2013年7月24日水曜日

対照

地方発 ドキュメンタリー「彼女たちの出産~2013 ある母子寮の日々~」(NHK総合)をちらっと見た翌朝、未来の英国国王誕生が各局のニュースバラエティ番組で報道されていました。

自らの境遇になんら責のない出生に対する、社会の歓迎姿勢のあまりの違いに、得も言われぬ遣る瀬無さというか釈然としないものを感じました。

2013年7月15日月曜日

暴走

――音楽が続く限りはダンスをやめようとしない――

リーマンショックの回顧で頻出する言葉です。


日々の食料品を求めて西友によく赴きます。特段、避ける理由はなく、むしろ大手流通の中では気に入っています。
ただ...

西友、「国産うな重」を"土用丑の日"に向けて値下げ

強い違和感を感じています。

街道の大手牛丼チェーン吉野屋すき家では鰻丼、鰻弁当の消費を煽るのぼりが旗めいています。

私のメールにはヤマナカから予約を促すメールが配信されてきます。

成城石井では値引きシールが貼られ、見切り価格で蒲焼きが販売されています。

鰻は絶滅が危惧されている食材ではないのか?

小売や外食による加工、流通の工夫なのかもしれません。マダガスカル、フィリピン、タスマニア産シラスの利用、養殖地と産地の分別による結果かもしれません。

ただ、ジャポニカ種を含む近縁種について絶滅危惧種指定への検討が進められているはずです。

ニホンウナギ「絶滅危惧種」検討 国際自然保護連合が来月会合

私はメディアに踊らされているのでしょうか。いずれにせよ整合性のなさを感じます。


喰うなというつもりはありません。ただ、喰い散らかすのではなく、節度を持って丁寧に味わえないのか、と思ってしまいます。

提供する側も鰻そのものの価値を十分引き出しているのか、首を傾げます。

メディアには消費を過剰に煽るなと...土用丑の前に、鰻養殖の一大産地を抱える地域の首長が、旨そうに鰻を頬張る姿を報道するのも如何なものか、と考えます。

資産バブルははじけた後でバブルだったと認識されます。鰻も喰い尽くして絶滅してみなければ、価値が実感できないということでしょうか。

自由主義経済の限界、私達の自律性の欠如を懸念します。

やっぱり鰻は旨いなぁ」

鰻を喰う度に毎度毎度呟いています。私はあと何本の鰻を味わえるのか、そんなことはわかりません。ただ、呟く機会が消失してしまう、鰻が幻となってしまう事態は是が非でも回避すべきです。

秋田沖の鰰、島根、鳥取沖のズワイガニのような管理システムが導入されることを願ってやみません。

緩和

前の衆院選から今参院選にわたり、一票の格差、定数削減、憲法改正といった問題が選挙の争点の一つとなっているためでしょうか、ここの所、選挙制度、特にマイナス投票や白票についての記事をよく目します。
選挙に行ってきました

参院選迫る:投票したい人がいないから棄権、抗議の白票はイカン

マイナス票を導入すべきというご意見を頂いていますが ...

(上のリンクには千葉市長からの
――大抵良い結果にならないんですよね、       
経験則的に。――
とのツィートがあるのですが、その結果や経験をもう少し具体的に開示して頂けたら、と思っています。)


勿論、今参院選で初めて注目されたわけではありません。以前からも投票の方式については有識者の提言があります。

「是認投票」という知恵 - 土居丈朗

私自身も昨年、無責任に書いていますが、便乗し更に無責任に輪を掛けて記します。

巷間、一票の格差是正と合わせて議員定数の削減が叫ばれています。私もこれまで削減支持の方向でした。

今、直ちに削減支持を翻すわけではありませんが、むしろ議員の大幅な増員は一つの提案としてあり得ないだろうかと思っています。

例えば、現行の千倍とか一万倍といったような、言わば次元の違う議員緩和です。但し、権限や経費の総枠は現行のまま固定とします。例えば、宿舎が不足ならば脱法ハウスにでもお住い頂くとして...

