2021年11月28日日曜日

伝承

ここの処、国会議員の文書通信交通滞在費に耳目が集まっています。目的は費目の通りで、各国会議員に月額100万円支給される手当です。使途についての報告や公開の義務はないことになっています。

きっかけは、今年10月31日の第49回衆議院議員総選挙でした。この選挙で当選した議員にも10月分が全額支給されていて批判の声が上がりました。結局、日割り支給にすることが国会で法改正されて沈静化に向かっているようです。

ただ、以前から燻り続けている”報告や公開の義務なし”は手付かずです。こちらの方がより問題とみていますが...

更に言えば、信頼に足る議員の公益に資する活動に伴う適正な費消であれば、本来的には報告や公開は不要のはずです。しかしながら、報告や公開の義務化を求める声が上がるということは、まぁ、浪費とか無駄遣いに留まらない、公金の私物化の疑いが払拭できないということなんでしょう。

それ程までに国民の代表たる選良は信用されていないわけです。この点こそが重く受け止められるべき話で、我が国議会で連綿と踏襲されてきた伝統です。

先日、その伝統の下決定された今年度の補正予算案が報道されました。その中で、「新しい資本主義の起動」に8兆2532億円とあって、その”新しい”とはナンジャラホイとも思う今日この頃ですが、「防災・減災など安全・安心の確保」に2兆9349億円の”安心”に、”今尚この語を使うのか?”という感を拭えませんでした。

”安心の確保”とは取りも直さずゼロリスクの実現に他ならないわけです。自らに支給された文書通信交通滞在費の使途ですら不審な支出が疑われている選良から、ゼロリスクの実現を宣われても、信用しろと云う側に無理を感じる次第です。

結局、文書通信交通滞在費の日割りや公開といった法改正すら見送りにした、つまり自らを律することすら拒絶と云う結果になりました。

非公開の費出に対し不信感を募らせ、だからといって透明性を高めて信頼を得んとする努力すら放棄しているわけです。そういった姿勢で、安心を確保してゼロリスクを希求する声に応えることができるのか、甚だ疑わしいと言わざるを得ません。

安心とは心情の一つの状態であって、これを確保するにはゼロリスクの完全な実現が必要です。換言すればゼロリスク状態の完全な証明がない限り僅かであっても不安が残るわけです。そうなると、この完全な証明がなされるまで、ゼロリスクを希求する声は止まず、延々と安心のための施策を講じ続けることになります。


(もう少し追記します)

2021年11月27日土曜日

反攻

そりゃ、あれだけCOP26やら自動車のEV化とかで騒いで、

━━石油は使わないよ。悪事だから。━━

と見得を切られればそれを生業にしている産油国がヘソを曲げるのも当然です。

原油価格が高騰する中、日本政府はアメリカ・バイデン政権の要請を受けて石油の国家備蓄のうち国内消費量の数日分を放出することを正式に発表しました。(石油備蓄放出へ 決定の背景 ガソリン価格などへの影響は?

”対策している”というポーズ以外に意図を解りかねています。

ガソリン価格抑制で石油元売りに補助金、経産省は監視へ

とか...減税でも還付でも国内需要家を直接的に支援できないのか、と。

もう一つ、石油輸入国ランキングの中で日本は現在上位には位置していません。つまり日本以上に負担感が強い国があるということです。これを機会と捉えて対外的な戦略というか、外交カードにできないか、とも感じます。

石油悪玉説が跋扈している時、産油国や米国シェールオイル業界の声を全く見聞しなかったことが妙に気になっていたのですが。しっぺ返しの意図も込められているのかもしれません。

2021年10月17日日曜日

物語(2)

 前のエントリに続けます。

そして、やはりMRJの開発もYS-11と同じく官が事業に絡んでいます。計画の発端は経産省で開発費の半分は国費から費出されたようです。

MRJ計画の発端は、2002年に経済産業省が発表した30席から50席クラスの小型ジェット機開発案「環境適応型高性能小型航空機」(同時発案に50人程度の小型航空機用ジェットエンジン開発「環境適応型小型航空機エンジン」)で、開発について機体メーカー3社(三菱重工業、川崎重工業、富士重工業)に提案を求めた。

開発期間は2003年度から5年間、開発費は500億円を予定し、その半分を国が補助するとした。Mitsubishi SpaceJetより

こういった政府主導の開発事業、業界再編で成功した事例というものがちょっと思い出せません。まぁ、斜陽や不振が予測されての再編ですし、買収や合併、民事再生や会社更生法の適用であれば新聞の紙面を賑わしますから。成功例が少ないのか、単に記憶に残っていないだけなのかよく判らない部分もあるのは確かですが。

ただ一方、JDI、ルネサスといった国策合弁会社の社名からはなかなか順風満帆のイメージは連想できません。エルピーダというDRAM製造会社もかつて存在していました。

そうなると、官が製造業に口を挟むと碌な結果にならないのは何故なのかが気になる処です。少し考えてみると、いくつかの理由が思い当たります。

その中で問題視すべきはやはり、前のエントリにも記した、”買ってくればいい”といった姿勢ではないかと考えます。

生産品そのもの、基幹部材、部品、或いは製造装置を購入して、若しくは技術導入しての商品化、自社ブランドでの販売は、明らかに安易です。後発が独自開発して製品化するより、時間や人材、費用といった投入資源は圧倒的に少なくて済みますから。

当然、投入資源に対するリターンも僅かですが、それより供給元を上回る付加価値の製品への付与が困難であることが問題です。外部からのモノ、サービスの供給、つまり金の力で製品ができたとしても、それは自社での研究、開発の放棄に他なりません。それでは常に先行メーカの後塵を拝し続けることになるだけでなく、技術的知見の蓄積もされず、独創的製品も生まれ難くなるのは道理です。

新たな知や、社会を変革する卓越した技術の創出が基礎研究の目的であるならば、”買ってくればいい”という姿勢はこれを蔑ろに、あまつさえ否定すらしているわけです。

それは、杓子定規に何から何まで自らが賄うという話ではなく、思想の話です。少なくとも、”買ってくればいい”ではなく、”悔しいが外部からの購入に頼らざるを得ない”であるべきと考えます。

では、その安直な買ってくればいい”は何に由来して生じるのか、根底には何が横臥しているのか、が当然気になります。まぁ、水は低きに流れますから、それも理由の一つではあるのでしょう。ただやはり、その根幹には、成果を求める圧力と無謬性の体質が潜んでいるのではないかと。

計画が立案承認されれば予算がついてあとは目標達成に邁進するのみ...計画に誤りなどあろうはずがなく、できて当然、できない方が異常であると。何せ、そのための計画があるわけですから。

極論を記せば、先行き不透明な独自技術の開発より、他所から買ってきてラベルを付け替えて、”できました。”と喧伝したほうが製品化の負担は低減できます。しかしながら、だからといってそれを効率的な製品開発とするのは全くの誤りです。

他の要因、例えば難易度やガイアツを考慮する必要はあるものの、自動車やプリンタと航空機やコンピュータの明暗を分けたのはその辺りに依る処が大きいのでは、と思量しています。

このような、目標が達成されて当然といった無謬の雰囲気の中では、誤りも誤りではなく常に成果が得られることになっています。独創的技術が創出され難い環境です。

ちなみに、この無謬の雰囲気で不足を補う手段として精神力を重視すると、それは旧日本軍になります。無謬性は日本の組織に内在する伝統的な体質かもしれません。そしてこれはとりもなおさずリスクを許容ないゼロリスク社会に繋がるわけです。

ゼロリスクと無謬は、絶対、完璧とか完全、万全の語で形容される、非現実的な修辞の表現に他なりません。理想や目標とするにしても虚構の域内に留まらせるべきで、実現する、した、できたとの言は妄言、虚言、或いは大言壮語、風呂敷の類です。

このようなゼロリスクや無謬といった語意に絶対性、完全性を想定させる語、或いは、直接に絶対、完璧、完全であることの喧伝欺瞞か空手形に過ぎず、不信感を招く以外のなにものでもありません。

それでも国会では、国家運営に責任ある方々が、”完全”、”完璧”、”絶対”、”全力”、”しっかり”、”ちゃんと”の語を日々乱発しています。リスク社会において完全とか完璧の語は却って発言者に対する不信感を募らせます。

最近では”完全”、”完璧”だけでなく”倍増”も怪しい語になりました。

10月14日、山際大志郎経済再生担当大臣は、岸田総理大臣が総裁選で掲げた「令和版所得倍増」について、「所得が2倍になるという意味ではない」との認識を示したという。この発言はテレビ朝日によって報じられ、大きな反響を呼んでいる。

拍子抜けというか、落胆している今日この頃ではあります。

話が随分明後日の方向に脱線しました。このリスクと信頼社会については折りに触れ記してみます。

話をプロジェクトXに戻します。あくまで主観ですが、今、求められているコンテンツは娯楽や感動のための成功物語ではなく、撤退やダメージコントロールの記録ではないかと考えます。製造業版

失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎)

といった処でしょうか。妙に物語化した転進ではなく、あくまで撤退の記録です。技術の進歩や社会情勢の変化に伴う避け得ない事態です。それが日本的体質によるものか、バイアスと称される心理的偏向によるものかは存じませんが、次の成長に必要なものは過去の成功事例をなぞることではなく、失敗を研究し轍を踏まないことを重視すべきです。言うは易し行うは難しの話です。小池知事東京都の現都知事ある小池氏は、上記「失敗の本質」の推薦人の一人でした。都政の現状を鑑みれば、

”本当に読んだのか?”

