2016年1月25日月曜日

軽侮

自分が東洋水産の社員だったら憤慨したと思います。いわゆるタイアップ番組なのかは存じませんが...

酒を飲みつつ食事をしていた処、偶々、民放番組の一コーナーが目に入ってきました。和食とフレンチの料理人が東洋水産「マルちゃん焼きそば」を作ると...
この差って何ですか?
有名な(?)料理人が得意の技を駆使して「マルちゃん焼きそば」を作るとどんな焼きそばができあがるのか、といった主旨でした。

「マルちゃん焼きそば」が見る影もなく弄られて、本来の姿形、風味が想像できないほど別の焼きそば(?)に改変されていました。特段「マルちゃん焼きそば」に肩入れする意図など毛頭ないのですが、「マルちゃん焼きそば」を使う必要性を何ら感じなかったわけです。

むしろ、自社製品をここまで蔑ろに、ある意味否定されて、東洋水産は何ら不快感を抱かないとしたら、鈍感なんじゃないかと。本来の態様が跡形もなく消し去られてしまう、そんな程度の製品とみなされます。

「マルちゃん焼きそば」の揶揄、中傷番組かと思ってしまいました。食品会社としての矜持があるならば、毅然とした姿勢を示すべきかと考えます。

どうでもいい話でした。

2016年1月17日日曜日

行詰

独占を堅守するつもりなら相応の矜持が必要です。独占に伴う責任を自覚できないならば、規制緩和を進めて信書送達事業を民間他社に開放すべきではないでしょうか。
――あて所に尋ねあたりません――
だったか、
――配達準備中に調査しましたが、あて所に尋ねあたりません――
毎年、差出した年賀状の内、一葉は差し戻されます。宛先住所不明とのスタンプが押印されて。

いや、不明とされた住所から差出された年賀状を頂戴しているのですが...年間を通じて一〜二通は誤配もあります。

記憶を遡れば、自動車税の滞納者扱いを受けたこともありました。転居の際、郵便局に転居届を出していたのですが、税の納付期限が過ぎたあたりでしょうか、突然県税事務所からの電話が...

――自動車税を滞納しています。一体何時納付するんですか?滞納金が...――
そもそも納付書自体が転送されていませんでしたから、端からの滞納者扱いは不快を催させました。当然、

――納付書が届いていない。事情も鑑みずいきなりの滞納者扱いは失礼じゃないのか?――
となるわけです。県税事務所の言い分は、差出した時点で納税者に届いたとみなしている、とのこと。

――届いていないのは事実だ。いきなり滞納者扱いしたいなら書留か、配達記録便で送ってから言うべきじゃないのか。――
まぁ、謝りませんわね。これが公務員の無謬性なんでしょうか。結局、納付書が新住所に再送されて納税しました。ちなみに、最初の納付書はそれから半年後に転送されてきました。


年々、郵便送達に関わる信頼性が毀損していく一方で、営業活動、特に年賀状の販促活動は熾烈さが増大している、そういった印象を抱いています。

ここ数年、晩秋、初冬あたりから年賀状のセールス活動が開始されている気がします。郵便受けには郵便物と共に、近隣の特定郵便局二局から年賀状の申し込みハガキが投函されます。

その後、郵便配達員から直接年賀状の申し込みハガキを受け取ります。こちらは、本局への申し込みとなります。その後、所用で郵便局に赴けば、至る局で
――年賀状はもう用意されましたか?――
の問いかけがあります。12月も中旬を過ぎて、スーパーの店頭、本局の局前に設けられた特設売り場からの、年の瀬に行き交う人々への販促活動で佳境を迎えます。正に、年賀状を購入しない市民は許すまじ、そういった感すら覗えます。

年賀状って日本郵便の独占事業じゃないのでしょうか?年賀状市場という一つのパイはそのまま日本郵便のものです。以前、横から手を出そうとしたヤマト運輸は、厳しくその手を叩かれ、最近ではメール便からの撤退も余儀なくされています。

いくら販促活動をしようが、年賀状を送る人が必要以上の年賀状を購入するはずはなく、又、送らない人が購入に傾くわけがありません。販売元は日本郵便で共通ですから、本局と地域の特定郵便局で互いに共喰いしているに過ぎないかと...

