2014年7月21日月曜日

相反(5)

組織防衛以外のなにものでもないわけです。
小保方晴子さんの博士論文「学位取り消しに該当しない」 早稲田大学が調査結果を発表
で、既に食傷気味のせいか、メディアで大きく採り上げられていません。或いは、大手メディアには早稲田出身者が結構な割合で在籍されていると聞きますから母校の価値が毀損するのを防いでいるのでしょうか。

陸の王者の出番かもしれません。ブーメランにならないことを願って...
『小保方処分問題』で知識人層から見放されてしまいそうな安倍政権について


随分横道に逸れたりしましたが、今尚収束しないSTAP細胞騒動は科学技術に纏わる様々な相反、曖昧さにも一因が見出されるのではないでしょうか。

客観性、整合性、真実性、合理性、具体性を重視する科学技術が立脚している、そのプラットホームである社会が実は様々な抽象性、矛盾、曖昧さを内包していることに依るのではないか、ということです。

科学技術の意義の一つである新たなる知の獲得という社会全体への貢献と、自己、及び、所属組織、国家による経済的利益、栄誉、称賛の独占というか囲い込みに対する要求や欲求が競合する中で、果たして、両者のバランスに誰もが合意する適正な有り様は存在し得るのでしょうか。

最初に、科学研究の成果をほぼ経済的利益に結び付けられる、特許制度の視点から記してみます。比較的曖昧な部分が少ない場合かと考えます。


制度では、出願された発明内容の公開と引換に、要件を満たしていれば特許として発明は権利化され、独占的利用が認められています。特許を利用することで得られる何らかの経済的利益、この利益の独占を保証することで科学技術の発展を促し、豊かな社会の実現を目指すわけです。

この時、出願人は発明による利益の独占を目的に権利化を目指すのであって、発明内容の公開が目的ではありません。原則としてですが...

例えば、圧倒的な技術力の格差等、何らかの理由で利益の独占が確約されているならば、特許として出願する必要はなくなりますから発明内容は非公開のままでしょう。即ち、特許制度の枠組みの中では、権利化して利益を囲い込むため、やむを得ず発明を公開するのであって、能動的に発明を公開しよういった姿勢は本質的には取り得ないはずです。

尤も、京都大学山中教授によるiPS細胞の特許出願のように、”他者の独占を阻み広く発明を利用してもらう”といった事例もないわけではありませんが、一般的ではないかと思います。(こちらはこちらで非生産性を感じるのですが、やむを得ない話かもしれません。)

で、積極的に発明を公開したいわけではありませんから、核心となるノウハウ部分をあえて明細書に記載しないこともあるとも聞きます。軍事、防衛技術等の場合、当該技術の利用者が既に市場を独占しており、むしろ発明を公開するリスクの方が大きく、特許として出願する意義がなかったりもします。

技術による豊かな社会の実現を推進する特許制度ですが、権利と引換にやむを得ず科学的知見が開示させられるものです。この知見は結果として社会による新たな知の獲得に結びつきはしますが、決して第一義的、積極的な目的ではありません。

以前のエントリで例示した、鈴木章北海道大学名誉教授の言葉に加え、
根岸英一パデュー大学特別教授ののインタービュー記事でも、
と答えられています。

又、下村脩ボストン大学名誉教授も、

とされています。

上記ノーベル賞受賞者の方々が、受賞理由となった研究成果を創出した時代は、米国と言えども”国家による科学技術が生み出す利益の独占”にそれほど貪欲ではなかったはずです。特許に代表される知的財産権を積極的に活用する、いわゆるプロパテント政策が推進されたのは1980年代のレーガン政権以降です。

今日であればおそらく、研究費獲得の責任に対する科学者の負担も増加しているでしょうから、特許権取得を促す圧力も当時より高まっているかもしれません。

”研究成果を誰もが気軽に利用できる”といった趣旨に対しては、成果は公開するものの特許は未出願として利用する際の障壁を下げる、といった判断がより自然な姿勢だったかと考えます。

しかしながら、下村教授が発見した緑色蛍光タンパク質(GFP)は、基本特許こそ出願、権利化されなかったものの、応用特許については他の機関が特許権を管理しているようです。


そういった意味では、iPS細胞関連特許に対する、山中教授の”他者の独占を阻むために権利化して開放する”といった考え方も支持できないわけではありませんが、一旦権利化(独占)という過程を経ての開放ですから回り道に似た印象を抱いてしまいます。

