2016年5月29日日曜日

追憶

オバマ米大統領の広島訪問について少し。

今回の訪問で確実に駒が一つ進んだと信じたい処です。それは単に核なき世界、平和を含めた、賢い社会に向かってという意味でです。


で、駒を前に進めるには時間が必要であることを改めて実感しました。疑いようのない非人道的な民間人の大量殺傷において、たとえ和解や謝罪に至らず、単に向き合うだけでもかなりの時間を要しました。現在友好関係にあったとしても、かつて敵対した結果の敗戦国と戦勝国の間であれば致し方ないことかもしれません。

両国の直接的な当事者が向き合わない、自国の過去の行為を否定しない、省みるまでではなく顧みるためには、71年間の時間を要しました。少なくともどちらか一方が、――今回の場合世代を経た米大統領――当事者から離れた関係者でなければ今回の対面は実現しなかったと考えます。
そもそも国家の責任は消えないというのか?
舛添問題で話題の第三者の目、即ち渦中の当事者ではなく客観視できる関係者の存在が蟠りの解決には不可欠で、それは時間頼らざるを得ない、ということです。寛容であるべきという意図ではありません。

今回のオバマ大統領の広島訪問に際し、
原爆投下による無差別の大量殺人に対する道義的責任

国際法違反の疑義

日本の降伏、即ち戦争終結における原爆投下の位置づけ
に言及しなかった、謝罪しなかったことを理由に「何をしに来たのか」(平岡・元広島市長)との声もあるわけです。特定メディアの主張が代弁されているに過ぎない気はしますが...しかしながら、”謝罪する意志がないなら来るべきではない”、若しくは”来た以上謝罪するべきだ”という向き合い方も正当とは思えません。

では、膠着状態が続くことを是とするのか、ということです。そういった声が上がるというならば、今回の訪問は時期尚早だったということかもしれません。当事者から距離を置いた”他人の痛みが分からない”者の見方であることは重々自覚した上で記しています。

更に、手前勝手に付言します。このような蟠りが融和に向かう歩みを時間に委ねざるを得ない場合、慰霊や追悼のモニュメント、並びに故人の言というものが、融和に向かわせる力のブレーキとして作用してしまう恐れはないだろうか、ふと思った次第です。

モニュメントには記録の役目もあるわけで、それは忘れさせないということです。いつまでも忘れないようにとの記録の碑が、史実を真実へと固定化し、鮮明すぎる記憶が保持されたままでは融和もなかなか難しいのではないかと...事実から目を背けたり蔑ろにしていいという意図ではありませんが。
南京大虐殺紀念館慰安婦の碑その典型例かもしれません。



(追記していきます。)

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