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2016年5月15日日曜日

天秤

明らかな非対称性というか首尾の不整合、不均衡が露見しているんじゃないかと。

前のエントリに続いての話です。

着々と都知事辞任に向け外堀が埋められています。ダメ押しの文春砲がなくとも、免れないのかもしれません。

ところで、舛添氏に劣らない公私混同ぶりながら、都知事職を猪瀬直樹氏に禅譲した石原慎太郎前々都知事は辞任まで追い込まれませんでした。

強い違和感を抱いています。
舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由
石原氏の四男・延啓氏は無名の画家だったが、石原氏は自らの職権で都の若手芸術家の支援事業「トーキョーワンダーサイト」に助言する芸術家として都の外部委員に抜擢。「ワンダーサイト」への補助金を4年間で4億7000万円と以前の8倍以上に増やしていた事実が発覚したのだ。
(“無双”といわれる「週刊文春」にも絶対書けないタブーが! 林真理子が「作家になれば悪口書かれない」と暴露)
芥川賞選考委員の立場にあった作家の、メディアに対する影響力を示す如実な結果かとみています。甚だしいバッシング格差かと。

社会における文芸という価値体系の秩序維持に貢献してきた見返りなんでしょうか。今尚、”天才”といった商品を供給していますし、まぁ、メディアにとっては護るべき飯の種ということなんでしょう。

舛添氏も著作を上梓しているわけですが、メディアからのこの扱いを鑑みれば、作家として擁護するに値しない、ということなのかもしれません。

実は舛添公私混同事案より、
【UPDATE】五輪の不正招致疑惑にJOCが声明 支払いは認めたが「コンサル料」
この強弁、正当化の方がより根深く、深刻な問題と捉えています。
やっぱり出た「オリンピック招致」に関する疑惑。長野五輪の二の舞いになるか?
有耶無耶になっていますが、招致活動のプレゼンの際にも何か怪しげな話があったような...プレゼンのコンサルタント料?、皇族の利用?思い出せません。

舛添公私混同事案はオリンピック招致に関わる買収疑惑の矮小化、隠蔽のためとみるのは勘ぐり過ぎでしょうか。精査の間、知事が元会計責任者という人身御供を用意する一方、知事自身も泥を被せられていたのでは、ということです。

2015年11月17日火曜日

反攻

ここの所、ウェブサイトをふらふら巡っていると、
日清e-めんShop
の広告が目につきます。日清食品の公式オンラインショップのようです。で、覗いてみるとですね、1DAYプライス、今月のセール、Just¥99Sale、アウトレットコーナーといった特売コーナーがあったわけです。

ダブついた在庫をメーカ直売で処分売りということなんでしょうか。食品が供給過剰状態にあることは実感していましたが...
興味深いのは、卸や小売、特に流通大手からの圧力をどのようにかわして、メーカー直売を実現できたのだろうかということです。まぁ、流通大手もPBなんてものをやりだしてNBを追いやっていますから、
――お前が言うな――
ということなんでしょう。

以前、Amazonに全農直営店が出店した時も驚きました。
JAタウン
Aコープといった実店舗ととどう共存を図っていくのだろうかと。

米価市況の変化については存じませんが、ここ数年の米価の下落はなんとなく感じています。人口減や食習慣の変化による年間消費量の減少と供給過剰、流通経路の効率化、多様化に伴う価格競争がその要因でしょうか。

米価は漸減の印象です。輸入が相当の割合を占めている、麺やパンに代表される小麦製品の価格が、ここ何年かの円安にも拘らず高騰している実感もありません。

需要が増えない中、生産性が上がれば価格が下がるのは当然です。勿論、TPP合意も下落圧力です。成長戦略?生産性が上がれば価格は下がるのは自明では。

相反するデフレ解消がどう進むのか、未だ理解できないでいます。

2015年10月4日日曜日

欧州(余談)

ところで、今回のVW排ガス不正で例示される、企業の不正が発覚すると、当該企業には当局から罰金や制裁金が課せられたり、株主や顧客への損害賠償が求められたりします。

先日も、米ゼネラル・モーターズ(GM)がエンジン点火スイッチの欠陥を認識しながら10年以上も放置していた問題で、米司法省に制裁金を、集団訴訟の原告には和解金を支払うことが決定したようです。
米GM、欠陥放置問題1770億円で和解 司法省などと合意
 国内の場合、自動車を含めた、性能や機能について規制当局から認定を取得する製品では、東洋ゴム、ノバルティスファーマ、武田薬品あたりが昨今の改竄、捏造の事例でしょうか。

又、食品、衣料品の品質、産地、期限表示に関わる不正の事例は枚挙に暇がありません。
食品偽装問題
だまされないで!「カシミヤ偽装大国=中国」歯止めかからぬ不当表示…
不正競争防止法、景品表示法に抵触する事案ですが、後を絶ちません。

で、不当表示、優良誤認、不当廉売といった、公正な競争を阻害する事案が発覚した場合、当該事業者は行政処分を受け、消費者には賠償を迫られるわけです。

更に最近では、広告である旨不記載の広告、事業者、或いは事業者から委託された宣伝業者が顧客を装って体験レポートを口コミサイトに投稿する、いわゆるステマに対する批判が強くなっています。
「ヤフージャパン一人勝ち」と「報道記事の買い叩き」がステマ横行の原因
なんでみんなテレビのステマは話題にしないのかなというと・・
勿論、民放の情報番組もステマの範疇ど真ん中ですが、厳密に言えばこういったステマも事業者間の公正な競争を阻害しているとみて間違いないわけです。

で、ある事業者の不正によって競合の他事業者が不利益を被った場合、その逸失利益に対する責任も当該不正事業者が負うべきではないだろうか、と思った次第です。

実際の処どうなんでしょうか。飲食でも、物販でも有名店や大規模チェーン店によって近隣の同業店が営業不振に陥り、撤退、廃業、倒産に至ったというのはよくある話です。B to Cの事業に限らず、B to Bの分野でも好業績のX社が不振になったY社を吸収合併する、といのも珍しい話ではありません。

不正を駆動力としてこういった結果が生じた場合、同業は明らかに不利益を被っているわけですが、賠償がなされたという話は寡聞にして知りません。そういった事例はあるのでしょうか。

上記例の後者で、X社によるY社の吸収合併後、不正が発覚、旧Y社の社員が希望退職迫られる...想像に難くない理不尽な話です。目も当てられないというのが率直な印象です。

該不利益には、不正発覚前の業績不振のみならず、発覚後の当該業種に対する信用の失墜や監督官庁による規制強化に伴う間接費の増大も含まれます。

この辺りは門外漢なので全くわかりません。社会の共通認識としてどう捉えるのが適切なんでしょうか。

少なくとも、不正による利益、不正が発覚した場合の賠償(不利益)、不正が発覚する確率、そういった要素を用いて費用便益を分析した時、
合理的選択として不正を働く
そういった条件が成立してしまう限り、不正の根絶は難題です。

”(永久に、ではないとしても)やった者勝ち”=”正直者がバカを見る”、そういった条件の是正に繋がる、公正な競争環境の整備が必要と考えます。

残念ながら、提言できるような材料は持ち合わせていません。”カルテル・入札談合に対する課徴金減免制度”が一つの示唆になるだろうか、といった程度です。
カルテル・入札談合に対する課徴金減免制度の新設の効果と課題
独禁法の課徴金減免制度、自主申告が半減 13年度50件
相互に監視、牽制、密告しないと不正を防止できないというわけで、自律性は全く期待されていないということです。何だか情けない話ですが、市場主義経済社会を象徴する本質のようで致し方ないのかもしれません。


2015年9月18日金曜日

無双

先日、安保法制報道をめぐる池上彰氏のインタビュー記事を目にしました。
池上彰が斬る!「朝日より読売、産経が問題」 安保法制報道に見るメディアの暴走とは?
記事中で述べらている、朝日や読売、毎日、産経の報道姿勢についてこのエントリで云々するつもりはありません。購読しているわけでもなく、営利企業に過ぎない新聞社の公正中立、客観性を問うことに意義を感じられませんから。

で、みなさまのNHKについてのコメントです。私も勿論受信料を支払っています。
──ところでNHKは、6万人デモをほんの一瞬しか放映しませんでした。

“空気”を読んでるんでしょ。あまり大きく扱わないほうがいいって、どこかの段階で誰かが判断してるんでしょう。一応報じたってことは、これは取材すべきと思った記者が取材して書いて、デスクが直して原稿にした。だけどそれを番組でどう扱うかは各編集責任者の判断ですから。

NHKの報道は公正中立か?