との疑念が生じないでもありません。

ここの処、日本国内の半導体産業復活?活性化?のためにTSMC(台湾の半導体ファンドリ)の工場を誘致する、といった報道を見聞します。外国籍の会社の製造工場を国内に建設すれば自国の産業が復活する?理屈が理解できません。雇用確保以外に意味があるのだろうかと。かつて日産は英国で自動車生産を行っていました。(今も、かどうか詳細は存じません)で、日産は英国に製造工場を持つことで雇用を除いて英国の自動車産業に恩恵はあったのだろうか、ということです。

国費を拠出し、おそらく優遇措置も提示して半導体工場の誘致を進めるとのこと。”官が絡むと碌な結果にならない”の事例を増やすことにならなければいいのですが...


追記していきます。

2021年10月16日土曜日

物語

東京五輪の番組視聴率が好調とのこと。どう算出しているかは知りませんが、NHKの地上波、BSの4チャンネル中、3チャンネルで、加えて民放2〜3チャンネルで同時に五輪の番組を放送していれば、そりゃ、五輪の番組視聴率は高くなって当たり前です。五輪を放送しているチャンネルの視聴率の総和が東京五輪の番組視聴率と言っても間違いではありませんから。

で、仕方なく少し前に録画しておいたNHKの「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」を観ていたわけです。トヨタ自動車の最初の乗用車開発への挑戦についての番組でした。トヨタのフラッグシップカーとなるクラウンが誰によってどう開発に至ったか、開発物語、苦労話というか、まぁ、そんな内容でした。

その中に、出てくるわけです。根性とか度胸といった語が...

当時の技術開発には体育会系的な精神論が重視されていたのか、或いは、番組制作で脚色された”技術屋の根性が完成をもたらした壮絶な物語”なのかは存じません。ただ、開発の過程で、根性と度胸で頑張ります、頑張ろうといった声が聞こえるような場からはそっと距離を取って離れていきたい処です。

尤も、開発が恙無く完了し目標達成の後には、後日談として”根性と度胸で頑張りました”はよくある話です。ただ、それは自らによる意図的な脚色で、広報、宣伝といった販促活動、或いは企業のイメージ戦略の一環とも思われます。

公正中立を自負するみなさまのNHKが手がける、いわゆるドキュメンタリとは似て非なるものです。端からドキュメンタリ風開発ドラマと捉えられれば違和感のようなものを抱くことはないのでしょうが、当時の関係者の声や実際のエピソードを番組に巧み織り交ぜて真実性が醸し出されています。

うっかりというか素直に観れば、全て事実から構成されたドキュメンタリと見紛いかねません。これは当に、社会小説におえる山崎豊子、歴史小説における司馬遼太郎的手法を映像分野に適用した手法相違ありません

”画期的な技術開発に成功”という揺るぎない事実をゴールに定め、そこに至るプロセスを演出、折々にエピソードを挟み込んで全体として事実感に満ちた物語が展開されていきます。おそらく細部の演出によって紆余曲折、七転八倒、波乱万丈、獅子奮迅、山あり谷あり、喜怒哀楽が凝縮されたドラマの完成に至るわけです。

今思い返すと、番組中でも”・・・のドラマである。”とのナレーションが入っていたような気もしないではありません。

迫真に迫る良作であればあるほど難しいわけですが、虚実を見極めないままの盲目的な物語への思い入れには危うさを感じます。本来であれば、懐疑の念など持たず素直に開発の軌跡を辿りたいと思っていて、虚構や脚色を織り込んだ嵩上げした感動ドラマは御免被りたい、というのが正直な処です。

少し検索してみると、上記放送ではありませんが、過剰演出や脚色を指摘されたり、事実と異なるとして抗議を受けている事例もあるようです。トヨタ自動車のクラウンに関して、そういった話が出ているわけではありませんが、だからといって粉飾はなかった、一点の曇りもない事実であると断定できる根拠もありません。クラウンという国産乗用車の開発に成功したという事実以外は...

やはり、話半分というか割り引いて、或いは、斜に構えて盲信しない姿勢が必要かもしれません。ウィキペディアの説明では「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」のジャンルはドキュメンタリとなっているとしても...残念です。

さて、こういったドキュメンタリ的ドラマ云々の話はこの程度にして、プロジェクトXの題材となった時代背景の流れを受けた昨今について少し所感を記してみます。

上記プロジェクトXの国産乗用車(クラウン)開発物語の中で、

──国力の少ない日本では、乗用車の開発は無理──
との、当時の日銀総裁 一万田尚登氏の発言が取り上げられていました。ドッジラインによって当時林立していた国内自動車メーカーが苦境に喘いでいた頃でしょうか。確かに、資金も技術もない上、整理解雇や労働争議が頻発していて、国産乗用車の開発が遅々として進まない環境では、そういった声が上がるのも理解できないわけではありません。しかしながら、それを国家の経済活動の舵取りを担う、極めて枢要な立場にある中央銀行の総裁が発言するか、と理解に苦しみます。それは、工業立国、技術立国であることの放棄を意味する発言です。であるならば、自国存立の糧を何に依って得るのか、ビジョンを開陳し産業を提案すべきです。

日銀総裁だから日銀券をじゃぶじゃぶ印刷するからそれで輸入車を買えばいい、ということでもないと思いますが...少なくとも、国産乗用車の事業化を中央銀行の総裁の立場から支援するのが本来の責務と考えます。”国際分業の中では日本が自動車工業を育成するのは無意味である”という意見が根本にあったとしても、であれば何を担うのかを明確にする義務があります。

この流れが、後の乗用車輸入自由化に向けた、通産省主導による自動車業界再編の動きに繋がっていったのではないかと。上記発言で作家 清水一行による企業小説です。もはや題名すら定かではありませんがマツダをモデルにしたフィクションで、おそらく「世襲企業」だったかと。ロータリーエンジンの開発によって、そういった官主導による業界再編の圧力を跳ね返す、そんな話でした。

一万田氏は製鉄の分野でも、川崎製鉄が本格的高炉を備えた製鉄所を千葉に設する計画を耳にして、

──建設を強行するなら今にペンペン草をはやしてやる──

と言ったとか言わなかったとか...

繰り返しますが、それならそれで日本が依って立つ基盤産業を明示すべきです。

親方日の丸の意に添うことなく、自動車メーカ自らの意志と力で技術開発を推し進めたからこそ、自動車産業は日本の基幹産業として今尚隆盛を誇っている、という見方にも相当の合理性があると考えます。日本の製鉄メーカが開発を進めた、高性能の自動車向け鋼板も自動車産業の発展に寄与しているのは勿論です。まぁ、

官が製造業に口を挟むと碌な結果にならない

の裏返しといった処かもしれません。

上記「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」[国産乗用車(クラウン)開発物語]の再放送後でしょうか、今度は「翼はよみがえった 前編 YS-11開発」を観る機会がありました。戦後初の国産旅客機YS-11の開発に纏わる話でした。

こちらは、1956年に通産省主導で国産民間機計画が打ち出され、(財)輸送機設計研究協会が設立された処から具体化が始まりました。

──国内線の航空輸送を外国機に頼らず、さらに海外に輸出して、日本の国際収支(外貨獲得)に貢献する──

を目的として設計・開発には国費が投入され、製造も官民共同の特殊法人である日本航空機製造が製造を担いました。紛うことのない国家プロジェクトだったわけです。

上述のように、自動車の場合には、”国力の少ない日本では、乗用車の開発は無理”と否定、自動車業界再編を主導し、一方では、国が音頭を取って国産の旅客機を開発製造すると...

何故、”国力の少ない日本では、旅客機の開発は無理”という声が上がらなかったのか不思議です。”国際分業の中では日本が航空機製造業を育成するのは無意味である”とか。

国産乗用車の開発・製造は無理だが国産旅客機なら可能とする理屈が理解できません。素人目には自動車より航空機の方が開発の難易度は高いように思えるのですが...

国が関与することなくメーカー自らの意志と力で技術開発を進めた自動車と、国主導の護送船団方式で技術開発を推し進めた航空機、その違いが一つの理由かもしれません。

自らが足を突っ込んだら、無理とか無意味とか口にすることはできなくなりますから。護送船団の舵取りや業界団体のお仕事も新たに創出できますし。

時は流れて、その結果が今日です。自動車産業は日本の基幹産業の揺るぎない一角を占めています。勿論、日本の国際収支に多大な寄与をしていることは記すまでもありません。

一方、国産航空機製造事業はどうなったか。プロジェクトXで取り上げられたYS-11はその後、飛びました、量産しました、安売りで採算割れ、生産終了の道を辿るわけです。

この開発、量産もウィキペディアによれば、ジュラルミン(部材)、エンジン、プロペラ、タイヤはもとよりレーダーや無線機も外国製品を採用とのこと。部材や部品を国産で賄った国産乗用車との彼我の差を感じます。航空機と乗用車では開発難易度に大差があるのはさておいての話ですが。

その彼我の差がその後の明暗を分けた理由という見方も強ち外れてはいないような...