不毛で非効率以外の何ものでもありません。相当の余剰人員があるんじゃないかと疑ってしまいます。”株式会社になって営業も頑張っています”、ポーズならば動機は理解できます。しかしながら、株式会社化して利益を意識せざるを得ないとしても、方向が誤りです。

漏れ聞く所によると、局内では、”年賀状はまだまだ。年々伸びている。”、といった訓示が管理職からあるようです。???大本営ですか...

虚礼廃止、人口減少、e-mailやSNSといったコミュニケーションツールの多様化といった潮流を鑑みれば、年賀状の発行枚数が増加する根拠が見つかりません。

以下は裏付けるいくつかの現状です。
ノルマ1万枚!年賀はがき販売で郵便局員同士が過酷な潰し合い!売れないと一人で路上販売
年賀ハガキの利用者がどんどん減っているらしいので発行枚数を調べてみた(2015年発行分まで)
同様な非生産的な話はクレジットカードの勧誘キャンペーンで遭遇しています。銀行や航空会社等、比較的”堅い”とされている企業が発行する、年会費が有料のクレジットカードの会員加入を、該企業に勤務する取引先、友人、親類あたりから依頼されたことはないでしょうか。

大抵、初年度会費が無料で、有料となる時期が来る前に連絡をもらって解約する取り決めをしています。一度も使用することなく、解約の電話を入れてカードにハサミを入れるわけです。

未だ釈然としないままです。せいぜいカードの発行枚数の多さを誇示する程度しか思いつきません。勧誘の目的を理解しかねています。発行元で一年後解約率を押さえているのは勿論でしょうが、相当の経費負担ではないでしょうか。

で、この不毛な悪弊はどのように解消されていくのだろうか、関心を寄せているのですが、難しい話なんじゃないかと。おそらく、この会員獲得キャンペーンの関係者全てがこの非生産性を認識しているのではないでしょうか。

つまり、会員獲得へと駆り立てる管理職、キャンペーンの責任者、経営幹部、全てその間で”解約を前提とした加入でも見掛けの数字ができればそれで構わない”といった了解ができている、ということです。表面上、肯定することはないとは思いますが。

脈々と受け継がれ、自身が辿ってきた道は否定できないわけです。自己否定に繋がりかねませんし、この”お約束”は組織防衛の一環と理解できます。こうしたクレジットカード解約の山が死屍累々と築かれ続けることを絶つには、外部からの生産性評価が一策です。しかしながら、以前のエントリにも記しましたが、組織、個人に関わらず、追い詰められた危機的な状況に至らない限り自己変革なかなか難しいかと...

昨年、巷を騒がせた東洋ゴムの性能データ改ざん旭化成建材他の杭打ちデータ改ざん問題東芝の不正会計問題といった組織の不祥事も、同根の話かと、そう思った次第です。

2016年1月16日土曜日

風土

幾度となく口にしているオムライスですが、中区千代田辺りで食べていてふと気づいたことがあります。

オムライスの標準的な構成は、チキンライスと称されることもあるケチャップで味付けした、炒飯?焼き飯?炒めピラフ?を玉子焼きで包み、その上にケチャップだったりトマトソースが添えられた形かと。玉子焼きは薄焼玉子だったり、たっぷりの玉子を使用して内部を半熟で仕上げた、トロトロなどと形容される厚めの玉子焼きだったりします。プレーンオムレツをそのままケチャップライス載せた後、切り開いて半熟面を表に露出させた様態を見かけることもあります。

冒頭の店は御飯がケチャップライスではなかったわけです。ウスターソースをベースに味付けされたライスでした。添えられたソースはドゥミグラスソースで、思ったよりあっさりした食味ではありました。途中、くどさを感じることもなく食べ進めることができました。

まぶされたソースが、ドゥミグラスソース、ビーフシチュー、ハヤシソースというのは特段珍しくはありません。ただ、ウスターソースやそれに類した味付けのライスというものがちょっと記憶にないのです。店は失念していますが、ガーリックライスの事例は朧気に覚えがあります。愛知県外だったかも...

