2014年6月27日金曜日

野次(2)

1.突沸

その後(6/5以降)も、件の女性議員について真偽不明のいろいろな噂が伝わってきています。

前のエントリで引用させて頂いた、セクハラ野次@都議会事件に関する一般論による解説では、当事者、関係者を除き、比較的早く、即ち、周知が進んでいない段階でセクハラヤジ問題が取り扱われています。

鋭敏というか、反射的、過敏なまでの速度でコメントが多々寄せられ、その吹き上がり具合は正に見事という他言葉が見つかりません。該ブログの平時のエントリにおける閑散とした様相とは様変わりでした。

これがこの騒動の率直な第一印象です。

2.多勢

寄せられたコメントは、エントリの内容に対し賛否両方あるわけですが、否定的なコメントが多いようです。で、これら否定的なコメントの中に、不倫という行為を容認、或いは追認する姿勢を感じました。総じての話です。

件の女性議員が、以前テレビのバラエティ番組で告白した御自身の過去の行状、不倫遍歴を批判する声は多くはなかったということです。

社会は不倫に対し、更に言えば、都政運営の一端を担い、相応の能力、人格が求められるはずの都議会議員の不倫に対し、何故そこまで寛容になれるのか、理解に苦しみます。

都議会議員として選出される以前の、過去の発言としても如何なものかと思うわけです。

結局の所、多くの都民が当該議員のそういった行為の当事者、関係者であるはずはなく、いわゆる他人であり、又、該行為は都議会議員の職務には影響しない、ということなのでしょうか。

まぁ、”失楽園”がベストセラーとなり、故人となったその著者も作家として評価されていた社会です。加えて、それなら現都知事はどうなんだ、といった話にもなってきますし...

有権者の民度、品性、倫理観、価値観が反映されていると言われれば致仕方なく、又、斯様に人材が払底していることの顕れかもしれません。

で、私も含めてですが、本騒動において過去の言動を問題視し、”なんだかなぁ”というか釈然としないものを感じる姿勢に対し、

過去の言動は無関係
過去をほじくりかえしてもきりがない。都議会議員として成果を出してくれれば構わない
不倫しても、政治家として結果を残してくれればどうでもいい
過去はどうあれ、未来に向っていい仕事をしてくれたらいいのでは
過去に問題を起こしていてもやり直せないような不寛容な社会こそおかしい
といった、過去を不問に付す意見が散見されます。

現在は過去の積み重ねの結果と考える私にとって頷けないわけです。一部、改心、心機一転といった語がありますが、それが確かでないならば、現在に反映されているかは不明です。自らのツイートについての謝罪と該ツイートの削除がこれに該当するのでしょうか。って、次々に流れてくる噂がす凄過ぎて並の改心では追っつかないのでは...


ちなみに、有権者の方々は該女性議員のそういった過去をご存知の上で選良として選出されたのでしょうか。気になるところではあります。

それはさておき、この騒動の舞台は東京都議会であり、役者は都民を代表する選良です。決して、中間的な都民、平均的社会市民ではありません。

やはり、倫理面、道徳面において、少なくとも平均以上の善良な一市民であることが、都民の代表としての必要条件の一つではないのかと...

法で規定された要件さえ満たされていれば、候補としては十分かもしれませんが、だからといって、議員としての職責を果たすために必要な資質、適性が備わっているとは限りません。



該女性議員の過去の言動は、平均以上の善良な一市民のものとして受け入れられるでしょうか。

そういった視点から、例えば、民主党細野衆議院議員、橋下大阪市長も同様とみることができ、選良、為政者として如何なものかと思っています。国民、市民としてとやかく言うつもりはなく、あくまで、国民の代表、大阪市の統治者としてです。

少なくとも教育行政には携わってほしくない、というのが率直なところです。倫理面、道徳面で規範にできない、言い換えれば示しがつかないということです。

しばしば、政治家、為政者を含む著名人が法的、或いは道義的不祥事を引き起こしたとしても、改心、更生しそれを上回る活躍をし、成果を出せば構わない、責めるべきではない、といった声が上がります。市井の一般市民ならば首肯できる話で再起の道は閉ざされるべきではないのは当然です。

しかしながら、だからといって市民の規範となるべき議員や為政者にもそういった言動が許容されてしかるべきなのか、甚だ疑問です。公人の不祥事や不適切な発言を他の成果と通算して容認することは、社会をミスリードする恐れがあると懸念します。即ち、公人が問題を起こしても償えば、埋め合わせれば許される、で、この時”許される”という結果が先に固定化されていると、不祥事や不適切な発言の抑止力が減じられてしまうということです。

規範であるべき立場から社会全体へのこういった雰囲気の浸透は、自律、品性のタガが緩んだ、ぬるま湯的寛容な社会へと向かわせてしまう気がします。踏み止まらせるハードルが低くなってしまい、不祥事や不適切発言は時代を経ていつまでも続いていくわけです。

2014年6月25日水曜日

野次

依然、STAP細胞問題についてその行動原理や科学研究における成果の開示と秘匿といった対義的な関係について思いを巡らせているのですが、徒に時間を費やしている内に新たな騒動が勃発し、またたく間に沈静化しました。

多くの論者が様々な立場から言及されています。そんな中、
では、寄せられた多くのコメントに対し作者自ら対応され、その丁寧な姿勢には頭が下がります。

本騒動において野次った自民党議員は糾弾され、結局、名乗りでて謝罪し、会派を離脱することで騒動は幕引きに向かうようです。ただ、野次られた女性議員は果たして謂われなく清廉だったのか、口撃される隙すら全くなかったのか、諸手を挙げての賛同には躊躇しています。この種の躊躇いが上記エントリで言及されている野次の一般論に結びついていったのではないでしょうか。

私自身の姿勢は、”本人の責に帰さない理不尽な暴力到底容認できない”であり、この部分は微塵も揺るぎがないことを明言しておきます。該暴力には身体的攻撃は勿論ですが、騒動の原因となった野次に類する精神的なものも含みます。

――自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか――



件の自民党議員が擁護される余地はなく、糾弾されて然るべきではあります。ただ、脛に傷が見え隠れし、叩けば埃が舞い上がるかもしれない方が被害者だからこそ一般化して論じざるを得なかったかと...


その辺りの、筆者と様々な立場にある読者の捉え方の違いや価値観の相違が、誤解や齟齬、早合点、思い込み、先入観を触媒にして後々の賑やかなやり取りへと繋がっていったわけです。

以降、該エントリのコメント欄でのやりとりを材料として、この騒動の捉えられ方について思う所を雑然と挙げてみます。

(続)