2018年3月26日月曜日

臨在

NHKの朝ドラ「わろてんか」が、言論や表現の自由が制限される時代へと進みました。日中戦争〜太平洋戦争辺りでしょうか、この軍靴の音が忍び寄る時代を描写するために必須の脇役である、国防婦人会?報国婦人会、愛国心溢れる町内の某といった面々も登場しました。内務省の検閲によって自由な映画制作が阻まれる統制社会です。

尤も、作品中では映画の脚本そのもの問題があって内務省が制作を許可しないということではなく、実は競合他社の妨害工作という形になってます。

民間事業者からの要求で行政の公平性が歪められる....なんだか森友学園の用地払い下げのような話です。一方は脚本の書き換え、他方は公文書の書き換えが問題になっているわけですが。

それはともかく、程があるだろう、大概にしとけという安直な脚本?演出?がこれまで繰り返されてきました。
目に余るものを感じちょっと記してみます。

実はこのドラマはイタコドラマじゃないか、とみなしています。

話が行き詰まり新たな展開へと進む、主人公が苦境に陥った、重要な判断に迫られた、決断そのものの是非を自問した、そういった場合に故人、本作品では亡くなった夫を登場させ、故人に示唆的、肯定的な、或いは決断を後押しするような言葉を言わせしめているわけです。啓示という表現が適当かもしれません。故人に語りかけ、問い、応えさせるその技法は、故人という第三者を通して恰も客観性を装いながら、現実にはあくまで自分に言いきかせる手法です。この手法が余りに多用され辟易します。

故人に語らせるというのは確かに効果的ですが、万能薬であるかの如く安直に繰り返し使われた結果、鼻につき、制作側の底の浅さを感じました。

ここで該効果に焦点をあてるならば、やはり故人の言葉の絶対視という部分にその理由があるのだろうと考えています。たとえ故人が登場しなくとも、故人の言い残した文言には存命中の人間は否定し難い、反論することが憚られる空気が漂っています。

これは該文言に例え謬りがあったとしても是正され難く、絶対的な言葉として独り歩きを続けてしまうということです。言責があって撤回、修正できる当人はいませんから。正に死人に口なしです。

特にこの言葉が功を成し遂げた故人からである場合、異論を唱えたり、否定することにより高い壁が立ちはだかるのは間違いない処です。この効果を積極的に流用した事例には事欠きませんが、「殉愛」騒動”死人に口なし”の耳新しく
りやすい類例です。真偽はどうでもいいですけど。

尤も「殉愛」の場合は、故人の言葉を絶対視させる空気を意図的に醸成しようとする中、信憑性、更には捏造の疑いが生じて失敗した例かもしれません。

通常この空気は関係者間で自然に醸成され、時が経過するほどいよいよ硬直性が増し、抗い難い絶対的なものとして臨在していくことになります。この空気は「空気の研究」において山本七平が云うところの”空気”に相違なく、故人やその言葉は臨在感的把握を極めて容易に生み出してしまうわけです。

”死者に鞭打たない”、”故人を非難してもしょうがない”という考えが日本のみに特有の思想、或いは儒教に由来するものか否かは存じません。ただ、これらの考えの延長とも看做し得る、故人の言葉の独り歩き、絶対視による動向の支配が好ましくないのは明らかです。

時間の経過に対し社会は変遷し、変化への対応も求められます。社会の構造や環境、共有する価値観や思想科学技術
、ある状態のまま留まらないし留められない、更には留めるべきではないと考えます。

で、自由こそが、できれば進歩、発展、成長、向上であることを願いたい該変化を促すための、欠くべからざる、又最も尊重すべき根源である、いう見方をしています。

この自由は、故人の言葉のみならず、権威、旧習、ムラ社会、同調圧力によって容易に侵害されてしまいます。宗教や保守や社会主義といった政治思想も例外ではありません。これらの中で故人の言葉は、自由を制限する最たるものではないかと。反論しても異論を唱えても故人の思想信条、価値観が改まることはありませんから。

朝ドラで、故人の言葉によって登場人物の判断、行動が左右される、そういった場面を頻繁に目にしていると、故人の言葉を無批判に肯定するどころか盲目的に尊重する、するべきといった姿勢が伝わってきて、なんとも言えない気味悪さを感じた次第です。

2018年3月20日火曜日

墓穴

前川喜平前文科事務次官が名古屋市の中学校で授業を行ったことに対し、文部科学省が名古屋市の教育委員会に授業の内容や経緯の説明を求めていた問題で、文科省に照会をした自民党文科部会の赤池誠章参議院議員の弁明です。
 ━━それ(事実確認)をもって文部科学省が圧力とかそういうことを感じるというなら、今回の問題だけでなく、すべてそういう話になってしまうということであって、そうすると我々、国会議員は仕事ができなくなってしまう━━
”圧力をかけるのが国会議員の仕事である”と自ら言明しているように受け止められますが間違いないでしょうか。