で、近傍にあるもう一店の洋食屋でかつてオムライスを食べた時も非ケチャップ味でした。やはりウスターソース味だったか、ハヤシライス味だったかと。

以前のエントリで、名古屋近郊に特有と思しき天とじ丼について記しましたが、オムライスのライス部分にも名古屋特有の味付けがあるのだろうか、そんな思いが去来した次第です。

現時点では中区千代田限定の地域食ということになります。

2016年1月12日火曜日

理想

昨年末、かき揚げ丼についてのブログエントリを拝読しました。

で、少し記してみようかと。理想のかき揚げ丼としては、まぁ、海老の揚げ具合が半生というのもありますが、やはりそれ以上に脆さを優先したい処です。

僅かな粉でかろうじて具材が繋ぎ留められたかき揚げ、箸でつつけば丼の上で容易くバラっと崩れてしまう...油切れよく、塩をパラッとふっただけで小片の天ぷらと共に飯を頬張る手が止まらないと。なかなか出会えません。

難しいとは思います。揚げる際、散らないようにどうしても粉が多めになってしまいますから。しっかりと形状を保ったかき揚げは当然固く、力を要します。

飯を盛った丼に揚がったかき揚げを載せ、そこに丼ツユをまぶす処方では具材の結合は強固なままでバリバリ感が保たれたままです。パリパリ、サクサク程度なら嬉しいのですが...

揚がったかき揚げを丼ツユに浸して後丼に載せる処方で、もう一、二呼吸浸す時間を伸ばして貰えたらと思っています。衣に丼ツユをもう少し含浸させて、箸で切りやすくすると共にバリバリ感を減じるためです。

まだまだ検討を続けなければなりません。

一方、尾張地域?でよく見かける天とじ丼を食べていたせいか、衣がタップリと丼ツユを吸いかき揚げがクタッとした丼も別の楽しみではあります。

極端な話、カップ麺の天ぷらうどんから殆どが粉のかき揚げを取り出し、これを丼ツユで一煮立ち、溶き卵を回しかけて茶碗の飯に載せる、そんな貧相なかき揚げ丼も案外気に入っています。

天かす入り玉子丼に近いかもしれません。確か関西地方に似たような丼があったような...ハイカラ丼と称するようです。口にしたことはありませんが、そんな食味かもしれません。

あまりにガチガチなかき揚げ丼を提供する店は贅沢なハイカラ丼を目指すのも一つの方向ではないでしょうか。

2016年1月11日月曜日

墓穴(2)

前のエントリから続けます。

5.ではどういう姿勢が望ましいか、という話になるわけです。排他的な姿勢は否定されるべきですが、それでは無関心ならいいのか、という話でもないかと。以前のエントリで記しましたが、周囲の目を気にすることなく左手に丼、右手に箸を持って雑誌を読みながら食事を摂る、当事者も周囲も互いに無関心ならば、上記騒動など起こらなかったはずです。ただ、それは違うような気がします。

こちらも、関心-興味-好奇や無関心-無視-容認といった外からは窺い知れない、曖昧な感情の境界に纏わる話かもしれません。いずれにせよ好ましい姿勢を思いあぐねています。自然に、普通に、と言われても一定の違和感は拭いきれないんじゃないかと。