そして、雌伏の時を経て再びMRJ...日本の一部界隈が沸き立ちました。

しかしながら結局、幾度となく納期が延期され、MRJからMSJへと名称を変更、最終的には、開発凍結で頓挫して今に至っています。

穿った見方でしょうが、コロナ禍による航空機需要の低迷という開発凍結の理由は渡りに舟だったようにも思えます。戦前戦後を通じ撤退できないのは日本の伝統的体質です。撤退するということは、介錯は誰がするのかとか、事業化判断の是非といった責任者や戦犯探し、時には敗残兵狩りが始まります。組織の三菱としては誰も悪くない、悪いのはコロナ、そんな凍結理由にして社内の合意形成をスムーズに進めたのではないかと...憶測です。


長くなりました。次のエントリへ続けます。

2021年10月15日金曜日

傾聴

しばしば、

──人と会う、人の話を聴くことが政治家の仕事──

そんな文言を耳にしてきました。勿論、コロナ禍真っ只中の頃もです。

で、岸田新総理の話です。人の話をよく聴くことが特技だそうです。えーっと。言葉通りに受け止めて、これが特技なら他の選良は人の話をかない輩ばかりなんでしょうか。まぁ、”そうだ”と言われればその通りかもしれませんけど。

ただ、人の話をよく聴くというのはコミュニケーションの根本です。それがあって、質疑や答弁、議論、論戦が成立するわけです。

”俺、私、オイラ、小生、僕、拙は聴いているよ!”

そんな反論も聞こえてきません。 

人の話を聞かない連中が永田町に集まって一体何が生産されているのか、今更ながら不思議です。

話し変わって、コロナ禍の収束に伴い全国津々浦々でGo toなんとかのキャンペーンが始まるようです。選挙戦を迎えてのポピュリズム政治の具現化でしょうか。その一方で、岸田政権誕生の前後から、”分配”の語をやたらと耳にします。”バラマキ”と”分配”は違うと認識していますが、その分別は適切に行われているのか、違いについての解説を見かけません。

れについての説明を未だに見つけられていません。旅行や外食といった遊興費を政府が補助すること、これはバラマキなのか、事業者視点に立った分配なのか、興味深い処です。いずれにせよ公平性についての疑念は拭えませんけど。

2021年9月14日火曜日

翻意

翻意する力、というか自らの発言に対する責任感が希薄で、翻すことに躊躇しない力、換言すれば臆面のなさということですが、そういった資質を考慮すれば、河野太郎氏が時期自民党総裁に適任かもしれません。

まぁ、候補者各々、舌を何枚も使い分けているのでしょうが。

律儀にゴリ押しされた東京オリパラの開催が菅辞任の端緒だったとみています。おまけにゴリ押しした本人は時期総裁選で菅支持に回らずと。火中の栗を拾った現総裁に素晴らしい仕打ちです。

当に後ろ足で砂をかける所業と言っていいかもしれません。

まぁ、そういった集団の中でボス猿を決める興行ですから、 

「森友学園」への国有地売却をめぐる公文書改ざん問題について、「調査が十分かどうかは、国民が判断する話だ。国民が足りないと言っているので、さらなる説明をしなければならない課題だ」
との岸田文雄氏の発言は拙かったと思います。ここは直ちに”考えていない”と応じるべきでした。

その点、河野氏は

”再調査は考えていない”
と明言しています。ここは一つ氏の翻意力で、総裁就任後の

”世論の高まりを受けて考え直した”
”考えていないとは言ったが、再調査しないとは言っていない” 

といった文言を期待したい処です。それこそが氏の自負する突破力に依る現実的対応ではないかと。

正式に公表するかは不明ですが、政権基盤安定化のための取引材料として再調査はあるかもしれません。それがリークされるかは判りません。

2021年9月3日金曜日

丸腰

現総理の辞意表明を受けて、総裁選が口火が切られたわけです。”俺が、俺が、”と五十歩百歩、大同小異の有象無象、魑魅魍魎が跳梁跋扈し、針小棒大の風呂敷を拡げて奇想奇天烈、奇々怪々、といった体の猿山のボス争いが始まります。

各々、コロナ禍を収束させる施策を持っての出馬なのか甚だ疑問です。

いや、効果的な施策を秘めているなら総裁選まで出し惜しみせずとっとと実行に移せただろう、という話なんですが...

2021年8月13日金曜日

強弁

これは全く情緒的な話ですが、
━━コロナの感染拡大は東京五輪と関係ない━━

大本営とNHKが強弁している間は拡大は続くのだろうなぁと。若しくはインパール作戦か?

東京五輪開催との因果関係を認める、つまり、これまでの策、姿勢の失敗を認めて改ない限り、早期の感染抑制は困難かと。

あくまで印象です。

東京五輪(2021.07.23-2021.08.08)の次は横浜市長選(08.22)、パラリンピック(08.24-09.05)があって、その間に二学期(09.1〜)が始まると。

そうこうしている中に自民党総裁選(09.下旬)後、衆院選突入へ...イベント目白押しです。

力石徹と対峙するつもりなんでしょうか。ノーガード戦法は”あしたのジョー”だけで結構です。

2021年7月27日火曜日

放言

カーボンニュートラルとか宣う前に、

弁当捨てるな!

と強く批判しておきます。 

五輪開会の陰で・・・弁当大量廃棄も (2021/7/24)
五輪の弁当大量廃棄 発注数の変更はあったのか?JOC(日本オリンピック委員会)関係者の情報を入手した
圧倒的に制御可能な弁当の発注すら抑えられない組織体に、二酸化炭素排出を抑えるアタマがあるとはとても思えませんが...

まぁ、二酸化炭素排出量削減が原発稼働の大義名分であるならば、削減より稼働が優先ですから削減の可否は問題ないのかもしれません。

2021年7月17日土曜日

総意

此処の処、総意、世論、みんな、といった語にひっかかりを感じています。何を見聞してのことだったか定かでない部分もありますが、総意はおそらく憲法第一条

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

を目にしてのことだったかと。世論は、”軍部の暴走に加担した戦前の世論...”といったような文言だったかもしれません。

で、まぁ、みんなの意志総意≒世論という関係があるのですが、勿論、国民全員の意志が全く同じであることは有り得ないわけです。民主主義国家では、意志を同じくする国民の和が多数を占める該意志が総意となります。この国民の和とは、全ての有権者に等しく付与された意思表示の権利が行使された結果です。様々な意志がある中、同じ意志を持つ国民を定量的に比較し総意が決定される仕組みです。いわゆる”数の力”による支配です。

では、この”数の力”、特定の意志を持つ多数派はどのように形成されるか、考えてみます。総意は数による結果ですが、そのプロセスにおいて数を支配する正体は何か、何が世論を形成するのか、という話です。

非常に単純に考えれば、日本の総人口1億2547万人(令和3年6月1日現在の概算値)の過半数62735001人の意志が日本国民の総意となります。ただ、実際には意志を反映できるのは有権者で、その中で意志を表明した有権者の過半数によって総意が決まります。日本全国共通の総意を示す場として最高裁判所裁判官国民審査を例にすると、平成29年10月22日に執行された衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査では、

有権者数:105991138人

投票者数:56539788人

でしたから、その過半数(56539788人/2)+1=28269895人で日本の総意が決定されたわけです。実際には無効票もありましたから、有効票のみで計算すれば(54819748/2)+1=27409875人です。つまり、この場では

(27409875/125470000)*100=21.8(%)

総人口の21.8%の意志が日本の総意になった、言い換えれば約二割の日本国民によって日本の総意が決定されたということです。

果してこれは総意の語に符合する意志なんでしょうか、直ちに頷けないものを感じるわけです。

単純化するため直接民主制を取り入れた最高裁判所裁判官国民審査を取り上げました。現在の日本の殆どの意思決定を占める間接民主制の場合については別途考えます。

上記は総意が決定される際の数字の話です。現実には該数字に影響を与える、言い換えれば世論を形成する有形無形の力が存在していて、該力が総意の決定に強く働きかけています。総意にはこれを支配する力があって、この力が多数派の形成を経て総意として一人歩きを始める、こんな処でしょうか。

その最たるどころか、”数の力”すら蔑ろというか圧して総意らしきものが形成された例がこの度の東京オリンピックです。

ここ二、三ヶ月NHKから放送されている、東京五輪開催への誘導があからさまな、国民の総意を装った同調圧力番組に辟易しています。その一方で、毎月報道される世論調査で、東京五輪開催の是非を問うた世論調査の報道が脳裏に残っていて、なんとも違和感を抱いていました。確か、該世論調査では東京五輪の中止と再延期が大勢を占める選択だった覚えがありましたから。

そこで、遡って調べてみました。下図はNHKの2021年1月の世論調査からの引用です。






開催すべきとの声は前月、前々月より減少し、中止すべきと再延期すべきとの意見が合算で77%です。七月に入ってもこの印象はそのままでしたから、上記の東京五輪PR番組との整合性に疑問を感じたわけです。みなさまのNHKであるにも関わらず、みなさまの意向を蔑ろにした、某様のNHKへと変貌してしまったと。

ところが、東京五輪開催の是非についての世論調査は2021年1月までで、翌月以降は東京五輪をどう開催すべきか、という設問に変わってしまっています。

字面は、2021年1月が”東京五輪パラは開催すべきか”で2021年2月は”東京五輪パラはどうすべきか”ですが、用意されている選択肢が前者は[開催すべき/中止すべき/さらに延期すべき/わからない・無回答]であるのに対し、後者では[これまでと同様に行う/観客の数を制限して行う/無観客で行う/中止する/その他/わからない・無回答]となっています。明らかに開催ありきの世論形成の意図が窺えます。1月の”さらに延期すべき(今年は開催しない)”という意見の層を2月の調査で”観客の数を制限して行う/無観客で行う(条件付で開催する)”層へと誘導しているわけです。下図がその調査結果です。