──現場は取材したにせよ、最終的にほとんど報じなかったというのは、放送法で課された公正中立どころか、偏向してはいませんか?

いや、偏向っていうか、明らかにおかしいでしょ。おかしいですよ、そりゃ(笑)。それがテレビに課された「事実を曲げない」の範囲内かどうかといえば、事実は一応報じてるわけだし、いい悪いではなく、事実を曲げてるという批判は難しいですよね。まあ、私はもっと大きく報道すべきだと思いますけど。
──憲法学者らを招いた衆院特別委員会の参考人質疑もNHKは中継ナシでした。

NHKには中継する基準があって、それを満たすとわかったのが当日の朝だったから間に合わなかった、って言ってる。けどそれは違うだろう、そんなわけないだろうって思いますよ。急いでやりゃいいんです。

きっとどこかで、わざわざやらなくてもいいだろうと、空気を読んだ人間がいるんじゃないかな。“忖度(そんたく)”ですよね。籾井勝人会長自ら、報道するなと言ったら大問題だし、彼は言わないですよ、わからないから。「会長はきっとこう思うであろう」と忖度するヤツがいて、下に向かって「慎重に」と放送総局長なり中間管理職が言うんでしょ。

池上氏が出身元であるNHKの報道姿勢について言及するのも珍しいなぁ、と思った次第です。NHKの頚木から解き放たれたのでしょうか。

単に土俵が違うことによるだけか、或いは、朝日新聞の掲載拒否問題を経て、アンタッチャブルなジャーナリスト、Too Big to Failな存在になりつつあるのかもしれません。

是非この勢いを駆ってですね、”受信料に支えられるNHKの公正中立”についての言及もお願いしたいところですが...

取り敢えず、有料番組”安倍チャンネル”から”みなさまのNHK”への回帰を優先せざる負えない事態かと。


先日も、
NHK日曜討論公式アカウントに対する人々の怒りの行進
といったまとめサイトが現れました。その後か否かは存じませんがNHKは謝罪する羽目になっています。
NHKツイッターが謝罪 安保法案めぐる書き込み
だからといって、朝日、毎日のように安保法制に対して不支持の立場であるべき、というつもりは毛頭ありません。それならそれで批判します。

公正中立、不偏不党を謳い、あたかも言説が公正中立であるかの如くミスリードすること、これが最もたちが悪いわけです。NHKの主張だから公正中立で正当である、こういった本末転倒したすり替えの一人歩きを危惧しています。

安保法制に関するの与野党の質疑を漫然と眺めていると、一方通行的に言葉を投げつけ合っているだけじゃないか、といった思いを強くします。
政権は、安保法制を違憲と断じる意見と正面から向き合いませんでした。政権が主張したのは、安全保障環境の変化でした。
与党は憲法との整合性を、野党は安全保障の現況を直視しないまま、単に己の主張を投げつけ相手の言には耳を貸さない、噛み合わなくて当然です。結局、平行線のまま数の力で可決されたのは衆目の一致するところです。

NHKが公正中立を標榜するのであれば、報道、論説によってそういった溝を埋め与野党の主張をガッチリと噛み合わせるべきじゃないかと...非生産的な言葉の投げつけ合いを報道されても、”賢くないなぁ”、との印象を抱くのみで是非の判断材料にはなり得ません。

双方が繰り返す勝手な言い分をただ漫然と垂れ流すことと、公正中立な報道は一寸違うような気がします。

無双 池上氏におかれましては、みなさまのNHKによる、賢い報道への働きかけも期待したいところです。

ところで、安保法案可決後に、街頭インタビューや”平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム”からの法案賛成の声をNHKやテレ朝で耳にしました。反対デモの報道一辺倒で、そういった動きは採決前には覗えなかったのですが、例えば、
偏向報道バラエティ番組の報道ステーション、高須クリニックのスポンサー降板発言でちょっと日和る
といったことなんでしょうか。

2015年9月14日月曜日

境目

ルキウスさんが鮨屋へのワイン持込について言及したエントリをアップされています。次回予約や会員制化の話も含めて抵抗なく首肯できない旨、記されています。
ワイン持込、次回予約、会員制化
飲食店への酒の持ち込み一般に関しては確かに、
――あんたがお馴染みさんなら、店の酒を飲んで助けてやれよ――
ということに異論はありません。ただ、鮨屋へのワインの持ち込みについてはどうなんでしょうか。ワインに馴染みのない鮨屋の店主にワインの選択、品揃えや管理を期待するのも余計な負担を背負わせることになるんじゃないかと思うわけです。それなりの知見も求められますし...

イクラや子持ち昆布といった魚卵に合うワインを、なんて訊ねられても困ってしまいます。いっそワインについては適当な持ち込み料で持ち込みを認めた方が、本来の仕事に注力できて身軽になれるんじゃないかと。

まぁ、ワインの持ち込みなど断って、店で用意した日本酒でお楽しみ下さい、というのが本来であり、真っ当なのは勿論でしょう。

ただ、鮨屋でワインを、とせがむ客の割合を考えれば、持ち込みを認めざるを得ないのも致し方ないのかもしれません。面倒を避けられますから。

問題は、客と店の層の薄さがそういった客を断れなくしているということです。特定の店に特定の常連客が押し寄せる、これが客側の我儘を許さざるを得ない店側の弱さに繋がっています。これは名古屋圏の食べ手、常連客層の薄さ、狭さに由来しているわけですが、こういった部分が変わっていくのはなかなか難しい話ではなかろうかと思っています。

ところで、しばしば訪れるブログサイトに、
うなぎのしろむらには行かないで、刈谷のやま平へ(笑) 
といったエントリがアップされていました。エントリ本文中で御自身が鰻屋を訪れた際、
隣のテーブルのクソババア三人組、鰻丼食べ終わったら、バッグから、ごそごそビニール袋をひっぱり出したかと思ったら、なんと、中に梨か林檎が入ってました。
それをテーブルに広げて、平然と、食べ始めました
小奇麗な格好して、鰻丼食べに来て、最後に、フルーツ代をケチるか
良い子のお手本に成ってくれよ~
と記されています。この辺りの話についてはいずれ機会があれば...

で、その後コメント欄で鰻屋へのワインの持込についてやりとりされています。

勿論、店には無断でしょうが、品書きに記載のある料理(フルーツ)に類した食物の持ち込みは許されない一方、(メニューに掲げられていないとして)了承を得た上で持ち込み料を支払うならばワインの持ち込みは問題ない、そういった認識でいいんだろうか、と思った次第です。

許可と対価の支払い、これが両者の境目なんでしょうが...

未だに定期的と言っていい程ネット上で勃発する、飛行機のビジネスクラスや新幹線のグリーン席に乳幼児を帯同することの是非、
”料金さえ支払えば許される”と、
”オプション料金を支払っている周囲の乗客は快適な空間過ごす権利がある”
にも通底した話にもみえます。どうなんでしょうか。

2015年5月9日土曜日

漫画(2)

前のエントリに引き続き”漫画”というメディアの怪しさについて記します。


単行本の購読を止めて十年以上経つでしょうか。理由は単純です。掲載されている料理を実際に作ってみて、

心が動かされなかった
に尽きます。かなり以前に気づいていましたが、惰性で購読を続けていました。”遅きに失している”と指摘されればその通りです。

同じ頃、料理雑誌”dancyu”も同じ理由で購読を止めましたが、該雑誌は漫画ではないので触れません。いずれ機会があれば...

