2014年8月25日月曜日

相反(7)

不毛な話ではありますが、優れた科学的知見だからトップジャーナルに掲載されるのでしょうか、或いは、掲載されたから優れた知見なのか。

知見の”優れた”は定量的にどう評価されるべきでしょうか。現在の評価指標である被引用数は果たして適正な指標だろうか、何とはなしに釈然としないものを感じています。

おそらく大学の研究者、教育者であろう方のブログに、
日本学術振興会特別研究員(DC)制度について考える(1)
といったエントリがありました。

特別研究員として採用する優れた若手研究者の審査の困難さについて論述されています。

拝読させて頂いても、若手研究者選出の公正中立性、客観性に疑問を拭いきれません。エントリ中で科研費の申請、評価との共通部分にも触れておいでですが、その意味で科研費制度における研究テーマや成果の評価にも同様な印象を禁じ得ないでいます。

やはり、根幹である”優れた研究”とは何か、そして”優れた”は何によって評価されるのかが再考されるべきではないでしょうか。
確かに被引用数は、関心が寄せられ広く読まれている、知が共有されていることを示す一つの指標です。高いインパクトファクター(文献引用影響率)を持つ、Natureに代表されるトップジャーナルに掲載された論文が、広く共有される知であることに異論はありません。

では、該論文は広く共有されるべき知であったため掲載されたのでしょうか。更に、それ(広く共有されるべき知)即ち優れた研究なのか。そういった判断はトップジャーナルの査読者を含む編集部に委ねられてしまっています。

”優れた研究なのでNatureに認められた”と、”Natureに認められた研究なので優れている”は同義ではない、といった見方が適切かと考えますが、混同されているかの雰囲気を感じます。まぁ、そういった取り扱いの方が分かり易いのは理解できますが。

これらトップジャーナルの質は自負と自律性によって担保されることになります。加えて、科学誌相互の競争、評価、批判といったところでしょうか。適正に機能しているのか、否か、よくわかりません。ただ、今日の日本のメディアを鑑みれば...無意識下であったとしても既得権を堅持すべく、権威主義に陥っている恐れはないだろうか、といった疑問がないわけではありません。日本の商業メディアと較べるなど、科学誌には失礼な話かもしれません。

広く共有されるべき知、トップジャーナルに掲載された論文、これらは優れた研究のある一側面に過ぎないと考えます。例えば、売れている、発行部数の多い雑誌、ベストセラー作品が良質な優れた刊行物とは限りません。後世に見直されることで高く評価され、実は優れていた、と称賛されることは科学の分野のみならず、美術、音楽、文学といった分野でも珍しくありません。

根幹にある研究の卓越性が幅広い知の拡散、共有を働きかけるわけですが、その大きさは必ずしも科学的な質に対し忠実に相応しているとも思えません。

ここに、トップジャーナルによるフィルタの影響が生じているような気がします。権威主義、インパクトファクターといったフィルタを通して元々の研究の質が歪曲されてしまっているのではないかということです。

で、研究の卓越性についてです。なかなか難しい話ですが、物心両面で社会の要請に対し如何に応えたか、といったところでしょうか。これは科学研究に限定されませんが、便利、快適で豊かな社会の実現に寄与したか(物質面)、社会の多くが関心を寄せる疑問や未解決の問題を解明、解決したか(精神面)程度しか思い浮かびません。

ただ、例えば”宇宙、素粒子、或いは生命について、果たして社会の多くから関心が寄せられているのだろうか”と問われた時、なんとなく首肯してしまう部分も依然あります。この”なんとなく”の部分が明らかにされたり、別の角度からの評価指標があって然るべきかとも思っています。

上記トップジャーナルへの論文掲載と研究の質、卓越性の関係について、幾人かの研究者の方々が言及されています。研究の卓越性評価の指標として、該掲載を手放しに支持されてはいないように受け止めました。

以下に引用させて頂きます。

3誌の編集方針に共通するのは、科学界に対する広いインパクトがある論文を掲載する方針だ。幅広い読者を対象にするので妥当な方針だと思う。つまり、科学的にいかに質が高くても、インパクトがなければ載せない。そして、このインパクト重視の姿勢が、Natureはタブロイド誌だと言われるゆえんだ。



ノーベル賞はNature、Cell、Scienceに論文を発表することとは何の関係もない。むしろ最初の画期的発見は誰にも理解されないので、インパクトファクターの超トップではない雑誌に発表されることが多々あるのだ。

私の大雑把な感覚では論文が公表されて1年以内に再現性に問題があるとか、実験は正しいけれども、解釈が違うとか、実験そのものに誤りがあるとか言った理由で誰も読まなくなる論文が半分はあります。2 番目のカテゴリーとしては、数年ぐらいはいろいろ議論がされ、まともに話題になりますが、やがてこの論文が先と同様に様々な観点から問題があり、やはり消えていくもの30%ぐらいはあるでしょう。論文が出版されてから20 年以上も生き残る論文というのはいわゆる古典的な論文として多くの人が事実と信じるようになる論文で、まず20%以下だと考えております。中には最初誰も注目しなかったのに5~10年と次第に評価が上がる論文もあります。

そうは言っても、研究の成果というか新たに獲得した知を適正に評価できる、被引用数と置き換え、或いは併用し得る指標、手法については未だ端緒すら見出せていないわけです。

W・チャーチルではありませんが、
――実際のところ、被引用数は最悪の研究評価指標と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる指標を除けば、だが。――
ということかもしれません。


(続)

2014年8月18日月曜日

収拾

事態をどう収束させるつもりなんでしょうか。朝日新聞は...
<ローマ法王>元慰安婦と初対面 ミサ参列の7人と握手
宗教の前では事実も霞んでしまいます。客観性、合理性も神の名のもとには...

