2015年6月23日火曜日

希釈

社会は少しづつでも賢くなっているのでしょうか。大仰な話です、はい。

朝、NHKで炒飯をパラッと作る方法について放送しているのを見かけました。大筋はここ十年で幾度となく見聞してきた話です。

若干の追加情報を加えながら定期的と言っていいほど様々なメディアで取り上げられてきました。社会に”パラっとした炒飯の作り方”を定着させるには、今後、どれだけ繰り返し作り方を伝え続ける必要があるのでしょうか。

一つのノウハウというかコツが社会全体に共有されるには時間がかかるなぁと思った次第です。例えば、乳幼児を帯同して列車に乗車、航空機に搭乗する際、親子、或いは周囲の乗客はどう振舞うのが望ましいか、といった公共でのマナーの社会への浸透にも似た話かもしれません。

時には物議を醸しながらも定期的に注目されることで、社会全体としてゆっくりとだが一つの価値観を共有していくと...

まぁ、炒飯の作り方は調べろよ、とは思いますが。調べもせず、工夫もしないまま、”できない”とぼやいていても何ら進展はないわけです。実は、ベタッとした炒飯がそれ程嫌ではないのでは、とすら受け止めてしまいます。

で、こういった情報バラエティ番組では、小ネタや小技を伝えるにあたって三択のクイズ形式を使うことが常套的な手法です。そうでもしないと間が持たない、ということはわかりますが、それは制作側の理屈です。視聴者目線なんでしょうか。

不正解である二つの情報も伝えられ、正解とか、不正解だとか、必要な情報に不要な情報を加えて、冗長的に扱うのも上手いやり方とは思えません。情報が希釈されてしまいます。

類似の番組を制作し繰り返し放送する、といった目論見には適っていますが。

民放化著しい感のあるNHKを例に取れば、テレビについては地上波とBSで4チャンネルの放送波を有しているわけですが、しばしば情報密度の低さを実感します。

再放送、総集編、スピンオフ、予告、番宣、同一題材の複数番組での使い回し...既視感が付いて回ります。

もう少しですね、情報の、量だけでなく、質も含めた密度を上げる一方で、余分な贅肉をそぎ落とせないものかと...

1チャンネルくらい減らせるんじゃないでしょうか。

客筋

少し前にウェブ上のネイティブ広告が色々と物議を醸しました。
男・徳力基彦、ネイティブ広告の時代の勘違い野郎共に物申す
なぜ日本ではステマやノンクレジット問題がなかなか根絶されないのか
ウェブメディア中にあたかも記事の如く広告を忍ばせ、[PR]、(広告特集)、<ad>といった広告であることを示すクレジットが付記されているとかいないとか、又、広告会社が該クレジット無しの広告について営業活動をしているとか、していないとか...

確かに、広告である旨を明記したほうが好ましいわけですが、目立たない位置に小さく”広告”、”プロモーションと”表示されていてもなぁ、と思った次第です。こちらのリンクに例示されています。
ネイティブ広告を「ステマじゃない」と擁護したり「正しく理解」させようとしたり「定義」したりする前にすべきことがある
クレジットが明確に認識できてこそ広告と捉えることができるのではないでしょうか。見落とし易い表示では後で広告と気付いた時、かえって騙された感が増幅されるのではないかと思う一方、メディア側からは、
”表示がある、見落とすほうが悪い”
と主張できる免罪符になってしまうことを懸念しています。それが狙いかもしれませんが。

こういった広告手法の話題を目にすると、やはりモノが溢れている、供給過多を実感します。必需品は仕様と価格が購入を決定するでしょうから、広告には左右され難いでしょうし、高額品は多面的に調べてからの購入が通常かと思います。

とすれば、それほどの高額品でもなく、緊急性、必要性がそれほど高くもないモノの衝動買いを誘う、これがネイティブ広告の取り扱い対象かと。で、このネイティブ広告が問題になるという状況は、モノ余りの反映ではないか、と捉えています。

