2013年10月29日火曜日

空気

――この国に本当の意味で平等なんてないしもっといえば民主主義なんて無いんですよ。若者は不当に差別されており、抑圧されている。こんな状態で子供なんて増えるはずが無いですし、起業だって活性化するはず無いですよね。――

(略)
――一票の格差を是正することでこの社会保障全体主義体制を修正して、健全なる民主主義国家をこの国に打ち立てることを僕の人生の目標にしたいと思っています。――

元官僚の方が御自身のブログで言及されています。
 

この国に平等なんて無い 〜脱・社会保障全体主義体制〜

仰る通りで、異論はないのですが、傍観者の立場から”健全なる民主主義”という語について思ったところを記します。

上記”一票の格差”はさっさと是正されるべきです。法治国家を名乗るならば...

ただ、是正されたとしても前半部の問題が解決するとは思えないのです。”若者は不当に差別されており、抑圧されている。”ことこそ民主主義の本質ではないでしょうか。

”みんな”という責任が曖昧で漠とした実体のない空気に重要な判断を委ね社会が動かされていく、
個々人は”みんな”に責任を転嫁する、
蔓延するみんなという”空気”が媒体となって個人同士を牽制し同調圧力をかけあう、

といったところが民主主義の避けられない根幹と考えます。で、この時、解決が困難な、或は、不可能な問題に直面した時”空気”はどう判断するでしょうか。

これまでの事例を鑑みれば、多くの場合、”空気”は未来、次世代への問題の先送り、負担のツケ廻し、責任の転嫁を選択していると考えます。

上記”若者は...”は、この絶えまなく継承されてきた空気の流れの一断面にしか過ぎません。若者は又、次世代に負担をツケ廻していくことになります。

例えば、
――先日NHKの番組で18歳の若者が「消費税増税に反対の大人は、借金のツケを次世代に回そうとしている」と批判していました。――
といった意見をどこかで目にしたのですが、この18歳の若者は、次世代の、更に言えば未だこの世に生まれ出ぬ将来世代に、自分達の分も含めた負担を消費税という形でツケ廻していることに気付いていないのでしょうか。

新生児が出生する、いや仮に死産であっても実在し、呼吸する、生きている、存在していただけで既存のルールに従わされて消費税が課税される、本人に帰すべき責があるとは思えません。

理不尽だとは思いますが、これも民主主義の本質が体現された一例でしょう。

こういった姿勢は例えば原発量的金融緩和からも窺い知ることができます。


――実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが。  (ウィンストン・チャーチル)――

は有名な言葉ですが、この頸木から未だ解き放たれていないように感じます。

私、政治、社会、経済といった人文系は全く門外漢です。(勿論、他も怪しいです。)

民主主義を越える選択肢は存在しない”は確立された大前提として世の中の共通認識なのでしょうか。よく分かっていません。

民主主義の現状は道半ばであり、理想、目標へと未だ進展し続けているのだろうか、といった疑問も依然として残っています。

そういった点も含め、健全なる民主主義、民主主義理想について説明頂ければ幸いです。

連鎖

全ての責を母親のみに負わせ難い、自身の生い立ちに引きずられた抗えない力を感じてしまいます。

杉山春「ルポ虐待——大阪二児置き去り死事件」
【読書感想】ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件

ノンフィクションとして
”永山則夫 封印された鑑定記録”
(堀川 惠子 岩波書店 2013年)
と照らせば強い類似性を感じます。

本来、親の養育によって形成される子の人格(気質、性格、個性)には、親世代自ら生育履歴そのものは反映されないと信じていますし、信じたいと思っています。

しかしながら、
 ――親自身の幼少時の生育環境が自分の子の養育に
及ぼすことを排除し得ない――
上記事例は、そういった疑問を想起させます。

例えば、”虐待”、”連鎖”といった語で検索してみると、何件もの相談、告白があり、又、公的機関からの情報、報告も見つかりました。

「虐待かな?」と思ったら・・・。 東京都福祉保健局
児童虐待における世代間連鎖の問題と援助的介入の方略:. 発達臨床心理学的視点から(久保田まり 季刊社会保障研究 Vol.45 No.4 2010 国立社会保障・人口問題研究所
(木本, 美際, 岡本, 祐子 広島大学心理学研究 : Hiroshima Psychological Research no.7 page.207-225 (20080331))

