2013年7月8日月曜日

枠組

引続き学ぶということについて記します。

以前、マイケル・サンデル教授の特別講義「民主主義の逆襲」を偶々視聴しました。

この講義の見出しは

放射性廃棄物の受け入れはお金で解決できる?

でしたが、主題の一つである、

「社会でお金が果たす役割は何なのか」

についての議論の一テーマとして、学ぶことへのインセンティブとして金銭を利用した事例が挙げられていました。

番組内ではこのインセンティブ、即ち、学習の結果に対する報償金制度の導入についての賛否が論じられました。勿論、これまでのサンデル教授の講義と同じく結論には至っていません。

私自身も未だ賛否について明確な答えを持ち合わせていません。学んだ結果を何らかの数値的な指標で表すならば、金銭的インセンティブは高評価を出すことへの一定の効果は期待できるとは考えています。

「学習の結果を重視するか、或は、学ぶことそれ自体を尊重するかにより見方は異なり、金銭的インセンティブは好ましくないかもしれない。とはいえ、全面的には否定できない」が現時点での私の立ち位置でしょうか。

特に習熟度に幅がある初等教育課程において、全ての生徒が同じように、学習の意義を実感し、その価値に気付くことはあり得ないでしょう。学ぶことそれ自体に意義を見出し、自ら知的吸収をしようといった姿勢が萌芽すれば理想です。金銭的インセンティブがその端著となり、肥料として萌芽を助長する役目を担うならば、この方策も一定程度容認できると捉えています。

高等教育の場合には、金銭的インセンティブなど不要です。ただ、以下に示すように初等教育課程でインセンティブを 導入した際の副作用、弊害が後々まで、高等教育にまで尾を引いてしまう恐れはないでしょうか。この点が気懸りです。

勿論、金銭的インセンティブの有用性は認識していますが、一方で根深い副作用を避け得ないのではないかと考えます。

この副作用は上記インセンティブによって獲得した知的成果とこの成果の達成者の間に金銭が介在させてしまうことに起因します。

習得した知的成果はその経済的価値を一義に定められないのが本来ではないでしょうか。得た知識の質と量、これを基にした問題解決能力に客観的経済価値を一対一に対応させ得るとは思えません。社会、時代といった取り巻く環境、成果を得た本人と周囲の価値観によって評価は変化するのが自然です。

極端には、ヒッグス粒子の発見とIPS細胞の作製、更には、次元の異なる金融緩和の是非についての合理的説明、鰻の完全養殖技術、核廃棄物の処理技術といった知的成果を同一の経済的尺度で量ろうとするのは全く無意味でしょう。

金銭的インセンティブは習得した成果に根拠が曖昧な経済的価値を一律に押しつけてしまいます。実はもっと価値があるかもしれないし、又、それほど価値はないかもしれません。

こういった環境に身を置いた時、学習する側は無意識に金銭を通して成果を評価する、更には、経済的価値でしか習得した知的成果を評価できなくなってしまわないだろうか、危惧します。 

この延長は、学ぶこと、理解することで本来得られる何か、例えば、知的欲求の満足感を見失わさせ、学習のあるべき意義の歪曲に至ってしまうように思えます。

学ぶことの価値、知的欲求の満足感の金銭的価値への換算は、学習の目的やその成果が金銭にすり変わることを意味します。即ち、学ぶことの目的は経済的な価値の創出にある、といったように...

或は又、この学習で得た金銭的価値による充足感というものが知的満足感の感覚衰えさせかねません。 

結局、学習への金銭的インセンティブの導入、本来の知的満足感を充足させようという動機を弱めてしまう弊害を否定できないと考えます。

こういったインセンティブによる金銭の支払いという経済行為は学習の自由な思索の制限、情緒的かもしれませんが経済による学習の支配といった印象を受けます。

疑問を持ち、調べ、考え、理解する、学ぶという行為は、経済活動が営まれる社会という単位にではなく、それを構成する個人に位置付けられます。勝手な思い込みかもしれませんが、経済社会によって個人の自由が制限されるかのような違和感を持ってしまいます。 

先のエントリで柳井氏の提言に反発を感じたのは経済による学ぶことの支配への反感が根底にあるのかもしれません。

貨幣経済、資本主義、市場社会、自由主義経済、更には、民主主義といった私達が当然のように受け入れている枠組ですが、古くから指摘されている問題点、限界は未だ解決に至っていません。

これらの仕組み、形態が不完全であることを踏まえ、新たな枠組構築、或は、創出するには既存の頸木からの解放も重要ではないでしょうか。

学ぶという行為そのものを社会の枠組の外に置くことは不可能かもしれませんが、できる限り被支配、非依存で独立した視点からの考察こそが既成概念に囚われない、より優れた解、より善い態様、新たな仕組みを生み出す、社会を進歩させる駆動力であると考えます。

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