しかしながら、一方で、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌といった既存メディアよりは誠実さを感じると言ったら言い過ぎでしょうか。まぁ、一度地に落ちた評判を取り戻すには相当の労力が必要ですし、早期に好ましくない兆候を摘んでおかないと暴走を止められない、ということかもしれません。
新書の棚に並んでいるから読み物だと思って手に取ったらただのカタログだった、とかって読者ががっかりする行為でしか無いわけです。
上記リンク内にあった文言です。既存メディアはかなりの部分で既にこういった状態に成り下がっているんじゃないかと。

"dancyu"という料理や食材をテーマにした雑誌があります。創刊後まもなく購読を続けてきましたが、十年以上前に止めました。

特段、ネットで代替するようになったという理由ではありません。

その当時で、”盛り過ぎ、下駄履かせ過ぎのカタログ”という印象を抱くようになったことに依るものです。読者の利益になる情報を提供しているのか、という点で疑問符がついたということです。

飲食店の情報掲載は否定しませんが、その記事内容が”盛り過ぎ”で、”掲載料取ってんのか?”と思いました。著名人”○○さんのお取り寄せ”といった特集では通販の宣伝広告が満載です。

特に、盆暮れのギフトシーズンには通常より増ページでギフト通販のカタログかと見紛うばかりでした。その辺りはまぁ、甘受していましたが...

一番のきっかけはですね、この雑誌は誌面の一部に料理の作り方を掲載していたわけです。それもこの雑誌の売りの一つだったかと。ある時、佃煮、甘露煮、一夜干し、西京漬けを作ろうと思い立ち、相当量のバックナンバーから参考となる情報を探そうとしました。ええ、十年分以上です。

見つかったのは....該商品の広告ばかりでした。
”大事な広告主の商品を宣伝して、消費を煽る立場なのに商品の作り方を公開してどうする、広告主に対する背任じゃないか。”
ということなんでしょう。爾来、該雑誌に対する購読意欲も失せたということです。

加えて、記事に対する権威付けも鼻につくように感じ出しました。著名人を起用して、この味が、良さが、本物が判る読者こそさすがと...判らない読者は感性が...といった雰囲気が記事から伝わってきました。

前のエントリで引用した瀬戸内氏の文言にも通底する、選民意識というか優越感を刺激するようなやり口も如何なものだろうか、ということです。

新聞の広告欄に掲載されている映画や書籍の宣伝からも同様の意図が窺えることもあり、そういった場合、いい印象を抱けません。

ここ最近、ラジオについてはよくわかりませんが、テレビの視聴率が冴えない、新聞や雑誌の売上不振といった話を見聞します。その中で既存メディアの凋落は、ネットからの情報への置き換わりが主因である、という見方があります。

ただそれだけではなく、コンテンツの質そのものの劣化、即ち、あからさまなネイティブ広告の氾濫、過剰な演出、実質の伴わない下駄の履かせ過ぎに視聴者や読者が辟易しているのではないかと...

そういったコンテンツの劣化に加え、該コンテンツを告知する宣伝がこれまた盛り過ぎのわけです。

コンテンツの評価はインフレ状態、不振だから数で補う、質は更に低下しハズレが増加、で、評価に値するコンテンツは埋没、こういった悪循環に陥っているのではと推察しています。

ここから抜け出すのもなかなか難しいなぁと。展望はあるのでしょうか。

本エントリに関連して、小説、文芸作品、権利についていずれ思う処を記してみるつもりです。

2015年6月20日土曜日

枠外

憲法第九条に、

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  1. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
とあるわけです。自衛のための実力が戦力に該当するのか否かについてはさておき、サイバー空間におけるネットワーク技術、まぁ、クラッキング技術なんですが、これは戦力とみなされるのでしょうか。

そもそも戦力ではないのか、自衛のためのクラッキング技術なら容認されるのか、その場合自衛でないクラッキング技術と何が違うのか...よく判りません。

そういった部分は何か定義付けがあるのでしょうか。社会での共有認識について興味のある処です。ここ最近の公的機関からの情報漏洩を鑑みれば、少なくとも日本のサイバー空間は自衛できていないわけです。
年金機構に続き10組織でウイルス感染・流出
違憲でないならば、このクラッキング技術を徹底的に向上させるべきです。足枷のない部分で優位性を獲得しなければ、どの部分で優勢になるのかと。