食物の風味、美味しさは改めて言うまでもなく主観性の強い感覚です。 評価という語でこの感覚を置換し、優劣を騙って序列化することで、美味しさの価値体系を構築するわけです。

そういった手法は珍しくも何でもなく、マーケティングやセールスプロモーションといった類の常套手段です。 漫画に限らず、食べログ、飲食をテーマとしたブログ、雑誌、新聞、テレビ、ラジオのコマーシャル、ステルス的な情報コンテンツ(番組、記事)といった全てのメディアで多用されています。対象も食材、料理に限定されず、文芸、絵画、音楽、衣料、情報機器、家電、自動車、及び、それらの付帯サービス、接客等、評価に主観的要素を少なからず含む、有形、無形を問わず極めて多くの消費者向け商品に使用されている、と捉えています。健康食品なぞはあからさまかと思います。

話が拡がり過ぎました。で、美味しさという主観に基づく評価指標は、当然、座標軸がぶれます。主観に依拠するわけですから。そのため、無理矢理点数表示したりもしますが、数値の根拠は全く不透明です。

料理の美味しさを点数評価しているウェブサイトは枚挙に暇がありません。ただ、当たり前のことですが、点数評価について、たとえ運営者自身の主観的な座標軸であったとしても、それを閲覧者に向かって丁寧に説明し、認識、価値観を共有しようとするサイトは皆無です。

”美味しんぼ”では、海原雄山という権威を頂点に、味覚に関する”尤もらしい”主観的な価値体系が構築されています。話の多くは、この価値体系に、例えば、経済性、生産性、効率性といった美味しさ以外の指標を座標軸とした価値感を持つ人物が放り込まれるものです。

当然、衝突が起こりますが、最後には料理が該人物を改心?教育?洗脳?屈服?せしめると...価値観の異なる人物を海原雄山の価値体系に取り込むことによる秩序の維持が共通の大筋でしょうか。

作品中では、しばしば主人公山岡、或いは海原雄山の反骨心から、料理を手段として権力や権威を糾す形をとっていますが、コップの中の争いです。所詮、座標軸の異なる価値体系が衝突しているに過ぎません。

多様な価値体系がある中で、こういった部分に、料理とその風味を座標軸とする体系があたかも絶対であるかの如く持ち上げようとする意図を感じてしまいます。ステレオタイプを生み出す、価値観に対する優劣意識の植え付けではないだろうか、ということです。

質が悪いことに、通俗的、若しくは無意識に受け入れている、仁-義-礼-孝-忠といった倫理観、例えば、勧善懲悪だったり長幼の序をテーマに料理を織り込んで話が構成されているわけです。他のテーマとしては反戦、平等、人権、民主主義に環境保護、反科学文明、手作り礼賛、天然志向といったところでしょうか。

恰も、テレビドラマ”水戸黄門”に似た構図かと。印籠の作用を料理に担わせているわけです。

好むと好まざるに関わらず、私達の深層部分にいつしか染み込んでいる通俗的な倫理意識、これに異を唱えるには注意を要し、油断すればつい首肯してしまいます。

料理とその風味を介した、そういった価値観の植え付け、印象操作の意図を”美味しんぼ”に感じる次第です。

”ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体”   (適菜 収)
に記されている人気ラーメン店の作り方、
これは飲食の分野に於いても然りで、適菜曰く――「豚骨、鶏ガラ、魚介、30種の野菜を三日間煮込んでスープをつくりました」という鍋に水と材料をいれただけの闇市の煮込み屋のようなラーメン――でも、「これが私の作品」だの「門外不出」「拘りの」「秘伝の」などと「B層」の琴線に触れる言葉を並べさえすれば、彼らは誘蛾灯におびき寄せられる蛾のように群がり、ごった煮のラーメン屋は「知る人ぞ知る」「行列ができる」「ほんとは教えたくない」「隠れた名店」になっていくというのである。

(引用はルキウスさんのエントリから)
と相通ずるものがあります。

”美味しんぼ”も上記意図の下、
そういった処方箋を利用して話が製造されているように思えてなりません。




(続)

2015年5月5日火曜日

漫画

以前、松江市で、漫画”はだしのゲン”の閲覧制限について騒ぎがありました。ことさら、蒸し返す意図はありません。

その後も、例えば、”美味しんぼ”が、”東日本大震災・福島第一原発事故に関する記述”を巡って物議を醸しました。

漫画のその描写内容についての真偽、信憑性、印象操作、偏向に纏わる批判が時折巻き起こります。

これら社会的に耳目を集めた事例も含め、”漫画”というメディアの怪しさについて思うところを記してみます。

上述の二作品に例示されるように、描写内容の真偽を裏付ける客観的根拠は乏しいわけです。それはそれで、”漫画だから”という理由で許容されてきた部分もあるのでしょう。

一方、作者に代表されるメディア側の立場からすれば、高評価を得たい、人気を博したい、売りたいといった思惑の下、作品の世界に引き込むためにリアリティを高めることが一つの手法であるのは明らかです。

漫画は創作、フィクションですが、虚構の言い換えでもあります。そこに、現実感を高めるため事実や科学的知見、実在の人物を織り交ぜ、全体が恰も事実であるかの如く印象付けると...

”実は事実ではない話”を、演出と既知の事実を組み合わせて新たな事実に仕立て上げていく、ということです。

まぁ、漫画に限らず、テレビ、新聞、週刊誌、ネットの情報等、あらゆるメディアで採られているであろう手法です。事実と公言して虚偽を流布するメディア、虚偽捏造の発覚など都合が悪くなった際、”フィクションですから”といった逃げ道を持っているメディア、どちらが誠実なのかよく判りません。

ただ、後者である漫画は読者に対して優(易)しげな姿勢で近寄ってきます。とにかく、内容、意図を理解させ、惹きつけることを最優先にしているということです。勿論、漫画ですから内容の信憑性より重視されるでしょうし、又、その技法に長けているはずです。

読者側も理解できなければ、つまらなければ読みません。それで事は済んでしまいます。漫画は、その内容が読者に肯定的に受け入れられ、批判的な目には晒され難い特性があるのでは、と思っています。
印象操作、物騒な表現として洗脳の目的には、テレビと並んで好適なツールです。

一方、漫画の一語で括るにはその内容は多様であり、読者として想定される年齢層といった属性も相応して広きにわたっています。ただ、総じて少年〜青年あたりが主となる読者層ではないかと...憶測です。

おそらく知的好奇心が強いであろう、そういった若年層向けに社会、政治、倫理、思想についての、場合によっては宗教的メッセージを易しい表現で理解させるわけです。知的欲求への心地よい刺激は、価値観の摺り込みを行う格好の手段として利用される危うさを否めません。砂地に水が染み込むように...

漫画の全てにそういった意図が込められているわけではないでしょうが、全ての漫画に潜み得る恐れを排除できません。

勿論、知を獲得するという行為は決して阻まれるべきではありません。ただそこから更に、得た知見と無批判に向き合うことなく、何を考察し、どう判断するかこそが肝要でしょう。

ルキウスさんのエントリをきっかけの一つとして、そういった視点で立ち止まってみました。漫画は果たして知の供給源としてその任に適しているだろうか、その責を負えるのだろうか、ということです。


この問に肯定的姿勢で抵抗なく応えることは難しく、この時、払拭できない漫画の危うさを気づかされました。

少し例を挙げます。直ぐに思い浮かぶのは”インベスターZ”(モーニング,講談社)、”美味しんぼ”(ビッグコミックスピリッツ,小学館)といったところでしょうか。島耕作シリーズ(モーニング,講談社)も旬の社会、政治的話題が頻繁にツマミ食いされていて、違和感を持つことがあります。


インベスターZ

投資(?)、投機(?)をテーマにしています。投資の入門漫画といったポジションを目指しているのでしょうか。小編毎に株式、FX、運用、成功、就活、起業といったキーワードに符合する話が進んでいきます。時には、実在の人物、起業家がストーリー中に織り込まれたりもします。

先日、
ウェブにおけるタイアップとステマ風ネイティブアドの境界線|やまもといちろうコラム
ネイティブアドのガイドラインが機能してくれないと、間違いなくネットの記事を一つも信じられなくなる未来が来てしまう件について
といった記事を拝読した際、媒体は違えどこの漫画もネイティブアドの一つかも、といった思いが頭を過ぎりました。”提灯点けてのか?”ということです。広告を意図したものか否かは存じません。

上記記事の一つはFX取引事業をグループ内に有するDMM.comのニュースに掲載されていたんですが...