これまでなんとなく伝え聞いてはいたのですが、実は広く認知されている問題のようです。ただ、これまで断ち切られることなく続いてきたであろう負の継承にも拘らず、公に周知されるようになったのは上記資料の公開年次を見ればここ十年以内でしょうか。 

そういった中、”封印された鑑定記録”は、公的な資料ではないものの、過去の具体的事実公開された、赤裸々な記録
す。 


幼少時に植え付けられた自己に対する周囲(=保護者)からの拒絶、嫌悪、敵意を自らの意識としてしまい、それが踏襲されてしまうのでしょう。

残念ながら私には論じるための知見もなく、いかんともし難い無力感を抱くのみです。己の責に依らない、避け得ない見えざる力に恐れさえ感じてしまいます。


虐待に関する事件の衝撃、悲痛さを過大に捉え、問題の本質を一律に論じたり、目を逸らす、覆い隠したりすることは避けるべきです。更なる統計的、客観的調査と論理的検証を進めることが必要かと考えます。

こういった作業を基にした、被虐体験を持つ親の深層に潜む自らの子に対する虐待の動機が明らかにされ、その対処法が見出されることを強く願います。

いずれにせよ、こういった問題に纏わる事件が引きも切らず報道され、明確な処方箋がないまま未だ根絶に至っていない、そういった社会は果して賢い社会なのでしょうか。

科学技術の急速な進歩に見合う程、果して社会は賢くなってきたのだろうか、疑念を抱いています。この問題も疑念の根拠の一つです。

2013年10月22日火曜日

行儀

以前、ルキウスさんが自分の隣の席に荷物を置く、寿司屋や割烹に設えてある白木のカウンターに余計な物を置くといった行儀が良くない所作について、幾度となく取り上げています。

医者にしちゃあ、ようでけた人だ 
スパゲッティ「コモ」にて
カウンターに物を置くな

大いに首肯できる指摘と思いながらも、果して、そういった無作法が正されていくことは期待できるかを考えれば、残念ながら、なかなか難しく、今後もそういった不快な場面に遭遇してしまう気がします。

自分が無意識にその当事者になってしまう可能性、自戒も込めて考えてみます。

上記エントリではメガネ、サンバイザー、カバンをカウンターに置いた出来事が示されています。カバンをカウンターには論外かと考えますが、当人に取ってはメガネ、サンバイザーの延長なのかもしれません。”メガネは良くてなぜカバンはダメなのか”と...衛生面や物理的スペースの面で論外と考えるわけですが、置く側にとってはそういう意識もないのかもしれません。

サンバイザーは帽子の類(=装身具、衣類)ですからカウンターに置くのは不適切です。この辺りから店と来店客のミスマッチが生じ始めると考えます。

極端にはクロークがあって手荷物、帽子、コートを預けることができ、それが当然の料理店のテーブルと、コートを着たまま、更には帽子も被ったまま飲食しても何ら違和感のない駅の立ち食い蕎麦屋や牛丼店のカウンターとを、同列に論じるのは無理があるということです。

これら飲食店の間に位置付けられる店も相当数に上ります。結局、設備とは無関係に来店客の手荷物、携行品に配慮できる店とできない店、飲食の際に荷物や携行品を程よく納めておきたい客と無頓着な客、各々の組合せで、品性に疑問符のつく場面に容易に出会してしまうのではないでしょうか。

これは、いわゆる高級店か否かには依りません。椅子の下に荷物を保管するカゴを置いている、或は、カウンターの下に棚が作られている、小体な街のラーメン店もあります。一方、それなりの店であっても、手荷物を直に置くことが憚られるような床があるのも事実です。総じて、傾向がないわけではありませんが...

さて、メガネをカウンターに置くことについてですが、私自身はほぼ置いてしまってます。無意識に...