6.件の”異常”発言からは、他のマイノリティに対する差別的発言に比して、とりわけ嫌悪感に類したものが伝わってきます。この感情の由来は、自意識の強さにあるのでは、と想像しています。率直に言えば、自分が同性から性的な対象として見られることへの恐れ、不安の裏返し、ということではないかと。
――大丈夫、誰もアンタをそれ程気にかけていないから。自意識過剰です。――
更に根本にある承認欲求が満たされず、それはそれで不満を募らせることになるかもしれません。


7.さて、こうした問題にどう向き合うかなんですが、どうしましょうか。問題に対する正しい理解が必須であるのは間違いないところです。偏りのない情報とその理解...オープンな議論の場でしょうか。

LBGTを含むマイノリティに関する問題は世界の至る所で解決されないまま、未だ根深く残っています。社会の更なる成熟が望まれているのは確かです。駒を進めるにはやはり教育でしょうか。

旧来の価値観を盲目的に受け継ぐことなく、新たな視点から再評価して教育の場に反映させる、そういったことかとは思いますが大きな転換が必要です。自己変革は容易ではなく、明治維新や前の敗戦に相当する、強圧的な価値観の再構築に頼らざるを得ないであろう、難儀な話と受け止めています。

2015年12月20日日曜日

墓穴

未だこれといった方策はなく、社会が賢くなる以外、解決には向かわないのかもしれません。善い方向に進んでいるとは思えないのですが...

定期的であるかの如くマイノリティへの口撃についての報道が後を絶ちません。先日も、岐阜県職員がツイッターに「同性愛は異常」などと書き込んでいた問題に絡み、自民系の藤墳守県議が、
――同性愛は異常――
とヤジをやじを飛ばして批判されています。で、その後墓穴を掘っています。
「子ども産むのは責務」=岐阜県議、同性婚も批判
リアル、バーチャルを問わず 日本のみならず世界中の至る所でマイノリティに対する差別的発言による舌禍は引きも切らず、学習効果が全く感じられていません。

最新では、米大統領選のドナルド・トランプ共和党候補でしょうか。

いつまでも物議を醸し続けるこの話題についてまとまりなく思う処を記してみます。結論はありません。


1.渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例を制定した渋谷区との大きな格差を感じました。第一印象です。それが岐阜県と渋谷区の寛容性、民度の差を忠実に反映したものかどうかは判りませんが。


2.上記県議から、
――生を受けたら子どもを産み育て社会に貢献する責務がある。貢献できる形を取れないことは理解に苦しむ――
といった発言がありました。責務ですか...責務として他人に強いることとは思えませんが。不妊に悩み治療に苦労している世帯への配慮に欠けた発言です。上から目線で責務などと押し付けられることなく自然にそう思える社会が望ましいかと。同性であっても、実子でなくとも養子縁組という制度だってあるわけです。こんな発言で物議を醸すより、こういった制度が十分利用されるべく尽力すべきではないでしょうか。

で、”社会に貢献したい”、”人の役に立ちたい”、自然にそう思える社会の実現には教育が不可欠なわけです。そういった教育を行う責務を果たしてこなかった一方で、他者に責務を強いる、というのも如何なものかと。今ある、こんな社会の構築の一部を担ってきたのは紛れもなく過去の現役世代(=今の高齢者)です。無自覚に自らの責任を省みない、身勝手な話かと受け止めています。


3.”社会に貢献する”、”人の役に立つ”という部分に着目してみれば、ここには”社会システムの維持といった意味合いも含まれています。その一部である、年金や健康保険といった世代間の扶助システム、後世代への負担の先送りシステムの持続には当然現行世代、将来世代の存在が必須です。少子化の加速は非常に拙いわけです。搾取しようにも、その将来世代がいなくなってしまいますから。

その意味で、将来世代→現役世代→引退世代と養う義務が”社会に貢献”を意味するならば、責務とするのもさもありなんかと。身勝手な理屈ですが、民主主義の本質ではあります。ただ、負担を先送りするシステムを利用しながら、この少子高齢化社会を招いた責任を無自覚のまま、責務などと言い放つ姿勢には反発を禁じ得ません。