当初から成果を広く利用してもらいたいということは明確になっていますから、特許とか、権利化といった下世話な作業で研究グループを煩わせることなく、ひたすらiPS細胞の実用化に注力できるよう周辺環境が整備されるべきではないか、これが率直な思いです。


少し、横道に逸れます。

特許制度は本来、科学技術の発展を促し、豊かな社会の実現を図るために発明は権利として保護されます。言い換えれば、利益の独占、囲い込みのために発明を権利として認め、これが結果として豊かな社会の実現に結びつく、ということです。

ところが最近、利益の独占を求めることなく公益に資そうという事例をしばしば目にします。山中教授のiPS細胞関連特許も一例です。特許制度本来の趣旨からは外れているようにみえます。

Linuxに代表されるフリーでオープンなソフトウェアの発展も”成果を誰でも気軽に使える”好例です。米Googleの書籍全文検索サービス"Google Books"もフェアユース(公正な利用)との判断が出ており、著作権者による利益の囲い込みより公益を優先した事例と捉えています。

”成果を誰でも気軽に使える”、”公益が優先する”姿勢を保護するどころか、権利者側が阻む場合を見聞します。既得権を堅持したいのでしょうが、その姿勢にあからさまなものを感じることが少なくありません。

かつて、LinuxというフリーでオープンなOSが注目された際、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏によるオープンソースのソフトウエアに対する批判を見聞しました。(現在は共存共栄を目指しているのかもしれません。)
マイクロソフトはソフト販売で得た利益を次のソフトウェア研究に投資してきた。フリーでオープンなソフトは新技術を生み出さない

こういった主旨だったかとの覚えがあります。豊かな社会の実現と引換に利益の独占を正当化する、特許制度の趣旨に似たものを感じます。

実際には経済的な利益を伴わずともLinuxを含む無償のオープンソースソフトウェアの進歩は目覚しく、又、多様なWindows向けフリーソフトも活発に開発が進められています。

科学技術によって豊かな社会へと導く原動力として、権利に基づく経済的利益は必ずしも必須ではないわけです。上記ビル・ゲイツ氏の発言は一つのポジショントークとも受け止められます。

公益に寄与すべく無私の立場で見出された科学的知見に適用される特許制度の枠組みに囚われない、新しい制度があってもいいのではないでしょうか。

利益を意図した技術の囲い込みを認めず、公益のために該知見の権利を保護して利用を優先させる、ということです。特許制度における公知化ではまだ十分ではないかと...

話を戻します。


(続)

2014年7月8日火曜日

相反(4)

以前のエントリで、実施できない特許には原則として価値はない、と記しました。ではどういった場合に価値があるかということですが、該特許記載の発明の目的が達成された場合です。

該特許の権利範囲外の技術によって目的が達成されていてもです。権利範囲外であってもどの程度離れているかによるわけですが...

全く無関係、若しくは、大きくかけ離れている発明によって目的が達成されていれば話は別ですが、その関係性を推し量るのは特許庁、裁判所であり、審査官、審判官、裁判官です。双方の発明人、弁理士、弁護士が争って判断を求めることになります。場合により、権利化の成り行き如何で利害が生ずるであろう第三者も参戦してきます。

将来、なんらかの技術によってSTAP細胞が実現した場合、

――だから我々の特許によってできたでしょ――

――我々の特許を使わなければ実現できなかったはずだ――

と主張して成果の分け前に与ろうということです。

"NHK BS グッドワイフ"に登場するようなスーパー弁護士によって、口八丁手八丁で重箱の隅を突くような理屈を梃子に主張が展開され、双方泥沼化、疲弊し、遂には和解...

あり得ない話ではありません。

事業会社の知的財産管理部門にとっては競合の立ちはだかる特許の権利化を妨げる、無効化も業務の一つです

勿論、自社利益に結びつけるためです。

世知辛い話ですが、将来ゴネるための種を予め蒔いておく、ということです。

ただ、事業に国費が投入されている理研の事業目的を鑑みれば、当初からこういった目的で、理研が率先してSTAP細胞特許を出願したとは想像し難いものがあります。研究費獲得を目的に、ハーバード大学単独ならアイディア特許としての出願はあり得るかもしれませんが、日米の複数研究機関が共同で真否が不確かな特許を出願するとは思えません。

STAP細胞が現実に存在しているか否かはともかく、存在を疑うことなく特許を出願しているとみるのが妥当ではないでしょうか。

ないものをあると偽ったのではなく、ないものをあると思い込んだ、或いは、思い込まされた、と推測します。あるものをあると証明できなかった可能性もないわけではありませんが...