”中止する”は1月、2月共に38%ですから、選択肢を変えることで、再延期を求める層を条件付き開催の層へと移行させた、とみることができます。

7月の調査では設問は、1都3県の会場を無観客として開催することの評価で、完全に開催ありきという総意が形成されています。それでも”中止を求める”声が30%を占めている上、無観客での開催を適切とする割合が39%ですから、中止か、”(手放しでの開催の)拒否”が実際の総意ですが、斯くの如く国民の総意で”東京五輪パラは開催する”が仕立直しされました。下図は7月の調査結果です。

実際、NHKの2021年5月10日の報道、

組織委に若者が提言 オリンピック・パラリンピック 発信強化を

に引用されている”東京大会のことしの開催について”の調査結果を見れば、調査対象の範囲は異なりますが、依然として”中止してほしい”、”再延期してほしい”といった意見が高い割合(70.5%)を占めていることがわかります。

当初は、前記した、日本の総意を決定する約二割の日本国民に影響を与える力について記すつもりでした。その一例として東京オリンピックを上げたのですが、世論の誘導というより操作ともいえる実例に遭遇するとは思いもよりませんでした。検索してみると一連の調査は既に疑問視されてもいるようです。

このように、世論調査の結果から形成される総意は、総意≒世論でもなく、むしろ総意≠世論と感じます。その総意はみなさまのNHKによるものですから、誰を指してのみなさまなんだ?と改めて疑問が擡げます

さて、それではこの似非総意を造り出す正体は何か?という話になるわけですが、それは例えば前に示した、2021年1月の世論調査において”開催すべき”と回答した16%のグループに他なりません。

素直に考えれば、この”開催すべき”グループは、五輪開催で利益を享受する、少なくとも利益>損失となる属性を有する層です。開催に関わる政府組織、地方自治体は勿論ですが、立場の統一性から直接には関係せずとも開催支持の姿勢かと。医療に関わる公的組織・機関は積極的支持ではないかもしれませんが。出場選手の属する競技団体を含むスポーツ関係の組織・団体も”開催すべき”の立場であるのは間違いない処です。自らの存在意義に関わりますから。


追記していきます。

2021年7月12日月曜日

推賞

一部界隈で好評の松崎しげるカバーの「グッド・バイ・マイ・ラブ」ですが、

アン・ルイス「グッド・バイ・マイ・ラブ」covered by 冨田麗香

はこれに優るとも劣らないカバーでした。冨田麗香の歌唱力、もっと衆知されて然るべき、と絶賛致します。

自分が知らなかっただけかもしれません。今更かもしれませんが。

2021年7月6日火曜日

引力

どこが?と問われても上手く説明できないのですが、見入ってしまい、幾度となく見ている動画です。


2014年のブルース・スプリングスティーンのコンサート中の一場面です。YouTubeにアップされています。ブルース・スプリングスティーンがファンの女性をステージに招いて、"ラストダンスは私に(Save the Last Dance for Me)"を、女性の手を取りながら唱っています。

彼女の驚きと戸惑い、そして僅かな躊躇が入り混じりつつ、嬉しさが溢れ出ている映像です。夢が現実になった幸福感が真っ直ぐに伝わってきます。

それが何故好印象を抱かせるのかよく解りません。ただ、"Save the Last Dance for Me"で同時に検索された、リチャード・ギアの映画"Shall We Dance?"の一場面より心惹かれたのは確かです。


元々、較べることがおかしいとの指摘はその通りですが、あえて考えてみますと現実感の差でしょうか。視覚や聴覚を含む五感に伝わってくる誰かの幸福感は、受け止める側の心をも動かすだろうと。ただやはり、その幸福感のリアリティの差異は、動かす力の大きな差として現れるわけです。それがまさしく事実の力です。事実と創作、現実と虚構、ノンフィクションとフィクション三次元と二次元では、心情に働きかける力は比較になりません。

その力を利用して、折々に事実を織り込んだ創作の典型がNHKの大河ドラマだったり、山崎豊子作品だったりするわけです。

それが何か?と問われて、云々返す意図はありません。しかしながら、創作者の技巧によって虚実が逆転して虚が実として一人歩きを始める、これには危うさを感じます。これは実は、創作者にとっては冥利に尽きる話かもしれませんが、制する力、阻む力が不在というのも問題ではないかと考えます。


2021年5月31日月曜日

巧言

 前のエントリに関連した話なんですが

原発処理水、海洋放出を決定 政府、閣僚会議で方針―菅首相「風評対策徹底」

処理水を国の基準を下回る濃度に薄めた上で、2年後をめどに海洋放出を始めるそうです。

この決定に対し国内外から猛反発が起こっているわけですが、不詳な部分もあって少し記してみます。

概略は、福島原発の冷却に使用した放射性物質を含む水(汚染水)がタンクに溜まり続けていると。ただ、無限にタンクで保管することは不可能ですから、多核種除去設備(ALPS)で放射性物質を除去し、無害化した処理水を放出して貯蔵タンクの増設を止め、空き容量を増やしていきたいとのこと。ただ、処理水中にあるトリチウムを含む水分子、いわゆるトリチウム水の除去はALPSでは不可能なため、トリチウム水を含む水を放出することになります。で、政府方針によるこのトリチウム水の海洋放出を巡って、安全性や風評被害に対する懸念から強い反発が起きている、という理解です。

この辺りの政府の姿勢、説明は経産省のサイトで公開されています。

ALPS処理水について (福島第一原子力発電所の廃炉対策)


この資料内には検討の経緯は示されていませんが、

◇専門家会議が6年余り検討した結果、5つの方法の中から、前例や実績があることから「海洋放出」と「水蒸気放出」の2つが現実的とされました。

◇2つの方法の中でも、放出設備の取扱いやモニタリングが比較的容易であることから、「海洋放出」の方がより確実に処分を実施できるとされています。

のことです。

で、この後、原発の敷地外に運ぶには時間のかかる課題

◇処理水などの原発からの放射性物質を敷地外に運んだり、敷地外にタンクを作って ためるには、関係する周辺自治体や住民の方々の御理解を得ることが不可欠で、 相当な時間を要します。

があったり、沖合での放出は国際条約違反になると否定的姿勢を示して、以降、トリチウム水の安全性の力説が続いていく流れになっています。

読んでいて、なんだか大きな違和感を禁じ得ないでいます。

処理水などの放射性物質を敷地外に運んだり、貯めたりすることに、周辺自治体や住民は同意しないことを国も自認しているわけです。この記述において、安全性については触れていません。

そこから、どういう理屈で沿岸から放射性物質を海洋放出するならば周辺自治体や住民は反対しないとしたのか、理解不能です。沿岸の海は敷ではないという理由なんでしょうか。

安全な放射性物質を沿岸の海域に放出することに関係自治体や住民、漁業関係者の理解が得られるなら、敷地外に運んで国有地に散布し地層に浸透させることにも理解が得られる気がしますが...

ALPS処理水が全くの疑念もなく安全であるならば放出の手段についてあれこれ云々する必要はないわけです。危険であれば貯めることになり、還流させて原子炉冷却水として使い続けるくらいでしょうか。貯蔵した処理水は希釈ではなく、濃縮、減容して、いわゆる”核のゴミ”として保管し続けることになります。

ALPS処理水が安全か否かについてはしばしば主張が対立していますが、議論が噛み合っていない事例も散見されます。

1)平常運転の原発から海洋放出されるトリチウム水の安全性

2)福島原発の原子炉冷却に使用した汚染水の安全性

3)2)の冷却水を多核種除去したALPS処理水の安全性

とあって、1)=3)とする立場からは安全が主張されていて、2)=3)の立場からはからは安全性に疑義が呈されています。2)=3)ということはないととされていますから噛み合わない原因はここにあります。ただ、2)≒3)だったり1)≠3)の可能性はやはり否定できず確たる安心は得られていない、そんな処でしょうか。

で、国側としては1)=3)であって安全という立場で、他国の例もあって、低コストの海洋放出が最適という結論のようです。ただ、このコストには風評被害の補償額は含まれていないわけです。風評被害は不可避ですから、対策費と補償の合算を処理費用とするべきです。この部分を除外して低コストだからという理由で海洋放出を選択することは、なんだか結論ありきの印象を抱いてしまいます。

そこで、海洋放出が最適という結論に至った経緯を追ってみます。この結論は下記、

東京電力ホールディングス株式会社福島第一原子力発電所における 多核種除去設備等処理水の処分に関する基本方針

のP.5〜P.6辺りで説明と共に記されています。概略的には、地層注入、水蒸気放出、水素放出、地下埋設と合わせて海洋放出が比較検討され、その結果、海洋放出か水蒸気放出のいずれかという話になった後、最適な手段として絞り込まれたようです。

一連の流れは、

福島第一原子力発電所における汚染水対策

内の

多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会

トリチウム水タスクフォース

に詳しく、

ALPS処理水の処分

にもまとめられています。

概観した処やはり、処理水処分の必要性とトリチウム水の安全性が強く訴求され、処分は海洋放出以外あり得ないといった印象を抱きました。結論ありきの感は否めませんでした。例えば地層注入に着目してみた時、上記基本方針内では、除外された理由として、

”A)地層注入については、適地を探さねばならず、モニタリング手法も確立されていないこと”

とあるのですが(p.6)、適地がなかったとも、モニタリング手法が確立できなかったとも記されていません。地層注入に対する消極的な姿勢というか、やる気のなさが窺えるわけです。

”③ また、浄化処理や希釈を行うことにより規制基準を満たすようになった水についても、敷地外に持ち出した上で処分する場合には、現行制度上、輸送中や持ち出した先においても所要の管理が求められる。これに加え、輸送や保管、放出に当たって、自治体を始め様々な関係者との調整が必要となる。このため、その実施には相当な調整と時間を要する。”

