長にも引き継いでいなかったことが取材で分かりました。その後、5人目の課長までは不正を認識することがなかったといいます。
不正を認識すること何年も不適切な統計操作が続き、
調査が不自然なことに初めて気づいたのは、6人目の課長でした。この課長は専門知識を持っていたため、データを確認した結果、不正に気づいたのです。しかし、課長が行ったのは隠蔽とも取れる行動でした。毎月勤労統計のマニュアルから「抽出調査をしている」という内容を削除。
引くに引けなくなって、
続く7人目の課長が不正にどう対応したのか、その詳細も浮かび上がってきました。課長は、前任者からの引き継ぎで、統計の不正について知らされていました。そこで考えたのが、ルールを実態に合わせることでした。
ルールを変更して隠蔽を図ると。

正に、無謬の空気に囚われて生み出された、”前進あるのみ”です。

上述したように、該無謬の空気の根源には権威があってここに不正や過誤があると、是正されないまま謬った方向に国や社会が進んでしまうなぁと、改めて思った次第です。
歴史と統計にはウソがつきもの
何処かで耳にした文言です。

2019年2月23日土曜日

延焼

【わいせつ事件】大林組の社員が就活中の女子大生にわいせつ行為 宗村港容疑者を逮捕
あくまで個人の犯罪として黙殺するのか、或いは社員であり、勤務先の名を騙った事件であることから、なんらかのプレスリリースを行うのだろうか、関心を持って大林組のサイトを見てみました。
「時をつくる こころで創る」 大林組
で、最初に目に入るのは、
建設業法に基づく営業停止処分のお知らせ 
組織そのものが活動自粛中とのこと.... メディアへの広告出稿もままならず、社名の露出も抑えられないだろうなと。

人が組織を作るのか、組織が人を作るのか様々な意見がありますが、総じて後者だろうと。看板がなければ今回の事件もなかったわけですから。
早期の信頼回復に努めてまいりますので、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
そうですか。そうですか。 

2019年2月9日土曜日

良妻

勿論許諾を得ているのでしょうが、
中国版ドラえもんとかミッキーマウス
を見た際に近い印象です。
「日曜劇場『グッドワイフ』」
出演者を云々する以前に話の構成が雑だなぁと。日本版というより、米国で放送されたオリジナルの劣化版、陳腐版という評価です。日本版が余りにリアリティに欠けるためなのかもしれません。

一方、オリジナル版は米国の弁護士事務所が舞台であり、設定自体に元々実感を持てないため、現実/虚構の判断がし難いわけです。その距離の大きさがオリジナル版にある荒唐無稽な虚構に現実感を纏わせているに過ぎない、と指摘されれば否定できませんけど。

ただ、オリジナル版では、宗教と戒律、人種問題、LGBT、戦争、
他国との摩擦といった日本で扱うには際どいテーマが取り上げられていました。日本版からはそういったテーマを扱う度量というか、覚悟が感じられませんから、やはり現時点では劣化版という位置づけに留めておきます。

2019年2月4日月曜日

交代

Googleで、例えば飲食店名を検索すると右側に該飲食点についての情報が表示されることがあります。

地図、外観、営業時間、休業日といった店舗情報や品書き、提供される料理写真等ですが、これらは店舗関係者や訪問者、いわゆる来店客からの投稿情報です。ここには併せて”Googleのクチコミ(口コミ数)”というリンクもあり、やはり訪問者から投稿された口コミ情報を見ることができます。

飲食分野に限ればGoogle版食べログとも言え、食べログの機能が付加されたGoogleという表現ができます。当初は口コミ数はそれほど多くありませんでしたが、今では口コミ数100や200の飲食店も珍しくありません。

今後、食べログに取って代わる新たな鬱積した不満のはけ口となっていくのか動向を注視したい処です。少しづつですが、”大したことない”、”店員の態度が...”、”衛生的に疑問符がつく料理が提供された”等のネガティブな投稿も散見されるようになりました。

興味深いのは、食べログに比し投稿者名に[性+名]の組み合わせが多いことです。仮名、偽名か実名かは知りませんが、投稿サイトで実名を伏せた投稿の場合、[性+名]の仮名や偽名ではなく、いわゆるハンドルネームが使用されることが殆どです。投稿者が特定されないために[性+名]の仮名や偽名を使うことは通常少ない、ということを考慮すれば、[性+名]の投稿者名は実名の可能性が十分にある、と推測します。

で、この[性+名]の投稿者名で飲食店を批判、中傷するクチコミも容易に見つけられます。事実だから実名での投稿も恐れていない、本人特定されても構わない、或いはそこまで注意していないのか...