では、何故ないものをあると思い込んだ、或いは、思い込まされたのだろうか、といった疑問が生じるわけです。

で、誤解を招きかねない表現ですが、”バカンティ教の信者”だった、それは今尚そうかもしれない、と見立てています。

勿論、憶測以外のなにものでもありません。

バカンティ教授と小保方氏の関係は、あくまで、先生と生徒であり、(立場の上下関係はあったとしても)研究者間の考察、解説、質問、討論を通じ、相手の意見を科学的、合理的姿勢で評価するといった関係性が欠如していたのでは、と推測します。

指導教官の文言であっても、盲信することなく、否定するべきは否定する、といった研究者としての姿勢を小保方氏が欠いていた、ということです。再生医療分野の権威であるバカンティ教授からの情報を絶対視し、手放しで肯定的に受け入れてしまう、言わば講義を受講する学生だったのではないでしょうか。

例えば留学の経緯、
小保方氏は小島氏に「ハーバード大を見学したい」と伝え、留学が決まった。
体験記、
ここがよかった!GCOE ハーバード留学体験記
などからは、研究者というよりむしろ学生であることを窺わせます。学生の一つの経験としての留学といった印象です。

”未熟な研究者”といった語にはそういった意味も含まれているような気がします。

尤も、そういった指導教官の言葉を疑うことなく鵜呑みにしてしまうことには、やむを得ない部分があるのも確かです。遥か大昔の自分にも覚えがあります。

知識や経験に乏しい学生が、指導教官のアイディアを疑えるだろうか、ということです。Wikipediaによれば、STAP細胞のアイディアは再生医療や細胞工学の分野の権威であるバカンティ教授(ハーバード大学)と大和雅之教授(東京女子医科大学)によって2010年に独立に着想されたとのことです。

特に仮説の合理的根拠を求め難い生命科学の領域において、知識、経験が圧倒的に上回るその分野の権威からの自信たっぷりの言葉を、疑い、否定することなど、留学先で該権威の下、指導を受ける学生の立場では不可能でしょう。

力量の差が小さく、対等でなくとも研究者-研究者の関係ならばSTAP細胞に対し、もう少し懐疑的な姿勢を持てたのではないでしょうか。ただ、その場合にはSTAP細胞着想の礎ともなったバカンティ教授の胞子様細胞(Spore-like cells)説すら否定することに繋がりかねないわけですが...留学先の選定を誤ったと言えるかもしれません。

巷間科学者には、科学的事実のみを根拠として客観的、合理的に論理を構築するといった、実直なイメージがあるのは間違いないところかと思います。

確かに、眼前にある事実に対しては全く誠実、謙虚であることに異論はありません。ただ、一方で科学者の特性として、しばしば未来に対して大風呂敷を拡げがち、夢を語りがちになるのも事実です。特に研究予算が絡んだ場合には...

あたかも、細胞の分化どころか遺伝子の再構築を、結晶どころか素粒子の挙動を、更には、未来ですら間近で見てきたかのように論じられ、又、社会を一変させるかのような革新的技術が明日にでも実現可能な如く提案されるということです。

勿論、科学者の根幹の一つは独創性であり、ややもすると荒唐無稽と紙一重ですが、自由な発想は妨げられるべきではありません。従って一方では、大言を一概に否定することは発想の萎縮に繋がりかねず如何なものだろうか、とも思うわけですが。

結局、学生(未熟な研究者)であった小保方氏がバカンティ教授の毒気に当てられたというか、教授の言葉に魅了され、ないものをあると思い込んでしまった、というのが実の所かと憶測しています。

実際にはバカンティ教授の右腕ではなく、文字通り手足だったわけですが、小保方氏の華々しい経歴が若山教授の目を曇らせ、過大評価へと見誤ってしまったということです。

上述の独創性が科学者に求められる資質の一つであることは重々承知しております。湧き出る新たなアイディア、繰り出される独自の発想が科学技術の発展に欠くべからざるものであるのは疑う余地のない所です。ただ同時に、発想の全てが常に正しく、実現可能とは限らないのも明白です。

ほんの思いつきが真実であったり、熟慮を重ねた仮説が誤りだった、ということも珍しい話ではありません。例え提唱者がその分野の権威であったとしても、避け得ない誤りは時として生じてしまいます。問題は、特に提唱者が権威であればあるほど、発想の真否を判断する客観的な視点にバイアスが加わり、正しい説として一人歩きしてしまう恐れがあるということです。

で、学生は指導教官の言説が絶対に正しいと鵜呑みにしてしまうと...