資質、能力がなければ致し方ない話なんですがね。

極秘で開発済であるならば、大きなお世話で失礼な話でした。

搾取

定性的な話で、極論です。

社会は自らが保有する資源から得られる以上の生産物を欲するわけです。これが成長や生産向上の駆動力になっているかと。

で、有利に獲得できる資源の原資を求めて、中世以降、近代、そして現代に至っても植民地主義にのっとって搾取、収奪を繰り返してきたわけです。時には、武力による殺戮という手段すら用いて...

これは平和主義には反しますが、民主主義とは無関係です。民主国家による帝国主義、植民地主義の選択も矛盾はないはずです。

勿論、人道的理由もあるのでしょうが、さすがに現代になって、先進国間での武力衝突や開発国の武力による従属、植民地化はかつてよりは減少しています。互いに支払う代償が過大でしょうから。

代わって平和主義の名の下、一部新植民地主義という形を残しつつ、世界は概ね反帝国主義へと移行しつつあります。

日本の場合、前の敗戦によって植民地と領土の一部を失った結果、国外から不平等に有利な対価で入手できる資源や労働力の供給源が絶たれたわけです。

搾取が不可能となったため、必要な資源はかつてより市場価格寄りとなった対価での輸入と国内での供給に頼ることになります。

そういった環境の下、国際社会、主に米国からの支援を得ながらも、戦後復興と続く目覚ましい経済成長を果たしたのは周知の事実です。

国内の安価な労働力と円安環境に支えられた、割安な工業技術が高い国際競争力を生み出し、鉱工業生産額を飛躍的に増大せしめました。

で、ここからが定性的な話ですが、実は日本を含む先進国の今日の経済的繁栄は、政府債務と引換になっている部分はないのだろうか、と思った次第です。全くの憶測ですが。

単に国債をじゃぶじゃぶ発行し、将来世代からの借金を現在の糧にしているのではないか、ということです。蛸が自分の足を喰うようなものじゃないかと...

顕著なのが日本で、日本の政府債務残高の対国内総生産(GDP)比の推移を見れば、
とても債務に見合った生産をしていると捉えることはできません。負担を将来世代に押し付けているだけではないでしょうか。

こういった場合、かつてならば武力を行使することさえ厭わず、搾取、収奪という形で、国外に安価な資源を求めてきたかと。しかしながら、今日そういった手段は禁じ手です。

そこで、平和と民主主義、市場経済を組み合わせて”信用”を強力なツールに仕立て上げ、果実を先食いしてそのツケは将来世代に押し付けるという手段を採用しているわけです。

欠席裁判というか無抵抗の将来世代に責任を転嫁しますから、国外に資源を求める植民地主義より圧倒的に低コストな手段です。

帝国主義と平和主義には、地理的な座標軸と時間的な座標軸、資源を求める方向としていずれを用いるのか、そういった差異があるに過ぎないのかもしれません。

社会が、自らが保有する資源から得られる以上の生産物を欲する限り、搾取と非搾取は避け得ないことなのでしょうか。

”お前は中二かよ?”と尋ねられれば、否定できませんが...

2015年6月16日火曜日

不正

投げ銭?上納金?貢いだ税金の使途は気にしないということなんでしょうか。

サッカー女子ワールドカップ(W杯)やワールドカップロシア大会への予選の話題でもちきりです。
などなかったかのようにかき消されている、といった印象なんですが。テレビも巨額な放映権料を支払っている以上、水を差したくない、FIFAの神経を逆撫でしたくない、ということかもしれません。
【腐敗の帝国FIFA】W杯南ア大会予選、アンリのハンドも6億2千万円でもみ消し

大会が終わって膿が一気に吹きだすのか、静かに収束していくの興味深いところです。

まぁ、ビジネスですし。ある意味虚業であるスポーツを利用しただから...思うようにビジネスを牛耳ることができない米国の意趣返し、といった感も否めないわけではありません。