今、FXをテーマに話が進行中です。よくある失敗(損失)と成功の例、奇をてらうことを意図した小ネタと尤もらしい理由、格言、リスクとその限定策を織り込みつつ物語が展開していきます。まぁ、入門漫画の役割を担いつつ、読者の勧誘でも目論んでいるのだろうか、といった印象です。

おそらく、先日のスイスフランショックには触れることはないでしょう。話が深入りし過ぎてしまいますし、こんな危ない話は封印、封印と...

加えて、教示役となる先輩、起業家といった登場人物の断定的な口調で話が進んでいきます。経験不足の人物がとった行動は(たとえ好結果だったとしても)全否定され、意表をつくような理由と、尤もらしい本来為すべき行動が唯一無二の如く示されていくわけです。
”いや、ま、いいんですけどね...漫画ですから。”と
素直にこれを受け止めることができません。抵抗を感じます。もたもた記していた所、折よく、
マンガ「憲法改正ってなあに?」PDF
が物議を醸しています。
安倍首相の指示で作られた「改憲推進マンガ」がデタラメだらけであることが判明
両者の内容の真否、是非についてはさておきます。いずれ記すかもしれません。

上記漫画は典型ですが、まぁ、そういうことです。

ここまで極端であからさまであれば、意図がわかりやすく、反射的に身構えることができます。ある意味、その潔い、包み隠さない姿勢にかえって支持を集めてしまうかもしれません。それはそれでよろしくないなぁ、とは思います。

より懸念されるのは、そういった意図が、例えば、島耕作シリーズのような多くの読者を有する人気漫画に潜ませられることです。

読者に優(易)しく、解りやすく近寄ってこられると...サブリミナル、フレーミング、アンカリングといった語が適当ではないとしても、先入観を利用した印象操作的な行為が可能になってしまわないでしょうか。

まぁ、”美味しんぼ”に改憲推進の意図が織り込まれることはないでしょうが...

政治、経済、社会的関心事をテーマとした漫画に目を通せば、その真偽、確度は勿論ですが、中立性、公正性、正当性、倫理性の点で、疑念を抱かざるを得ない事例には事欠きません。


(続)

2015年5月4日月曜日

延焼

更なる延焼を期待したいところです。
大森由紀子さん、こんな些末なことで物知り自慢をする前に、日本語を学び直したらどうか! ランジェリー、もとい、ブーランジェリー、もといブーランジュリ?
しばしば拝読しているブログで上記エントリがありました。”Boulangerie”のカタカナ表記について、FB上の”ブーランジュリとすべき”、といった声に、
”ブーランジェリーだろうがブーランジュリだろうがどちらでもよい。それより..."
揶揄されています。まぁ、カタカナ表記した時点で是非を云々してもしょうがないなぁと...

”情熱ミルフィーユ”
の週があったことを思い出しました。”Boulangerie”より”mille-feuille”を正すのが先決ではないでしょうか。

こういったTシャツを着用されている方々に目を向ければ、正にどうでもいい話かと思った次第です。

2015年2月6日金曜日

格差

連日、様々なメディアが、ISISによるジャーナリストの後藤健二氏殺害について報道しています。

この残虐なテロ行為に痛ましさと共に、憤りを覚えるのは勿論です。”哀悼”以外の言葉が見つかりません。

ただ一方で、一連の報道を発信しているメディアの姿勢に疎ましさを感じています。メディアによる、電波を私物化したお手盛り報道ではないのか、といった印象を拭えません。

ジャーナリストは、メディアへの記事や情報の提供といった役割を担っており、メディアあってのジャーナリストのわけです。メディアの一部と捉えてもあながち外れてはいないかと...で、特に大手メディアの閉鎖性は、例えば記者クラブの事例で明白であり、そういった内輪の村社会的体質の一端を件の報道姿勢に垣間見たような気がします。

メディアによる自画自賛報道でジャーナリストの神格化を目論んでいるのでしょうか。ジャーナリズムに殉死したとでも...

誤解を恐れずに記せば、イスラム過激派が少年少女達に自爆テロを迫る動機付け(=殉死)に相通ずる姿勢を感じてしまいます。穿ち過ぎでしょうか。

犯罪や事故も含めた理不尽な死は、日々、至る処で発生しているわけですが、一人の殺害事件についてこれほどまでに突出して執拗に報道されるのはかなり稀ではないかと。

まぁ、ジャーナリストが被害者の場合、その報道姿勢にうんざりする程、過剰とも思える報道が続くのは珍しいことではありません。

確かに事件の重大性を慮った結果、優先的に報道が続けられているのかもしれません。しかしながら、時として被害者がジャーナリストか、否かによって、人命や人格に格差があるかのような扱いにも見え、如何なものだろうかと思う次第です。メディアの中立性、客観性に不信感を覚えます。
――何が起こっても、責任は私自身にあります。どうか、日本の皆さんもシリアの人たちに何も責任を負わせないでください.....まぁ、必ず生きて戻りますけどね――
後藤氏がISIS入りする前にビデオ映像に残したメッセージですが、自らの意思でそれなりの覚悟を持ってISISに赴いたと推察できます。
後藤さん、3回も渡航自粛要請されていた 危険地域での取材の是非改めて問われる
翻って、先日、かぐらスキー場で男女3人のスノーボーダーが遭難しました。

明暗を分ける結果となりましたが、ネットワーク上ではやたらと”自己責任”の語を目にしました。

前者は自覚した上で自らを危険に晒したわけです。一方、後者は、危険を認識していない、言わば無知、無自覚が招いた遭難事故だったかと。

各々の行為の確信性を鑑みれば、同列に”自己責任”を云々することは適切ではない、と考えます。行為の尊さはともかくとしての話です。確信的危険行為と無自覚の危険行為、故意と過失、自己責任が問われる場面において、確信的危険行為にはより大きな責任が伴って然るべきということです。

ただ、無知こそ最強となると、それはそれで釈然としませんが...

2015年1月28日水曜日

摩擦

当然のことですが、衝突は回避したいし不快な思いはしたくないわけです。
「俺は偉いんだから、先生とか、社長とか、様って付けんと許さんかんね。」って思ってる人は、おじさんに近寄らんでね。
しばしば拝読しているブロガーの方の年頭の所信です。いや、ま、確かにそうなんですが...

思う処を少し記してみます。


1.誤解

先生や社長が権威を嵩に居丈高な姿勢で
”俺は偉いんだ”
感を醸し出されても、
”ああ、そうですか。偉いんですね”
でやり過ごすことができます。実害がない限り...

適当に相槌打って、
”センセ”、”センセ〜イ”、”シャチョー”、”シャッチョサン”
と呼んで、
”しょうがねぇなぁ”、”どうしようもねぇなぁ”
と流しておいてもいいわけです。ただ、
”何でそんなに偉そうなんですか?” 
”何故そんなに人望がないんですか?”
”何が謙虚さを失わせているんですか?”
 と尋ねてみるのもありかもしれません。

いや、実際にはもっと丁寧、慇懃に、尊敬の念を込めて歯に衣着せて尋ねるわけですが...