規制基準を満たすようになった水についても敷地外での処分の場合、輸送や保管に所要の管理がに必要とのこと(p.8)。飲料水並に安全と宣わっていたのでは?との疑問と共に、では管理の問題があるならへの放出はいいのか?とも思います。その後、自治体を始め様々な関係者との時間を要する相当な調整が必要と続きますが、”不可能”とも”できなかった”の語は見つけられません。過去、地元自治体や関係者との調整がつかないまま、政府が決定を半ば強行した事業というのも事例があるわけです。つまり、国益を盾に強制執行する権限というものを政府は有していますから、”調整が必要”は選択を除外する理由には該当しないと考えます。

なんだか、海洋放出という既定の決定を確固にするためにしない理由を挙げて他の選択肢を除外する、そんな意図を感じるのですが。

この”海洋放出を選択する”と記してある上記基本方針はR.3.04.13に開催された廃炉・汚染水・処理水対策関係閣僚等会議(第5回)の配布資料です。そこから時間を遡って経緯を見てみます。

上記福島第一原子力発電所における汚染水対策からのリンクでは、多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会からの資料が新しいようです。

”地層注入、海洋放出、水蒸気放出、水素放出及び地下埋設について検討を行い、基本要件(規制成立性・技術成立性)や、制約となりうる条件(期間・コスト・規模・二次廃棄物・作業被ばく等)について検討 を行った。” 
といった作業は、2016年6月3日に取りまとめられた、トリチウム水タスクフォースからの報告書にからのもの、と記されていました。この報告書にある、

地層注入の技術的成立性(・適切な地層を見つけ出すことができない場合には処分開始できない/・適切なモニタリング手法が確立されていない)、

規制成立性(・処分濃度によっては、新たな規制・基準の策定が必要)や、

その検討結果(制約となりうる条件)(期間: 104+20nヶ月 912ヶ月(監視)/ コスト:180+6.5n億円+監視 / 規模: 380㎡ / 2次廃棄物:特になし / 作業員 被ばく:特段の留意事項なし / その他:適切な土地が見つからない場合、調査機関・費用が増加

は該トリチウム水タスクフォースからの報告書を踏襲した内容です。そうなると、このトリチウム水タスクフォースからの報告書は
が最新の報告書ですからそこで検討を止めた、ということになります。そこで次にトリチウム水タスクフォース情報を遡ってみますと、

トリチウム水タスクフォース第7回2014年4月9日)で議論された”海外の取組について”においてフランスでは
地層にトリチウム水を注入することが、禁止されている。理由は不明。ただ、地層内での保管は許可されている。

とのこと。以降、禁止の理由を見つけることはできていません。

地層中への注入(廃棄)は適用する基準がなく、取扱いには検討を要する
といった旨の記述があります。記述があります。一連の流れを追ってみると、
トリチウム水処理は廃炉までに、という期間を設けず、できるだけ迅速に行う(但し、トリチウム以外の核種が、多核種除去設備等により別途除去されていること)
↓ 
過去、海洋放出はフランス、イギリス等で、水蒸気として大気に放出は、スリーマイル島(米)で実施された一方、地層中への注入は前例がない。理由は不明だがフランスでは地層中への注入は禁止されている。

迅速に、とせっつかれているから、実例のある海洋放出か大気放出が妥当な処か。二者から処理量、費用を勘案すれば、最適な処理方法は海洋放出以外にない。

といった処でしょうか。大雑把には、時間がないから前例踏襲と。後ろ向きな論理立てが構築されているわけです。地層注入はその後、
地層中への注入(廃棄)は適用する基準がなく、取扱いには検討を要する(第8回(2014年4月24日))

 を経て、CCS(二酸化炭素貯留)技術を念頭に

・適切な地層を見つけ出すことができない場合には処分開始できない
・適切なモニタリング手法が確立されていない)、

・処分濃度によっては、新たな規制・基準の策定が必要

と、できない理由が具体化されていきます(第12回(2015年6月5日))

今は2021年ですから地層中への注入については検討を中止し、5年以上何もしなかったということに他なりません。適切な地層を探すことも、モニタリング手法を確立することも、新たな規制・基準の策定もしなかったわけです。時間がかかる、要検討として以降何もせず、地層が、モニタリング手法が、法規が、と言ったってそれらはできない理由にはなりません。解決しようとしなかったわけですから。

こういった流れを俯瞰してみると、トリチウム水の処理法は、第8回(2014年4月24日)辺りで海洋放出が落とし所になったという見方も十分妥当性のある推察です。その時点で海洋放出に対し明確な合意があったわけではないとしても、漠然と”他の手段は採り得ない”空気が醸成され、海洋放出の肯定材料と他の方法の否定材料が集められシナリオというか道筋が形成されていったのではないかと。はないかと。

そうなると、既に結論を出していますから、地層注入のための地層探索、モニタリング手法の確立、規制・基準の策定といった話に進まないのも至極当然です。


(追記していきます。)

2021年5月23日日曜日

名目

前のエントリ内の文書を行間を補間して翻訳してみました。合わせて該エントリに追記した事案から想起されたノブレス・オブリージュについて少し記してみます。



2021 年 5 月 11 日

ス○ホールディングス株式会社

当社、代表取締役会長ならびに相談役のコロナワクチン接種の対応に関する経緯について

この度は、当社会長杉浦広一および相談役昭子へのコロナワクチンの優先的接種を西尾市に強要したことが明るみに出てしまいました。ワクチン接種をお待ちの西尾市の方々はじめ、全国の皆 さまにとって不快な行為であること、日夜尽力されている全国の行政の方々の努力に水を差す結果となってしまうことなど微塵ほども念頭にありませんでした。たとえあったとしても選民のワクチン接種が優先されて当然という思いでした。しかしながら事ここに至って形だけでも謝罪が必要な事態に追い込まれました。深くお詫び申し上げます。

今回の騒動(≠案件)は、当社相談役に所定の手続きを蔑ろにして優先的にワクチン接種を、と当社秘書が西尾市役所に要求したことに端を発します。その要求の理由(≠背景)としては、真偽はともかく、該相談役が肺がんを患い大きな手術を経験している、というのが心情への訴求効果も期待でき、適当だろうとしました。

何度も強要を繰り返し西尾市担当者を威圧し困惑させたことが露見した以上、ご迷惑をおかけしたと言わざるを得ません。ただそれは、専制権力者からの抗えない絶対命令、若しくは、秘書の功名心(使命感)ゆえのことで情状を酌量願います。また杉浦会長自身が、ワクチン接種会場には居たものの、接種を希望していないことを印象づける目的で、(不要な情報ではありますが、)アナフィラキシーショックを経験したことがある旨申し添えておきます。真偽は不明です。 

なお、不都合な事実を伏せた上で当社が確認している事実は以下の通りです。

〇4月 12日当社秘書から、西尾市役所健康課に、ワクチン接種予約について高齢者枠または医療従事者枠での優先接種ができないかの要求を行う。

「あなたじゃ話にならない。上を出して」と高圧的態度で要求するものの、4月13~14日 西尾市役所健康課より当社秘書あてに、選民意識に由来する無理難題の拒絶を連絡。

〇4月15日 高齢者枠および医療従事者枠での特別扱いによる優先接種拒絶を受け、以降、当社秘書が執拗に便宜を図るよう強要。副市長を引っ張り出し”一般枠での対応について検討できるかもしれない”との回答を強いる。

〇しつこくゴネた甲斐あって、4月16日 健康福祉部長から、5月10日の接種であれば予約できるので接種券が届いたら連絡を入れるよう電話を受ける。

〇5月6日 本来郵送のはずの接種券を当社秘書が市役所健康課にて受取りました。

このような醜聞が発覚してしまったことを深く反省し、今後はより一層深い水面下で細心の注意を払って便宜を要求すると共に、告発者探しに全力をあげ報復に努めてまいります。



さて、ノブレス・オブリージュについてです。きっかけは茨城県城里町の町長らが高齢者に優先してワクチン接種を受けたという報道です。町長は42歳とのこと。
キャンセルで12人分のワクチンが余り、廃棄を避けるため接種した
と、町長も医療従事者に該当する、というのが優先接種の理由のようです。人口約18,040人(2020.09)で医療従事者が162人、8%キャンセル率で12人分のワクチンが余った、というのは日本全体で平均的な状況なんでしょうか。よく判りません。巷間、高齢者枠でワクチン接種を希望する高齢者の予約が殺到し、通信制限まで生じている報道を鑑みれば、8%のワクチンが余るというのも素直に整合しないのですが。
いずれにせよ、町長も医療従事者であって、ワクチンが接種されて当然と主張するのであれば、”余ったから”というのも矛盾です。

又、全国津々浦々の地方自治体首長のワクチン接種率も気になる処です。

もあれ、ノブレス・オブリージュです。

身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳感。

特段、上記企業経営者や自治体首長が”身分の高い者”に該当するという認識はありません。ですから、これをしての批判をするつもりはなく、単に上記騒動がノブレス・オブリージュという価値観について記させる端緒になったということです。その本質に対しては以前からモヤっとした印象を抱いていました。

この語は以前からしばしば見聞してきました。権限のある人物の、それに相応しない言動への批判の依拠だったり、人物教育団体、組織の理念になったりと、広く受容されている思想的礎の一つなんだろうと思っています。

ここで、ノブレス・オブリージュを具現化した実例が殆ど見当たらないという部分に妙な違和感を抱いています。以前からその語を耳にする度にその思いがってきました。

確かにウィキペディアには実例として、


1)古代ローマで、貴族が道路や建物などのインフラストラクチャー整備などの建築費を支払うことがあった。

2)イギリスにおいて、第一次世界大戦では貴族や王族の子弟にも戦死者が多く、第二次世界大戦ではエリザベス2世がイギリス軍に従軍し、フォークランド紛争にもアンドルー王子などがイギリス軍に従軍している。