ここまであからさまではないとしても、日本の野球、スケート、柔道、相撲といった各協会にも通底するものを感じています。

日本がAIIBアジアインフラ投資銀行)に参加しなかったのは、おそらくこういった不透明さによるものと推察しています。

しかしながら、FIFA、AIIB共にその加盟国の多さを鑑みると、不透明さというか、モラルハザードは、実は国際的にはある程度容認されているのかもしれません。”どこが悪いの?”ということです。

権威に傅き利権の分け前に与る、これがグローバルスタンダードというものなんでしょうか。

齟齬

憲法解釈が時代とともに変遷するのは当然のこと。司法では憲法解釈が変わることは当然ある。
該発言は橋下大阪市長のツイートからです。


単なる一作業員で、法曹界からはとんでもなくかけ離れていてよくわからないのですが、上記考え方というのは法曹界の共通認識、常識なんでしょうか。

いや、時代と共に人権、平等、自由、公共といった概念が変化するであろうことは理解できるのですが...

”時代”という理由で、文言の解釈変更を容認するということは、起草者の想定外の解釈をも認めるということです。

概ね自らに都合のいい解釈が生み出されるのは明白です。起草者の意図しない、
”そんなつもりじゃなかった”
解釈でもまかり通ってしまいます。

”海”でも”空”でも、その色は、青、緑、群青、エメラルドグリーン、翡翠色、若草色、透明、ベージュや肌色、黒だってあるわけです。現行憲法の意図する色を棚上げし、本来の意図と違えた色を”これだ”と断定的に強弁するのは”全権委任法”より質が悪いかと。

やはりですね、その解釈が制定時の意図から逸脱していないか、故意に歪曲していないか、といった精査は不可欠です。

そもそもの意図、条文の主旨に沿ったものか否かを慮らない解釈は排除されてしかるべきです。それでも尚、意図する処に合致した解釈であるとの主張ならば、当然その確証を示すべきが法治国家としての責務と考えます。

人治主義なら話は別なんですがね...

2015年6月14日日曜日

銀宝

ルキウスさんが天だねとしてのギンポの希少性について言及されていた頃、ギンポの佃煮で飯をかっこんでいました。

シラスというか稚魚の佃煮なんですが、尾数換算にすれば、名古屋辺りの天ぷら屋の年間消費量の、少なくとも十年分に相当するギンポが目の前のトレイに山盛りになっているわけです。
”自分は鰻のような絶滅危惧種の稚魚を旨い旨いと喰ってんのか?
希少な天だねということは承知していましたが、理由について考えたことはありませんでした。おっかなびっくり調べてみた所、
この魚の利用では関東、特に東京(江戸)が抜きん出ている。というか他の地域では価値がない。江戸前天ぷらのネタとしては最高のもの、そのため全国から東京へと目指して送られてくる。
 ということでした。鮮度落ちが早い、捌くのに手間がかかる、天だね以外に突出した調理法がない、といった理由で市場への入荷量が限られているようです。

特段、絶滅危惧種というわけでもないことに安堵しつつ、心おきなくギンポの佃煮を頬張った次第です。

2015年6月13日土曜日

姑息

だから、もったら、もったらせずに、憲法を改正しておくべきでした。法治国家を自負し、そのことに誇りがあるならば...
安全保障法制
改正する力量がないからといって、閣議決定で解釈合憲として強引に話を進めるのも姑息です。 

こういった話になると、
日進月歩の安全保障の現実を十分に踏まえていない
とか、”昨今に日本を取り巻く環境は...”といった声が上がるわけですが、そんなことは相当以前から想定できていたはずです。できていなければ無能です。