で、もう少し広げてタバコとライター、昨今では、ケータイとなるとどうなんでしょうか。禁煙の飲食店が増え、喫煙者が減少する状況でカウンターに置かれたタバコとライターを見ることは少なくなってきたかもしれません。ただ、その一方でケータイはカウンターに溢れています。

手元になければならないのでしょう。皆さん防衛大臣だったり、救急病院の医師だったり、更には、日本経済や世界平和の命運を左右する重責を担っていますから。

第一、ケータイで出された料理の写真を撮らなければなりませんし、己の存在を確認するための大事な分身でもあります。

余計な話はさておき、やはりカウンターに無用品を置くという行為はなくならないでしょう。個々の客のカウンターに対する捉え方は千差万別であり、一方、店側の想定するカウンターの使われ方にも温度差があります。

育ちの問題と言ってしまえばそれまでですが、分別をつけて使い分けるのは困難です。駅の立ち食い蕎麦屋、牛丼屋、街場の中華屋、回転寿司のチェーン店、居酒屋、バー、カラオケスナックの訪問客が果して、割烹、対面の寿司屋の清潔な白木のカウンターに価値を認めたり、敬意を払うことができるのでしょうか、疑問です。勿論、客に一目置かれるカウンターが一体どれだけの飲食店にあるのか、といった疑問も同時にあるわけですが...

結局、そういったことを誰から教わるか、知らされるかに帰結するのではないでしょうか。

飲食店でいえば若き日の池波正太郎を注意した店でしょうがそういった僥倖に巡り会えることはなかなか稀でしょう。学生や新社会人ならともかくベテランの社会人に注意を促すのは店側からすれば勇気が要ることです。俺ルールを強いる店とは全く違いますし...

酒食を共にする先輩、上司、同僚、友人間の自然発生的な醸成くらいかもしれません。ただ、これとてどこまで期待できるか、疑問ではあります。

以前のエントリで、公共の場に乳幼児を帯同した場合のマナーについて触れました。他にも列車内の座席指定に纏わる不快な出来事事態に遭遇することも珍しくありません。

いずれにせよ、社会には、日常のごく普通の生活、行動、振舞、所作におけるマナー、モラル、エチケットについて教える、知らせる、或は、学ぶ、知る機会が圧倒的に欠けていることを痛感しています。

飲食店の主人、従業員、公共交通機関の駅員、車掌といった職員に責を負わせて解決が進む問題でもありません。

となると義務教育課程でしょうか。いじめ問題が注目され義務教育への道徳の教科化が検討されているようです。ただ、道徳教育は、個々の価値観に踏み込む部分もあり一律に教え込むのも如何なものか、といった印象を持っています。

道徳教育などと大上段に振り被る以前に、身近な社会の知識やルールを伝える責務こそを義務教育課程が担うべきと考えます。

優先すべきは明文化されていない、暗黙であるが故に曖昧な
社会のルール、マナー、モラルをその根拠と共に理解させることです。そういった個別具体的な事例を通じて初めて、道徳という観念を捉えさせ、考させることができるのではないでしょうか。

勿論、ここに飲食店のカウンターを含める必要はありませんが...



2013年10月20日日曜日

浅慮

「少子化危機突破基金」って大丈夫なんでしょうか、そんなことで。

”取り敢えず何かやっとけ”感がべったりとこびり付いて拭えないのですが...更なる熟慮をお薦めします。


「少子化危機突破基金」の婚活支援に物申す~ネーミングセンスと本末転倒な経済効果試算はどうにかならないか? 

正しく本末転倒です。高齢化も伴う少子化対策に真摯に取り組んでいるとはみえません。

成熟した先進国で当然のように標榜されている、民主主義、市場経済社会の、抗がえない本質を見据えた提案を願いたいところです。

2013年10月19日土曜日

転嫁

時折、ブログに公開された天然鰻の料理写真を目にします。

鰻の現状など全く意に介すことなく、”あっさりしている”、”しつこくない”といった寸評が写真に添えられています。

私自身は、

食べられぬ心配だけで保護意識が無いウナギ報道
ウナギの乱食にブレーキをかけられるのは誰か?
ウナギをどう看取るか?
日本のウナギ根絶作戦が、ついに最終段階

と捉えているのですが...

