2013年11月9日土曜日

傾向

さて、初七日法要も葬儀当日に執り行われました。法要の後の法話で、

――されば朝には紅顔ありて
夕には白骨となれる身なり――              

について伺いました。思ったところを記します。

全くもって浅学ですが、仏教はあらゆる苦しみ、悲しみからの解放のため解脱を目指す宗教であると理解しています。

古来、最も大きな悲しみの一つとして、身内の死があり、その悲しみを悼むために葬儀が執り行われてきました。この点は仏教以外の宗教であっても概ね外れてはいないかと思っています。

一方で今日、医療や科学技術の進歩により、特に日本社会は非常に長寿の社会になりました。勿論、総じてです。

未だ、理不尽非業な死という最期もあるわけですが、社会の長寿化と共に死への恐れが薄まってきているように感じます。 

かつてほど死を恐れず、逃れられない事実として受け止める社会になってきたのではないでしょうか。本人の責に依らない痛ましい死、亡くなる順序が親子で逆転、といった話は未だ見聞しますが...近年、この死に向き合う姿勢は顕著に変化してきた気がします。

このことを鑑て、相対的にですが葬儀における仏教を含む宗教的なもの、理不尽な事実を受け入れるための精神的な拠り所となるものの必要性が低下しつつあるのでは、と思いました。

極論すれば百才以上長寿の方の葬儀に死を悼むための宗教がどこまで必要だろうか、ということです。生と死に一線を引き、あちらへ送るための別れの儀式には必要と考えますが...勿論、そうでない悲痛な別れについては、宗教には依然として担うべき重い役割があるでしょう。

直面する事実を現実として抗うことなく受け入れられるよう社会は進歩し、宗教の意義が薄れていく、そういった傾向をなんとはなしに感じました。


ところで、東日本大震災の直後、ありとあらゆるスポーツの、選手本人に加え、メディアでも増幅されて”絆”、勇気元気”、”がんばろう”が盛んに叫ばれ、強い違和感を抱いた記憶があります。

被災者全てにスポーツが必要であるかのごとく喧伝され、あたかも”スポーツ万能教”的印象を受けました

自分の責務を自覚し、粛々と復旧、復興に取り組んでいる人々にとって果して”スポーツで・”は必要だったのでしょうか。復旧、復興に向けての真摯に取り組む人々の姿こそが讃えられるべきで、励みになったのでは、と考えます。 
上述宗教への社会的期待が薄まったという点では、相応して社会は賢くなったかの思いが一時脳裏に浮かびました。しかしながら、未だスポーツにある種の宗教的役割を、しかも国家を挙げて担わせている事例を考えれば、前言を翻さざるを得ません。

更に言えば、一層享楽的というか現世利益を求める風潮が強まったように感じてしまいます。






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