2017年9月23日土曜日

不義

前項を引き継いで、少し政治倫理について記してみます。大した話ではありません。

週刊誌の不倫記事掲載がきっかけとなった山尾離党問題について巷間種々雑多な意見が飛び交っています。興味を引いたの記事の一つは民進議員のご多分に漏れない、天に唾する姿勢というか、強力なブーメランの突き刺さり具合にあります。

山尾志桜里議員が致命的なのは不倫より「ダブスタ」
その一方で、勿論ダブルスタンダードは問題だが、不倫は人として倫理的に許されない、政治家なら尚更、といった見方もあります。
山尾志桜里女史の不倫話、マスコミ的には中立的な総括が難しいらしい
下リンクには対立する賛否両論の理由が挙げられていますがどちらかといえば”賛成はしないが擁護する”といった姿勢を感じます。
政治倫理と政治家の出処進退について思うこと
この辺りを基に政治家の不倫行為について、その是非というか非であることの論立てを試みます。

ただ、政治家の不倫行為の否定を、社会通念上のモラルに反するからとの理由に直ちに結びつけるつもりはありません。不倫行為自体の道徳的善悪については言及しないということです。曲りなりにも法治国家である日本社会において不倫行為は犯罪とはされていません。当事者、関係者間が円満だろうが軋轢を生じようが、解決しようが、泥沼化しようがどうでもいい事案であるのは確かです。

しかしながら、それはあくまで公人私人における私人の場合の話です。公益に影響しない、私人の不倫行為など当事者、関係者でない限り、どうぞご勝手にというか、そもそも知る由がありません。しばしば芸能人、著名人の不倫報道が巷間を賑わせます。社会的影響はないとまで言えませんが、そもそも公益に資する責務を持たない方々の行為は、あくまで影響に留まり公益を損なったと断じることはできません。

翻って、時には選良と称される代議士等、公人はどうでしょうか。

前の騒動でも示されるように、真偽が定かでなくとも明らかに公益に損失を与えているとみています。公人の不倫行為が容認できない主な理由は、国益を含む公益の毀損に繋がるその非生産性にある、と考えます。

不倫行為は何を生み出すか、延長には何があるかを考慮してみると、それはやはり不毛だったり面倒の語に尽きるのではないかと。そこに労力、金、時間といった資源が投入、浪費されるわけです。私人であるならばどうでもいい話ですが、公人の場合、金は公金でないとしても労力、時間の公私は確実に混同してしまいます。切り分け、線引きなど不可能でしょう。本来ならば公務に費消されるべき労力、時間が不倫行為に関わる面倒に投入されれば公務の生産性が低下するのは当然です。

こういった生産性の低下を承知で不倫行為を選択するということは、公務他の部分においても非合理的な選択を行う恐れを排除できないことを意味します。そういった姿勢を垣間見てしまうと公務での判断の適切性に疑義が生じてしまいます。

例えば公務には、苦渋の決断を迫られ、中立性を欠いたかに受け止められる裁定を下さざるを得ない事案もあるわけです。この時、当事者がその決断をやむを得ない、致し方ないとして理解納得するには、判断合理性を拠所とする他ありません。その部分に疑義が生じると決断の説得性、信頼性が揺らいでしまいます。率直な物言いをすれば、
”不倫する政治家の発言など信用できるか
であり、
非合理的な選択する人物に社会の差配は委ねられない”
ということです。

こういった時、しばしば、
どんなスキャンダルがあっても、政治家としてきちんと成果を出していればそれで良い
ちゃんと仕事をしてくれれば、たとえ下半身がだらしなくても構わない
といった声が上がります。この☓☓をしても政治家として成果を出せば構わない的な意見は首肯できません。(☓☓人、或いは政治家として社会通念上負の印象を与える行動を示します。)違和感を禁じ得ないわけです。ポジショントークなんでしょうか。

”不倫をしても...”とする姿勢は、法令抵触しない範囲内において、”差別、偏向をしても...”、”私腹を肥しても、私欲に囚われても...”、”お手盛り、不正、情実であっても...”、”パンツを盗んでも...”との間に大きな差異が見出せません。

これまで与野党は問わないものの、特に政権与党において数多の政府閣僚、議員が失言で辞任、辞職に追い込まれてきました。”不倫をしても政治家として成果を出せば構わない”なら、”失言しても政治家として成果を出せば構わない”が容認できてしまいます。

