2019年12月2日月曜日

選別(2)

さて、少し話が逸れますが、前のエントリで触れた、大手予備校が運営する大学入試の合格可能性判定システムについて思う処を少し記します。

周知されているように該合格可能性判定システムは、大学入試センター試験の、受験者各々の自己採点結果と志望大学を収集して運用されています。各大学の学部、学科ごとの定員と二次試験の結果を合わせた合格基準、各受験者の得点分布から志望大学の合格可能性をA〜F段階、或いは%表示で判定するものです。

かつては共通一次試験と呼ばれ、その後内容や制度変更に伴い改称された大学入試センター試験は、1979年から実施されている大学入学のための基礎学力試験です。現在、国公立大学はもとより、多くの私立大学の選抜試験にも採用されています。

国公立大学の場合、このセンター試験の結果と各大学独自の二次試験の結果で合否が決まるわけですが、二次試験を受験する大学(志望校)にはセンター試験終了後に出願する流れとなっています。

この時、二次試験を出願する大学は上記合否判定システムによる合格可能性を勘案して決定されるのが通常です。尚、合格可能性は、あくまでセンター試験の自己採点結果とその時点の志望校を基にして判定される静的なものです。受験生が、この合格可能性の判定結果で志望校を変更することは当然よくあることです。従って、合格可能性判定時の志望者の得点分布と、二次試験出願締切時の出願者の得点分布は異なります。受験者の志望大学変更が合格可能性の判定結果と実際の合格可能性との間に乖離を生じさせるわけです。

受験生の第一志望に続く志望大学、志望学部の序列は入学難易度順になる、第一志望大学、学部の合格可能性が高いA判定取得者は二次試験の出願大学を変更しない、これらの前提はそこそこ妥当性があると考えます。この前提で、最難関大学を第一志望大学とするA判定取得者は、判定も不変で出願校の変更はありません。しかしながら、C,D,E判定取得者、場合によってはB判定取得者はより難易度の低い大学へと志望校を変える可能性があります。これはおそらく、最難関、難関、上位、中堅、中位、一般と玉突き的な志願者の移動を意味します。

例えば、ある中堅大学の合格可能性判定時、A判定を取得した成績最上位の受験者が、二次試験出願時に同じく最上位の位置にあるとは限りません。該大学より難関大学の志望者が出願変更するわけですから。合格可能性判定時の出願者数、倍率が、二次試験出願時で動的に変動していることは言うまでもありません。

以上、センター試験〜合否判定〜二次試験出願への概略を冗長に書き連ねました。で、受験者が二次試験出願大学を決定するにあたって、唯一で必要不可欠な情報である合格可能性の判定が、民間の予備校、つまり私企業に委ねられているという部分に以前から強い違和感を抱き続けていたわけです。

自分自身が共通一次試験を受けたのは遥か大昔です。初回ではなくある程度システムが落ち着きだした頃でしょうか。当時は、自己採点結果を高校単位で河合塾へ送って合否の判定を受けていたような...その時も何故河合塾が?というしっくりこない印象を持ちましたが、模擬試験は受けていいましたから、まぁ、その延長なんだろうか、といった程度でした。かなり曖昧な記憶です。

それから何十年を経て、未だに私企業が受験者の自己採点結果を収集して志望校の合否判定を出しています。なぜ、大学入試センター自らが自己採点結果を収集、統計処理しないのか疑問でなりません。試験の実施、採点して、その後は関知しない、そういった何とも不完全な印象です。少なくとも試験の実施主体である大学入試センターには受験に関わる管理責任がありますから、受験者が適切な判断、選択を行うための情報を提供する責務があると考えます。センター試験を運営する公的機関として責任を放棄している、という見方もできないではありません。

確かに、センター試験も、その後の二次試験も模試を実施しているわけでもない公的機関が、受験者が志望する大学の合格可能性を算定できないのは当然です。センター試験の結果だけでなくそれ以前の学力は勿論、二次試験についての学力も把握していませんから。加えて、アルファベット表示でも、パーセント表示でも公的機関が合格可能性を算定するということには、やはり該合格可能性にはそれなりの確度が求められます。つまり、公的機関が出す合格可能性には一定の合理性と共に、それに基づく責任が必要となるわけです。

明らかに無理です。そういう役割が与えられたとしてもとても担えません。腰が引けるどころか拒否が目に見えています。

翻って、それなら従来通り民間企業に委ねたままでいいのか、民間の大手予備校が算定する合格可能性にはそこまでの信頼性を期待できるのか、という話になります。こういった問題に対し、大学入試センターはおそらく、知らない”という何とも責任感の希薄な回答になるだろうと、思っています。理由は、センター試験を実施することが当センターの役割であって、その結果を受験者がどのように利用し、受験大学の選択材料にするかまでは関知しない、といった処でしょうか。

大学入試センターが志望大学の合格可能性を算定することは、現在の該センターの役割範囲を超えた話かもしれません。ただ、入試制度におけるこの算定が、民間試験の採用とか試験科目の変更、出題範囲や難易度改変等より根幹に位置付けられる懸案であるのは間違いないと考えます。

受験者にとって出願大学の選択は、合否を通じその後の人生に多大な影響を与えます。志望大学の合格可能性は、その選択の重要な判断材料です。一体いつまで民間に丸投げしておくのでしょうか。受験者を支援すべく、公的な機関が合格可能性算定に主体的に関わるべきです。民間予備校の合格可能性の算定抜きでは運営できない大学入試システムというのも奇異です。これを放置し続けるのは行政の不作為と言ってもいいのではないかと。

民間による合格可能性算定が大学入試システムに強固に組み込まれている、制度が硬直して見方によっては既得権益化している現在、公的機関からの情報のみで受験者が志望大学を選択できる制度設計が容易ではないことは理解しています。設計から構築、運用に至るまで超長期の時間も必要です。

ただだからといって、いつまでも官民もたれ合いの入試制度を維持し続けることは是認できません。

この話は深化させていくと、民間予備校、学習塾の存在意義を国や自治体が肯定する、つまり公的教育の不備を認めることに繋がっていきます。そのため、”知らない体”を装うことになるわけですが、そういった姿勢も既に綻んでいるとみています。更には俯瞰すれば、教育における私学の役割、教育それ自体の意義、目的へと話が及んでいきます。

公的教育には不備があった方が、私学や私塾としては”この不備を埋めるために必要”という名分ができますから好ましいのは確かです。自らの存在意義を主張できるわけです。

その存在意義を押し返すこともできず、ズブズブの関係に公がつけ込まれている?甘んじている?というのが今も昔も変わっていない現況に思えてなりません。



随分、話が逸れました。次のエントリでリクルートの話に戻します。

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