尊大な印象が、もしかすると、双方の誤解によるものだったかもしれません。そんなつもりはなかったと...或いは、直言されて己れを顧みるきっかけとなる可能性も否定できません。

誤解が解けないまま、本人が自覚しないままというのも建設的ではないような気がします。

勿論、互いに不快感しか残らない場合も少なからずあるでしょうが、まあ、実害、不利益がないことを前提としていますから。


2.制限

”不快な思いを我慢したくない”、これが尊大な態度を露にする人に近寄って欲しくない理由です。関わりたくないわけですから、当然、自らもそういった方には近づかないことになります。

これは、居丈高なある特定個人によって自身の言動が制限されてしまうことを意味します。尊大な態度を我慢することと、該態度からの不快感を避けんがために自身の行動の自由度が下げられてしまうこととは表裏一体ではないでしょうか。

立食形式の会合で、的矢のカキフライが揚げたてで出されたものの、その傍らには上記先生、或いは社長が控えていて大皿から離れない、といった状況が一例でしょうか。

カキフライに近づいて、尊大な態度を我慢するか、引き下がってカキフライを我慢するかの選択を迫られることになります。自身とカキフライ間の引力、ややこしい御仁との斥力、これらの差分がカキフライとの距離を決定することになります。

そういった状況下では、揚げたてとはいえどもカキフライの魅力が大きく毀損されるであろうことは容易に推定できます。

それはそれで面白くないなぁと思うわけです。どうしましょうかね。


もう少し考えるために、冒頭の文言から連想した場面、状況を思いつくままに列記してみます。
1)購読を止めてもうかなり経ちますが、「俺は偉いんだから、先生とか、社長とか、様って付けんと許さんかんね。」という言葉から、真っ先に漫画”美味しんぼ”を思い出しました。作品には横暴、高飛車な政治家、評論家の先生、社長が頻繁に登場します。で、こういった人物の食材や飲食に纏わる誤った、或いは軽視した発言が引き金となって起こった主人公との揉め事が、最後には誤解がとけて一見落着、良かった良かった、が常套的なパターンでした。
(いずれ”美味しんぼ”を含めた漫画の功罪について記すつもりです。)

2)”みんな仲良く”は義務教育過程でよく聞かされた文言です。今更ながらあり得ないなぁと思います。体裁を取り繕って単に児童、生徒を管理し易くしたかったのではないでしょうか。
集団を構成する各々が全く同じ態度、姿勢で等しくコミュニケーションできるはずがありません。”みんな仲良く”を維持するためには一部に歪が生じ、我慢を強いることになるわけです。
”みんな仲良く”のグループ内には、程度はわかりませんが、ただ、確実に己を誇示する言動とそれをされる側が存在し、総じて和が保たれているという構造になっているかと推測しています。この和は、おそらく、される側の受け入れる、堪える、或いは、受け流す姿勢によって支えられているのではないかと。寛容度、我慢強さ、回避の上手さが己を誇示しようとする力を上回っている限り、表面上”みんな仲良く”は維持される、ということです。
こういった、和を支える姿勢は時には協調心という語にすり替えられたり、集団行動、グループの纏まりのためと目的を優先して肯定されることもあり、それはそれで抵抗を憶えます。
で、全体を細分化して個別部分を見れば、歪や皺ができていると...この局所的な歪や皺の増大が集団内のいじめを引き起こす原因ではないかと憶測しています。ただ、全体としては”みんな仲良く”ですから、悲惨な事件に至るまでいじめは覆い隠され見逃されがちになっているような気がします。
この傾向は小中学校という、成長過程にある年少者の集まりにのみ該当するわけではなく、分別があって然るべき”大人の”集団でも認められます。
警察、消防、自衛隊、及びそれらの訓練組織といった閉鎖的で強い結束、団結(=みんな仲良く)が求められる組織において、より酷く陰湿ないじめが時折発覚しているのは偶々でしょうか。
勿論、組織防衛の姿勢も隠蔽体質を生み出す一因ではあります。
いずれにせよ、グループ内には必ず己を誇示しようとする意思が生まれてしまいますから、グループを”みんな仲良く”へと誘導することには首を傾げている次第です。

冒頭に引用した、
”...おじさんに近寄らんでね。”
ですが、そういった言葉を宣言しなければいけない社会というのも窮屈だなあと...いや、自由に表現できるということは素晴らしいことなんですが、別の意味です。  

”みんな仲良く”の正しさが潜在的に信じられていて、これに反するような主張をするには、所信として声高に表明する必要があった、とみるのは勘ぐり過ぎでしょうか。


(続)

2014年10月17日金曜日

公共(5)

元々、NHKについての一連のエントリを記そうとした動機は、いわゆる朝ドラを視聴した印象に端を発しています。

近年の朝ドラのシリーズとNHKの姿勢との関係について思いを巡らせるに辺って、NHKが公開している目的やガイドラインを斜め読みした所感がこれまでのエントリでした。

やっとこのエントリで、NHKの国内番組基準、特にNHKの掲げる公共放送の基本原則と照らし合わせながら、朝ドラの印象を通じてNHKの姿勢について記してみます。

以下はリンク先で公開されている、NHKの責務と、公共放送の期間としての基本原則です。
 日本放送協会は、全国民の基盤に立つ公共放送の機関として、何人からも干渉されず、不偏不党の立場を守って、放送による言論と表現の自由を確保し、豊かで、よい放送を行うことによって、公共の福祉の増進と文化の向上に最善を尽くさなければならない。
 この自覚に基づき、日本放送協会は、その放送において、
 1 世界平和の理想の実現に寄与し、人類の幸福に貢献する
 2 基本的人権を尊重し、民主主義精神の徹底を図る
 3 教養、情操、道徳による人格の向上を図り、合理的精神を養うのに役立つようにする
 4 わが国の過去のすぐれた文化の保存と新しい文化の育成・普及に貢献する
 5 公共放送としての権威と品位を保ち、公衆の期待と要望にそう
ものであることを基本原則として、ここに、国内放送の放送番組の編集の基準を定める。

特に朝ドラの視聴者というわけでもなく、偶々無為に見た近年の作品いくつかについての率直な印象です。

印象操作

”ゲゲゲの女房”、”カーネーション”の頃から何となく違和感がありましたが、昨今露になってきたような気がします。

現在放送中の”マッサン”では人種差別に対する嫌悪感を抱かせるかの意図を感じます。勿論、ドラマの舞台となった大正当時、登場人物のモデルとなった竹鶴リタさんに対する周囲からの奇異な目、差別があったであろうことは容易に想像できます。容姿、立居振舞、言語、慣習の違いに由来する、差別とは別の身構えてしまう部分も含めてです。

事実であったか否かはともかく、ことさらに人種差別に対する嫌悪感を増幅させる演出だなぁと受け止めました。昨今、しばしば見聞する、人種に起因する差別的思想、ヘイトデモ、ヘイトスピーチといった活動を連想させ、それに対するNHKの姿勢を窺わせるわけです。

勿論、人種差別を支持するつもりは断じてありませんが、思想介入、思想誘導というか大きなお世話です。ドラマ中で人種差別反対の意図を一方的に押し付けられているかに感じ、朝から気分が優れないこともあります。啓蒙しなくて結構、各々が考えることです。

こういった演出を、公正中立(両論併記)、上記公共放送としての基本原則、番組基準第1章 第2項 人種・民族・国際関係の、
1 人種的、民族的偏見を持たせるような放送はしない。
2 国際親善を妨げるような放送はしない。
に照らし合わせた時、整合性は保たれているのでしょうか。

例えば人種差別の是非に対する両論併記はないわけです。NHKが宣う中立性より、公共放送としての基本原則、番組基準を優先させているのでは、捉えてしまいます。


今後、話が進んで戦時下の日本も舞台となっていくかと思っています。となると、該差別と共に戦争に対する嫌悪感も増長させる演出が予想できます。

”ごちそうさん”、”花子とアン”のシリーズがそうであったように...