2018年3月18日日曜日

寡占

なんとなく釈然としないものを感じています。

ヤマト運輸に続き佐川急便、日本郵便と宅配便大手の料金値上げが出揃いました

口火を切ったヤマト運輸の料金値上げなんですが、独禁法に抵触する疑いってないのでしょうか。確かに寡占化が進む業界では価格の決定権は事業者側優位であるのは間違いありません。宅配業界で同じように寡占化が進行している米国でも
事業者が価格支配力を強めているようです。
アメリカにおける宅配便の最新事情
ただ、郵便小包や鉄道小荷物に端を発する宅配便はヤマト運輸の該事業への集中以降、大手輸送会社が参入し熾烈な競争が起こりました。その結果、
鉄道小荷物は廃止
 日本通運によるペリカン便は日本郵便のゆうパックと事業統合、日本通運本体の事業としては撤退
西濃運輸のカンガルー便は存続しているものの業界4位でシェア4.0%程度
名鉄運輸の子熊便は荷物量減少により宅配便から撤退、法人貨物引受のみ存続
といった状況のようです。

ヤマトと佐川の荷物取扱量が激増し、これに日本郵便を加えると三社で93.4%と寡占状態にあるわけです。

で、この状態が公正な競争の結果であるならば異論はありません。ただ、宅配便料金値下げ競争の値下げ原資がドライバー等現業職のサービス残業、過重労働といった不法労働行為に依るものであるならば重大な問題ではないでしょうか。

現業職への不法労働行為が原動力となってヤマトと佐川が躍進、シェア拡大、引いては競合他社を事業撤退、縮小へと追い込んだとすると、とても公正な競争の結果とは受け止められません。家電量販店の不当廉売による競合の排除事案より悪質です。

業界において、物流事業の質という点でリーディングカンパニーであり、他社より遵法意識が高いであろう日本通運がペリカン便の旗を降ろした事実がその証左では、と憶測できます。

現業職に不法な労働を課し、それによって寡占を実現したものの、残業代未払などが発覚しそれを是正するために料金値上げを画策、既に競合他社は排除済みという絵図ならば、正に公取の調査事案ではないかと考えます。

2018年3月17日土曜日

時代

遠い昔、まだ道徳が授業として行われていた小学校時分、読本にあった寓話を思い起こさせました。
君たちはどう生きるか
漫画版は200万部を突破し、ある高校では卒業生に手渡されたとのこと。文庫ではなく漫画って...原作は80年前に上梓されています。

NHKで頻繁に取り上げられ、
2018 新たな時代へ “君たちはどう生きるか”
『君たちはどう生きるか』 いま“大人たち”が読む理由
「君たちはどう生きるか」漫画が200万部突破
ジャーナリストの池上彰氏、ジブリの宮崎駿氏も愛読とのこと。池上氏はこの本を題材にした、
別冊NHK100分de名著 読書の学校 池上彰 特別授業 『君たちはどう生きるか』
出し、宮崎氏は、次回作のタイトルが「君たちはどう生きるか」であると発表しました。

名著として
巷間では概ね高く評価されているようです。そうなんですか。何となく違和感を持ち、諸手を上げての称賛にはむしろ危ういものを感じるのですが。

虚心に読んだつもりですが、全体を通して80年という時の流れ、古くささは否めませんでした。それは、文体や語句、話の舞台となる当時の社会状況ではなく、話の根幹となる価値観についての印象です。

果たして、この本を”普遍”、”不朽”とか”今尚...”といった形容で崇められていることに、懐古趣味的なものを感じると共に”大丈夫か?”という思いを禁じ得ないでいます。

この80年で社会は僅かでも賢くなったのか、と...

例えば、ノブレスオブリージュ、生産と消費、過ちては改むるに憚ること勿れ、儒教的思想などの語句、文言が
読み進めるに従って想起されます。

ノブレスオブリージュは、旧制中学に通う主人公に主人公の叔父がその考え方を説いているのだろうと受け止めました。しかしながら、実はノブレスオブリージュは具現化されることのない拠所であって幻想に過ぎない、という思いがないわけではありません。遥か大昔、或いは他国で、統治者が治世の方便として宗教(仏教)、
スローガン愛国無罪)、煽動(慰安婦問題)を利用する手法にも似てものを感じます。社会における理不尽な不公平、不平等に対する不満を抑えるために、ノブレスオブリージュという考え方を統治者が社会に浸透させたのではないか、といった疑念を持っています。
”いざ事あらば自ら率先して火の粉を被る”
語の浸透程度に比し、それを体現した史実が過少ではないでしょうか。