自らの怠慢を棚上げし、この期に及んで”安保法制、待ったなし”って...今更感が拭えません。

そういった危機意識があったならば、もっと早くに環境を整備し、憲法改正に向けて真摯に取り組むべきだったと考えます。

与党自民党は、オウンゴールでこれまでどれだけ改正の芽を摘んできたのか、自覚しているのでしょうか。その最たる例が民主党による政権奪取でした。

事務所費問題やら年金記録問題やらで政権運営に支障をきたし、挙句、民主党に政権を譲ることになった... 自滅を繰り返し憲法改正に取り組めなかった、取り組んでこなかった、そういった過去を鑑みれば今更”安保法制ガー”と叫ばれてもなぁ、と。

安保法制の是非以前に、
”無能な指揮官の下にはつきたくないなぁ”
 が素直な印象です。

2015年6月9日火曜日

罰則

やはり”法の支配”ではなく”法を支配”なんでしょうか。
首相 安保関連法案は憲法違反の指摘はあたらず
安倍総理大臣は訪問先のドイツで記者会見し、安全保障関連法案について、「憲法解釈の基本的論理は全く変わっておらず、憲法の基本的な論理は貫かれていると確信している」と述べ、憲法違反という指摘はあたらないという考えを強調しました。
衆議院憲法審査会で政府与党推薦の参考人を含む、三人全ての学識経験者が、安全保障関連法案について、”憲法違反に当たる”との意見を表明しました。

憲法学者の存在意義が問われているわけです。
”政府が合憲というものを違憲と言うわけにはいかない”
などと、発言すればNHK会長と同じですし...

憲法違反、立憲主義を放棄したとしても罰則がないから遵守しなくても構わない、というのもどうなんでしょうか。情けなくもあり残念です。

やはりですね、”国家、国民の安全のために”といった情緒的な話ではなく、内閣法制局の正式見解が公表されることを願います。

併せてですね、法治国家の根幹を揺るがすやもしれない、この極めて重要な懸案事項に対し、三権の一翼を担う司法においては積極的、率先して憲法判断に着手すべきと考えます。

巷間、”現行法では国家、国民を守れない”と声高に叫ばれています。しかしながら、だからといって憲法に優先した法制化が許されるわけではないかと。法治国家を自負するならば、国の安全保障と憲法判断は切り分けるのが本筋と考えます。


2015年6月7日日曜日

漫画(3)

前のエントリに続けます。

類似した話は枚挙に暇がありません。折よく、
[江川達也]<漫画「日露戦争物語」の真相 (2)>明治元年・松山生まれの秋山真之が主人公では「日露戦争」は描けない
[江川達也]<漫画「日露戦争物語」の真相 (3)>司馬遼太郎財団からきた苦情が漫画の方針を変節させた
といったエントリがありました。同じく漫画の例です。 「日露戦争物語」....面白くありませんでした。知らず知らずの内に連載中止になったか、雑誌の購読を止めたかです。とにかく、連載の途中から読み飛ばしていましたから。

それはさておき、少年誌、特に該漫画を掲載した雑誌では、
 因果関係を語る歴史漫画を日本の漫画読者が求めていないのでそういう漫画は描かれず、勝利や友情や戦争の高揚感勝利感という下らない(史実分析にとって)快楽を描いた歴史漫画が描かれるという現実は続くのである。
当時、連載されていた作品がどの程度事実に基づき、客観性があったか否かは存じません。ただ、友情・努力・勝利といった人気を博すための処方箋があったわけです。

連載中、作者、或いは編集者が、史実を利用した友情・努力・勝利といった価値観の、読者への植え付けを意図していたとみています。該目的に対し、場合によっては史実のデフォルメすら当然あったかと...ある時点で作品は処方箋から逸脱し始めたようですが。

加えて、ネットワーク内を賑わせる、虚構の”いい話”、”感動する話”についても、
Facebookはバカばかり
やっぱりFacebookはアホばかり
といったエントリがあり、こちらは、
またきたコレ・・・いくらでも作れる「いい話」。もう回すなって!!お願い
によれば、 
デマのいい話の作り方のポイント
1 差別意識がけしからんというオチを用意する
2 スタッフが最初に差別者の味方をするように見える
3 ところが・・ということで落とす。
といった処方箋に基づく話です。

