2014年8月15日金曜日

相反(6)

前のエントリで記したように、特許制度において、新規の科学的知見の公開はあくまで権利と取引の形になります。権利化のために公開するのであって、虚心、能動的に公開したいわけではない、ということです。


では、本騒動の元となったNatureに代表される科学論文はどうでしょうか。確かに科学論文が社会で知を共有するための有用なツールの一つであることに異論はありません。

科学技術の新たな知見と経済的利益の独占を仲介する特許とは一線を画し、社会の共有財産として知見を公開する、といった姿勢が科学論文には窺えます。知の公共性という一面を重視しているかにみえます。

しかしながら、該目的を適える手段として、上記Nature、更にCell、Scienceといったインパクトファクター(文献引用影響率)の高い、いわゆるトップジャーナルへの掲載の必然性はあるのでしょうか。

IT技術が未発達であったかつてならば、研究成果の公開は科学誌という出版物に頼らざるを得なかったであろうことは理解しています。で、社会が新たな知を共有する手段としての出版物の長い歴史を通じて、特定の科学誌が権威付けられてきたわけです。

極めて、低コスト、迅速、容易な情報公開が可能となった現在、それでも科学論文の公開にあたって権威ある媒体への掲載を重視する姿勢に疑問を抱いています。

極論、若しくは暴論であるのは承知しています。その上で、単に”新たな科学的知見を社会で共有する”といった趣旨を適えるのであればブログ、ウェブサイト等によるネットワーク上での公開で十分、むしろ最適ではないかとさえ考えます。


査読による論評、批判は、投稿内容を切磋し更に洗練された、合理的な論文へと導く役割を担っているわけですが、自らのサイトであっても、一方的な公開の場とすることなく公共性を自覚と共にオープンな議論の場を用意しさえすれば問題ないはずです。

勿論、自らの舞台で自らの成果を勝手に公開することになりますから、捏造や剽窃等、不正はし放題です。咎める仕組みがありませんから...

ただ、そういった不正な成果公開は当該研究機関の信頼を著しく失墜させる行為であり、某国のような自画自賛研究組織とみなされ存在意義が消失するだけです。外部の目から科学研究を行う組織ではなく、怪しげな新興宗教団体、インチキ健康食品の会といった類の非科学的組織との烙印を押されるわけです。

外部からの疑問、批判に耐えうる高い客観性、論理性、自律性、自浄能力が求められることにもなり、むしろ好ましいような気もします。

そういった動きは皆無ではありませんが極めて緩慢にみえます。該方向に向かわせる力は弱く、未だ権威ある科学誌への掲載が研究成果の評価手段として重視されているのは間違いありません。

これはおそらく、研究成果の評価を科学誌への掲載の可否、更には掲載した科学誌の権威の程度で行うことが各々の関係者にとって都合がいいためと考えます。この都合の良さが評価手法の適正化を阻み、現状に押し留めてしまいます。


1.メディア側


メディア側、出版社側は当然、既得権益の保護、組織防衛に走ります。自らがこれまで営々と構築してきた権威、価値体系の毀損、自己否定に繋がりますから。権威ある科学誌が研究成果を評価する、という姿勢を譲るわけがありません。


2.読者側

該雑誌は原則として科学者、研究者が読者であり、これに科学技術に興味を持つ読者、論文を二次利用するメディア、掲載されたという事実を重視する研究機関の管理、所管組織が加わります。勿論、投稿者となる科学者は読者でもあります。

研究者の採用、評価といった人事管理、研究予算の付託や受託、褒賞の申請、選考は、研究機関内外の管理、評価、所管組織が担うことになります。

具体的には例えば、科研費であれば文科省や日本学術振興会によって審査、交付され、文化勲章であれば文科大臣が推薦して内閣府の審査後、閣議で決定されます。

勿論、対象分野の専門家の意見も参考にされるのでしょうが、掲載された科学誌の権威と論文数による評価が非常に都合がいいわけです。専門、非専門に関わらず、又、政治家、事務方にとっても、即ち、研究成果の理解如何に依らず評価したことにできる便利な指標ということです。

評価の責任の一端を科学誌の編集部に転嫁しているような気もしますが...
多くの日本人研究者は不勉強なので、自分の専門以外のことをほとんど知らない。研究費申請の評価を依頼されても内容を理解できないので、論文の発表されている雑誌名だけを見て大方の評価を決めてしまう。あるいは、知り合いの教授やその部下の申請だと甘く採点し、次に自分や自分の部下の申請の時に手心を加えてもらうことを期待する。これは科学研究費と呼ばれる研究助成以外の大型研究費助成に強い傾向だと思う。
こういった指摘をされている、大学研究者と思しき方もいらっしゃいますし、
各国政府は、Natureが象徴する科学の評価システムに依拠して、多大な税金を医学生物学研究に注ぎ込んでいるからだ。その評価システムが信用ならないとなると、今のような多額の税金を注ぎ込むことはもはや正当化されない。
科学誌の権威を借りた研究成果の評価に批判的な研究者の方もいらっしゃいます。

以前のエントリ(王道内輪)でも記しています。


3.投稿者側

研究成果をまとめた論文を科学誌で公開することの本来の趣旨は、”新たな科学的知見を社会で共有する”ことと思っています。権威ある科学誌に掲載を許された論文は優れた論文であり、高い重要性、新規性、有用性を備えた、社会で共有すべき知見であることを意味します。

即ち、権威は単に知見の有する公益性の程度を裏付ける指標に過ぎないわけです。掲載の結果による、特許ほどあからさまな経済的利益ではないにしても、功績を讚える研究予算、ポスト、栄誉といった褒賞は余得とするのがあるべき位置付けではないでしょうか。

勿論、今日の生命科学関連の研究には莫大な予算が、又、研究の自由度を確保するには権限が必要なのは明らかです。人の持つ承認欲求を鑑みれば自らの功績を顕示して栄誉を得たいという心情も当然です。その意味で成果のウェブでの公開を極論と記しました。

従って、権威ある科学誌による論文掲載を目指す行動原理には、”新たな科学的知見を社会で共有する”に加えて、一定割合で上記褒賞に対する思惑が含まれているのではないかと想像しています。

自らの研究とその成果にしか興味がない科学者ならば、権威ある科学誌であろうが、ウェブ上での公開であろうが構わないかもしれませんが、稀かと思います。合理的、効率的行動に従えば持てる資源(科学的知見)で最大のリターンを図ろうとするのが自然かと...

該余得は私腹を肥やす経済的利益ではありませんが、私欲を満たすためのものではあります。科学
誌の役割において、実は余得に過ぎない上記褒賞に対する欲求の占める割合が、”古き時代”より増大しているのではないか、そういった思いを禁じえません。
――人の役に立ちたい――
STAP細胞発表直後の小保方氏の言葉だったかと思います。加えて、”公益に資する”、”社会に貢献する”、”新たな科学的知見を社会で共有する”といった無私の姿勢は余得を目指す意識とは整合性がないような気がします。”バランスを取ればいい”と言われればご尤もかもしれませんが。

新規の科学的知見が優れた論文としてトップジャーナルに掲載され、その結果が研究予算やポストに反映されるわけですが、そういった余得獲得の手段としての投稿であり、そのための科学研究ではないかと、逆転したかのように錯覚することがあります。


(続)

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