これまででも、決められなかった政治にますます拍車がかかり、混沌とした状態に陥るかもしれません。

一方、各議員が従来と同程度の生産性を上げれば国富は千倍、一万倍に向上し、逆に既存議員の生産性が実は国益にマイナスならば千倍、一万倍と国富は失われてしまいます。

ただ、こういった混沌状態が続けば、そこから合理的な判断を行う材料を見出し、意思決定を行う手法が確立されるかもしれません。

魑魅魍魎が跋扈する中、流行りのビッグデータ(混沌)の解析による最適な意思決定手法の発見は、将来到来するかもしれない真の意味でのネット選挙、更には、国民投票を基にした直接民主主義実現の有用なツールになると考えます。

それでも混沌状態から抜け出せない、社会の今後に展望が期待できないならば...

更なる緩和を行うのみです。

その過程で、民主主義の欠陥である、民意という自律性に欠ける、責任が極めて曖昧な強権の暴走、問題先送り、即ち、後世への責任のつけ廻しが顕になり、これを解決する処方箋が見出されることを願います。

2013年7月14日日曜日

関西

自分の行動範囲に限ってしかわかりませんが、コロッケ、ハムカツ、メンチカツについて食べログ始め食のブログでの言及はあまりされてません。
(ここで言うコロッケとはカニクリームコロッケではありません。いわゆるコロッケを指します。)

供する飲食店が少ないのか、或は、ありきたり過ぎてレビューに値しないということでしょうか。

ここではコロッケについて記します。ハムカツ、メンチカツについてはまた機会に譲ります。

確かに、コロッケは街のうどん屋のうどん定食、中華そば定食、若しくは、喫茶店の日替わりランチにはなくてはならない一品です。しかしながら、総じて印象に残るコロッケが供された記憶がありません。

予想通りというか、まあこんなものかといった感を強く感じます。驚きもなければ失望もありません。これが取り挙げられない理由でしょうか。

ところが、テイクアウトというより持ち帰りと言う表現が相応しい精肉店のコロッケ、通販その他で入手した、自宅で揚げる冷凍コロッケでは品によって風味に随分差異があることを気付かされます。その旨さに驚くこともあります。

突出して美味しいコロッケ定食を供するうどん屋、定食屋といった飲食店にあたりが少ない中、蔑ろにせず注力する店がもう少しあってもいいのでは、と願っています。 

なぜそれほど差が出るのでしょう。餅は餅屋ならぬコロッケはコロッケ屋ということでしょうか。

以下には全くローカルな店名が含まれています。読み流して頂いて構いません。

日々の惣菜としては関屋だったり、オハヨーでコロッケ他の揚げ物を買い求めています。これらが私にとってのスタンダードでしょうか。

時折、山垣畜産や三田屋総本家、三田屋本店といった関西の店から冷凍コロッケを取り寄せます。こと牛肉コロッケについてはこれら関西の品の方が一日の長があるのでしょうか。いずれも甘味があり旨いと感じるのですが、特に山垣畜産のものが気に入っています。

名古屋近郊のコロッケを食べ尽くしたわけではありませんが、自分の行動範囲内ではなかなか入手し難い風味かもしません。

未食で気になっている肉屋、揚げ物惣菜店はまだ何店かありますのでいずれ較べてみようと思っています。

ところで、上記三田屋総本家、三田屋本店ですが、名古屋味噌煮込みで言うところの山本屋総本家、山本屋本店、山本屋のような関係なのでしょうか。三田屋という商号もあるようです。

2013年7月8日月曜日

枠組

引続き学ぶということについて記します。

以前、マイケル・サンデル教授の特別講義「民主主義の逆襲」を偶々視聴しました。

この講義の見出しは

放射性廃棄物の受け入れはお金で解決できる?

