2013年12月3日火曜日

王道

以前、生産性について言及されているブログを拝読しました。 

「生産性の概念の欠如」がたぶんもっとも深刻 

このエントリの内容に対する所感も含め、”生産性”について思ったところを記します。

該エントリの指摘は全くご尤もなわけですが、総論的というか表面的といった感が否めません。現状についての問題は説明されているものの、個別具体的な解決策の提案や米国での事例に欠けています。

”ホワイトカラーの生産性向上”が叫ばれるのは今に始まったことではなく、過去十年、二十年、更にそれ以上古くから延々指摘され続け、未だ未解決の問題です。

残念ながら上記内容にも目新しいものを感じませんでした。実の所、製造と単純事務処理部分以外で、即ち、いわゆるホワイトカラーの業務部分で合理的に生産性は上げられるのだろうか、懐疑的にみています。

確かに、情報の収集、処理といった業務の生産性は向上してきました。しかしながら、これらは上記業務の主幹であろう創造と判断の周辺作業に過ぎません。創造と判断の生産性向上を図るのは相当難題かと考えます。

後はせいぜい、不要な資料作成、根回し、結論の出ない会議、承認を得るための御説明、打合せと称される雑談を排除する、といったところでしょうか。

生産性を、生産された価値に対する投入資源量の割合とします。製造や単純事務処理作業の現場ならば、これら生産性は評価可能であり、比較的容易に向上の方策も見出せます。

投入資源は人、時間、設備、原材料、ユーティリティであり、費用への換算は容易です。生産された価値は、製造業務であれば、製品の経済的価値で、単純事務処理作業ならば処理件数で評価できます。

即ち、生産された価値を単位投入資源当たりの生産額に換算できる業務ならば、生産性という概念を意識できますし評価指標もありますから、向上を図るといった動機も生まれ実行に移せます。 

経済的価値に換算可能ならば時間でも処理件数でも、数値化できれば構いません。で、この経済的価値が営利企業の利益に結びつき個々人の給与に反映されていくわけです。

ところが、ホワイトカラーの業務部分の生産性となると生産された価値の評価が困難かと考えます。恣意を交えずに、たとえ企業内だけの相対評価であっても客観、公正、中立にできるものなのでしょうか。

勿論、営利企業であれば最終的には会社の利益に収斂させることになりますが、生産された価値をどのように換算すべきでしょうか。よくわかりません。

そういった部分を例示することなく”ホワイトカラーの生産性...”について言及されるのも如何なものかと思うところです。

かつて首までどっぷり漬かっていたメーカーの研究、開発、生産技術といった技術部門で考えてみます。

該エントリでは、製造の「コストを3%下げる」、「コストを3割下げる」といった目標に対し、
”3%の方はこまごました改善の積み重ねで達成し、3割下げるほうは、設計思想とか組み立て工程を抜本的に見直したり、調達先を国内から海外に移す、もしくは、系列以外からも調達するとか、どーんと発想を変えることで実現する。”
と述べられています。ここで、混同しやすいのですが上記はあくまで製造部門の生産性向上です。決して、設計や生産技術、調達購買、事業企画といった各部門の生産性が向上している訳ではありません。

製造部門での生産性を上げることを目的に上記各部門の業務が遂行されます。従って、各部門の生産物はこの目的を達成し得る施策ですから、該部門の生産性向上はこの企画立案の効率化に他なりません。

製造部門で製品のコストダウンを達成する方策の生産性を向上させるということです。この方策の生産性がホワイトカラーの業務部分の生産性に相当します。該生産性は製造部門での生産性向上効果から類推できるものの間接的なものに留まり、正確には評価し難い部分があると考えます。

製造から更に距離がある研究業務の生産性についてはどうでしょうか。民間の営利企業であれば将来の会社の利益に貢献する新技術、新製品の研究開発が研究部門の一般的な目的です。社会貢献、技術力アピールといった広報的な役目もないわけではありませんが決して主目的たり得ません。

御指摘頂ければ有難いのですが、民間企業において研究業務の生産性を評価するにはどういった指標が適切なのでしょうか。論文や学会発表、特許出願、登録の件数なのか、或いは、それらの質なのか、果たしてこういった指標で研究業務の生産性が評価し得るのか、それらは研究の生産性向上にどの程度寄与するものなのか、手放しで首肯できない部分が多々あります。

