2014年9月6日土曜日

相反(追記)

前のエントリを記していた時、以前から拝読していたブログに
小保方氏の「再現実験に反対」と主張してきた人へ
といったエントリが公開されました。

以前から直接、間接に論争されてきた、小保方氏がSTAP細胞の再現実験に参加することの是非についてです。

科学のコミュニティに属している、教育者や研究者、科学者と称される方々、おそらく、同分野か近い分野だがSTAP細胞騒動に直接には関与されていない方々が、互いの批判も含めた激しい論戦を続けてきました。今尚、燻ってもいます。

素直な印象です。

科学者という論理性、合理性、真実性を重視する方々が何故一つの判断に帰結できないのだろうか、理解できませんでした。で、”あぁ、これは価値観の衝突なんだ”と解せば得心がいったわけです。

STAP細胞問題は錯誤、思い込みに依るところが大だと私自身は推測していますが、悪意の有無に拘らず研究不正という語で小保方氏の科学者としてのモラルについて論評されています。

この科学者としてのモラルをどう捉えるかで再現実験参加の是非が割れていると考えています。もはや科学の議論ではなくなってしまっているということです。科学者の方々も自身の研究テーマから離れた主観の話になってしまうと、一つの結論に至らないのも頷けます。

件の研究不正と称される問題は、確かに研究者倫理からの逸脱、理研の内規違反の可能性はあるかもしれませんが、刑法に代表される、我が国の法令に抵触したわけではありません。

であるにも拘らず、科学のコミュニティ、メディアは該問題で当事者らを厳しく糾弾、場合によっては誹謗中傷し、遂には稀有の科学者の一人を自死に至らしめました。

ここに研究者倫理に対する各々の認識の乖離を強く感じます。上記の人々は、研究倫理を法令以上に尊重され、厳格に遵守されるべく規範として、神聖視しているように思えてなりません。正に、法令化するまでもなく従って当然の規範であり、外れることなど想像だにし得ない、ということです。

代議士や政府要人の不祥事が発覚した際、党首や任命権者がしばしば口にする、”起こってはならないことが起こってしまいました”に似た立場でしょうか。こちらは倫理面のみならず、法令違反も多々あるわけですが...

で、起こってはならないことを起こすことは、重大な背信行為であり、検証の必要も無い程の許されざる重罪と受け止められるわけです。法令より優越する倫理に反した、科学の高潔性、誠実性を侵したわけだから、厳重な懲戒を処さなければならない、といった姿勢にみえます。

一方、我が国は法治国家です。多分。確かに研究者倫理からの逸脱、理研の内規違反が本問題に認められるかもしれません。しかしながら、この倫理や内規は法令の枠内にあり、当然、対応も法令を超えることは許されません。

研究者倫理を法令以上に厳守すべき規範と捉えるか、法令より厳格性が緩い規範とみなすか、この強制性に対する認識の差違が本問題の判断、ひいては小保方氏による再現実験参加の是非を分けているかに思えます。

科学者は法令以上に研究者倫理の厳守が求められているのでしょうか。科学者、即ち、善人、人格者とは受け止めていない私には、そもそも科学者を一般社会人以上にことさら高潔、誠実であると特別視するのも無理があるのではと思っています。

科学者自らが”我々は絶対的に不可侵の、高潔な倫理観を持たねばならない”、そう謳われるのも、ある意味傲慢というか、選民意識のようなものを感じてしまいます。

まぁ、それが周知徹底しているなら上記論争など起こらないはずですが。

しばしば、ウェブ上で話題となる、”なぜ人を殺してはいけないか”という問いがあります。



果たして一つの解に結論付けられるのか定かではないこの問いに対し、いくつかの理由が挙げられています。その中に、二つの考え方を見ることができます。

1.”ならぬものはならぬ”というか、性善説的理由です。人の本性は本質的に善であり、善に基づく倫理観、道徳観が生来備わっているはずである。で、人を殺してしまうことは人の本性に由来する行為ではなく、能動的に殺すなどあり得ないと...ならぬこと、あり得ないことを引き起こしたわけですから、起こってしまった場合の対応はそもそも十分に考慮されていない。殺してしまうことなど許されるべきではなく、厳しく責められなければならない。

2.戦争の場合、共同体内の場合などいくつかの条件下での議論がありますが、実は、いけない理由はない、という立場です。で、共同体内に法治主義を導入し、人を殺すことを法令の枠組み内の行為の一つと規定、罰則という抑止措置を定めておく。つまり、不正は起きるものとして捉え、法令の下で対応、規制しようとする姿勢です。人を殺すことや不正が起きることを許容しているわけではないが、起こり得る事実に目を背けることなく向き合おうという姿勢でしょうか。

これらの見方は科学を離れた直感的、心情的なものではないかと思っています。STAP細胞の再現実験への小保方氏参加に対する、容認、拒絶の判断にはかなりの割合で反射的な要因が含まれているかと...

冒頭のリンク先で述べられている、
つまり、文科省のガイドラインは、「 不正の疑惑を持たれた人に対して、実験記録等からその疑惑を自ら晴らす義務を負わせると共に 、その一方で、疑惑を晴らすための再現実験の権利も認める」という極めてバランスの取れたものだったということだ。
は、例えば、性善説、性悪説のように各々の主観により判断が割れてしまうかもしれない、そういった問題の幕引きをするには、何らかの判断基準が必要である、と受け止めました。基準の適否はともかくとしてです。


本騒動を見聞し、”科学技術の進歩に相応する程、果たして社会は賢くなったのだろうか”、といった問が改めて脳裏を過ぎった次第です。

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