更に天然鰻については、

“世界的ウナギ博士”からの提言 「ニホンウナギを守ろう!」
EASEC緊急提言(Final).pdf(日本語版)

と天然鰻の保護こそが将来の鰻資源回復に極めて重要な方策であると認識しています。

そういった現状を踏まえた上で、天然鰻の料理写真がブログにアップされているのか否か、私の知る所ではありません。ただ、平然と上記コメントを添えて写真を公開する行為には無神経さを感じます。

こういったブログの中には、飲食店のレビューを料理の写真と共に公開するに留まらず、社会性、公益性を意識した意見や問題提起をしているブログもあります。

例えば、食の安全については啓蒙しているつもりなのか、食品添加物の使用となると神経を尖らし、法令を遵守していても添加物を使用する食品メーカーを責め立て、攻撃し製品の不買を煽ったりしています。

或いは、飲食店内での喫煙については、店側が禁煙を定めているわけではないにも拘らず、居合わせた客の喫煙をブログ上で毒づき、非難したりしています。

その一方で、天然鰻を口にすることには寛容で、脳天気に天然鰻の料理写真をブログ上で公開する...独善的、利己的で傲岸不遜な姿勢に不快感を持ちます。


身勝手な俺ルールの合理性、公正性を疑わず、公益に資すると思い込む、で、そのルールの厳守を叫び、逸脱することを糾弾する、新興宗教の教祖、独裁集団の指導者と同根のものを感じてしまいます。

飲食についての蘊蓄をひけらかす人々ならば、鰻、特にニホンウナギが絶滅の危機に瀕していることは十分承知のはずです。

実は長良川の天然鰻をいくら消費しても国内の鰻資源量への影響はない、鰻資源枯渇の心配は杞憂に過ぎないとも思えません。


天然鰻の消費は鰻資源の回復に悪影響を及ぼすどころか、枯渇を助長しかねません。にも拘らず尚、どういった意識、動機が天然鰻口にさせるのかについて推してみます。鰻資源の現状について知識がない場合は除きます。

”鰻資源危機的状況から目を逸らして天然鰻口にる”は、

違法ではない実感がない関知する所ではないなんとかなる”といったところが理由として想定できます。

自重、自律といった姿勢の片鱗も見受けられません。

”今、自分達さえ口にできれば、その後鰻資源が枯渇しようと構わない。” 

総じて、根幹はそういった意識ではないでしょうか。”なんとかなる”は、やや意味あいが異なりますが、本質は、”自分以外の誰かが何とかしてくれるだろう”といった楽観的な他力本願の表れでしょう。責任感を欠いた依存の強さを感じさせます。

鰻の完全養殖の確立を目指し、研究が進められているのは事実です。しかしながら、未だ道半ばであり、実用化できる程の完成度には達していないようです。

天然、養殖に関わらず、鰻とみれば喰い漁る、そういった姿勢で果して、鰻資源が枯渇するまでに完全養殖実用化技術が間に合うのでしょうか、危惧しています。

いずれにせよ、鰻資源の回復を一方的に科学技術に頼ることは身勝手であり、野放図に鰻を喰い尽くすことが免責されるわけではありません。資源回復の責任を科学技術に負わせるというか、転嫁することで鰻を口にしていい理由付けをしているかにみえてしまいます。

単に、不確定の未来に責任所在を先送りしているだけではないでしょうか。

この鰻資源の問題は不確定の未来に責任所在を先送りする”といった、民主主義、市場経済社会の根幹にある責任の不透明性、刹那的な利己性を改めて確認させます。

未だ是非が紛糾している原発とその再稼働、破綻に向かう社会保障制度、崩壊から逃れ得ないバブル経済次世代への負債のツケ廻しである量的金融緩和と消費増税、こういった事例にも同様の動きが垣間見えてしまいます。

この抗えない本質を認識し自律機能を社会に組み込めるほど、果して私達は賢いのでしょうか


2013年10月16日水曜日

行進

引続き蛇足です。


2.思考の停止

先のエントリで引用させて頂いた、

3)ただひたすら「全ての戦争は回避すべき」と思い込む者は、歴史を正しく考察することもできず、正義も同胞も守ることができない。

についてですが、”全ての戦争は回避すべき”に平和行進と同根のものを感じています。

年6月中〜下旬頃、自宅前を平和行進の一団が通り過ぎていきます。行進の数日前には、その年に起こった核に纏わるトピックスを印刷したチラシがポストに投函されます。

――平和行進で生み出されるものは何か――

そのチラシを見ると毎年考えてしまいます。一団はなぜ歩くのでしょうか。核兵器の廃絶を目指しているのか、願掛け、お百度参りに似た行為なのでしょうか。或は、歩くこと、集団で歩く行進という行為が好きなのか。

