2019年2月2日土曜日

誤謬

一寸、書き留めておきます。

緑区の鰻屋でこれまでの認識を覆されました。これまでいくつかの鰻屋でうな丼(並)を食べてきました。例えば、この店だったり、大口町に本店がある有名店です。名古屋市内中心部の有名店では殆ど食べていませんが。

で、うな丼(並)を食べて、”鰻を食べた”という満足感はこれまで得られていませんでした。通常、(並)では三切れの鰻の蒲焼きをご飯の上に戴く態様です。どうしたって鰻で飯部分が覆われることはなく、食後感として物足りなさは否めませんでした。ちなみに、並で鰻一匹分が載っている瀬戸 田代や中詰めがある魚六は例外です。もはや(並)ではありませんから。

この物足りなさというのは、やはり(並)の鰻三切れで飯に対して鰻が少ないことに依るのだろう、と思い込んでいました。そういった先入観を抱きながらも冒頭の店でうな丼(並)を注文したわけです。

しばらくして提供されたうな丼(並)はうな丼と吸物、漬物といった構成でした。丼の蓋を取ってみると、確かに鰻は三切れでした。その鰻の載った御飯に満遍なく、均一にタレがまぶされていることに気がつきました。鰻釜飯のようにここまでタレで一色に染まった御飯はうな丼では初めてです。おそらく、白飯を丼によそってタレをさっとかけるのではなく、予めタレをまぶして混ぜ込んだ御飯をよそったものと思われます。好みでしょうが、白飯にさっとというか雑にタレをかけておいて、
”テーブルの醤油さしにタレがありますから後はご自由に。”
という対応より丁寧さを感じました。

肝心の鰻は三切れですが肉厚、大ぶりでした。他店では尾寄りの細めが入っていたりもするのですが、肉厚の、頭側からの大きめ三切れですから存在感がありました。該鰻屋は丼だけでなく鰻を刻んで御飯に混ぜ込んだ料理も品書きにありましたから、丼には肉厚な部位を載せているのかもしれません。


特筆すべきはこの三切れの焼き上がりの状態というか食感です。表面はパリッと香ばしく、噛めば中はフワトロというよりトロトロでした。表面と中がここまで対照的な鰻はちょっと記憶にありません。三切れであっても鰻の味の濃厚な主張、しっかりした存在感を楽しめました。

丼を置く間もなく一気に、とまでではないにしても、丼を持ち続けて鰻と共に飯を頬張り、或いは掻き込む間、何ら物足りなさを感じませんでした。食後、”鰻を食べた”という満足感は確かにありました。

つまり、鰻三切れのうな丼(並)だからといって”鰻を食べた”満足感が得られないわけではない、という事実に直面した次第です。
”(並)だから物足りなさが残ってもしょうがないか。やはり、(上)か(特上)でなきゃ。”
これは固定観念に囚われていたに過ぎませんでした。

このことは店側にも該当し、”(並)だからそんな程度。しょうがない。”といった姿勢で胡座をかいているのではないか、と言うこともできます。貧相な鰻三切れを飯に載せて、
”うな丼(並)でございます。物足りないのは(並)だからでございます”
といった姿勢は当該店の力量不足の表れに他ならない、と明言致します。

尚、件の鰻屋ではうな丼(並)の注文でも吸物は肝吸いであったことを付け加えておきます。

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