少し話が逸れますが、こういった虚構の”いい話”、”感動する話”に対し、

”つくり話でもいい(感動できれば)”
といった 声があるようで驚いています。事実だからこそ感動できるのでは、と考えますから。感動に伴う脳内物質でも欲しているのでしょうか。

まぁ、”この話は架空ですが...”と始まる”いい話”と、”いい話”の後で”この話は架空です。”と明らかにされる場合で、同じように感動できる方なら話は別です。

かつて、実話という触れ込みで日本中で話題となった、
一杯のかけそば栗良平
という童話がありました。この話は後に虚構であることが判明し、作者の不祥事も相俟ってブームは収束しました。

インターネットが未だ黎明期の頃の話です。”つくり話でもいい”とされている方々が、背景とその後の経緯を踏まえた上で、”一杯のかけそば”を読んで感動できるのか、 興味のある処です。

又、こういった話になると、
”いやなら読まなければいい”
という声が湧き上がってくることも想定できます。ブログに寄せられた心ないコメントに対する応えとしてしばしば目にします。

これについて言及するのは別の機会に譲りますが、この考えに与するつもりはありません



話を戻します。

科学的事実、史実といった客観性の強い情報を場合によっては都合良く編集加工して利用する。
料理の美味しさに代表される、客観的評価が難しく主観に頼らざるを得ない指標については、権威を擁立し、その声の大きさに基づく価値体系(序列化するための座標軸)を構築する。
こういった手法を駆使した印象操作がされ得ることに危うさを抱いています。漫画の場合については、実は作者や編集者すら意識していない、無作為の摺り込みも起きているのではないかと思っています。好評を得るための処方箋が結果として特定意図への誘導に結びついてしまうということです。

例えば、前出の”インベスターZ”では、学生が大学卒業後、成功の姿、目指す方向として起業や投資の成功が示されており、企業など組織に属して禄を食む姿勢は否定的に描かれています。

で、独善的な価値観の当て嵌めかと、素直に首肯できず違和感を抱くわけです。市場原理主義の正当性を絶対とし、これを前提に、自らの能力や可能性を経済的価値に置き換え、その極大化を図るべき、ということなんでしょう。

市場原理主義や自己の換金極大化の正当性について描かれないまま、二者択一の形で選択を迫るのも如何なものかということです。

利益至上主義というか拝金主義のみを行動原理として認めていて、他の選択を排除しているかに見受けられます。

知的探求心や社会貢献を行動原理の主軸とする考え方も決して否定されるべきではないはずです。ウィリアム・ショックレーとゴードン・ムーア、リーナス・トーバルズとビル・ゲイツ及びスティーブ・ジョブズは同列に称賛されて当然です。素粒子物理学の小柴、小林、益川、といった方々は起業とは無縁です。

また、例えば宇宙や海洋資源開発、国産旅客機や核融合炉の実用化といった巨大なプロジェクトには組織に属さない限り携われません。

そういった自らの能力や可能性を経済的収支のみで片付けることができない、市場原理の枠内に留まらない部分を蔑ろにすべきではないと考えます。二項対立的な表現ではこの部分は埋没してしまいます。


斯様な価値観の当て嵌めは漫画に限られた話ではなく、ネットワークメディア、新聞、雑誌、文芸作品、テレビ、ラジオ等、媒体に依らず通底したものであることは承知しています。

本質的には、
操作-被操作の戦場としてのインターネット、コミュニケーション
で記されているように、
コミュニケーションの対象が自分にとって都合が良い行動をとってくれるよう、モチベーションや欲求を修正しようとする不断の試みが含まれている。
ことには相違ありません。

ただ、漫画には特有の、より強い影響を懸念しています。それ以前に元々漫画の公正中立は望むべくもないことは明らかなんですが...建前であったとしても社会の木鐸、公正中立を標榜する新聞、テレビですらあの有様です。

漫画はその内容の客観性や信頼性、事実性に疑義が生じるのは当然です。漫画ですから。

新聞世論の形成、印象操作を目的とした場合であっても、おそらく事実の編集までに留まっているかと。誤報や捏造報道に対しては厳しい目が向けられ撤回や謝罪を求められます。最近では朝日新聞による従軍慰安婦報道の撤回、謝罪が記憶に新しい例でしょうか。遅きに失していたわけですが...

