首相「1億総活躍社会の実現を」 第3次改造内閣が発足未だ”1億総...”といった表現を選んでしまうあたり、政権から滲み出る国家主義的なものが伝わってきます。換言すれば、
学校はなぜ「巨大組体操」をやめられないのかに通底した日本の伝統、大本営的な同調圧力を感じるということです。
いっそ、国民総活躍社会として説明の端々に”火の玉”とか”一丸”といった語を散りばめればセンスが際立ったかもしれません。炎上すること、請け合いです。
確かに、何も決まっておらず、単にキャッチフレーズに過ぎない、批判は当たらないという声もあります。しかしながら、戦後尚も脈々と受け継がれてきている精神論偏重、これを未だ国家が担いでいるんじゃなかろうか、そういった見方を払拭できないでいます。
ところで、日本の人口約1億2千6百万人余りに対し”1億”という物言いはどういった含意があるのでしょうか。
キリのいい数字で端折った?一寸雑なんじゃないかと。
2千6百万人余りの国民は活躍できない?元々、生産年齢人口(15~64歳)は7千9百万人程度(H.25.10.1)ですし...
”活躍”についてもう少し丁寧な説明が必要です。
2千6百万人の側からの記述でした。ちなみに、テレ朝の報道ステーションでよく耳にする文言、
――ともすると我々は...――この”我々”の中に括られることも拒否します。
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