2017年1月15日日曜日

化粧(3)

前のエントリに続けます。

では、何が前記社会通念を墨書せしめているか、社会的圧力の由来は何かについて思料してみますと、おそらく同調を求める空気とか旧来からの強固な価値観ということになるわけです。ただ、更にそれらの根底には消費の煽動者が潜んでいるのではないか、と見立てています。

土用の鰻、バレンタインデーのチョコレート、デ・ビアスが先導した婚約指輪の相場、恵方巻にクリスマス、昨今ではハロウィンと、実はそういった販促イベントに通底する商業主義が社会的圧力を保つ原動力になっている、ということです。

今、化粧品メーカを核にその周辺も含めた化粧品関連産業を考慮すれば、該メーカと共に原材料を供給する化成品製造、商社、問屋、小売、通販等の販売、物流、更に広告宣伝を担うメディアと、その産業は多岐にわたります。化粧品のみの専業ではないとしても、その従事者も膨大です。昨今はコンビニ、ドラッグストア、100円均一でも品揃えがありますから。(化粧品業界の市場規模:約2兆円

ここに化粧品を利用する職業である美容(市場規模:約1.5兆円)、エステティックサロン(市場規模:約0.35兆円)、ブライダル、専門学校を加えれば化粧品関連全体の市場は大凡4兆円程度となります。

これは例えばチョコレートを含むお菓子の市場規模約3.3兆円を上回る額です。0.1兆円にも満たない鰻の蒲焼、推計0.054兆円の恵方巻きとは桁が違います。

上記状況を鑑みれば、”社会人女性にとって化粧は必ずしも義務ではない”、”女性が活躍できる社会においては化粧よりも仕事と家庭の両立こそが優先事項である、といった考えが社会に広く浸透してしまうと、化粧に関わる職域に属する人々にとって不都合が生じるであろうことは容易に想定できます。

実際、他人だから(どうでもいい)という理由も含めて、女性がノーメイクであっても構わないという立場から、
——ノーメイクで家を出たからといって、電車内で行わなければならないほどの必要性は化粧には認められない——
という理由で電車内の化粧はすべきではない、との意見も見かけます。しかしながら、該意見を支持する声はそれほど多くはなく、必ずしも明示的ではなくとも、「化粧は社会人女性に必要不可欠なマナー」という観念を前提としての電車内の化粧批判が大勢を占めているといった印象を拭えません。

(但し、自らの利益に関わる既得権の維持を目論む側は、声が大きくなりがちです。”女性に化粧は不可欠”であることの正当性を強く訴えなければなりませんから。一方、この観念を支持しない側は、化粧が義務ではないことを主張したとしても特段得るものはなく、あえて声を上げる動機がありません。いわゆる、サイレントマジョリティの状態ではなかろうかと。つまり、”化粧は女性の義務”との考えは真に社会の主流だろうか、という疑念は解消できないでいます。)

ただ、ここで少し視点をずらし、電車内でノーメイクの女性と乗り合わせた場合を想定してみます。こういった状況において、該女性が化粧していないことでマナー違反、社会人失格と指弾された事案、この事案に対し賛否の炎上があった例がこれまであったでしょうか。ちょっと思いあたりません。女性がノーメイクで電車に乗車していたとしても、車内で化粧さえしなければ、他人事と片付けられ話題にすらならないのが実の処ではないかと。確固たるマナーとして女性の化粧が認知されているならば、”電車内にノーメイクの女がいた”という炎上例があってもいいはずです。車内のノーメイクの女性を指して社会人失格などとあげつらうのは、これはこれで一体何様?、人として頭大丈夫か、といった思いが頭をもたげてきます。

つまり、電車内で化粧すること自体がマナー違反、女性社会人として失格であって「化粧は社会人女性の義務。人前にノーメイクで出るのはマナー違反。」ではない、ということです。”化粧は女性の義務”云々は、電車内の化粧を批判する理由には全く当らない、切り離されるべきと考えます。

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