――教官の予測と異なる結果は実験に誤りがあるからだ。
正しく実験すれば教官の予測した結果が得られるはず――

が、いつしか

――教官の予測した結果が得られた。
だからこの実験は正しい――

に変換されてしまうわけです。


ではこの錯誤の観点からSTAP細胞騒動が詳細に論じられています。真相については存じませんが...

なかなか難しい話かもしれませんが、一人の科学者として成長に至る過程で学生という立場があります。その訓練教育を受ける立場にある限り学生は原則として指導教官の手足です。一部の学生は、手足となっての研究を通じて、恰もOJTの如き作用で科学者として育成されていくわけです。

特に、科学者という人格というか、個性そのものを育成する、科学する心、姿勢を養う人間教育のようなプログラムがあるという話は寡聞にして知りません。

従って、大学の研究室における該OJTというか、通常の研究活動における教官、先輩からの指導、注意、忠告、批判、叱責、激励、及び、グループ内での討論が科学者の育成にとって極めて大きな役割を担っており、又、担わざるを得ないと考えます。

大学の研究室が研究活動を重視しがちになってしまうのは十分理解できるところではありますし、優れた科学者、是即ち、人格者、善人、常識人、優れた教育者である、或いは、すべからくかくたるべしといった意識は微塵もありません。

ただ、大学の持つ、研究機関としてではなく教育機関としての意義を鑑み、研究を通じた教育、科学者の育成という側面にもう少し焦点があてられるべきではないでしょうか。全く僭越な話ですが...

本騒動は、大学教育において該側面が蔑ろにされてきた一つの結果とも捉えられ、小保方氏のみの責を問えない、一方的に糾弾できない要因があることにも留意すべきでは、と思った次第です。


(続)

2014年7月6日日曜日

野次(5)

比較論です。

以前のエントリでも記しましたが、
本人の責に帰さない理不尽な暴力は到底容認できない
が私の譲れない根本です。

で、”本人の責に帰さない”という視点から眺めた時、例えば、
ナイジェリア生徒拉致事件
パキスタンのマララさん銃撃事件
インド、パキスタンで未だ頻発している名誉の殺人
等、現実に世界で起こっている暴力と今回のセクハラ野次騒動とでは理不尽さの次元が違うわけです。

他国の厳酷な理不尽は大きな話題にもならず、自国の”お前が言うな”的セクハラ野次には犯人探しに大騒ぎして謝罪を求める...

差別的な野次が許されないのは理解しているつもりですが、理不尽の程度に圧倒的な差があるにも拘らず、上記事件は今回の騒動ほど問題視されてきませんでした。

私が違和感を禁じ得なかった、手放しに件の女性議員を支持できなかった原因はその辺りにもあるような気がします。

相対的な話です。

2014年7月4日金曜日

野次(4)

4.黙殺

今回のセクハラヤジ騒動は、社会通念上、強者(与党、男性、年上)から弱者(野党、女性、年下)に浴びせられたヤジであったため、古くから日本人の好んできた判官贔屓ストーリーに仕立て上げようとメディアが煽動した要素も多分にあると捉えています。

例えば、独身、或いは子のいない中年のおっさん与党議員が少子化について質問している際、既婚、或いは子を持つ野党の若手女性議員から、

――自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか――


と野次を浴びせられたとしたら...

ここまでの騒ぎになったでしょうか。

野党のベテラン女性議員が与党の若手男性議員を野次ったとしたら...
男性議員が男性議員を野次ったとしたら...
女性議員が女性議員を野次ったとしたら...