現住所に居住以来、平和行進を間近で見ているわけですが、その間にもパキスタン、インド、イラン、北朝鮮辺りで問題は頻発してしてきました。

本エントリを書いている丁度今、

――国連共同声明「核の不使用」署名へ 
安倍政権が方針転換(朝日新聞デジタル)――

という記事を見つけたのですが、これが平和行進の成果とも思えません。

この平和行進はある種のデモとみなせますが、果してデモは目的を達成する手段となり得るのでしょうか。例えば、平和行進についてのwebサイトを見ても、その行動がどういった論理で核兵器の廃絶に結びつくのか、理解できないのです。

デモという示威行為は、特定の主義や意見を主張すると共に、その意見を持つ人々が一定数存在していることを示す行為です。で、その行為が目標の達成にどう繋がっていくのでしょうか。

少なくとも共感を呼び、感化する、言い換えれば、扇動できなければ目標との距離は永遠に縮まらないと考えます。最終的、究極の姿として”核なき世界”に異が唱えられることは少ないはずです。核保有国の大統領もノーベル平和賞を受賞されてますし...

少なくとも国内において、核なき世界”が既に社会のほぼ共通した願いであるのは間違いのないところと考えています。 

問題はそ目標に至る目論みの欠如と直面する安全保障上の懸念に対する無策でしょう。行進で核兵器の廃絶を訴えるノボリを見る度、”取り敢えず何かしている”感というか、ある種の無責任さを感じてしまいます。表現が適切ではないかもしれませんが、子供が冷静に駄々を捏ねているかのような印象を拭えません。

これらの問題に解決の兆しが認められない限り、膠着したままの現状が続いていくと考えます。

私の理解が不十分なのでしょうか。であれば、毎年の行進によって核なき世界”にどれだけ近づいたのか、事態はどう好転したのか、或は、目標を達成する手段として行進は最適なのか、是非知りたいところです。

冒頭の”全ての戦争は回避すべき”には平和行進取り敢えず何かしている”感にも似た、澱んだ思考状態を連想させます。

ただこの状態は、当事者にしてみれば案外心地良いものなのかもしれません。

2013年10月14日月曜日

浸透

前のエントリの補足というか蛇足です。


1.漫画の功罪


”はだしのゲン”閲覧制限に関する一連の騒動を通じ、漫画というメディアの功罪を改めて実感しました。

絵と台詞で構成される物語で情報を伝達する漫画というメディアは、情報を伝える手法として効果的であると考えます。

私自身、漫画が低俗とみなされ軽視されていた時分から、それなりの位置付けが認められるようになった、なってしまった現在まで読み続けています。

情報それ自体の正当性、品性、信頼性、精度、充実度はともかくとしてですが漫画の読者への伝達力、浸透力は、新聞に代表される文字情報を主としたメディアより明かに優っています。

これは、単に漫画が絵と文字から構成され、伝えられた情報を想像し易いといった理由だけではなく、読者の目を強く意識した編集にも由来しているのではないでしょうか。

典型的な商業誌である漫画は、他の出版物に較べ発行部数に神経を尖らせており、読者目線でいかに理解、共感、支持させるか、即ち、人気を最優先して編集、発行されていると考えます。

読者プレゼントの不正をしてまで読者からの評判を掻き集めようとした秋田書店、そういった姿勢こそ、その証左です。

従って、事実を元にしたと称する漫画であっても、どこまで忠実に事実に即しているかは不透明です。読者からの人気を獲得するために、この根深い体質が事実を歪曲せしめた漫画に改変してしまう可能性容易に想像できます。

真実性を印象づけるため、事実を元にした漫画と標榜していても、果たして真に即した、基づいたとは限らず、創作や編集による省略、誇張、歪曲、捏造は排除し得ません。脚色、或は、演出といった語で表現されるのかもしれませんが...