ウィリアム王子がチリで、ヘンリー王子がレソトの孤児院でボランティア活動に従事している。

3)アメリカ合衆国では、セレブリティや名士が、ボランティア活動や寄付をする事は一般的なことである。


4)日本においても、第二次世界大戦前の皇族男子は、日本軍の軍務(近衛師団など)に就くことになっていた。但し、最前線に送られるケースは稀であるが、三笠宮崇仁親王が中国戦線の支那派遣軍に送られた場合もあった。

また皇族女子も、日本赤十字社等の機関において貢献することが求められた。


との記述はあります(一部抜粋して引用しています)。ただ、釈然としないというのが正直な処です。上記行為を批判する意図は毛頭ありませんし、称賛されるべき活動もあります。偽善や売名が動機であったとしても何らかの公益が積み増されるのであれば、全否定には躊躇を覚えます。ただそれらは果してノブレス・オブリージュに依る行為であるかについては疑問符がつく、ということです。


まず3)について考えます。その件数や額に差異はあるものの、米国に限らずいわゆるセレブリティや名士による寄付の話はしばしば見聞します。米国であれば、ビル&メリンダ・ゲイツ財団、ウォーレン・バフェットによる寄付、ロックフェラー財団、カーネギー財団、スタンフォード大学の創設辺りが直ちに想起されます。ノーベル財団によるノーベル賞の創設は世界的に周知されていますし、日本国内では企業名やその創業者の名を冠した美術館(出光/大原/五島/根津/水野他)、卓越した科学技術や人文科学分野の功績を顕彰する財団(稲盛/市村他)、数多の私立大学の創立(一橋/津田塾/東京経済他)が知られています。国内は、教育、文化、科学技術といった社会を豊かにするが問題を解決する活動は多くないという印象ではあります。これは単に注意を向けていないだけかもしれず定かではありません。

さてここで、上記は果して正しくノブレス・オブリージュの具現化なのだろうかという問いに、直ちに首肯できないでいるわけです。勿論、公の主導による城の復元公金を使ったテーマパーク建設とは根本的に異なり、称賛されて然るべき活動であるのは間違いありません

やはり該活動がノブレス・オブリージュと直ちに等号でリンクしないのは、動機というか行動原理が異なっているからかもしれません。上に挙げた例についてその周辺、背景から行動原理を推測してみると、世俗的には、節税や広告、宣伝目的があって自己顕示と承認欲求が続きます。権限を有する為政者がモニュメント、記念碑的な城郭等の巨大建造物建設、復元を主導するのもこの辺りに該当するかと。更にもう一つ、これが核心部分かと思うのですが、自身の経済的、社会的成功、地位は単に自助努力のみでなし得た結果ではなく、他力にも依っているとする考えを礎にした考えです。他力とは社会なのか、家?神?かそれはともかくとしてです。勿論、王室とか貴族の家、資産家といった、生まれながらの身分や財力が決定される出自や生育環境は自助努力の及ぶ処ではありません。何らかの外力に依る結果か否かは不明ですが...

とにかく何らかの外からの恩恵にも与った自身の富は、手元にのみ独占しておくべきではなく外部に還元することが好ましい、理に適う、という考えでしょうか。

ここには、起きて半畳寝て一畳とか、児孫のために美田を買わず的な、一生の間に収支をトントンにすべき?したい?という思いも含まれているのかもしれません。

その他、アルフレッド・ノーベルの場合贖罪的な動機があったのかもしれません。いずれにせよ動機は上記含めただ一つのみに依るものではなく、諸々が複合的に混合され、足し合わされ、或いは掛け合わされた上、醗酵、熟成した結果かと思っています。

その活動に異を唱える意図は毛頭なく、肯定的に受け止めることができます。ただ、ではその根本は果してノブレス・オブリージュに基づく価値観だろうか、という部分に疑問を抱いた次第です。

これは先入観によるものでしょうが、上記のような寄付や社会貢献の活動からは、抗う、闘う、変革するといった姿勢からかけ離れているからなんだろうと思っています。ノブレス・オブリージュの勝手なイメージは、
平時には領民から搾取して権勢を振るっている、君臨している領主(支配者)が、いざ、外敵の侵攻に対しては撃退するために真っ先に先頭に立つ
といった処です。ですから、上記例の2)、3)に似たものです。つまり、社会的な問題を解決するために社会システムに抗うとか変革を求めて行動する、というのであれば理解できます。寄付とか財団を設立して慈善事業に取り組む、というのはノブレス・オブリージュに由来する活動として違和感を感じたわけです。(ただ、後述しますがこれは誤りでした。内国の反体制的な姿勢、行動はノブレス・オブリージュには該当しないと認識を改めています。

次に、1)、2)、4)の例について考えてみるわけですが、1)と2)、4)は明らかに時代が飛びすぎています。古代ローマから第一次世界大戦って...その間にはノブレス・オブリージュを象徴する史実はなかったのか、不可解な印象を抱きました。

この古代ローマの話は、古過ぎ、且つ具体性を欠いていますのでさておき、2)、4)に焦点を当ててみます。両者はいずれも英国王室メンバーや皇族といった社会的地位の高い”高貴なる者”が戦争に関わる話です。英国、或いは日本の、国家そのもの、主権の存亡を左右する他国との戦争において、率先垂範して従軍した、とのことです。

これをして、無私とか自己犠牲の精神で、
特権を持つ代わりに、国家や地域が困難に直面した時、率先して困難に立ち向かう義務がある
などと受け止められがちです。しかしながら、実は
特権が保証された社会システムの護持、つまり現体制の堅守に目的がありますから、利益の最大享受者が立ち向かうのは、
まぁ、当然
という見方もできるわけです。この”高貴なる者”が率先して困難に立ち向かう姿勢には、合わせて鼓舞、煽動の効果もあって、第一次世界大戦でイギリス貴族階級出身の将校の高い死傷率はその結果なんだろうと推察できます。いずれにせよ搾取者が己の権益を侵害される事態に直面すれば、そりゃ先頭に立って解決に当たるだろうと。これこそがノブレス・オブリージュの本質ではないか、ということです。身分社会における保守思想とも捉えることができるかもしれません。

実の処、ノブレス・オブリージュは語を見聞するほど事例が思い当たらず、虚像の一人歩きではないかと思っていました。搾取者、支配者層が被搾取者、被支配者層の反乱を抑え、社会秩序の維持というか治世の道具として利用するための方便ということです。換言すれば、宗教とか日本における士農工商、家父長制度に似た役割を担わせ、身分制度や既得権益を護持を目的とした有名無実の価値観ではないか、とすら思っていました。

実際には上記のような英国王族、日本の皇族に見られるように全く架空なものではありませんでした。ただ、そうであっても体制を護持するための思想という目的は不変です。

本エントリを記すにあたり、より人文科学的?論考がありました。付記しておきます。

2021年5月13日木曜日

鎮静

謝罪会見して頭を下げる映像が流されるまで延焼し続けます。

スギHD 会長夫妻 ワクチン便宜 西尾市

メディアにとっては格好の、極めて美味しい題材です。政治家、芸能人と並んで、会社経営者という著名人の選民意識がくっきりと露見した事案ですから。

音を上げるまで、これまで公にならなかった有象無象の醜聞が明らかになるかも。プライベートもお構いなしです。

ヘッタクソな謝罪の紙切れ一枚でメディアによるバッシングを抑えられると思ったらとんだ勘違いです。臭いものを修辞で蓋をすることと、ダメージコントロールは全く異なります。

広告の出稿こそが有効なんじゃないかと。


時間があれば上記紙切れの翻訳を試みます。


(追記)

42歳町長らが高齢者そっちのけでワクチン接種 茨城県城里町で「上級国民か」と問題化

こっちも炎上間近なんでしょうか。

2021年4月29日木曜日

凡庸

紀州のドンファンでも九州の資産家でもどちらでも構わないのですが、テレビ、ラジオで朝から晩まで報道する事件なんでしょうか。

美浜と高浜の原発再稼働に福井県知事が同意したことの方がよほど取り上げられて然るべきと思うのですが...