名誉毀損や営業妨害で提訴された時、訴訟に耐えられるだけの証拠まで持ちあわせての投稿とは思えません。まぁ、Google様の庇護がありますから、そこに至るまで店側に立ち塞がるハードルはかなり高いのでしょうけど。

ただ少なくとも、”店員に愛想がない”とか、”挨拶がない”、そういった投稿が削除されることなく閲覧可能のまま残り続けるようでは、公正性や客観性、信頼性に疑問符がつくプラットホームと受け止めざるを得ません。根源的には投稿者の資質であるのは承知していますが、それを放置しておくシステムというのも如何なものか、ということです。

飲食店に特化したレビューサイトである食べログでも同様です。一応食べログには口コミガイドラインが用意されているものの、どこまで遵守されているのか疑問符がつく投稿も少なくありません。

該ガイドラインには、確かに
お店で実際にお食事されたユーザーによる主観的な感想や評価をご提供いただいた写真等とともにインターネット上に公開することで、お店選びの参考となる信頼できるレストランガイドとして多くの皆様にご活用いただくことを目的としています。
と記されていて、投稿が主観的な感想や評価であることを明確に位置づけています。各々の口コミの前には逐一
この口コミは、○○さんが訪問した当時の主観的なご意見・ご感想です。
の文言が表示されます。但し、小さめの文字ですけど。そこからのリンク先店舗の口コミについてでも同様に
主観的な感想・意見である口コミ内容について「正誤の判断」を行っていないあくまでも一つの参考情報である
とあって至る所に予防線が張り巡らされているわけです。なんだか、テレビ通販の健康食品、サプリや保険商品のコマーシャルにも似た、 
”効果には個人差があります、個人の感想です。”
のような言い訳、逃げ口上を目立たないように小さな文字で、短時間表示しておく手法に共通した姿勢を感じます。

この主観的な...感想...といった文言は口コミ関連のリンクを移動する度にしつこく表示されます。それだけ念を押しているわけですが、
匿名の感想や評価と上記”信頼できるレストランガイド”は矛盾してないか? 
匿名の投稿を個人の主観、感想と位置付けることは、食べログの運営サイドが投稿内容に責任を持たないことの明言に等しく、それで信頼できるレストランガイドと宣えるのかと。

公正性を放棄した、言ったもの、宣言したもの勝ち状態で、”頼できるレストランガイド”の語が一人歩きしている

お手盛り 自画自賛 わけです。 

2019年2月2日土曜日

誤謬

一寸、書き留めておきます。

緑区の鰻屋でこれまでの認識を覆されました。これまでいくつかの鰻屋でうな丼(並)を食べてきました。例えば、この店だったり、大口町に本店がある有名店です。名古屋市内中心部の有名店では殆ど食べていませんが。

で、うな丼(並)を食べて、”鰻を食べた”という満足感はこれまで得られていませんでした。通常、(並)では三切れの鰻の蒲焼きをご飯の上に戴く態様です。どうしたって鰻で飯部分が覆われることはなく、食後感として物足りなさは否めませんでした。ちなみに、並で鰻一匹分が載っている瀬戸 田代や中詰めがある魚六は例外です。もはや(並)ではありませんから。

この物足りなさというのは、やはり(並)の鰻三切れで飯に対して鰻が少ないことに依るのだろう、と思い込んでいました。そういった先入観を抱きながらも冒頭の店でうな丼(並)を注文したわけです。

しばらくして提供されたうな丼(並)はうな丼と吸物、漬物といった構成でした。丼の蓋を取ってみると、確かに鰻は三切れでした。その鰻の載った御飯に満遍なく、均一にタレがまぶされていることに気がつきました。鰻釜飯のようにここまでタレで一色に染まった御飯はうな丼では初めてです。おそらく、白飯を丼によそってタレをさっとかけるのではなく、予めタレをまぶして混ぜ込んだ御飯をよそったものと思われます。好みでしょうが、白飯にさっとというか雑にタレをかけておいて、
”テーブルの醤油さしにタレがありますから後はご自由に。”
という対応より丁寧さを感じました。