建前上だけかもしれませんが、中立、公正、客観性を主張する新聞報道ですら偏向性、恣意性が窺われます。そういった姿勢を求める声が少ない漫画では、自ずと読者に理解、共感、支持させるために事実を改変する”行為に対する抵抗、躊躇は小さくなります。

つけ加えれば、漫画という分野は真実性や客観性より作品の独自性、創造性が尊重される一面も有していると思っています。

こういった特性は、中立性、公正性を保持すべく、事実からの乖離を抑止、抑制しようとする力にはなり得ず、むしろ逆方向へと促してしまいます。

作者の主観に支えられている漫画は、積極的、必然的に事実の変歪や捏造を生み出してしまう、と捉えるべきかもしれません。

歪曲や捏造(=脚色や創造)を制限する力が作用せず、又、自律性の弱い漫画というメディアに客観性を求めること自体、本質的に相当難題ではないかと考えます。

漫画のこの特性は、宣伝、印象操作、極端には洗脳の手段として容易に漫画が利用されてしまうことに結びつきます。

真実、中立、公正、客観を装いながら作者側の意図、作意を作品に織り込むことで、読者の無意識下に特定の主義、主張、思想、意見が浸透せしめられてしまいます。論理的で説得力のある、優れた漫画である程、違和感を感じさせず、尤もらしい、自然で、強い摺り込み作用が働きかけてくるわけです。

”美味しんぼ”、”課長 島耕作”に代表される一連のシリーズ、更には”ワンピース”といった人気漫画は上記特性を内包している典型と受け止めています。漫画ではありませんが、昨今衆目を集める、映画”風立ちぬ”もその一例かと...正否はともかくとしてです。

政治的、社会的問題を扱った漫画、食物、料理に代表される蘊蓄、知識を伝える漫画は、読者の知的好奇心を適度に刺激します。こういった漫画では、作品に埋め込まれた意図がより抵抗なく読者に浸透せしめられてしまうのではないでしょうか。

小説、映画と同様に漫画というメディアは、表現の自由、創造性を声高に叫びその尊重を要求してきます。同時に、事実に基づいていることを強調し、あたかもノンフィクションであるかの如く喧伝し誤認へと導く強い力も併存させています。

”はだしのゲン”の例を出すまでもありません。

漫画には読者、特に予断を持たない若年層に対する思想教育、印象操作に利用されかねない強い浸透力があります。しかしながら、それを拒絶する、疑問視する力は極めて弱いものでしかありません。

正対を避け斜に構えるのも、漫画と向き合う一つの姿勢かと考えます。


もう少し蛇足を続けます。

2013年10月9日水曜日

準備

更に続けます。

初等〜中等教育課程に在学する児童、生徒に向けた教材として、漫画”はだしのゲン”の適否を、該教育課程に着目してみます。

前のエントリ内のリンクには、”教育基本法、学校教育法違反である”が理由の一つとされています。しかしながら、こういった法令以前に、初等〜中等教育には解決すべき問題が放置されており、これが該漫画が不適切である根源的理由と考えています。

政治的、思想的表現の真偽、適否といった内容に踏み込む以前の問題です。

十分な予備知識、現状についての理解、共通認識というか一般的な社会通念も育まれないまま、先行して中立性、公正性、客観性が十分に担保されているとは言い難い情報が児童、生徒に摺り込まれることを憂慮しています。

加えて、公開の場で
自由な議論がないまま、思考停止の状態に陥っていること、即ち、上記状況が放置されている、されてきたことは極めて深刻な問題と捉えています。


3.初等〜中等教育の問題

長文ですが、BLOGOSに投稿された至極真っ当な意見を引用します。(詳細)

(引用始)

私は、恐怖や残酷な描写による反戦教育に反対である。

以下に主要な点を簡潔にまとめておく。

1)残酷なシーンを見せ、残酷への嫌悪によって「反戦」を植えつけるのは、洗脳と同じであり、最低の教育である。

2)子供たちには「戦争とは何故起きるのか」「何故歴史は戦争を繰り返すのか」を考えさせなければならない。

3)ただひたすら「全ての戦争は回避すべき」と思い込む者は、歴史を正しく考察することもできず、正義も同胞も守ることができない。

(略)
4)はだしのゲンを小さな子供にも読ませようと考える者は、実はその多くが、3)の実例とも言える者ではないか?

