2014年5月4日日曜日

相反(2)

前のエントリから続きます。

高齢化、少子化が急速に進み、需給ギャップの解消が進み難い現在の日本で、成長戦略の模索は続けられているものの、未だ妙手は見出せていないのが現状です。そういった状況を鑑みれば、新たなる成長産業の種を創出し得る科学研究が重視されつつも、国際競争力を保つべく成果を囲い込もうと秘密主義に向かう力もあって当然です。

声高に情報の公開を迫るメディアに要求されるがままに成果を公開し、競合他国の後塵を拝する結果に陥ったとしても、当事者の責任が問われこそすれメディアは素知らぬ顔をするのは明らかです。メディアはそういった事実を伝えて憂い嘆き、科学技術政策を批判するだけでしょう。

このよう
科学研究を巡る環境は、前出の野依理事長の”古い時代”とは明らかに異なっています。率直に表現すればギスギスした時代になってしまったということです。

典型的には野依理事長と同じく、ノーベル賞受賞者である鈴木章北海道大学名誉教授の言葉に現れています。


――特許を取るなんて、がめついヤツと言われた時代だった。それに、自分のお金でなく、国のお金で研究していたのだから。特許を取らずにオープンにしたおかげで、これだけ広く使ってもらえるようになったのだとも思う。――

――僕の怠慢。あのころは大学で

特許を取ることなんてなかった。――

そういった時代に研究者生活を過ごされた方と、現在激烈な競争の真っ直中にいる現役の科学研究者とでは、自ずと研究成果の公開に対する認識に相違が生じるわけです。(両者の是非、正否を云々する意図は微塵もないことを申し添えておきます。)

大上段に”知の共有”という科学技術の意義を振りかざし、徒に再現性のないことを責め立てる姿勢には真偽とは別に若干の違和感を禁じ得ないというのが正直なところです。


STAP論文では後に捏造や改竄騒動に発展してしまうのですが、騒動の火だねとなった疑義が生まれなかったならば、論文に再現性がないことはさほど問題視されなかった気がします。

成果の全てを包み隠さずオープンにするのが科学
論文として理想であることは理解できます。しかしながら、それは研究競争が沈静化し、優勝劣敗により当該分野の研究者間で共通の価値観が醸成されて以降のことでしょう。換言すれば、知の創出に関わる栄誉や発明による権益の帰属がある程度定まらない限り、知の共有は始まらないということです。

”Natureに掲載”、自然科学の分野においてこの事象が研究成果の評価基準の一つとなっていることに釈然としないものを感じないわけではありませんが、いずれにせよ、これは単に真の知の共有に至る一過程に過ぎないと考えます。


未だ、権威ある科学論文に認められつつあるという過渡的状態であって、必ずしも普遍的な知となるまでには至っていないわけです。

抽象的な表現ですが、先述の、ある意味世知辛い競争環境の中、”STAP論文に再現性がない”と非難することに絶対的な正当性があるとは思えません。謂われのない誹りといった部分を否定できない気がします。

捏造・改竄騒動がなければ、”再現しない”といった声に対し、”微に入り細に入り情報を開示しろとでも?”、”未熟な研究者には再現できません”、”稚拙な追試です”、”詳細は次報で”と突き放せば片付いた話だったのではないでしょうか。

上記は再現性に欠けた場合の一般的な話で、本件では突き放す前に捏造・改竄騒動へと炎上してしまいました。前提としてSTAP細胞の存在とその確信があってこその一蹴であるのは言うまでもないことです。逆に言えば、即座に”稚拙な追試では再現できません”と断じ切れなかった部分が疑念を生み出しているわけですが... 


では、科学研究の即物的な成果である特許では、再現性はどういった扱いでしょうか。

(続)

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