40年超原発、初の再稼働へ 福井知事同意、関電3基

中電と東邦ガスのカルテル容疑に関する報道もそうなんですが、政府、企業が批判を浴びる事案は休日前に、できれば同等以上に衆目を集めそうなニュースと共に報道すると。

誘導するならもう少し上手にできないものか。手法が拙劣過ぎます。

2021年4月27日火曜日

損益(4)

先のエントリからの続きです。


さて、原発に関わる、ゼロリスク要求側と(一定の)リスク許容側の対立の中でよく耳にするのが、

福島原発の事故で放射線被爆を直接の原因とした死亡例はない

という声です。低線量被爆による十年、二十年後の健康被害の可能性を否定するつもりはありませんが、考えません。不確定過ぎますから。その上で、福島原発の事故は、既述した死者126人/年の許容可能なリスクを全く超えていないと見做すことは妥当なのでしょうか。死亡例が一例もなかったわけですから、福島原発の事故はそもそも1e-6/年の(被害/損失/危害)には該当しないのではないか、という見方です。

これは、ワクチン接種の副反応による死亡被害と低線量被爆を含む原発事故による被害、無過失で被った交通事故による死亡被害との比較で判断できるのではないかと考えます。

現在、ワクチン接種、交通事故による死亡被害には、法に基づいた、或いは、保険制度による経済的な補償が用意されて今す。

ワクチン接種による死亡被害の場合、厚労省の

予防接種健康被害救済制度

によると、A類疾病(四種混合、麻しん・風しん、日本脳炎、BCG等)の予防接種では44,200,000円の死亡一時金が、B類疾病(インフルエンザ等)の予防接種では7,372,800円の遺族一時金(生計維持者でない場合)が定められているようです。

又、交通事故による死亡被害の場合、少なくとも自賠責保険から4000,000円の慰謝料が支払われるようです被害者本人への慰謝料)

こういった補償の額から逆算してみた時、

126人/年*4,000,000円=504,000,000円

から

126人/年*44,200,000円=5,569,200,000円

程度、総額で5〜55億を超える補償額が発生するような(被害/損失/危害)は、許容可能な限度を超えたリスクである、という見方ができます。リスクの大きさを評価するために、結果的に算出された補償の総額を使うわけです。

各個人の被害が例え死に至るほどではなくとも、膨大な被害者が発生するような(被害/損失/危害)は、その補償額を通じて死者が発生する(被害/損失/危害)に変換できるのでは、という考え方です。このように変換して総補償額から逆算した仮想の死亡被害者が126人/年以上であれば、それはやはり許容できないリスクなんだろうということです。

この視座から大雑把に計算してみると、2021年4月23日現在で東京電力の原子力損害賠償のこれまでの支払い額は、

約10兆0,153億円

ですから、約1兆15.3億円/年です。従って、死者が発生する(被害/損失/危害)に変換してみれば、

22,659〜250,382人/年

に相当するわけです。この数字は、たとえ福島原発の事故で死亡者が発生していないとしても126人/年の許容リスクをはるかに越えています。


以上、ゼロリスクについて記してみたものの、冗長となるばかりで、核心的な論を展開することはできませんでした。おそらく”1e-6/年(100万年に1回)以下であればリスクは許容される”ことの論拠に曖昧さを覚えたためかもしれません。

しかしながら、安全と安心の社会を作るために必須とされる「信頼社会」の実現が牛歩のごとく全く道半ばであることは間違いありません。

ゼロリスクがあり得ない、それは日本学術会議から国への提言
リスクに対応できる社会を目指して日本学術会議 2010年)
原子力安全白書

等で明記されています。

それにも関わらず、国会での行政責任者の答弁、自治体首長の会見には絶対、完璧、完全、徹底、最高レベルといった語が躍り、溢れんばかりの修辞に辟易します。国家の最高責任者や為政者自らが100%の安全、即ちゼロリスクの実現を確約し、宣言している現状で、

”ゼロリスクがあり得ない”

という事実をどうして社会が共有できるのか、理解できません。

ブログでもSNSでも”ゼロリスクを求めるな”という主張を至るところで目にしますが、優先して諫言するべき先は社会や一般市民ではないだろう、というのが率直な処です。

「知らしむべからず依らしむべし」に由来する”不信社会”では、より一層、絶対、完璧、完全、徹底といった修辞に力を入れる他ないわけです。しかしながら、それは却って、力が入れば入るほど空虚に聞こえてしまいます。空虚に聞こえてしまいます。

更に言えば、信頼社会が実現し、合理的な許容リスクというものが社会で合意形成に至ったとしても、その持続性に対する懸念が排除できません。例え1e-6/年(100万年に1回)に合理的理由が見出され、それを許容リスクとして定めたとしても、安全が続けば安心も増加します。時間と共に1e-5/年、1e-4/年と緩和方向へと向かうであろうことは想像に難くありません。

許容リスクを1e-6/年と定め、それを維持するには、やはりそのための資源投入が必要です。この時、安全な状態が維持されればされるほど、

未来の不確定なハザードのために現役世代が適正に資源投入できるか?

といった疑問が払拭できません。1e-6/年を維持するための安全に対するコストが削減されて、1e-5/年、1e-4/年とリスクが増加する方向に流されることは容易に起こり得ます。今まで大丈夫だったから、という正常性バイアスも働きます。ただ根本は、後は野となれ山となれ的な、

”果実は現世代に、負担は将来世代に”

という民主主義の本質に逆らう、

”将来世代の果実のために現世代が負担を担う

ことができるのか、という話です。

現世代が負担を担う

ことができるのか、という話です。ごく身近な、マンションの積立修繕金の話に始まって、年金制度、放射性核廃棄物の最終処分等事例には枚挙に暇がありません。福島の原発事故に着目しても、未実施、先送りの事例(防潮堤建設の先送り、非常用発電設備の高所への移設、非常用復水器の動作訓練)が想起されます。

この辺りの規制とか歯止めの仕組みを構築するには、まだ社会の賢さが足りていないように見受けられます。

損益(3)

  先のエントリからの続きです。

 3)ゼロリスクに関する工学的取扱い

これまで2011年03月11日までで検索できた、ゼロリスクに関する言及を記してきました。ここで気になったのは、ゼロリスクが人文系、社会科学系のテーマとして扱われている、ということです。安全工学や信頼性工学といった工学的視点でゼロリスクを取り扱った事例はこれまで見当たりませんでした。ウィルスにしろ、原発にしろ医学や理工学といった自然科学に依拠した話ですし、ゼロリスクについてもう少し工学的アプローチによる考察があってもいいような、というかあってしかるべきです。

全てに先んじて、”ゼロリスクの実現は不可能である”、これが揺るぎない事実であるのは間違いありません。それを前提として、1)ゼロリスクは不可能であっても更なるリスクの低減をどう進めるか、2)許容可能なリスクの大きさをどう見積もるか、について合理的な方法論が確立されているようには思えません。

重大事故が起こった際の被害の大きさという点で、対比には必ずしも最適ではないかもしれませんが、自動車、船舶、航空機といった動力機械や設備と、原子力発電所よる事故やコロナウィルスに代表される自然災害に対する印象の違いで考えてみます。

一例として自動車を挙げれば、自動車に対しゼロリスクを求める声を知りません。事故の可能性を排除するため、運転するなとか、製造するな、といった主張です。前のエントリで引用した資料中の文言を借りれば、
• 自動車もあの便利さの背後に、年間1万人近い人を殺す「走る凶器」の側面を持っている
とされているにも拘らず、です。完全にではないかもしれませんが、社会は
総じて動車事故のリスクを許容しているとみていいのではないでしょうか。その一方で、だからといって自動車の開発、製造に携わる各メーカーは、リスクの許容を求めているわけでも、望んでいるわけでもない、と認識しています。少なくとも表面的には...明言もできませんし。一つには自動車事故は運転者の操作に依る処が大きく、自動車メーカー自身には直接的な責任はない、という立ち位置なのかもしれません。しかしながらそうであっても自動車事故やその被害の低減を目的に技術開発が進められていることは間違いありません。その典型は、運転において、運転者の負担を極力軽減する、換言すれば運転者の関与を極力排除する自動運転技術の開発でしょうか。

このような事故防止技術の開発には、立ち止まることなく資源が投入されているわけで、そこ(事業者側)には事故のリスクを許容してほしい、許容されるべきといった姿勢は感じられません。

次に、社会が自動車事故のリスクを、例え明確にではなくとも許容している理由について目を向けてみます。直ちに挙げられるのは自動車のもたらす利益と自動車事故で生じる損失を通算してみると、社会全体が獲得する利益の方が十分上回る、ということでしょうか。この認識がほぼ社会全体で共有されているであろうことは間違いないと思料しています。しかしながら、これはあくまで社会全体として損益を通算した場合の話です。自動車による利益を、個別、即ち交通事故の被害者、加害者が、非当事者と同じように抵抗なく首肯するのは無理な話です。

つまり、自分は大丈夫、自動車事故に会わないというバイアスを前提とした損益通算の結果、自動車の社会的有益性が受け入れられている、ということです。社会が自動車事故のリスクを許容しているのは、社会の圧倒的大多数が有する、”自分は自動車事故には関わらないだろう”というバイアスがあって、その上でほぼ社会全体に共有されている認識なわけです。自動車事故は被害者、加害者の家族、友人までが事故に関与しているとしても、まぁ100人程度の規模ではないでしょうか。この関わる人員の規模の程度が原発の重大事故や新規ウィルスによるパンデミックと大きく異なる部分であって、これがリスクを許容する/ゼロリスクを求める、の境目ではないかと考えます。

個々人が許容できないほど大きな被害を生じるリスクであっても、被害者の最小単位が小さい場合であれば、社会全体としてリスクの許容を共有できる、ということです。各々自分は被害者にはならないと思い込めるわけですから。これが、たとえ発生確率が極めて低くとも、一旦事故が発生すれば自分も被害を免れない場合には、一転僅少のリスクであっても許容しない、こんな処ではないでしょうか。

加えて、自動車事故であれば、事故に遭う確率をゼロにまでできなくとも、自助努力による極小化が可能です。一方、原発の重大事故や新規ウィルスによるパンデミックによって被害を被る確率を自助努力で極小化することは困難です。

このような事故の性質の差異が、例え、一生のうち、
交通事故死する確率>原発の重大事故で死亡する確率
であったとしても自動車事故のリスクは許容できるが、原発事故のリスクは許容できない、という姿勢になるのでしょう。

実際、死亡に繋がる交通事故の発生件数を低減する対策は可能である一方、原発の事故や自然災害では発生確率、被害をを被る確率を低下させることが事故対策となります。前者の対策としては、技術の発達による自動車の装備、機能の充実、法規制や取締、更には、事故後の保険制度の整備が挙げられます。こういった対策と自助努力と自己責任を基に社会全体として自動車事故のリスクは許容されているわけです。

