2022年5月8日日曜日

折鶴

今般のロシアによるウクライナ侵攻に絡んで、”千羽鶴論争”と称される批判合戦を目にしました。ザクっと記せば

ロシアの侵攻で大変な状況にあるウクライナの人々の心に寄り添おうと、埼玉県行田市の障害者就労移行支援施設「レイズアップ」の利用者が、同国国旗の色の青と黄で折り鶴を作った。25日に東京都港区の同国大使館に届ける予定という。

という新聞記事に対し、ネット上で”物申す”的な著名人2人が、

千羽鶴とか『無駄な行為をして、良い事をした気分になるのは恥ずかしい事である。』というのをそろそろ理解してもらいたいと思ってるのは、おいらだけですかね?

そんな暇あるなら、バイトでもして、ウクライナに海外送金してあげなよと
千羽鶴にありがたみを感じること自体が日本独自の文化であって、ウクライナの人からしたら、何これ?な話なわけです。相手の気持ちがわからない親切はただの迷惑

とツィートしたのが発端です。

少し事実を整理して”千羽鶴の寄贈”の意義について考えてみます。意義はあるのか、ないのか。

1)寄贈先は在日本ウクライナ大使館で、表面的、社交辞令かどうかはともかく、”感謝”の意志表明はしていても”迷惑”の表明はしていない。

2)寄贈主は障害者就労移行支援施設で、40人ほどの利用者が作業の合間に折った

とのことです。上記事実を鑑みることなくひと括りに”無駄な行為”と断言することは支持できない、というのが自分の立場です。ちなみに、この”千羽鶴の寄贈”には、ウクライナにとって即物的というか経済的な意義がないことには異論はありません。自身が寄贈に関わるつもりはありませんが、批判して取り止めさせる程の反感もありません。

最初に1)、2)を踏まえる、つまり自然災害の被災地に一般の市民が千羽鶴を送る行為とは明確に区別した上で考察すべきです。

まず、寄贈先がロシア(大使館)ではなくウクライナ大使館ということは”ウクライナ支持”の意思表明を示すものと解します。それは日本国内の国会議員、評論家の幾人かによる”ウクライナにも非がある”という意見に対する牽制の意味を持ちます。平和を祈念するという折り鶴の本来の主旨に沿うならば正当な送り先はロシアです。

2)については、この事実に着目した意見は見当たりませんでした。当該施設について検索してみると、上記名称の通り障害者が、就労と自立に向けて学習訓練を受ける施設のようです。通所資格には、

1、障害の認定を受けている方(知的障害者、精神障害者、身体障害者)
2、自力通所が可能な方
3、就労や自立を目指す65歳までの方

とありました。こういった施設については全く詳しくなく、ただ玉石混交というイメージがあるのみです。そこで、この批判された施設がということではなく、障害者向けの就労移行支援施設による”千羽鶴の寄贈”について考えてみます。実は、この障害者就労支援、折り鶴、無駄な行為といった文言でまっさきに想起したのが相模原障害者施設殺傷事件です。この事件の植松死刑囚は、

自分はおおまかに『お金と時間』こそが幸せだ、と考えている。重度・重複障害者を育てることは莫大なお金・時間を失うことにつながる

と発言しました。この考え方に直ちに結びつくわけではないとしても、上記の”千羽鶴の寄贈は無駄”とする価値観を極化した先には該考え方があるように思えてなりません。この部分も踏まえた上で、障害者就労支援の利用者がウクライナに千羽鶴を送る行為の意義を考えます。

”千羽鶴の寄贈は無駄”とする価値観は、該行為を経済合理性に基づかない非生産的行為と見做した考え方と推察します。その部分について首肯できないわけではありませんが、上記したように、”ウクライナ支持の具現化”といった意義は認めるべきです。ウクライナの益についてはこの点だけかもしれませんし、それを定量化するのは困難ではありますが、少なくともゼロではない意義があるという立場です。

ではウクライナ以外の益についてはどうでしょうか。実は該行為には”障害者就労支援のため”といった意義も含まれていると考えています。本末転倒と指摘されれば、それはその通りです。

障害者の就労支援には様々な支援があるようです。リンク先には、基礎体力向上/集中力、持続力等の習得/適性や課題の 把握/職業習慣の確立/マナー、挨拶、身なり等の習得などが挙げられています。その中にある”職業習慣の確立”のためには就労意欲の醸成が不可欠です。これは経済合理性とは一線を画した話で、障害者就労支援の一環として、就労意欲醸成に経済合理性を持ち込むことは困難です。

同一労働同一賃金といった原則に基づいて賃金のみで就労意欲醸成を図ることはやはり難しく、やはりメンタルな部分も合わせて考えなければならないわけです。それは、必要とされる、期待される、当にされる、請われる、頼りにされる等の、”自分が求められている”といった認識、この自意識こそが就労意欲醸成の源泉である、という話です。

特段、経済的価値を生産せずとも、第三者から、社会や、この場合はウクライナから求められている、この意識は障害者就労支援の大きな一助になるのでは、と考えます。そういった意味で、鶴を折って寄贈する行為を頭から無駄と断じる考え方には素直に頷けないものがあります。

もう一つ、相模原の事件の発端は、”重度・重複障害者を育てることは莫大なお金・時間を失うことにつながる”ことにあったわけです。この行動原理は、投入資源に対し生産物の経済的価値が圧倒的に低いという非生産性とか無駄の忌避に基づくものです。ただ、ここには心の安寧の生産という視点が全く欠如しています。障害者当人の益ではないかもしれませんが、家族や周囲に心の安寧を提供するという意義は蔑ろにできません。

障害者当人が鶴を折るという行為による就労意欲醸成、家族や周囲にに対する心の安寧の提供は、いずれもウクライナのためではないかもしれません。しかしながら、だからといって該行為を無駄の一言で断じられるのではなく、障害者就労支援施設の作業者の行為として一定の意義が認められて然るべき、と考えます。

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