でしたが、主題の一つである、

「社会でお金が果たす役割は何なのか」

についての議論の一テーマとして、学ぶことへのインセンティブとして金銭を利用した事例が挙げられていました。

番組内ではこのインセンティブ、即ち、学習の結果に対する報償金制度の導入についての賛否が論じられました。勿論、これまでのサンデル教授の講義と同じく結論には至っていません。

私自身も未だ賛否について明確な答えを持ち合わせていません。学んだ結果を何らかの数値的な指標で表すならば、金銭的インセンティブは高評価を出すことへの一定の効果は期待できるとは考えています。

「学習の結果を重視するか、或は、学ぶことそれ自体を尊重するかにより見方は異なり、金銭的インセンティブは好ましくないかもしれない。とはいえ、全面的には否定できない」が現時点での私の立ち位置でしょうか。

特に習熟度に幅がある初等教育課程において、全ての生徒が同じように、学習の意義を実感し、その価値に気付くことはあり得ないでしょう。学ぶことそれ自体に意義を見出し、自ら知的吸収をしようといった姿勢が萌芽すれば理想です。金銭的インセンティブがその端著となり、肥料として萌芽を助長する役目を担うならば、この方策も一定程度容認できると捉えています。

高等教育の場合には、金銭的インセンティブなど不要です。ただ、以下に示すように初等教育課程でインセンティブを 導入した際の副作用、弊害が後々まで、高等教育にまで尾を引いてしまう恐れはないでしょうか。この点が気懸りです。

勿論、金銭的インセンティブの有用性は認識していますが、一方で根深い副作用を避け得ないのではないかと考えます。

この副作用は上記インセンティブによって獲得した知的成果とこの成果の達成者の間に金銭が介在させてしまうことに起因します。

習得した知的成果はその経済的価値を一義に定められないのが本来ではないでしょうか。得た知識の質と量、これを基にした問題解決能力に客観的経済価値を一対一に対応させ得るとは思えません。社会、時代といった取り巻く環境、成果を得た本人と周囲の価値観によって評価は変化するのが自然です。

極端には、ヒッグス粒子の発見とIPS細胞の作製、更には、次元の異なる金融緩和の是非についての合理的説明、鰻の完全養殖技術、核廃棄物の処理技術といった知的成果を同一の経済的尺度で量ろうとするのは全く無意味でしょう。

金銭的インセンティブは習得した成果に根拠が曖昧な経済的価値を一律に押しつけてしまいます。実はもっと価値があるかもしれないし、又、それほど価値はないかもしれません。

こういった環境に身を置いた時、学習する側は無意識に金銭を通して成果を評価する、更には、経済的価値でしか習得した知的成果を評価できなくなってしまわないだろうか、危惧します。 

この延長は、学ぶこと、理解することで本来得られる何か、例えば、知的欲求の満足感を見失わさせ、学習のあるべき意義の歪曲に至ってしまうように思えます。

学ぶことの価値、知的欲求の満足感の金銭的価値への換算は、学習の目的やその成果が金銭にすり変わることを意味します。即ち、学ぶことの目的は経済的な価値の創出にある、といったように...

或は又、この学習で得た金銭的価値による充足感というものが知的満足感の感覚衰えさせかねません。 

結局、学習への金銭的インセンティブの導入、本来の知的満足感を充足させようという動機を弱めてしまう弊害を否定できないと考えます。

こういったインセンティブによる金銭の支払いという経済行為は学習の自由な思索の制限、情緒的かもしれませんが経済による学習の支配といった印象を受けます。

疑問を持ち、調べ、考え、理解する、学ぶという行為は、経済活動が営まれる社会という単位にではなく、それを構成する個人に位置付けられます。勝手な思い込みかもしれませんが、経済社会によって個人の自由が制限されるかのような違和感を持ってしまいます。 

先のエントリで柳井氏の提言に反発を感じたのは経済による学ぶことの支配への反感が根底にあるのかもしれません。

貨幣経済、資本主義、市場社会、自由主義経済、更には、民主主義といった私達が当然のように受け入れている枠組ですが、古くから指摘されている問題点、限界は未だ解決に至っていません。

これらの仕組み、形態が不完全であることを踏まえ、新たな枠組構築、或は、創出するには既存の頸木からの解放も重要ではないでしょうか。

学ぶという行為そのものを社会の枠組の外に置くことは不可能かもしれませんが、できる限り被支配、非依存で独立した視点からの考察こそが既成概念に囚われない、より優れた解、より善い態様、新たな仕組みを生み出す、社会を進歩させる駆動力であると考えます。

