2016年3月27日日曜日

真逆

”走る歓び”とは逆方向の話なんじゃないでしょうか。
自動運転タクシーの実証実験、来年初めから開始=政府

自動運転と言えば真っ先にGoogleで開発が進められているグーグル・カーが思い浮かびます。一方、”走る歓び”の文言で想起されるのはマツダの

Be a Driver.
トヨタの

FUN TO DRIVE, AGAIN.
といったところでしょうか。
じゃ、”走る歓び”って一体何だと、運転者だか、同乗者、所有者を歓ばせる正体は自動車の何だろうという話になるわけです。

所有者であれば所有する歓びです。運転に関わらない同乗者が”走る歓び”を感じられるなら、上述のグーグル・カーを含めたバス、タクシーでも構わないわけですが、それも違うんじゃないかと。自動車メーカーが消費者の購買意欲を煽れませんから。プロモーションになりません。


やはり、運転者の、”運転する歓び”即ち”走る歓び”ということでしょうか。これはおそらく、機械を自分の思い通りに操る歓び”なんでしょう。その結果、己の体力のみでは不可能な加速感や景色の変化を自在に体験できるわけです。

機動戦士を操縦する心情に通底したものがあるのかもしれません。

ただ、上記マツダのリンクにある、

ドライバーとクルマの関係を、
もっともっと深いものへと変えていく。
人とクルマが息を合わせる。
走る歓びを分かち合い、深い愛着を覚える。
ともに走り、ともに歓び、ともに生きていく。
クルマは単なる道具ではない。
私たちは、人とひとつになれるクルマをつくっている。
には素直に共感できないでいます。車は道具です。人馬一体が自動車でも起こり得るかの如く上記文言ですが、擬人(馬)化しても自動車は輸送機械の一つです。あくまでも、運転者が自動車に慣れ、習熟するのであって、単に人が車に合わせているに留まります。ミもフタもない話かもしれませんが...

トヨタのサイトには単に”クルマの楽しさ”とあるのみでその言葉が何を示しているのか不明です。抽象的な観念論ではなく、具体的な説明を望みたい処です。

勿論、だからといってマツダやトヨタの車を批判しているわけではないことは申し添えておきます。

このような視点に立ってみると、やはり自動運転は自動車という機械の到達目標の一つであるのは間違いありません。一部車種では、アイサイト(衝突被害軽減ブレーキ)、インテリジェントパーキングアシスト(駐車・車庫入れアシスト)といった運転アシスト機能は既に取り入れられていますし、単純なクルーズコントロールはかなり以前からありました。

何だか、”走る歓び”とは逆方向の車社会に進んでいくような気がしますが...自動車メーカが”走る歓び”と自動運転をどう折り合わせるつもりなのか、関心を寄せています。

いつまでも ”走る歓び”を謳って購買意欲を喚起するのもどうなんでしょうか、個人の所感です。

一方、そういった自動運転へと向かう流れに対し、”クルマの良さが失われる”、”自動車はやっぱり自らの意思で自由に操れなきゃ”といった否定的な声も上がっています。おそらく、自動運転による必要以上の便利さ、快適性に対する要求を不要のものとして拒みたいんじゃないかと推測しています。

思い違いです。他人の痛みがわからない、思いを馳せることができないということかもしれません。そうであろうことを理解することは容易です。容認しているわけではありませんが。

第一義的に便利さを求めるのではなく、交通事故による理不尽な不利益を少しでも減じる、これが自動運転の主たる目的と捉えています。酒酔い、高齢者、暴走、突然の疾患等、故意、過失を問わず、被害者自身の責に全く依らない悲惨な交通事故は未だ後を絶たないのが現状です。

このエントリを記し始めてもたもたしている間、今日までだけでも一体どれだけの、交通事故による不尽な不利益を被った被害者が生みだされてしまったのか。

パトに追跡され暴走、4台事故 1人死亡 東京・世田谷
山陽道トンネルで車12台絡む多重事故 2人死亡 広島
【梅田・車暴走事故】重体28歳女性は横断歩道上、死亡65歳男性は歩道上で最後にはねられたか 死傷者の状況判明
十分ではないものの、こういった謂れのない事故被害の低減に寄与するであろう自動運転を、個人の趣味を優先した尤もらしい”走る歓び”の語で水さす物言いに独善的な印象を禁じ得ません

それは恰も、天然鰻を出す料理店を、その写真と共に嬉々として紹介するグルメブログと同じ身勝手さを感じます。そういったブログで、天然/養殖、鮮度、食品添加物の問題に関連付けて健康、環境とかを上から目線で論じられても、誠実さ、真実味、信頼性を欠いているなぁ、と思うわけです。胡散臭さ、欺瞞性は伝わってきますが...

昨今、運動会や体育祭といった学校の伝統的行事の一つとして行われてきた組体操について、中止を求める声が上がっています。

【組体操】事故は年8000件だった「安全確保できない場合は中止を」スポーツ庁
事故の例
で、当然、”感動”、”達成感団結心といった語で組体操の意義を説く声も生まれます。
それでも私が組体操に取り組む理由。ある現役教師の告白
典型的な考えは、
大阪の現場の先生方、教育委員会の戯言は無視して、これからも、今まで通りに安全を確保しながら、挑戦すべきは挑戦していけばいいです。保護者たちも、ケガや骨折は成長の一環と受け止めてあげてください。今の日本に不足しているのは、そういった「覚悟」だと思う。
といったところでしょうか。”走る歓び”、”天然鰻”、更には、”事故前の原発の安全神話”にも通底した他人事感満載の意識だなぁと。


まぁ、自分(とその周囲)は大丈夫だろう、他人の痛みには共感できない、というのも尤もな話で、理解できないわけではありません。しかしながら、そうは言ってももう少し賢い一歩に駒を進められないものなのかと、改めて思った次第です。

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