前者は肯定され、後者は否定されるというのも整合性が感じられずダブルスタンダードです。道義的責任、任命責任、政治倫理といった実体が不明瞭な語が不毛な国会答弁に頻繁に持ち込まれます。ここに失言は含まれても不倫は対象外なんでしょうか。

更に、上記”きちんと成果を出していれば”、”ちゃんと仕事をしてくれれば”に関して言及すれば、”きちんと”とか”ちゃんと”って何だ、という話になります。政治家と称される方々の成果をどう定量的に評価するか...まぁ、無理です。その方の活動が国益をどれだけ積み増したか、公益への寄与が如何ほどであったかなど量れません。

正に”政治家の仕事は歴史が評価する”との文言にある通り後世がどうみるかということなんでしょうが、だからと言ってその評価が適正であるか否かは別の話です。

戦犯被疑者として逮捕されても逮捕を免れるために指揮権発動されても刑事訴追を受けても高く評価されている政治家の事例もあります。「天才」といった題名の人物評が出版されて再評価されたりもしています。

その一方で、仕事が低く評価された、失敗の烙印が押された事例が見当たりません。何しろ前の敗戦の検証すらできていないわけですから。”政治家として無能だった”、”施策は失敗だった”という指摘は記憶にありません。つつがなく政治家生命を全うすれば、過大に称賛されること間違い無し、というのが実の処ではないでしょうか。

いずれにせよ後世による政治家の功績の評価は、印象評価の総和であって、概して時間の経過と共に高評価になっていく、という認識です。まぁ、定量評価が不可能、死者は鞭打たない”という日本の伝統的体質に、我田引水というかお手盛りが加わって過大評価になりがちになっていると推測しています。

そんな特性を有する政治家の仕事に、”きちんと”とか”ちゃんと”といった語を当て嵌めてもなんら説得力はないだろう、というのが率直な思いです。言葉が踊っているに過ぎないのではないかと。

そういった部分に行政の生産性や成果を加え、これらを定量的に評価する手法に関する研究の必要性を強く実感しています。

これが例えば科学者や技術者の成果ならば、十分ではないにしてももう少し透明性のある評価がなされているのでしょうが...
古代人ゲノム研究の先駆者ペーボさんの著書に見る、不倫に対するドイツの寛容。

さて、上記リンクでは、他人に厳しく自分に甘いとか、他人の立証責任は追求するが自らの立証責任は放棄する、そういったダブルスタンダードを理由に山尾氏への批判が展開されています。

この批判はあくまで山尾氏個人の言動、人間性に依るものですが、別の視点から不倫行為の根幹にあるダブルスタンダード、言行不一致、不誠実といった特性について記してみます。不倫行為はこれらの特性が具現化した行動一つであり、それは政治家として不適切だろうという話です。

下記エントリ
政治家の不倫はなぜいかんか
でも政治家の不倫が否定されていますが、いささか感情論との感を否めません。もう少し理屈を捏ねくり回してみます。と言いながらも単純な話なんですが。

自身の親や子の不倫、不倫される側の当事者、若しくは身内の立場に立った時、それを肯定できるのか、という問いに対する判断を思い描けば自明です。

或いは、政治家であれば少なくとも一般市民よりは教育行政に携わることになるわけです。道徳や倫理教育があるとすれば中初等教育あたりでしょうか。その辺りで不倫の是非がカリキュラムに組み込まれることはないでしょうが、ではそれなら容認できるのか、ということになります。

上記二例において、政治家自身が一般論というか社会通念として不倫を否定する一方で、該政治家当人が不倫行為を選択しているならば、それは言行不一致に他なりません。正にダブルスタンダードそのものです。

政治家の不倫を”プライベートなこと”として容認しようとする姿勢に強い反発を感じる理由はここにあります。尤も、配偶者も含めた自身の家族の不倫行為を肯定し、教育の場においてもそれを容認するならば整合性はあります。

それならそれで少なくともダブルスタンダードは解消されるわけですから、市民の支持を得るために先ず旗幟を鮮明にすべきです。前のエントリの理由から私は支持しませんけど。

不倫行為を虚心にみた時、不誠実との断定には至らないとしても、少なくとも”誠実ではない”との認識が衆目の一致する処ではないでしょうか。自身には正直かもしれませんが、自分以外の公私含めた周囲に対しては誠実とは言えません。

政治家の不倫行為は、”誠実ではない人物が市民の代表として政治に関わる”ことと等価です。忌避の理由を十分満たし得ると考えます。

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