では後者はどうでしょうか。新しい技術の導入も法整備も進められているであろうことに異論はありません。ただ、一般市民がそれによって確率がどう変化したのか、変化する見込みなのか知ることは困難です。これは、先述
行政や企業が十分情報を開示せず、「知らしむべからず依らしむべし」「寝た子を 起こすな」といった政策をとっていたからである
根底に横臥していることは間違いなく、であれば、対策の中身はブラックボックス化され窺い知ることなど無理、というのも宜なるかなとなります。そういった環境では勿論、自助努力の余地など生まれるわけがありませんから、勢いそんなリスクは受け入れられない、となるのも頷ける処です。

結局、先述の
安全と安心の社会を作るためには、何よりも「信頼社会」を作ることが先決である
に帰結するわけですが、2011年3月11日の事故を経て、果して社会は前進できているのだろうか、甚だ疑問ではあります。


次に、事故の発生確率を含めてリスク評価を行うことになる原発の事故や自然災害の、”リスクを許容すること”について記してみます。前出のリンク先や、未だ騒動冷めやらぬ日本学術会議からの提言、からリスクの許容に関する一部を引用してみます。
リスク認知の特徴
(略)
4.規定値:10のマイナス4乗以上の死亡率は受容されるが、マイナス6乗(自然災害の程度)以下は気の毒だと思っても無視される。そこで、10マイナス6乗は規定値として世界で広く使われており、規制値決定の大事な概念となっている。
10マイナス4乗より大きいと受容されない技術になる。自然災害、溺死は10マイナス6乗で水泳禁止にはならない。理由はわからないが、10マイナス6乗だと暗黙のラインとして我慢するようだ。これより大きくするとコストは安くなるが、反対運動が起きて政策が認められなくなる。これは政策担当者の腕のみせどころとなる。
原子力、化学工業会も10マイナス6乗を下限のリスクとしているそうだ。(談話会レポート「リスクとリスク認知」)
上記記述の引用元がよく解らなかったのですが、調べてみると"安全工学"という学会誌掲載の同一著者による

が大元のようです。単位がよく解らないのですが、火災や水難事故、自然災害、列車事故のリスク、1e-5〜1e-6であれば許容され、1e-4以上のリスクは許容されないらしいとのこと。この理由は定かではなく、又、未だ十分確定した値ではないようですが、リスクが許容されている事例です。この許容値をやむを得ないものとしているのか、”自分は大丈夫”という正常性バイアスによるものかはよく判りませんが。

いずれにせよ、社会で起こり得る全ての被害/損失/危害に対しゼロリスクが求められているわけではないのは明らかです。であれば、ゼロリスクを巡って論争が頻発する、原発、更に昨今のコロナ禍も、リスクがしきい値以下なら許容されるのか、或いは、それでも許容されないのか、という話になります。

そうなると当然、該リスクの大きさは実の処どの程度なんだろうと、しきい値を越えているのか否か、確認することになります。事象の発生確率と(被害/損失/危害)の大きさとの積で定義されているリスクの、その単位も考慮しておくべき点と考えました。

そこで、上記引用では無単位ですが、ゼロリスク要求の典型的対象である原発、リスクが許容されている航空機について、文献からリスクの数値と単位を拾ってみます。例えば、

原子力安全白書 平成12年版 1 原点からの原子力安全確保への取組み

には、
一般的に無視できると考えられる個人へのリスクは、1e-6/年(100万年に1回)などより小さいことである。
との記述があります。又、
炉心損傷頻度(CDF)<1e-4/炉年
早期大規模放出頻度(LERF)<1e-5/炉年
英国の安全目標として、
放射線業務従事者(死亡リスク)
・広く受容される領域:1e-6/年以下
・我慢できる領域:1e-3/年以下
公衆の個人(死亡リスク)
・広く受容される領域:1e-6/年以下
・我慢できる領域:現行の原子力施設に対し1e-4/年以下、将来の原子力施設に対し1e-5/年以下
といった記述を見つけることができます。(この時点で日本には安全目標は示されていなかったようです。平成12年に新たに安全目標専門部会が設置され、平成14年には中間報告書がまとめられた程度です。)

航空機の設計・整備におけるリスク評価

では、”死亡の危険率”という語で定期航空は1e-7/hr、1e-10/km、自然災害は1e-10/hrと記されています。これらは時間当たりの値ですから年当たりに換算すると定期航空では8760e-7/hrで1e-4〜1e-3/年、自然災害では8760e-10/hrで1e-7〜1e-6/年となります。これは一年間常に定期航空機に搭乗していて死亡する確率は自然災害で死亡する確率の1000倍ということを意味します。しかしながら、実際にはそのように搭乗し続けることはなく、日本の航空法によって年間乗務時間が上限1000時間に制限されている機長、副操縦士で考えても10〜100倍といった処でしょうか。

大雑把に、自然災害で死亡する確率の10〜100倍であっても社会の殆どはこのリスクを許容して航路での移動をしている、ということです。

ここでよく分からないのが上記、”個人へのリスクは、1e-6/年(100万年に1回)”の文言です。ある一人の個人が(100万年生き続けたとして)一度その事象に遭遇すると理解しました。これを換算すると100万人に一人は年に1度被災するという話になるような気がするのですが...10年であれば10万人に一人です。2020年の世界人口は77億9500万人ですから10年の間77950人、一年では7795人が被るような(被害/損失/危害)であれば社会の殆どはこれを許容しているという理屈になります。ちょっと実感できないので日本の人口1億2577万人で規格化してみると、126人/年です。例えば2019年の交通事故死者数は3215人ですから、その4%程度です。このしきい値と実際の原発リスクを比較することで原発のリスクは果して無視できるほど小さいのか、そしてそれでもリスクの低減をもとめているのか、或いは、未だリスクは十分大きく更なるリスク低減が要求されているのかが判断できるわけです。

交通事故死者数の4%に相当する、126人/年、1260人/10年が死亡する(被害/損失/危害)を、仕方がない、やむを得ない事故として許容することは果して可能でしょうか。これは、交通事故と同質の、即ち、全国津々浦々で各々何ら無関係に生じる(被害/損失/危害)であれば許容されると考えます。しかしながら、この126人/年が同時に、同一場所で被害を被る(被害/損失/危害)であるならば、看過し許容することは困難ではないかと、捉えています。例えば、ある一車種の設計上の欠陥、信号や法規を含む交通システムの欠陥や不備、日照や降雨降雪といった気象条件、落石や高波などの自然現象に起因する、同一原因による死者数126人/年の交通事故が社会からとても看過されないことと同じです。

死者数126人/年の航空機の事故、列車事故、船舶の遭難、沈没、大規模建造物の倒壊が受け入れられないことと何ら変わりありません。同様に、一発電所、若しくは一基の原子炉における同規模の事故は許容されない、というのも火を見るより明らかです。

こういった同一原因による(被害/損失/危害)については、その原因を除去することで大きく被害を回避できるわけですから、むしろ積極的に原因究明と対策への取り組みが求められるはずです。

ところで、許容できる126人/年の死者数は、2019年の交通事故死者数3215人の4%と上記しました。しかしながら、各々の質というか偶然性、過失割合のような要素も考慮してみると、この4%という割合はあくまで外見的な割合に過ぎないことに気付かされます。自らに何ら原因を求めることのできない126人/年の死者を生む(被害/損失/危害)は、交通事故死者数3215人に対し過小に映りますが、自らに何ら原因のない交通事故による死亡者数と比較するのが妥当である、ということです。

ワクチン接種で生ずる副反応や、重大な原発事故に起因した放射線被害による死亡事故件数は、例えば、暴走車によって横断歩道を横断中、歩道を歩行中の歩行者が死に至らしめられた事故件数に対する比で、その許容性を考えるべきです。これらがいずれも偶発的で理不尽な事故であるのは間違いありません。単に交通事故死者数3215人/年に対し、4%程度の126人/年の死者を生む(被害/損失/危害)であれば許容できるということではなく、偶発的で理不尽な交通事故による死亡者数が果して126人/年より多いのか少ないのか、そしてそれは許容できるのか、といった話になろうかと。

このような被害者に何ら責任のない交通事故の死亡者数というのはなかなか掴めませんが、直感的には126人/年ほど多くはないだろうと憶測しています。それでも理不尽な交通事故が報道されると厳罰化や法規制強化の声が上がります。そう考えると死者126人/年を生む(被害/損失/危害)、100万年に1度の被災確率であれば社会は概ねそれを受け入れている、という見方も手放しで首肯できないのかもしれません。精査が必要です。



次のエントリに続けます)

2021年4月26日月曜日

多数

名古屋市民ではないのでそれほど気に留めていなかったのですが...先日の岡崎市長選と似たような話です。名古屋市長選で候補者の公約が、

電子マネーで30%還元 か 商品券を2万円配布

とは。原資があれば出す方も受け取る方もウィン-ウィンでヨカッタ、ヨカッタなんでしょうか。買収、バラマキで典型的なポピュリズム公約以外に形容ができません。その延長には地方自治のファッショがあるように思えてなりません。

そうは言ってもそれがみんなで決める民主主義の根幹でもありますから避け得ない話かもしれません。


名古屋市の世帯数と人口が各々、113万1556世帯、232万719人(R3.4.1)で有権者数は188万9,261人でした。投票率は42.12%、河村たかし氏が39万8656票を得票して市長に再選されたわけです。有権者の約21%、人口の約17%の支持です。

これを多数とみなせるのか、はなはだ疑問です。