仮に、考えることも無く、ただ反戦を叫ぶだけの愚者が、はだしのゲンを使って、同様の愚者を育てようとしているのであるなら、この連鎖は早々に断ち切られるべきだろう。



(引用終)


上記引用の2)には、”子供たちには戦争や歴史について考えさせなければならない”とあります。私自身は、考える、判断するための基本的事項、予備知識の習得こそが初等〜中等教育課程の目的であると考えています。

確かに、生徒、児童自らが主体的に考察できることが望ましいのは勿論です。ただ、残念ながら、現行教育課程の学習内容では、そのために必要な知識の習得、基本的事項の理解への到達には程遠いと言わざるを得ません。

このことは単に戦争のみに留まらず、平和、国家、社会、民主主義、法治、或は、憲法、天皇制、人権といった他の概念についても当て嵌まります。

こういった現行社会の礎ともなる基本的事項は、抽象的な面もあり、児童、生徒に定義を説明し、理解、実感させ難いかもしれません。

しかしながら、たとえそうであっても、これら事項の共通認識というか、価値観、総意を児童、生徒に修得させるべく、初等〜中等教育、即ち、義務教育が実施されるべきと考えます。

天皇制を例に採れば、己の義務教育時の記憶を顧みた時、既に定かではありませんが、


――第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民 
                 統合の象徴であって、
                 この地位は、主権の存する
日本国民の総意に基く。―― 

について、詳しく説明を受けた記憶がありません。当時私は、”象徴”、”統合”の具体的意味、”日本国の象徴”と”日本国民統合の象徴”の違い等、理解していなかったと思います。

学校の考査でも、条文を暗記して象徴、統合といった漢字が正しく書ければそれで十分だったような...意味について問われた記憶はありません。

民主主義についても同様です。確か、小学校高学年次だったかと...記憶にあるのは”みんなで決める”、”少数意見の尊重”といった語程度でしょうか。社会科の授業で民主主義の経緯、理由やその意義、功罪には触れられなかった気がします。

こういったことを年少の児童、生徒に理解させることは確かに困難です。しかしながら、だからといって思考停止状態のまま民主主義に盲従させることには強い違和感を抱きます。

本来、該教育は児童、生徒に将来形成されるであろう個人の価値観、思想的支柱の糧を教授するものであるべきです。

そういった観点からみた時、現行の教育基本法、学校教育法に掲げられている、教育の目的についての至らなさは否めないのではないでしょうか。

例えば、教育基本法には教育の目的として、

――人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会

     の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康
    な国民の育成を期して行われなければならない。――

と規定されていますが、曖昧で空虚な印象が拭えません。

”人格の完成”とあるのですが、教育基本法資料室へようこそ!にも目指すべき”完成された人格”、理想像についての説明はなく理解できないでいます。例えば、現在どういった人物が最も完成に近い人格を有していることになるのでしょうか。そしてその理由は何か、具体例を交えた詳細な説明を望みたいところです。

又、前置きなく”平和で民主的な国家”とあり、既にこれが揺るぎない、普遍の前提といった印象を持ってしまいます。”平和で民主的な国家”を否定するわけではありません。ただ、”平和”、”民主”を絶対不可侵と崇め奉り盲従を求める空気が蔓延する可能性は排除されるべきと考えます。

こういった表現では、条文に対する疑問を封じ込め、戦争、平和、民主主義についての意義、問題、今後を考えようという意識を削いでしまうことはないのでしょうか。思考停止状態に陥らせてしまうことを懸念します


上述したように、初等〜中等教育期間とは、児童、生徒に今後培われていくであろう個人の価値観、思想的支柱の糧となる、必要な知識を修得し基礎的事項を理解する、準備期間であると捉えています。

いわば、漫画”はだしのゲン”を読む力、自らの責の下で主体的、客観的に考察判断する力を養う期間ということです

その結果としての該漫画に対する真偽、是非を含めた評価は勿論尊重されなければなりません。しかしながら、良質な教育が不可欠とされているにも拘らず、未だ十分ではない状況下での、予断を形成しかねない摺り込みには強い反発を覚えます。

現行の初等〜中等教育は、児童、生徒における、価値観の形成、思想的根幹の成長、客観的考察力の養成といった、個の確立、育成に対し、必要な寄与をしているとは認められません。