両シリーズの放送も安倍政権の憲法改正や集団的自衛権の論議とリンクさせ、抑制効果でも期待したのだろうかと勘ぐってしまいます。以前のいくつかのエントリ、錯誤、解釈、気概で疑問を呈しているように、安倍政権を支持してのことではありません。

”カーネーション”、”ごちそうさん”、”花子とアン”といった、作品中に戦時下の時代設定が含まれているシリーズの場合、まぁ必ず登場します。徒党を組んだ国防婦人会の面々が...

おまけは頭の悪そうな子供たちです。石を投げて主人公宅のガラス戸を割る、”国賊”といった張り紙をするなどして、”非国民”と叫びながら逃げていくわけです。”国賊”とか”非国民”とか朝から聞きたい言葉ではありません。
3 教養、情操、道徳による人格の向上を図り、合理的精神を養うのに役立つようにする
5 公共放送としての権威と品位を保ち、公衆の期待と要望にそう
に適った演出なのか甚だ疑問です。

で、国防婦人会ですが、これがまた”お国のため”を盾にした横暴で理不尽な戦争協力を強いる姿を描き出しています。該婦人会は正に主人公の虐め役といった役割で、知性を欠いた、直情的、意地悪、醜悪、精神論、不当な要求といった語で形容される物言い、行動が印象づけられます。

確かに戦時下では、全体主義による強い同調圧力が生まれ、該圧力が具現化された、実働部隊が国防婦人会という団体なのでしょう。この力によって異論、出る杭、個性、特に西欧的雰囲気を醸し出す言動が必要以上に摘み取られていたであろうことは想像に難くありません。

しかしながら、該婦人会の会員各々は、果たして全員が全体主義を支持し率先して戦争協力に参加したとするのは無理があります。活動の原点となった中心人物の動機はともかく、多くの会員は実は、軍部に利用されることで自制が困難になった同調圧力によって加担させられてしまったのではないか、とみています。

当初は“善意”で始められた奉仕活動が次第に国家に絡めとられていき、周囲を巻き込んで暴走を続けた、ということです。軍による情報統制下ですから、いわゆる教養婦人ではない一般の主婦が該圧力には抗えず、元々本意ではなかったが知らず知らずの内に本意となってしまったわけです。教育、洗脳、印象操作の類でしょうか。

”ごちそうさん”、”花子とアン”の作品中では、ラジオに出演する登場人物はあくまで個人としてNHKの国威発揚、戦果報告等の戦争協力となる放送に苦悩しますが、NHKの組織として逡巡、抵抗する姿は窺えません。NHKという組織自体も軍部に利用された、強いられたという立場を遠まわしに印象づけたいのでしょうが、上記一般の主婦に対する情報統制、思想教育にNHKが一役買っていたのは間違いないところです。

2014年10月12日日曜日

公共(4)

他にも、NHKのウェブサイトにある、
1.「NHKだからできる放送」とは何か
2.人権と放送についてどのように考えているのか
3.「公平・公正」、「不偏不党」とは具体的にはどういうことか
4.再放送が多いのはなぜか
5.なぜ、スクランブルを導入しないのか
といったfaqが興味を引くところであり、こういったfaqが、
I.国内番組基準
II.放送倫理の確立に向けて
III.NHK放送ガイドライン 
IV.NHK倫理・行動憲章/行動指針
を基に作成されているであろうことは間違いないところかと。

そういった中、
――意見が対立している公共の問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、公平に取り扱う。――
といった文言が目を惹きました。

正に今、Yahoo!ニュースで
「マタニティマーク」ネットで論争 妊婦が権利振りかざしている?
といった実に上記文言に該当する記事が取り上げられています。

非生産的だなぁと常々思うわけです。

この類の問題は以前も記していますが、
(小児、幼児、乳児、妊婦)x(航空機、新幹線を含む鉄道、バス)x(ビジネスクラス、グリーン席を含む指定席、ベビーカー)
と同根です。

定期的に不毛な炎上がネット上で勃発、で、何ら解決せず収束し、次の炎上に向けエネルギーが蓄積されていきます。

ガス抜きなんでしょうか。

こういった問題をNHKが両論併記しても何ら解決に結びつかない、進展しないようにみえます。そういった理由であまり取り上げられないのかもしれません。

少し逸れますが、先日来始まっている衆参両院の予算委員会でやたらと”女性が輝く社会づくり”というキャッチフレーズを耳にします。

安倍総理大臣は、2020年までに女性の指導的地位に占める割合を30%にすることを目標に、女性の活躍の推進に官民挙げて取り組んでいきたいとのことです。

政府が女性の採用、任用を官庁や企業に指示、依願するそうです。しかしながらそれ以前に、上記に類した、社会に横たわる女性と出産、育児、子育てに関わる不毛な問題に終止符を打つことこそ優先されるべきではないでしょうか。

女性の労働を取り巻く現況は、社会全体の価値観に基づく環境、認識が反映されたものであり、切り離して独立に改善するとは不可能ではないかと思うわけです。

根幹の問題が解決に向かわない限り、目標達成は困難でしょうし、形ばかり目標に近づけることになり、無理矢理感が付いて回るような気がします。

話を戻します。

対立する問題について、中立を保つため両論併記することは、特定の立場に立たない、特定の意図に基づく誘導の排除である一方、見方を変えれば責任を回避していると捉えることもできます。

両論併記しても何ら解決に結びつかない、進展しないことをNHK自身が自覚しているためか、番組としてあまり取り上げられてこなかったような気がします。

単に両論を併記するだけに留めず、各々の立場が依拠する礎、各々の視点からの解決策等は提示されてもいいのではないでしょうか。イニシアティブを取って、一方が正しく、他は譲歩すべきといった判断を出すのではなく、社会が自ら解決していくための具体的、客観的、統計的な詳細情報を提供すべきということです。

対立する公共の問題は、社会が賢くならないことには解決に向け駒が進まないと考えます。

ところで、NHKは、自らが公共放送の機関であるという自覚に基づき、国内放送の番組基準を定め(H10.5改正)、又、放送に携わる全ての者が日々の取材や番組制作を行ううえでの判断の指針とすべき「NHK放送ガイドライン2011」を作成(H23改訂)しています。

この基準やガイドラインを無視、或いは軽んじた番組の制作はできないということでしょう。であれば例えば、対立する公共の問題において、一方の立場がNHKの番組基準に反し、他方が該基準に沿っている場合、公平な両論併記は可能なのでしょうか、疑念が払拭できません。

つまり、番組基準、ガイドラインがあることで、既に完全な中立性は損なわれており、制作された番組には該基準に沿った意図が込められてしまっている、ということです。

番組基準やガイドラインによるバイアスもそれが適正であれば公正中立を装い責任を回避するよりましかもしれませんが...今度は、バイアスが許容されるのか否か、適切性はどうか、公正中立を標榜するな、といった話になってきます。

この辺りの整合性はどうなっているのでしょうか。


(続)

2014年10月6日月曜日

公共(3)

(g)市場原理だけでは律することのできない公共性


視聴者が望む番組ばかりを放送しないということでしょうか。公益に資するならば、視聴率によって放送内容を変えることはない、と理解しました。換言すれば、公益に資するという根拠を構築できれば視聴率は低くても構わないとも受け止めれてしまいます。

とすれば、重視すべきは、公共性の程度、資する公益の大きさをどう見積って番組を制作するかであり、放送によって番組が寄与した公益の評価でしょう。これらが適切公正に行われているのか、否か、よくわかりません。

公共性の拠り所、依拠する行動原理がそもそも不明ですし、その判断、監査、責任の主体部分が不透明です。

市場原理や公共性といった抽象的な語に留めず、具体例を挙げた丁寧な説明を願いたいところです。

例えば、公共放送は必要だがNHKは不要といった話にも成り得るかもしれません。

かつて民放のニュース番組で放送された、故筑紫哲也氏によるライブドアの堀江元社長へのインタビュを思い出させます。NHKではありませんが...