4.上記例のようなマイノリティに対する差別的な発言が何に由来しているかについて考えてみます。

初めての海外旅行で米国を訪れた時、小腹を満たすため空港内のハンバーガーショップに入ったことを思い出しました。もう、随分昔の話です。列に並んでハンバーガーを購入したのですが、アフリカ系米国人の店員相手に、たどたどしい英語でどうにかこうにかハンバーガーを手に入れたことを覚えています。この店員とは緊張して話しました。海外で初めて実際に英語を使ったことは勿論ですが、相手がアフリカ系だったことも緊張の大きな理由だったかと思っています。簡単に言えば、”慣れていなかった”ということです。それまで直接対面して会話したことがありませんでしたから。

一方、マイノリティに対する差別発言は、相手が自分と違うことに違和感を持ち受け入れるには抵抗がある、自分と異なるものを排除したい、そういった感情が発露したものと捉えています。

人は群居本能に基づき、自分と同じ価値観を他人に求め、他人も自分と同じであることを望もうとします。この同質化を求める心理の裏返しとして、即ち同質化の見込みがない時、反動として排他的な差別発言が発せられてしまうのではないでしょうか。

で、慣れ/不慣れの感情の延長にこの同質化/排他の感情があるのではないかと考えます。不慣れの感情の増大が排他的な感情へと移行し、その変化は決して離散的ではなく連続的なものではないかと。即ち、著しく、全く、徹底的、極端に慣れていない感情こそがまさに排他的な感情であるということです。

不慣れと排他の感情が混在している両者の境界付近では、境界は曖昧で揺らいでいるはずです。従って、そういった位置からの発言は、たとえ不慣れな感情の発露のつもりであったとしても、差別的、排他的な発言として受け止められてしまう恐れがあることも容易に想像できます。

発言に丁寧さを欠いていたり、尊大な印象を抱かせていればなおさら、誤解や曲解は簡単に生まれ、炎上、袋叩き、撤回、謝罪へと追い込まれていきます。事例には事欠きません。

排他的な感情が生まれる芽は、”不慣れ”という新たな体験に直面した際の、受け入れるには抵抗がある違和感こそがその正体ではないでしょうか。その意味で、排他的な感情は誰にでも生まれ得る、そういった認識を心に留めおくべきかもしれません。


(続)

2015年12月17日木曜日

仕掛

ここ数年、今頃の時期になると”喪中見舞い”という語をよく見聞きします。

少し検索してみると、2001年以降から使われだした語のようです。それ以前には使用例が検索できませんでした。

で、検索された最も古いサイトは楽天市場にある、仏壇仏具通販のサイトなわけです。期間指定をせずに"喪中見舞"で検索しても線香メーカのサイトが最上位に検索されます。ウィキペディアやweblio辞書、コトバンク、或いはマナー、作法について記述されたサイトより上位です。

バレンタインデー(デパート)に通じる商業主義的仕掛の匂いを感じています。古くは土用丑の鰻(平賀源内)、婚約指輪は給料の3ヶ月分(デビアス)を経て恵方巻き(セブン-イレブン)、ハロウィン(ディズニーランド?電通?)へと続く販促キャンペーンと同種ではないかとみています。

便乗なんでしょうか、日本郵便も...喪中だろうが何か送れということなんでしょうか。
喪中のマナー
「喪中はがき」「喪中見舞いはがき」「寒中見舞いはがき」の販売開始

マナーとか気配り、心遣いといった言葉をツールとして人心につけこむ販促キャンペーンであるかの如く映ります。


すっかり死語となった、”マニュフェスト”、”アジェンダ”、”コミットメント”とは異なり、販促用語ですから今後も使われ続けるのでしょうが、義務感の押し付けにも似た作為的な印象は払拭されていくのでしょうか。