2021年4月27日火曜日

損益(4)

先のエントリからの続きです。


さて、原発に関わる、ゼロリスク要求側と(一定の)リスク許容側の対立の中でよく耳にするのが、

福島原発の事故で放射線被爆を直接の原因とした死亡例はない

という声です。低線量被爆による十年、二十年後の健康被害の可能性を否定するつもりはありませんが、考えません。不確定過ぎますから。その上で、福島原発の事故は、既述した死者126人/年の許容可能なリスクを全く超えていないと見做すことは妥当なのでしょうか。死亡例が一例もなかったわけですから、福島原発の事故はそもそも1e-6/年の(被害/損失/危害)には該当しないのではないか、という見方です。

これは、ワクチン接種の副反応による死亡被害と低線量被爆を含む原発事故による被害、無過失で被った交通事故による死亡被害との比較で判断できるのではないかと考えます。

現在、ワクチン接種、交通事故による死亡被害には、法に基づいた、或いは、保険制度による経済的な補償が用意されて今す。

ワクチン接種による死亡被害の場合、厚労省の

予防接種健康被害救済制度

によると、A類疾病(四種混合、麻しん・風しん、日本脳炎、BCG等)の予防接種では44,200,000円の死亡一時金が、B類疾病(インフルエンザ等)の予防接種では7,372,800円の遺族一時金(生計維持者でない場合)が定められているようです。

又、交通事故による死亡被害の場合、少なくとも自賠責保険から4000,000円の慰謝料が支払われるようです被害者本人への慰謝料)

こういった補償の額から逆算してみた時、

126人/年*4,000,000円=504,000,000円

から

126人/年*44,200,000円=5,569,200,000円

程度、総額で5〜55億を超える補償額が発生するような(被害/損失/危害)は、許容可能な限度を超えたリスクである、という見方ができます。リスクの大きさを評価するために、結果的に算出された補償の総額を使うわけです。

各個人の被害が例え死に至るほどではなくとも、膨大な被害者が発生するような(被害/損失/危害)は、その補償額を通じて死者が発生する(被害/損失/危害)に変換できるのでは、という考え方です。このように変換して総補償額から逆算した仮想の死亡被害者が126人/年以上であれば、それはやはり許容できないリスクなんだろうということです。

この視座から大雑把に計算してみると、2021年4月23日現在で東京電力の原子力損害賠償のこれまでの支払い額は、

約10兆0,153億円

ですから、約1兆15.3億円/年です。従って、死者が発生する(被害/損失/危害)に変換してみれば、

22,659〜250,382人/年

に相当するわけです。この数字は、たとえ福島原発の事故で死亡者が発生していないとしても126人/年の許容リスクをはるかに越えています。


以上、ゼロリスクについて記してみたものの、冗長となるばかりで、核心的な論を展開することはできませんでした。おそらく”1e-6/年(100万年に1回)以下であればリスクは許容される”ことの論拠に曖昧さを覚えたためかもしれません。

しかしながら、安全と安心の社会を作るために必須とされる「信頼社会」の実現が牛歩のごとく全く道半ばであることは間違いありません。

ゼロリスクがあり得ない、それは日本学術会議から国への提言
リスクに対応できる社会を目指して日本学術会議 2010年)
原子力安全白書

等で明記されています。

それにも関わらず、国会での行政責任者の答弁、自治体首長の会見には絶対、完璧、完全、徹底、最高レベルといった語が躍り、溢れんばかりの修辞に辟易します。国家の最高責任者や為政者自らが100%の安全、即ちゼロリスクの実現を確約し、宣言している現状で、

”ゼロリスクがあり得ない”

という事実をどうして社会が共有できるのか、理解できません。

ブログでもSNSでも”ゼロリスクを求めるな”という主張を至るところで目にしますが、優先して諫言するべき先は社会や一般市民ではないだろう、というのが率直な処です。

「知らしむべからず依らしむべし」に由来する”不信社会”では、より一層、絶対、完璧、完全、徹底といった修辞に力を入れる他ないわけです。しかしながら、それは却って、力が入れば入るほど空虚に聞こえてしまいます。空虚に聞こえてしまいます。

更に言えば、信頼社会が実現し、合理的な許容リスクというものが社会で合意形成に至ったとしても、その持続性に対する懸念が排除できません。例え1e-6/年(100万年に1回)に合理的理由が見出され、それを許容リスクとして定めたとしても、安全が続けば安心も増加します。時間と共に1e-5/年、1e-4/年と緩和方向へと向かうであろうことは想像に難くありません。

許容リスクを1e-6/年と定め、それを維持するには、やはりそのための資源投入が必要です。この時、安全な状態が維持されればされるほど、

未来の不確定なハザードのために現役世代が適正に資源投入できるか?

といった疑問が払拭できません。1e-6/年を維持するための安全に対するコストが削減されて、1e-5/年、1e-4/年とリスクが増加する方向に流されることは容易に起こり得ます。今まで大丈夫だったから、という正常性バイアスも働きます。ただ根本は、後は野となれ山となれ的な、

”果実は現世代に、負担は将来世代に”

という民主主義の本質に逆らう、

”将来世代の果実のために現世代が負担を担う

ことができるのか、という話です。

現世代が負担を担う

ことができるのか、という話です。ごく身近な、マンションの積立修繕金の話に始まって、年金制度、放射性核廃棄物の最終処分等事例には枚挙に暇がありません。福島の原発事故に着目しても、未実施、先送りの事例(防潮堤建設の先送り、非常用発電設備の高所への移設、非常用復水器の動作訓練)が想起されます。

この辺りの規制とか歯止めの仕組みを構築するには、まだ社会の賢さが足りていないように見受けられます。

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