確か、ライブドアによるフジテレビの買収云々と騒がれた、ライブドアが絶頂期の頃でした。内容自体は総じて噛み合ってないな、とか、テレビに一番組ですから、ジャーナリズムの語を利用したテレビ寄りの内容だな、といった印象でした。

それはさておき、その中で筑紫氏から
――例え視聴者に興味がなくとも、意味のあるコンテンツを流さなくてはいけないのがジャーナリズムだが――
といった意味の発言があり、強い違和感を禁じ得なかった覚えがあります。

”一体何様?”というジャーナリストと称される人々の驕りというか傲慢さを感じたわけです。上記”市場原理だけでは律することのできない公共性”も同じ姿勢ではないでしょうか。


(h)特定の利益や視聴率に左右されず...


特定の利益にはNHKはともかく、子会社、関連会社の利益は含まれていないのでしょうか。”NHK 子会社 利益”で検索すれば色々な話が出てきます。

まぁ、違法ではないのでしょう。そのために放送法を改正したとの記事もありますし...

さて、上記”特定の利益や視聴率に左右されず...”の後、
――...教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない、重要な役割を担うものが多くあります。...――
と続いていきます。

こういった文言は、大阪市の文楽協会への補助金凍結騒動で、作家の瀬戸内寂聴氏による発言を思い起こさせるわけです。
――世界の見るべき人が見て素晴らしいと言うのだから、それで十分でしょう――
――橋下さんは一度だけ文楽を見てつまらないと言ったそうですが、何度も見たらいい。それでも分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから――
橋本大阪市長を支持する意図は毛頭ないことは明確にしておきます。

で、強い選民思想、優越意識が伝わって来るわけです。見るべき人が見て価値を感じればいい、それ以外の人は理解出来なくても構わない、分からなければ黙ってろ、ということですか。口をつぐんで補助金(公金)をつけ、見るべき人のためだけに保護しろと...

この”見るべき人”と”市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない”には共通の根幹があるわけです。価値、重要性の責任ある判断、その依拠する所、主体が曖昧です。私にセンスがないということかもしれません。恥ずかしくて恥ずかしくて堪りませんので匿名を続けます。

分からないことを分からないと意思表示すること、これを恥ずかしいこととして封じ込めようとする発言の中に、品性を疑わせる作家だなぁと思わせる姿勢を感じた次第です。

文芸でも、映画、舞台、絵画、書、音楽、料理、酒でも、更には科学の分野でも、その評価を感性に頼らざるを得ない分野、或いは、いわゆる評論家が跋扈する分野において、しばしばその秀逸さが理解できない方に問題がある、わからない奴は黙ってろといった雰囲気を感じることがあります。

”大したことない”、”つまらない”といった批判的、無理解な発言に対し、反論するわけでもなく”わかる人だけわかればいい”といった、口を噤ませるようなやり口のことです。

確かに、上記各々の分野の極めて専門性が高く、高次というか深遠なレベルでそういった部分が生じるであろうことは否定しません。

しかしながら、新聞や雑誌に掲載される、文芸、映画、料理等の作品紹介や評論を装った宣伝広告、テレビ番組から垂れ流される演出された映像と美辞麗句、食べログに代表されるネット上の飲食店や料理のやらせと思しき評価、、以前のエントリで記した日展の事案、その後の経緯等からは、真っ先に胡散臭さを感じるのが率直な印象です。

感性が鈍いのか、視力の衰えを常に色眼鏡で補っているせいかもしれません。

ヨイショ営業とでも呼べばいいのでしょうか。名の売れた、弁の立つというか声の大きな演者と業界が共謀して虚構の価値体系を構築しておきます。

で、
――良さがわかる繊細な感性をお持ちのそんなあなたに...――
――分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから――
と批判や異論を封じ込め、優越感を煽る宣伝広告で碌でもないものの営業に利用する、そういった事例は通販番組は言うに及ばず、文芸、飲食、映画等でも散見されます。

姑息な手法だなぁ、と思うわけです。

この辺りはいずれ別エントリで記すつもりです。

上記”市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない...”からは、
”では、一体何を評価尺度とするのか?”
といった疑問を抱くと共に
”わかる人だけわかればいい、分からなければ黙ってろ。でも受信料は払ってね。”
というのも横暴だなぁと感じる次第です。


(続)

2014年10月5日日曜日

公共(2)

最初に、ウェブ上で閲覧可能なNHKの目的、ガイドラインを確認すると共に所感を記します。

NHKのサイトによれば、放送法で制定されているNHK(日本放送協会)の目的は、
《第15条》《目的》
協会は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送を行うとともに、...を目的とする。
とあります。

上記URLのページには続いてNHKによる説明が加えられています。冒頭部の引用です。
NHKは、全国にあまねく放送を普及させ、豊かで良い番組による放送を行うことなどを目的として、放送法の規定により設立された法人です。
意図的か否かは存じませんが、放送法にある、”公共の福祉のために”という語がありません。

豊かな番組、良い番組の定義もなかなか難しいわけですが、公共の福祉に適うことこそが一義のはずです。この視点から”豊かな”、”良い”が判断されるべきですが説明はありません。更に、番組が公共の福祉にどう寄与していくかといった姿勢もよくわかりません。

続いて、”よくある質問集”に、”公共放送とは何か”、”公共放送は本当に必要なのか”、といった問いに対するNHKの回答が掲載されています。
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公共放送とは何か(一部抜粋)

...公共放送とは営利を目的とせず、(a)国家の統制からも自立して、(b)公共の福祉のために行う放送といえるでしょう。
NHKは、政府から独立して 受信料によって運営され、公共の福祉と(c)文化の向上に寄与することを目的に設立された公共放送事業体であり、...
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公共放送は本当に必要なのか(一部抜粋)

公共放送は必要であると考えています。
公共放送の使命や役割は、視聴者のみなさまからの受信料をもとに、(d)放送の自主自律を貫き、(e)質の高い多様な番組や正確で迅速なニュースを全国で受信できるよう放送することで、(f)民主主義社会の健全な発展と公共の福祉に寄与することです。 NHKは、市場原理だけでは律することのできない公共性を強く意識し、特定の利益や視聴率に左右されずに放送事業を行っています。
NHKの番組には「大河ドラマ」や「紅白歌合戦」のように視聴者のみなさまの関心の高い番組だけでなく、教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない、重要な役割を担うものが多くあります。また、緊急災害時に大幅に編成を変更し、ニュース・報道番組を放送することなどは、スポンサーの意向に左右されずに行うことのできる公共放送ならではの役割です。
(略)
東日本大震災からの復興、長引く経済の停滞、急速に進む少子高齢化など、日本が数多くの課題を抱える中、国民の生命・財産を守り、視聴者の判断のよりどころとなる信頼できる情報や番組をお届けする公共放送の役割は、ますます重要になっていると考えます。
また、放送と通信の融合が一段と進み、さまざまな端末を通して多種多様なコンテンツを誰もが自由に利用できるようになる中で、最新の技術を活用して利便性を高め、信頼されるコンテンツをお届けすることも、新しい時代の公共放送に求められる責務と考えます。 
(以下略)
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NHKが依拠する根幹を踏まえた、詳細な説明を求めたい文言が満載なわけです。正否はともかくとしてです。順次記していきます。


(a)国家の統制からも自立

当然憲法やその他法令からは逸脱できませんし、放送法による規制もあります。あくまで法令の枠内での国家の統制から自立であり、時の政府の干渉を受けないということでしょうか。では、法令、例えば放送法の改変に対して、自立を保つために抗うのか否か、いずれにせよ政治的な主義主張を持つことになってしまうような気がします。


(b)公共の福祉

上述しましたが、まず、NHKが礎とする公共の福祉についての十分な説明が必要と考えます。その上で、公共の福祉に対する放送内容の制作意図を明らかにし、更には結果として番組が公共の福祉にどう寄与したかを評価すべきかと。