一方、漫画は、人気獲得(=売上増加)が主たる目的でしょうが、例え事実の歪曲があったとしても容認されるのが、社会の大方の共通認識ではないでしょうか。で、創作物と言う理由が虚構、虚偽に対する抵抗を緩和し、批判や反発を起こり難くしています。

元々、客観性や真実性が求められているわけでもなく、あたかも事実であるかの如く虚構を流布したからといって、咎められることはありません。例外は性的な表現、モデルとなった当事者からの名誉毀損による訴訟程度でしょうか。
雑誌編集倫理綱領
といったガイドラインはあるようですが、とても遵守されているとは思えません。審査機能もないようです。最初の項に”言論・報道の自由”が掲げられていますから、続く”人権と名誉の尊重”、法の尊重”、社会風俗”、品位”は体裁を整えるための項目に過ぎないのかもしれません。

唯一と言っていい掲載基準は人気です。人気を一定程度獲得した漫画でありさえすれば、物議を醸す内容であっても”言論・報道の自由”に守らせることができてしまいます。

勿論、”人気”が重視されるべき指標の一つであることは否定しません。前のエントリでも触れましたが、漫画は理解させることに力点を置いています。理解されなければ支持されないのは当然ですから。そのために、表現力、描写力、話の筋立てを工夫して読者に現実感を抱かると共に、優しく向き合うわけです。

読者側も好んで漫画を読むわけですから、理解しよう受け入れようといった姿勢で互いに向き合います。その距離感は読者-新聞間の場合より近いのではないでしょうか。で、この漫画に対する読者の親近感が、共感や思い入れを生み出す根源ではないかと思っています。

こういった読者と漫画の関係がある下で、作者、或いは編集者が特定の意図を刷り込む目的で漫画を利用すれば、それは極めて効果的なツールになり得ます。

漫画は作者の主観、価値観を読者に伝えるメディアですから、例え上記意図の刷り込みを意識していたか否かに拘らず同じ結果に向かうことになりますが。

政治的、社会的な関心事について、予備知識なくそういった問題に関する漫画を目にした時、その内容、主張が正当なものとして予断を抱かせることにならないか、そういった恐れを危惧した次第です。

登場人物の台詞に意図が忍ばされ、あくまで作品の世界観において論理的、尤もらしい事実として読者に固定観念が植え付けられてしまうのも好ましいことではありません。

”美味しんぼ”の原発事故に関する描写や”はだしのゲン”はその典型です。かつてより政治的、社会的問題を題材とした漫画が増加していると感じる現在、思想的落とし穴に陥る危険性も高まっているのではないでしょうか。

難しい話で、相反する部分があるのも確かですが、思想信条、表現、言論の自由が侵されるべきではないことは承知しています。

ただ、それを嵩に野放図に漫画をツールとした印象操作、誘導、思想教育が蔓延ることには強い反発を覚えます。表現の自由を理由にそういった部分の考察、議論が封印されているのではないか、時折物議が醸されるものの沈静化してそれまで、といった場合が多いように見受けられます。

頸木なく創作の自由を謳歌してきた作者や編集者には不都合かもしれませんが、表現の自由に対する盲目的な信奉について議論の深化を望みます。

2015年6月6日土曜日

放棄

最終的には裁判所が判断することになのでしょうが...
衆院憲法審査会で憲法学者が"違憲"
ただ、違憲、或いは違憲状態と判断されても、果たして是正する力が働くのだろうか、懸念を禁じ得ません。

”違憲ですよ。で、それが何か?”
といった開き直りも想定外ではありません。

解釈改憲も含め、そういった立憲主義を蔑ろに、極端にはその放棄へと国家が進む時、これを阻み否定する術を社会は持ち合わせているのでしょうか。 

野党を含む立法機関の自律性に期待できないことだけは揺るぎないわけですが...