一蹴

実業界からというよりユニクロからだと思いますが、ファーストリテイリングの柳井氏が大学教育について要望を出されてます。これに応える形で投稿された、

大学教育に対する最近の社会的要請について

というエントリを拝読しました。遠い昔の自分の学生時代を顧みず、当時の記憶、行状を地中深くに埋没させた上で学ぶということについて記します。

馬齢を重ねてきた今、大学で学ぶ目的は未知の問題の解明、或は、その準備ではないだろうかと考えています。その結果として得られた、知的蓄積、養成された問題解決に向けてのアプローチ能力が、それらを活用できる職に就けたり、社会に貢献、公益に資することもあるだろうと捉えています。

自分の過去を雲上の彼方にある棚に上げて申し上げます。本来ならば、大学で学ぶことと職を得るための手段は決して等価ではないし、等価であってはならないと思っています。

こういった思いを背景に、上記エントリの筆者には柳井氏の意見を一蹴して強く反論して頂きたかった。

柳井氏の望む大学教育について考えてみます。

尚、氏は大学教育における教員の質、人事制度、経営といった大学自体の運営についても提言されていますが、これについて私は言及しません。大学の運営基盤について物申すほどの知見は私にはなく、おこがましいことを自覚しています。

更に言えば、こういった基盤はあくまで大学教育の目的を達成するための手段です。従って、目的に適った運営基設計、構築するには、まず大学教育の目的を明確にすることこそが必要ではないでしょうか。

柳井氏は現状の大学教育を受けた学生について

世の中で生きていくのに必要な基礎的な教養や知っておくべきことを知ってないし、知識の絶対量も少ない。そのために適切な判断ができない。もっと知識を詰め込まないと、自分が進んでいる道が世の中の方向性に合っているのか分からない。自分の判断が正しいかどうかを常に意識して行動することを習慣付けるべきだ。実業界は自分で考えて、自分で結論を出して実行できる人材を求めている

と述べられています。この見方は適度に挑発的で耳当たりよく聞こえるかもしれませんが、大学教育の目的自体が外れた上での発言であり頷けません。

利益を追求する実業人という特定の立場から発せられた意見といった印象です。視野の偏りを感じ、客観的で公平無私の、社会全体の総意とは思えません。

安直、抽象的な表現が用いられているため、ともすると聞き流してしまいがちですが、随所に違和感を感じます。

――世の中で生きていくのに...
適切な判断ができない。――?
漠然とした印象を拭えません。”世の中で生きていく”ではどのようにの部分が欠けており説明不足です。御自身の生き方、価値観を当てはめてのことでしょうか。軽々に使って理解が得られる表現ではないと考えます。

従って、続く必要”、基礎的”、教養”から適切な判断”まで具体的中身が思い浮かびません。

もっと例示するなど丁寧に説明しないと、御自分がおっしゃている意図が正しく読者に理解されるか分かりません。

 世の中の方向性に合っている”という語も曖昧です。時流、ブームに乗る、迎合するということでしょうか。独創性、先駆的、新規事業、開拓、起業といった語が想定させる形容とのズレを感じます。

尤も、世の中の方向性に合っているか否かを得られた収益で判断するならば、迎合しようがしまいが、独創であろうと模倣であろうと構わないわけですが...

続いて、”自分で考えて、自分で結論を出して実行できる”とあります。ただ、”実業界では”と始められている辺り、実業界で利益の出せる人材を供給してほしい、と勘ぐれてしまいます。

これでは、実業界で成果が出せるならば、”自分で考えて、自分で結論を出して実行できる”力があるとみなされかねません。実業人の大学教育に対する要望への専横な姿勢を感じます。

実業界に留まらず、社会の中で”自分で考えて、自分で結論を出して実行できる”素養の育成こそが大学教育の本来の役割の一つではないでしょうか。


次に、大学が学生に何を教えるかについて
―社会に望まれるビジネスはどのようなものなのか、社会により貢献できる経営のあり方、人間のあり方を教えてもらいたい。会社員製造機関ではだめで、起業家の育成が大切だ。大学や大学院でそうした講座も出てきたが、小手先だ。経営マインドを持つ人材が大学から輩出されないから、そのための機関も自前で作った。世の中を変えるような仕事ができる人材を育てたい―
と述べられています。ここでもビジネス、経営、起業といった語が連なり、内容が実業界を越えた広い分野について言及されていません。一方で、社会により貢献できる人間のあり方を大学教育に望むのは荷が重すぎるでしょう。