実は、粛々、細々(?)、内々に(?)、初等〜中等教育について、不断の議論、検討が進められているのかもしれませんが、少なくとも身近、容易に窺い知ることはできません。

そういった初等〜中等教育課程が蔑ろにされている現状に鑑みても、重視すべき問題があるが故に、漫画”はだしのゲン”は、生徒、児童の教材として不適切であると判断します。


もう少し続けます。

2013年10月4日金曜日

脚色

引き続き漫画”はだしのゲン”の学校教材としての適否について記します。






2.内容の真実性


前のエントリで挙げたリンク先(新しい歴史教科書をつくる会)には、政治面、思想面で反体制的な表現が含まれていることが教育基本法、学校教育法違反である、又、根拠のない歴史が事実かのように扱われている、これらを理由として、該漫画の撤去を要請する旨、記述されています。


該団体の意図が込められた文面を諸手を上げて支持するつもりはありません。例えば、これらの理由の中で最初に重きを置くべきは内容が事実か否かであると考えています。


上記法令についての違法性の指摘以前に、児童に平和に関する価値観を理解させる教育教材として、更には、児童に限らず読者に情報を伝える資料としての適否を検討するべきではないでしょうか。


文書を介した情報の伝達では、発信者の意思、思考正確に相手に伝わらないこと、誤解、齟齬はごく日常的に生じています。そこで、発信者の意図通りに情報を相手に理解、共感させ、ひいては納得、支持させるために、情報を裏付ける事実を用いて情報の真実性、説得性を上げる手法が常套的に採られます。


これは誤りのない事実の前では、例えそれがある程度非論理的で否定したいものであったとしても、事実であるならば受け入れざるを得ないという共通認識があるためです。

逆に言えば、目論見通り趣意を相手に納得、同意せしめることを目的に、誤認に導く歪曲した事実、極端には錯誤させる捏造した事実が手段として利用できてしまいます。伝える情報が事実であったとしてもそれが定性的事実に留まっていれば、歪曲した定量的情報を付加した作意的な誘導は可能です。

こういった事例は大手メディアを介した政治家、官僚の発言、ツイッターやブログ等のSNSメディアを介した反原発、或は、原発推進といった形でかいま見ることができます。

いわゆるポジショントークとか印象操作と称される類のものです。最近の旬といえば、消費税の増税関連でしょうか。

従って、偏向なく正当に相手を理解させる材料としての事実には高い客観性、信憑性が求められます。

作者の体験を元にしたとされる該漫画において、内容は事実に基づいてどこまで忠実に裏付けられているのか、中立性、公正性は保持されているのか、疑問を持っています。漫画という創作物ですから主観は排除し得ないのも当然ではありますが...

後に作者が語ったとされる、
  
――はだしのゲンのアニメ映画を見たことで
    トラウマを植え付け、
    それによって原爆に対して嫌悪感を
持ってくれればいい――

といった考えはとても容認できません。こういった目的で脚色が交えられた該漫画によって、児童に歪曲した認識がもたらされる恐れを危惧しています。

本来、例えば、戦争、平和についての価値観を児童に伝える教材が、ノンフィクションでなければならない必要性はありません。あくまで価値観を伝える手段ですから、的確に内容を理解させ、公正、客観的な判断に導けるならば、フィクションであっても構わないと考えます。

しかしながら、事実、体験に基づいたとしてあたかもノンフィクションであるかのように装い、実は恣意、主観が織り込まれたフィクションは該教材には不適切ではないでしょうか。

時間の経過と共に、全てが客観的事実として一人歩きしてしまう可能性は排除できません。たとえ作者に事実を歪曲する、誤った情報を伝達する意図はなかったとしても、脚色を交えた、主観的表現が避け得ない著作物である以上、その旨は明確に表記されるべきです。

今、私達はネットワーク上に氾濫する情報が玉石混交であり、疑いもなく鵜呑みにするのは危険であることを知っています。第三者による客観的、公正な裏付けが不透明という点では該漫画も同じではないでしょうか。

思想、信条の自由が尊重されるべきは当然です。しかしながら、教材の内容の正否を問う前に、の内容は客観的事実に裏付けられているか、信頼性は確保されているかといった真偽の検証が不可欠です。


更に続けます。