肝心の鰻は三切れですが肉厚、大ぶりでした。他店では尾寄りの細めが入っていたりもするのですが、肉厚の、頭側からの大きめ三切れですから存在感がありました。該鰻屋は丼だけでなく鰻を刻んで御飯に混ぜ込んだ料理も品書きにありましたから、丼には肉厚な部位を載せているのかもしれません。


特筆すべきはこの三切れの焼き上がりの状態というか食感です。表面はパリッと香ばしく、噛めば中はフワトロというよりトロトロでした。表面と中がここまで対照的な鰻はちょっと記憶にありません。三切れであっても鰻の味の濃厚な主張、しっかりした存在感を楽しめました。

丼を置く間もなく一気に、とまでではないにしても、丼を持ち続けて鰻と共に飯を頬張り、或いは掻き込む間、何ら物足りなさを感じませんでした。食後、”鰻を食べた”という満足感は確かにありました。

つまり、鰻三切れのうな丼(並)だからといって”鰻を食べた”満足感が得られないわけではない、という事実に直面した次第です。
”(並)だから物足りなさが残ってもしょうがないか。やはり、(上)か(特上)でなきゃ。”
これは固定観念に囚われていたに過ぎませんでした。

このことは店側にも該当し、”(並)だからそんな程度。しょうがない。”といった姿勢で胡座をかいているのではないか、と言うこともできます。貧相な鰻三切れを飯に載せて、
”うな丼(並)でございます。物足りないのは(並)だからでございます”
といった姿勢は当該店の力量不足の表れに他ならない、と明言致します。

尚、件の鰻屋ではうな丼(並)の注文でも吸物は肝吸いであったことを付け加えておきます。

流伝

現在絶賛放送中のNHK 朝ドラ”まんぷく”について少し記します。

ザクッといえば日清食品 創業者の安藤百福氏をモデルに、お湯をかければ出来上がるチキンラーメンが開発に至るまでのドラマです。

このチキンラーメンの成功により日清食品の今があるのは間違いありません。ドラマは2/1(土)時点では、麺の加工で難航しています。味をつけ製麺された生麺を、どのように加工してお湯を加えただけで食べられる状態するか、問題となっているわけです。

次週で天ぷらをヒントに生麺を加熱調理、脱水して製品化に至る、そういった流れでしょうか。これら一連の流れは、かつて、日経 私の履歴書で読んだ覚えがありますし、それ以前に”インスタントラーメン開発秘話”として何かの漫画で知ったような...定かではありません。

で、ここで指摘しておきたいのは、安藤氏は実は出生が台湾の台湾人であって、果たして天ぷらからチキンラーメンの加工方法を着想したという部分の真偽です。

勿論、天ぷらがその一助であった可能性はありますが、台湾には既に麺を油で揚げた即席麺があったようです。
安藤が「発明」としている麺を油で揚げて調味料をまぶし、お湯をかけて食べる調理法については、安藤の出身である台湾南部において、戦前から「雞絲麵」(ジースーミエン)「意麺」(イーミエン)などと呼ばれる油揚げの即席麺が広く存在していたからだ。
こちらが事実であるならば、氏が台湾人であること、古くから台湾にある食品を応用してチキンラーメンの開発に至ったことを隠蔽した理由はなにか、という話になってしまいます。

おそらく、なにか事情があってのことでその事自体を云々する意図は毛頭ありません。

しかしながら、創作が既成事実化し、真実であるかの如く一人歩きしてしまうこと、その手法には強く異を唱えます。制作側が恰も事実であったかのように視聴者を引き込みたい意図は解らないでもありません。ただ視聴者の多くが虚構が事実であると意識下に刷り込まれてしまうわけで、問題なしと受け止めるには大きな抵抗を覚えます。

こういった事例は枚挙に暇がなく、NHKであれば大河ドラマも該当しますし、先日来論争になっている、”日本国紀”を巡る信憑性の話も同根と考えます。
『日本国紀』問題を考える―歴史学と歴史小説のあいだ①
『日本国紀』問題を考える―歴史学と歴史小説のあいだ②
出所不明の文言ですが、
嘘も百回言えば真実になる
わけです。統計ですら信頼性に疑義が生じる昨今です。
統計不正問題
こういった話は以前も言及していますが、巷に溢れる虚構とどう向き合っていくべきか、引き続き考えてみます。