2020年10月10日土曜日

損益(2)

先のエントリからの続きです。

 2)二極化とレッテル貼り

昨今の新型コロナウィルスを巡るゼロリスク要求側と否定側の論戦を観察していると、立場を二極化して批判合戦を繰り広げているように見受けられます。

ゼロリスク要求側は文字通りリスクの完全な撲滅を追求し、周囲や社会全体からの支持を得るべく、その活動や意見をSNSなどで公開しています。リスク許容側は、このゼロリスク要求側を、ゼロリスクが実現不可能なものと批判し、それをやはり公開していて、そこにはリスク許容の支持を増やそうという姿勢が窺えます。

両者共に相手の意見を否定して自身の主張を押し通そうと、批判の域を越えた罵倒合戦に発展してしまっている場合もあります。更に、自身がゼロリスクを要求する、リスクを許容する意見を開陳するだけに留まらず、他者や社会にも同調圧力をかけ支持を求める、それが適わなければ対極側を支持しているとレッテルを貼付する、そんな印象すら抱くことも少なくありません。

セロリスクの実現が不可能であることに論は待たないが、前述の1)の理由から直ちに諸手を上げて支持するには違和感を覚える層を、ゼロリスクを要求する側からはリスクを盲目的に許容する側に、リスクを許容側からはゼロリスク信者として見做す独善性が行間に漂っている、ということです。

以下は2011年03月11日まででゼロリスクについて検索された資料からの引用です。遺伝子組み換え農作物に着目したリスク・コミュニケーションにつての資料ですが、
2.4 一般の人々は非現実的な「ゼロリスク(絶対安全)」を要求しているのか? 
• 「どんなものにも多かれ少なかれリスクはある」、「リスクの削減は便益とのバランスの上で考え なければならず、多少のリスクは許容しなければならない(リスク便益原則)」、さらには「リスク を恐れては何もできない」等々の決り文句による恫喝 
• しかし、実際には人々は必ずしもゼロリスクを求めているわけではない(Marris et al., 2001; Wynne, 2002; STAFF, 2000)。
i) 求めているのは、ゼロリスクなどありえない世界の中で専門家たちが果たすべき「責任」が 十分に果たされること。
ii)リスクとベネフィットのつりあいではなく、無知・不確実性と、理由・目的の正統性、責任 のつりあいが重要。 ~「新しい技術は、自分たちを不確実性に曝すほど重要な目的をもっているか、どうしても 必要なものなのか、代替策はないのか、責任体制は十分なものか?」
iii) 「参加」の要求: 目的・必要性について、自分たちで判断したいという欲求不確実性・価値・公共性をめぐるリスクコミュニケーションの諸問題 ― リスクガバナンスの非公共化に抗して ― 平川秀幸 (京都女子大学現代社会学部)
ゼロリスクを要求しているわけではないが、行政や事業者側の施策、計画を盲目的に支持しない層の存在が示唆されています。実は社会の中でこの層は、当時も現在もいわゆるサイレントマジョリティとしてかなりの割合を占めているとみています。おそらく自分もこの層に含まれます。

福島原発の事故以前、ゼロリスクの実現は不可能であることを承知しながらもリスクを許容することに躊躇を覚える、モヤモヤ感を拭えない層についての言及が既にされていたことは特筆しておくべきことです。

しかしながら、そのような問題提起があったとしても、社会全体に蔓延していた、”今まで大過はなかった”とか、”寝た子を起こすな”、”日本の原発が重大事故を起こすはずがない”的雰囲気の中に社会的関心はかき消されていました。

これはその後の福島原発の事故を受けてもう少し議論が深化して然るべきですが、依然足踏み状態にあるように見受けられます。

該事故の前から提起されていた、行政の無謬性などのリスクコミュニケーションの問題は依然として未解決のままです。その状態で、ゼロリスクの要求とか、リスクを許容すべきとかで対立するのもなんだか不毛だなぁ、という印象です。事故はゼロリスクについて関心を深め、上述の信頼社会の構築に向けた生産的な議論へと進める原動力になり得るはずなんですが...

なかなかそういった方向に進まないのは、技術の進歩に相応するほど社会が賢くなっていない所為かもしれません。


次のエントリに続けます)

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