2015年6月20日土曜日

搾取

定性的な話で、極論です。

社会は自らが保有する資源から得られる以上の生産物を欲するわけです。これが成長や生産向上の駆動力になっているかと。

で、有利に獲得できる資源の原資を求めて、中世以降、近代、そして現代に至っても植民地主義にのっとって搾取、収奪を繰り返してきたわけです。時には、武力による殺戮という手段すら用いて...

これは平和主義には反しますが、民主主義とは無関係です。民主国家による帝国主義、植民地主義の選択も矛盾はないはずです。

勿論、人道的理由もあるのでしょうが、さすがに現代になって、先進国間での武力衝突や開発国の武力による従属、植民地化はかつてよりは減少しています。互いに支払う代償が過大でしょうから。

代わって平和主義の名の下、一部新植民地主義という形を残しつつ、世界は概ね反帝国主義へと移行しつつあります。

日本の場合、前の敗戦によって植民地と領土の一部を失った結果、国外から不平等に有利な対価で入手できる資源や労働力の供給源が絶たれたわけです。

搾取が不可能となったため、必要な資源はかつてより市場価格寄りとなった対価での輸入と国内での供給に頼ることになります。

そういった環境の下、国際社会、主に米国からの支援を得ながらも、戦後復興と続く目覚ましい経済成長を果たしたのは周知の事実です。

国内の安価な労働力と円安環境に支えられた、割安な工業技術が高い国際競争力を生み出し、鉱工業生産額を飛躍的に増大せしめました。

で、ここからが定性的な話ですが、実は日本を含む先進国の今日の経済的繁栄は、政府債務と引換になっている部分はないのだろうか、と思った次第です。全くの憶測ですが。

単に国債をじゃぶじゃぶ発行し、将来世代からの借金を現在の糧にしているのではないか、ということです。蛸が自分の足を喰うようなものじゃないかと...

顕著なのが日本で、日本の政府債務残高の対国内総生産(GDP)比の推移を見れば、
とても債務に見合った生産をしていると捉えることはできません。負担を将来世代に押し付けているだけではないでしょうか。

こういった場合、かつてならば武力を行使することさえ厭わず、搾取、収奪という形で、国外に安価な資源を求めてきたかと。しかしながら、今日そういった手段は禁じ手です。

そこで、平和と民主主義、市場経済を組み合わせて”信用”を強力なツールに仕立て上げ、果実を先食いしてそのツケは将来世代に押し付けるという手段を採用しているわけです。

欠席裁判というか無抵抗の将来世代に責任を転嫁しますから、国外に資源を求める植民地主義より圧倒的に低コストな手段です。

帝国主義と平和主義には、地理的な座標軸と時間的な座標軸、資源を求める方向としていずれを用いるのか、そういった差異があるに過ぎないのかもしれません。

社会が、自らが保有する資源から得られる以上の生産物を欲する限り、搾取と非搾取は避け得ないことなのでしょうか。

”お前は中二かよ?”と尋ねられれば、否定できませんが...

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