いろいろな組み合わせが想定できるのですが、同じ内容の野次であっても、メディアに騒ぎ立てられ非難、糾弾される場合と、黙殺され殆ど問題とならないまま過ぎていく場合があるように見受けられます。

セクハラ野次ではありませんが、前のエントリで記した、(民主党議員から安倍首相に対して)
また下痢するぞ
真偽は定かではありませんが、
子供が出来ない安倍さんは種無しカボチャ。 そんな種無しスイカに何が分かるんですか。
などは本騒動以上に発言者の品性が疑われる発言だったわけですが、大きな騒ぎにはなりませんでした。

議場での野次ではありませんが、
塩村文夏氏による、男性タレントへの中傷発言。「みんなの党」党員は黙認
も...

ある意味、偏向したメディアの意図的な差別かと思うわけです。


ちなみに、同性からの野次ならばセクハラにならないのでしょうか。気になるところです。



5.地雷

一般論です。

本騒動の野次は、当初の
そんなことを言う前に、おまえが早く結婚しないのかっ!!

早く結婚しろ!!
から、実は
お前が早く結婚したほうがいいんじゃないのかー
だったわけです。この後、”産めないのか”、”まずは自分が産めよ”といった野次があったとされていますが、これは客観的には確認できていません。

上記”結婚する”という部分を”子を産む”に置き換えれば、”...子を産まないのか”、”...子を産め”、”...子を産んだほうがいいんじゃないのか”となります。より酷いセクハラ野次とされる”産めないのか”とは意図が異なります。”産めないのか”は”結婚できないのか”に相当しますから。

自らの意思で選択した場合も含む”する”、”しない”に対し、”できないは”本人の希望に反してであり、資質、能力を問う意味合いが含まれてきます。

ここで、配慮に欠けた田母神氏のツイートです。
塩村都議へのヤジがどうして女性蔑視なのか。いいじゃないかそのくらいというのが正直な気持ち

野次のどの部分に対して”いいじゃないかそのくらい”なのかはわかりません。

例えば、家族の介護等で結婚できない、或いは、不妊治療を続けているにも関わらず子を授からない。そういった本人の責によらない何らかの理由で意思に反して結婚できない、子供を持てない場合があるということは容易に想像できるわけですが...

田母神氏の価値観が、全ての女性は結婚して出産でき、又、そうするのが当然であり、できない場合が脳内で排除されているのであれば、ある程度の年齢の女性が未婚、或いは、子がいない場合、”する意思がない”と捉えて該ツイートに至るのも致し方ないことなのかもしれません。

いずれにせよ軽率なツイートであり批判は免れない、というのが正直な気持ちです。


その一方で、肝胆相照らす友人、NHK朝ドラの言葉を使えば”腹心の友”でもない、いわゆる知人や疎遠になっている縁者の集まり、具体的には職場、慶弔の場町内会等で、見知らぬ他人でもない上司、同僚、親戚隣近所のおじさんやおばさんから似たような発言が聞かれます。その意図はともかくとしてです。

友人、親しい間柄であればある程度の察しはつくのかもしれませんが、そうでなければ事情を知る由もないのは当然で、相手の事情もおかまいなしにこういった言葉を投げつけてくるわけです。

この時、場の状況、語尾や語気、言回し、更にはお互いのこれまでの先入観、印象によって悪意あるハラスメントになってしまう恐れがあります。ガサツで配慮を欠く人間の、”そんなつもりではない”発言が相手に不快感を催させることはよくあることです。

では、結婚や子供について尋ねることは全否定されるべきなのでしょうか。相手に不快感を与える恐れがあるからと、結婚や子供についての話題を意識的に避けるというのも息苦しさを感じてしまいます。


例えば、二、三十年ぶりに中学の同窓会に出席した場合など、同級生の名前記憶の片隅にわずかにあるのみで、顔と名前が一致しないことだってままあります。そういうほぼ他人に対し、近況を(=家族について)尋ねることすら許されないなら場が持ちません。同級生の女性とは会話ができなくなってしまいます。まぁ、尋ねられるのを待ってればいいのかもしれませんが...