いずれにせよ、経営学部利益至上科への要望事項としてならともかく、大学教育全般への提言としては不十分で偏狭な印象は否めません。

最後に自前の教育機関について触れておいでですが、ファーストリテイリングのホームページにある、FR Management and Innovation Center(FRMIC)”やGlobal One Institute(GOI)と称される機関を指していらっしゃるのでしょうか。目指す人材、教育内容、その成果、いずれも不透明でよくわかりません。大学の代替、或は、それ以上に価値のある教育機関として相応しいか疑問です。

松下政経塾のような私塾のビジネス版なのか、若しくは、単なる自社社員の研修所かもしれません。どちらにしろ、”世の中を変えるような仕事ができる人材”が育成される、されているのでしょうか。当時、鳴り物入りで開塾した松下政経塾ですら、時を経た今、民主党の現状を見れば意義ある教育機関として諸手を挙げた評価は困難です。

これまで多くの企業、特に製造業で企業内高校、短大、大学といった教育機関が設立されてきました。多くの場合、自社社員を、軍になぞらえば下士官、いわゆる中堅幹部に養成し、自社の利益に寄与させる、といった目的が主であると推察しています。

勿論、教育環境が不遇だった自社社員に教育の機会を与えるといった福利厚生、又、社会に人材を供給するといった社会貢献の一面も包含していることは否定しません

そういった役割を上記FRMICGOIが担っているのでしょうか。ウェブサイトを見てみましたが、マクドナルドのハンバーガー大学に類する単なる企業内訓練研修部門のようです。

GOIは旧ユニクロ大学と称された部署で、目的は店長の短期育成とあります。最前線に臨む、兵士、駒、社蓄の訓練機関といったところでしょうか。FRMICの目的はグローバルに活躍する経営人材の育成のようですが、所詮、あくまでファーストリテイリング、或は、ユニクロ内で自社の利益拡大に活用できる人材の育成と同義です。

これが、 
社会に望まれるビジネスはどのようなものなのか、社会により貢献できる経営のあり方、人間のあり方を教えてもらいたい。
に対するファーストリテイリングの答なのでしょうか。例えば、大学の有する、社会に人材を供給するといった公益性、社会貢献の姿勢は微塵も感じられないのですが...

勿論、米スタンフォード大、豊田工業大学ほどの教育機関を期待していたわけではありません。ただ、教育内容の有用性はともかくとして、ダイエーの故中内氏が創立した流通科学大学程度の理念はあるのだろうと買いかぶっていたようです。

単なる社内の研修訓練部門での社員教育を以って、

世の中で生きていく...必要な基礎的な教養...適切な判断...自分が進んでいる道が世の中の方向性に合っているのか...自分で考えて、自分で結論を出して実行できる人材...
社会に望まれるビジネス...社会により貢献できる経営のあり方、人間のあり方...世の中を変えるような仕事ができる人材…

と大上段に宣われるのも強い違和感を感じます。

大学教育について物申す、或いは、自社の社会性について喧伝する前に自社の労働環境、待遇の整備を優先すべきではないでしょうか。 

高邁な理念の下、立派なカリキュラムを有する自社教育部門を設立しても、巷間囁かれているような高い早期離職率のままでは該部門の実効性に疑問を感じます。

いずれにせよ、柳井氏には実業人という立場を踏まえつつも、社会全体を俯瞰した位置から大学教育についての提言されたら如何でしょうか。


ところで、冒頭で引用したブログの筆者は数学者であり大学で教鞭を執っていらっしゃいます。数学に加えて、例えば理論物理、素粒子物理学、博物学、考古学、哲学、歴史学、文化人類学、芸術といった分野柳井氏の大学教育に対する要望の視点から氏にはどう映っているのか知りたい所です。 



(続)