主人公に対する家族の”立派な人になってほしい”という願いも、銀行の重役だった父親(故人)、法学士の叔父を持つ裕福な家庭
━━父親の死に伴い都心にあった邸宅をたたみ召使いの数を減らして、母親とばあやと女中と暮らしている━━
そういった環境の下での”立派な人”に留まっているという受け止めです。

生産と消費について記せば生産は消費より尊く、”君たちはどう生きるか”という問いの答えの一つが”生産”であるという著者の思いは伝わってきます。しかしながら、この”生産”はあくまで価値の生産であって、生産さえすれば何でもいいのか、例えば、
━━穴を掘って埋めるだけでも━━
そこまでの言及はありません。今日、テレビを見れば、怪しげな健康食品、サプリメントの、”個人の感想です”を枕詞にした健康不安を煽る広告が氾濫しています。スーパーに赴けば廃棄を待つ見切り販売されている山積みの食品を目の当たりにし、コンビニを含む飲食業界では連日途方もない量の売れ残り、食べ残しが廃棄されています。

1937年刊行という現在に較べ全く物資が不十分な時代であればともかく、この生産に対する考え方を、現代に無批判に適用するのは如何なものかと考えます。

むしろ、当時より圧倒的に向上した生産性、社会の高齢化、人口減が生み出した需給ギャップとそれに伴うデフレをも鑑みた考え方が提示されるべきだったと。

それが刊行当時想定外であったことは理解できますが、であるならば”普遍”、”不朽”といった語による評価も適切ではないでしょう。

付け加えれば、主人公の亡父は銀行の重役だったそうですが、昨今のサブリース契約を基にした銀行のアパートローン、日銀による市中銀行からの国債買い取りで日銀の当座預金ブタ積みも生産なんでしょうか。素朴な疑問です。

勿論、”過ちては改むるに憚ること勿れ”については全く異論なく、素直に首肯いたします。

で、刊行当時の社会情勢に依るものかは存じませんが、物語全体の根底に、今尚見え隠れする滅私奉公、尽忠報国、挙国一致といった日本の伝統的体質と、及び儒教的思想が在るように思えてなりませんでした。

読後、作者吉野源三郎が反戦、平和主義、いわゆるリベラルな思想の持ち主であることを知りましたが、そうは言っても上記論調を否定できませんでした。

当初、そのギャップは当時と今の時代の差に起因するものと思っていました。しかしながらもう少し考えてみると、主人公の叔父からの言葉の端々に、”自由や多様性の制限”のような意図を感じたのかもしれません。どう生きるべきかを問いながらも、いい人、立派な人、有用な人になることを願う、なるべきだ、といったような主人公の叔父(=作者)の価値観への同調圧力を感じました。

確かに、物語中で滅私奉公、尽忠報国、挙国一致を明言しているわけではありませんが、”国”を”社会”に置換してみると話の主旨に沿うのではないでしょうか。ここで、社会と国を峻別する定義はなされず、少なくとも社会≠国ではなく社会≒国ですから、話の向こうに上記スローガンが透けて見えたわけです。

業員?奉公人?が病臥のため、豆腐屋の家業を手伝う同級生の章では、”生産”に携わる同級生が称賛されています。それと共に、社会の理不尽な格差、当人に何ら責任のない不平等について触れながら、妨げなく中学に通って勉強ができる主人公の恵まれた環境に感謝すべきと諭していますこのことを踏まえて自身の才能を伸ばして社会のために真に役に立つ人になって欲しいという願いへと続きます。

それを一つの視点として否定する意図はないのですが、なんだかこの格差や不平等を生む社会の理不尽さを致し方ないものとして容認しているかに感じます。主人公が恵まれた環境にあるからでしょうか。穿った見方ですが、既得権益に感謝しつつ、無意識かもしれませんがその体制の存続を肯定しているとも勘ぐってしまいます。

自身の恵まれた境遇は社会の格差が一因でもあります。そのことへの感謝以前に、社会の理不尽さに目を背けることなく正対して向き合い、合理的で公正な社会の実現を志向する、との見方を欠くべきではない思った次第です。

1937年当時、出生による格差は現在より当然のこととして社会に受け入れられていたでしょうから、この部分に思いを至らせることは難しかったかもしれませんが。

社会が国家主義へと足早に進んでいく状況で出版された「君たちはどう生きるか」ですが、時代はその後敗戦を経て戦後民主主義の時代へと移っていくわけです。
「君たちはどう生きるか・戦時版
「君たちはどう生きるか・敗戦版」
「君たちはどう生きるか・戦後民主主義版」
の発刊を待つと共に、物語の登場人物各々の戦時、敗戦、そして現在に至るまでの成長の過程と生き方、それらが彼等の次世代にどのような価値観として継承されていくのだろうか、気になる話ではあります。