誰にも話しかけられなかったとしたらそれはそれで辛いものがあります。

どうして結婚しないの
どうしてお子さんがいないの)?ー
どうして結婚しないの(どうしてお子さんがいないの)?ー
ー結婚してないの(お子さんはいないの)?ー
はともかく、

ー結婚は(お子さんは)?ー
ーご家族は?ー

も許されないのでしょうか。

ー今、どちらにお住まいですか?ー
から初めて安全を確かめながら徐々に話を広げつつ、常に警戒を怠らない、疲れますし、話も画一的になってしまいます。

酒食の席でそんな器用なこと...自信がありません。

”結婚”、”子供”そういった単語それ自体がアンタッチャブルな地雷とみなされることがないように願っています。

英国在住の日本人ジャーナリストの方が、
...塩村都議に向けられたような言葉は公の場ではもちろん、友人たちとの私的な集まりでも、家庭の中でも口にできない。そんなことは怖くて、とても口にできない。
述べられていますが、英国では結婚、子供についてどこまでの発言が容認されているのか知りたいところです。

私には住む資格がないのかもしれません。住みませけど...


(続)

2014年7月2日水曜日

野次(3)

3.切り売り


又、過去のバラエティ番組での発言を元にした、”おまえが言うな”的姿勢に対し、根拠なく”演出、ヤラセを鵜呑みにするのか?”といった非難のコメントも寄せられています。

勿論、私には真偽の判断はできません。ただ、ご当人の過去のツイート、放送作家としてのこれまでの作品は、あながち虚構と否定しきれない部分をを覗わせていますが...

まぁ、演出、ヤラセであったとしても、尊厳とまでは言いませんが、人格、品性、誇りを切り売りしていることは間違いありません。

で、結局、都民の代表としての適格性に疑問符がついてしまうわけです。



4.華

さもそれが真理であるかのように...
誰も認めたわけじゃないのに...
といった扱いで、エントリの筆者であるやまもといちろう氏の発言であるかの如く「野次は論戦の華」が批判されています。

この”野次は議場の花”といった言葉その来歴を議会政治発祥の国である英国に求められたかと...

議場における野次の是非については賛否両論あるわけですが、総じて政治家、メディアを除く所謂一般市民には不必要な行為、禁止すべき行為と捉えられているような気がします。

政治家の場合、少なくない方々が野次を肯定しています。取り敢えず橋下大阪市長は否定されているようでが...



野次を肯定する典型的発言は、
ヤジにもいろいろありまして、これは議場の華とも言われる場合もありますし、正直、私も若いころはけっこうヤジった方でございます
でしょうか。(2013.4 安倍首相答弁)



で、”また下痢するぞ”、”種無し南瓜(真偽不明)”などと本騒動以上に酷い野次浴びせられているわけです。


こんなブログも
やはり、政策を論ずるヤジは必要!

政治家の方々は自らの存在を誇示するために野次を肯定されるのでしょうか。眠気覚ましの役目も含めて。

これまで散々野次を飛ばしてきた側にしてみれば、今更否定もできませんし...自己否定になってしまいますから。

加えて野党にとって野次行為は牛歩戦術と並ぶ最重要な抵抗手段です。野党にとってはです。禁止されてしまうと他に何をすればいいのか...

メディアやジャーナリストも野次行為を支持する傾向にあります。飯の種にするためハプニングを期待してのことではないでしょうか。下衆な記事ほど注目されますし。

理屈は、
で引用されているように、
野次は議会における討議を活発にし、提起された問題に対し、与野党双方が深く考え、ベストの回答を模索するきっかけを与える。だから野次は民主主義のプロセスとして欠かせない
や、
だったりします。後者は訳のわからない指摘ですが...

こういった野次行為を容認する側からは、野次将軍とも呼ばれた故三木武吉氏の名がしばしば挙げられます。昨今の下品な野次と異なり、氏の野次は機知に富んでいて議場を和ませたものだ、と。

いや、場は笑いに包まれ眠気は覚めたかもしれませんが、建設的な結論は得られたのでしょうか。

是非ですね、野次によって議論の生産性が向上した事例を知りたいものです。過去にあったのでしょうか。野次った意義があった、野次られて良かった、質の高い議論を通じて優れた成果が得られた、そういった具体例です。

本論が捨て置かれ、不毛な事態へと陥った諍いしか思い浮かびません。


(続)

解釈

国家の存立が脅かされるなら、採るべきは先手必勝ではないでしょうか。

当然、合憲です。合憲を前提に解釈します。

まあ、違憲でも違憲状態でも構わないですけど...是正させる力が働きませんから。

法治国家?法の支配?順法精神?憲法の尊重? 
何処の国のことでしょうか?