未だNHKのサイトで公共の福祉についての詳細な説明を見つけられないでいます。


(c)文化の向上

(b)と同様に、文化の向上を云々する以前に、文化に対するNHKの認識が明確にされて然るべきではないかと考えます。NHKに限った話ではありませんが、概念が過度に抽象的、曖昧なままでは、本来認識が異なっているのか、実は同じだが齟齬があって共有できていないだけなのか区別ができません。

文化の向上という目的に対し、文化という概念の捉え方が異なれば、該概念を基にした、番組制作に関わる計画(意図)、実行、評価にボタンのかけ違いが生じるのも当然です。

具体的な疑問の一つを後述します。

(d)放送の自主自律


結構なことなんですが、何に依って立つのか、自らを律する行動規範が重要かと。で、この自主自律の程度は誰がを公正中立、客観的に評価することになるのでしょうか。

NHK経営情報のページにある、番組基準・編成計画 等、放送倫理・コンプライアンスも含めて後で考えます。

(e)質の高い多様な番組


やはり番組の質はどう評価されるのかに尽きるわけです。NHKの公共放送としての目的があり、該目的に沿った制作意図が番組に込められているはずです。で、放送によって意図が伝わったのか、目的に対する達成度はどうなのか、といった視点で質の評価はされているのでしょうか。

前記NHK経営情報のページには放送番組審議会へのリンクがあります。議事内容を閲覧することで答に近づけるかもしれませんが...

(f)民主主義社会の健全な発展

NHKだけを云々する意図は断じてないのですが、金科玉条のごとく民主主義を掲げるのも如何なものかと思っています。以前のエントリでも触れましたが、
”不確定の未来に責任の所在を先送りする”
ことは民主主義社会の一つの本質と捉えています。

上記文言からは、この民主主義を絶対不可侵のものとみなしているかの印象を抱いてしまいます。最上のシステムと盲信してその枠組み内に留まることは、枠組みの外から民主主義を俯瞰し、付随する問題が見えなくなる、目を瞑ってしまうのではないか、といった懸念を持つわけです。

現在の、例えば少子高齢化といった多くの先進国が抱える諸問題は、民主主義システム、正確には現在の民主主義システムに原因を求めることができるのではないでしょうか。

勿論、民主主義社会を否定する意図は毛頭ありません。ただ民主主義社会という社会システムを予断を排除して中立公正に捉えるためには、手放しの支持、安易な賛同ではなく、枠組みの外からの客観的な観察も必要ではないかということです。

民主主義が内包する問題から目を逸らさず対峙してこそ、自律する社会、賢い社会の実現に繋がっていくのでは、と考えます。

こういった観点から、民主主義ありきという出だしもなんだかなぁ、と思った次第です。

ところで、民主主義社会の健全な発展とありますが、では健全でない発展とはどういう事態を想定しているのでしょうか、興味のあるところです。


(続)

2014年7月2日水曜日

解釈

国家の存立が脅かされるなら、採るべきは先手必勝ではないでしょうか。

当然、合憲です。合憲を前提に解釈します。

まあ、違憲でも違憲状態でも構わないですけど...是正させる力が働きませんから。

法治国家?法の支配?順法精神?憲法の尊重? 
何処の国のことでしょうか?

2014年3月1日土曜日

方策(4)


ところで、一連のエントリを記すきっかけは、下記ブログエントリでした。


このエントリの筆者は、人材育成に関わるコンサルタントの方と推定されているようです。

真偽についてはどうでもいいのですが、この”人材育成”という職務、”コンサルタント”という職業の生産性には大きな興味があります。

御本人は自身の職務と職業の生産性をどう意識し、どのように自己評価されている(いた?)のでしょうか。

人材育成という業務は何を投入資源として成果をどう評価するのでしょう。

所属組織の利益に貢献する人材を如何に短期間で育成するか、一定期間に育成した人材がどれだけ大きな価値を生み出すか、と考えてみます。

組み合わせれば単位時間当たりに生み出す価値の大きさ(=生産性)ですから、この生産性が高い人材を如何に効率よく生み出すかが、人材育成の生産性と捉えられます。

既に記したように生産性の評価は一筋縄ではいきません。特に、創造と判断が求められる業務では、適正な評価はより一層困難です。

育成により習得させた生産性をどう評価し、人材育成業務それ自体の生産性をどう評価するか、果たしてどこまで合理的な評価ができるのか興味のあるところです。

加えて、”コンサルタント”という非主体的というか、責を負わない職種の評価です。

生産性の高いコンサルタントとは助言、提案、指導を通じて
顧客に高い利益をもたらすコンサルタントを指すのでしょうか。或いは、顧客利益に左右されず口八丁手八丁、美辞麗句で顧客から高い報酬を引き出せるコンサルタントを意味するのか、興味は尽きません。


やはり、”自分の頭で”ちゃんと”考えよう”が大切かと感じた次第です。


さて、この生産性について対象を拡げて記してみます。

来月四月から消費税が増税となります。で、市中の小売店ではその後の更なる増税も見越してか、商品の価格表示を税抜き表示にする動きが散見されます。

平成十六年四月以降、原則として消費税を含んだ総額表示が義務付けられました。この義務化に伴い全国の小売店は相当の人件費、システム改修費といった経費の支出を余儀なくされました。これら資源の投入によって生産された価値は何だったのでしょうか。

確かに、義務化以前はいわゆる内税表示と外税表示の店が混在しており、瞬時には比較し難かったかもしれません。ただ、消費者の支払総額は義務化前後で変わる理由がありません。

義務化による小売側の負担増は確実にありましたし、該負担の販売価格への転嫁もあり得る話でしょう。いずれも総額表示義務化に起因しています。

今は再び税抜き表示が容認されています。元に戻しても構わないと...又、非生産的な負担を強いられるわけです。

今後更なる増税を行うつもりである、という行政側の事情による義務化の棚上げ、正に裁量行政そのもです。そんな程度の理由で義務化を翻す位なら、はなから総額表示など義務付けるべきではなかったのではないでしょうか。

消費者に総額が判り難い、といった理由も受け止め方は行政側にとってその程度であり、己の都合で簡単にひっくり返すということです。

消費税を増税しようという意思は行政側に十分にあったわけですから、こういった事態を想定できなかったはずがありません。できなかったとしたら無能過ぎますし、想定しての措置であるならば、”生産性”、”ムダ”といった考えが余りに欠如していると言わざるを得ません。




少し、脱線します。

この度の消費税増税に当たり、以下のような報道を見聞しました。
日本コカ・コーラグループが自動販売機で扱う缶入飲料を120円から130円に値上げ。
理髪店のQBハウスが、これまでのカット料金税込み1000円を1080円に値上げ。

JR東日本が券売機による鉄道運賃を増税分も含め10円単位で値上げ。カード型IC乗車券では円単位で増税分が反映されることから二重運賃に。
便乗値上げではないとされています。いや、便乗値上げでしょう。消費税の増税を機に増税分以上の値上げをすることに変わりはないわけです。解釈や線引によって咎めないということに過ぎません。

以前であれば、便乗値上げにもう少し厳しい目が向けられていた気がしますが、表だって主要メディアで咎めたり、批判する声を聞きません。かき消されているのでしょうか。

その一方で、商品販売時、”増税分値引きします”、”増税分を据え置いています”、”増税分還元します”といった表示を禁止しつつも、”3%値引きします”、”3%還元します”といった表示は許されているようです。

(厳密には消費税を5%とした場合と8%として総額から3%値引いた場合では、支払総額は一致しませんが、)
支払総額が殆ど変わりがないにも拘らず、単に表現が異なるとだけで一方が違法とされ禁止されています。頭大丈夫なんでしょうか。表現の自由が制限されているというか、抑圧的な印象を抱いてしまい不快です。


実際に支払総額が増税分以上の値上がりとなる便乗値上げに咎められない場合がある一方、支払総額がほぼ同じであるのにその表現を規制しようとする、強い違和感を禁じ得ません。


脱線終ります。



もう少し続けます。