大学を始めとする公的な研究機関ならば、上述の成果の公開以外、術はありません。それでも質をどう評価するかの課題は残るわけですが...学術界という公正、客観的であろう第三者機関による相互評価に頼らざるを得ないわけです。

近年、かつて企業内研究者であった方々の、在職中に発明者として登録された特許に関し、経済的対価を巡って訴訟にまで発展する事例が見受けられます。珍しくはなくなってきましたが、とても全ての企業内研究者に適用できない、未だ稀な事例と考えます。 

確かに裁判所に判断を委ねるのも一つの手法かもしれませんが、評価作業の生産性を考えれば非現実的であるのは明らかです。一般的、定常的に適用できる手法ではありません。

研究成果も含め、直ちに経済的価値に換算できない生産物の評価に対しては、なんとなくといった要素を排除し得ない、裁量を含む総合的評価が実情ではないでしょうか。で、評価の正当性を裏付けたり、説得性を持たせるために成果の公表件数で修飾、或は虚飾すると...

そもそも公開可能な研究成果は当該企業にとって最重要ではないか、過去の記録のはずです。真に利益に貢献する重要で最新の成果ならば特許を除き社外秘、場合によっては部外秘が当然と考えます。

おそらく、社内、或は部内の評価者と被評価者間で研究テーマの価値観が共有され、曖昧ながらも、これを元に進捗、成果に対する評価の合意形成がなされているのではないでしょうか。

客観性、定量性に欠け、暗黙的というか内輪の評価と言われればその通りで密室性も否定できません。食べログや食べ歩きのブログで見られる点数評価ほど偏向的、主観的ではないにしてもそういった要素を排除し得ません。

従って、価値観が共有されていないと合意形成に時間がかかりますし、下された評価に異論が生じるわけです。希有でもなく至極日常的な話です。

斯様に製造を除く技術部門、研究開発、設計のみならず、生産技術、品質、設備、特許技術安全衛生、環境といった管理部門において、業務の生産性は合理的、客観的に評価し難いものがある、と捉えています。生産性の評価手法が定まらない一方で生産性の向上が叫ばれても、空論に聞こえてしまうのも当然ではないでしょうか。

尚、総務、人事、庶務、法務、財務経理、広報、購買情報システム、海外事業となると、全く門外漢で私にはわかりません。ただ、根幹で類似した合理性に欠く、不明確な部分があるものと想像します。

いわゆるホワイトカラーと称される職種において、各業務の生産性評価は上述の如く容易ではありません。しかしながら、評価の内輪性は否定し得ないとしても、評価者と被評価者間で業務の目標設定の合意と価値観の共有、いわゆる摺合わせは最低限なされるべきかと考えます。

創造と判断の生産性に対する評価基準が明確ではなく、評価が一義に定められない環境では、共通の価値観を持つグループ内に限られた相対評価にならざるを得ません。

先述の”学術界という公正、客観的であろう第三者機関による相互評価”はその典型です。逆に、近年しばしば生じているノーベル賞受賞者への後追いの文化勲章授与などは、評価基準が不定だったり、輪の外からの評価なため、国内では正当に評価され得ない一例ではないでしょうか。で、ノーベル賞受賞という明らかな成果、功績への文化勲章の授与といった印象です。

いずれにせよ、創造と判断の生産性評価はこの限定された相対評価が限界です。それすら行われていない組織では、いくら生産性向上が叫ばれても掛け声倒れに終わってしまうのは言うまでもないことです。尤も、例え評価制度が設けられていたとしても、内輪の相対的なものであることに気がつかず、公正な評価システムが機能していると勘違いしている組織では、真に生産性を向上させることは難しいかと考えます。 

そういった、生産性についての個別具体的、現実的な施策に触れることなく、直面する問題には目を瞑ったまま、聞き心地のいい概論を展開する...

ちきりん「ネット上では議論をしません。する意味ないから」宣言に見る、マッキンゼーらしさ

正にコンサルタントの王道を未だ踏み外すことなく歩み続けていらっしゃるなぁ、と改めてその無責任さに感じ入った次第です。


上記内輪の評価についてもう少し考えてみます。