尚、本作品があくまで創作であるという点はやはり留意しておくべき部分ではないかと感じます。以前のエントリでも記しましたが、「一杯のかけそば」、「江戸仕草」の場合と同様に、倫理的、道徳的にイイ話しならば創作(=虚構)でも構わないのか、という問いです。「一杯のかけそば」は後に虚構であることが明らかになり物語にも、作者にも非難が寄せられました。「江戸仕草」についてはそれが事実ではない旨明らかとなって批判を呼ぶ一方、”イイ話だから”と肯定的な受け止めもありました。

君たちはどう生きるか」にも共通する部分を感じているわけですが、否定的評価の「一杯のかけそば」や肯/否入り交じった「江戸仕草」との明確な線引は未だできていません。しかしながら「君たちはどう生きるか」についても高評価を得ている理由が、読者自身の現実の生き方に倫理的、道徳的示唆を与えているからではなく、実はイイ話”と同じく優れた娯楽物語であることに依るという可能性は排除できないと考えてます。つまり、冒険、近未来、サスペンスと同列に位置付られる、倫理、道徳ジャンルの感動物語に留まっての高評価ということです。

読者の生き方に特段影響を及ぼすわけではなく、倫理、道徳を主題として感動のみを与えているに過ぎないという見方は本作品に対する過少評価かもしれません。ただ、恰もスポンジに水が染みこむが如く、作者の価値観が創作(=虚構)を通じて、抵抗なく心に浸透してしまう(=生き方、価値観が変えられる)という懸念は減じられることになります。

2018年3月16日金曜日

迷惑

東京大学と東京女子大学が別の大学であるのと同じく、中京大学と中京女子大学も別の大学でした。知りませんでした。

設置者である学校法人が各々、梅村学園と谷岡学園で異なるようです。学長のパワハラ記者会見で今話題の至学館大学は中京女子大学から改称された大学で、てっきり中京大学の関連大学と思い込んでいました。

中京大学とその関連校も創立者一族によって私物化され、大学の名を借りた政治団体、圧力団体として利用されているのか、というのは勘違いでした。

梅村学園におかれましては、”至学館大学(旧中京女子大学)は当学園と全く無関係な組織である”旨明言されることを謹言致します。

2018年3月2日金曜日

(進行中)公約

働き方改革関連法案の中で裁量労働制については全面削除することになったようです。
働き方改革関連法案等についての会見
厚労省の裁量労働に関わるデータが捏造か誤りだかで不合理な値が含まれていて、データそのものに信頼性を欠いたため、という理由によるものでした。

元々、裁量労働の根幹部分が全く思慮不足とみていましたから、上記のような形式的、上っ面の理由に依らずとも削除されて然るべきと考えます。

この根幹部分は上記働き方改革関連法案のキーワードでもある生産性向上にも通じ、これを蔑ろにしたままの法整備など、上辺を取り繕った単なる労働強化法案に過ぎない、と考えます。

これを例えば労働基準法施行規則第24条の2の2第2項で適用職種と規定されている、
新商品若しくは新技術の研究開発又は人文科学若しくは自然科学に関する研究の業務
の中、製造業の研究開発職で考えてみます。

研究開発職への裁量労働性導入の際、いわゆるPDCAサイクル[Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)]の考え方に沿った業務計画、進捗、実績の作成を求められるのは、まあ当然のことです。この時、現場においてこれらが合理的に作成されるのか、裁量労働制が適切に運用されるのかとなると、甚だ疑問です。

問題は計画立案の元となる目標の設定と成果の評価にあります。多くの場合、各個人の業務目標は、労働者個人と管理職(直属上司や所属長)間の命令、指示、発案、承認、合意等が入り混じった、所謂摺り合わせで設定されるのではないでしょうか。個人が発案した目標がそのまま承認されることはなく、又、管理職側の命令、指示のみで一方的に決定されることもありません。

発案した目標そのままに裁量労働を適用した場合、管理職側が適正に成果を評価できるのか、又、一方的な目標押し付けは生産的な業務遂行に繋がらない拒否感を生み出しかねない、という話になります。

曲りなりにも”合意の結果”設定された目標という体裁が整えられるはずです。


追記していきます。

2018年3月1日木曜日

偽計

──ご心配とご迷惑をおかけしまして、大変申し訳ありませんでした──
 メーカーの品質管理問題で毎度耳にする文言です。品質検査をすることなく製品を出荷したり、悪質な場合品質を偽装したり...思いつくままに挙げれば、東洋ゴム、宇部興産、神戸製鋼、東レ、日産、三菱マテリアル、旭硝子...

直近(2/27)では川崎重工による新幹線のぞみの台車亀裂問題でしょうか。

こういった不祥事が発覚した際、該当企業の経営者による謝罪会見では、冒頭の文言が恒例です。この文言を聞く度に強い違和感を抱きます。

正しくは、
──ご迷惑をかけ、ご不安を与えまして、大変申し訳ありませんでした──
です。