各々の思惑が合致してしまい、バチカンを向こうに回すことは是非とも回避すべきです。

倫理観、道徳的、人道上といった語に依拠して貼られたレッテルは極めて厄介です。

国連憲章の敵国条項ですら未だ削除されてないのです。 

2014年8月17日日曜日

専横

ある鰻屋の話です。
6〜7人で会食しようと、夜席の予約をしようと電話をした所、一年を通じて席の予約は受け付けていないとのこと。

鶴舞や今池、栄、熱田の繁盛店のことではありません。名古屋郊外の鰻屋です。

で、店によれば、信じればですが、
――以前は予約を受け付けていたんですが、店が立て込んだ時、予約席を指して”あの空いてる席に座らせろ”と...
結構なトラブルになったので、以来、席の予約は受けないことにしました――

店のルールを捻じ曲げるならず者ですか。初めて聞きました。田舎だからしょうがないのでしょうか。

瀬戸の田代なら納得しますし、予約する方が変です。ただ、該店はテーブルが数卓と小上がりもあった覚えがあります。

店が自らの意思で定めた規則ならともかく、我儘過ぎるならず者とのトラブル対策が理由で予約を受けない、というのもなんだかなぁと思うわけです。いや、店に非がないことは十分理解しています。やむを得ない処置であり、致し方ないことです。

ただ、それなりの人数で会食、宴会ができる規模の店に対して、予約を受けられないよう暴言を吐き横暴を働く...ある意味営業妨害ではないでしょうか。

げに恐ろしき鰻への執着。他人の予約席にまで座らせろとは...鰻資源の回復は暗澹たるものかもしれません。

2014年8月16日土曜日

教訓

相変わらず、他所の痛みはわからないということでしょうか。これまでの事例も、他山の石とはならなかったようです。

しゃぶしゃぶ木曽路3店の松阪牛、実は無銘柄牛
周回遅れで時流に乗ろうとしたのか、新たな偽装ブームの口火を切ることになるかは知りませんが、思ったところを脈絡なく記します。

木曽路のHPからダウンロードできる公表資料によれば、例えば北新地店では2012年4月から2016年7月末までの2年以上にわたって無銘柄の和牛を松阪牛、佐賀牛と称して提供していたとのことです。

これは現在判明している事実だけであって、それ以前は偽装はなかったのか、銘柄牛以外のメニュー、その他の店舗では問題はなかったのか、確かな情報は不明です。更なる調査結果の公開を求めたいところです。


ただ、今後どこまで誠実に対応していくのだろうか、不信感は否めません。問題発覚当初、差額相当額の食事券を渡す方針だったとか、HP上の上記公表資料が、

メニュー表示と異なった食材を使用していたことに関するお詫びとお知らせ(PDF)[更新日 2014.08.14]

とPDFファイルをダウンロードしなければ閲覧できない仕組みであるのに対し、

木曽路の基本方針(厳選された上質なお肉他)

木曽路の安全に関する取り組み(木曽路は安心・安全・信頼を守り続けます)
は全く変更されることなく、依然目立つ位置にリンクが設けてあります。


こういった基本方針、取り組みの下、本問題が生じたわけですから、これまでの姿勢も今後の対応も空疎に思えてしまいます。真摯にHPのトップページで大々的、明瞭に説明すべきではないでしょうか。偽装謝罪かと、かえって心証を悪化させないとも限りません。

更に付け加えれば、ぐるなび、ホットペッパーといった飲食店のポータルサイトでは、
厳選された全国の名高い産地の国産牛肉と旬の素材を活かした日本料理をお楽しみ下さい。
木曽路こだわりの国産霜降和牛は絶品
波風一つない平常運転が続いています。

幅広いサイトで一気に誠実な姿勢を示し収束を図る方が得策ではないでしょうか。

で、本偽装が組織的な行為なのか、単に料理長個人の行為なのかといった部分が注目されます。
仕入れや在庫管理を各店の料理長だけに任せ、確認を怠った
 いや、多数の店舗を抱えるチェーン店ならば、料理長に一定の権限と責任を持たせなければ店舗の運営など無理でしょう。後を絶たない企業のマネージャークラスの横領事件も個人の犯罪です。

問題は、あくまで個人の私欲のための行為なのか、個人をそういった行為に駆り立てる何かが木曽路にあったのか、或いは、全く組織的行為だったのか、ではないでしょうか。

各報道では
――店の利益を増やすためにやった――
とされています。

一方、
しゃぶしゃぶ木曽路、"松阪牛は偽装でした"詳報!謝罪会見の一部始終
では経営側から、
――特に動機としては聞いていないが、「原価の調整のため」という料理長の言葉があった。――
――北新地店はそれほど大きく業績が悪い店ではなかった。――
――3店舗のうち恒常的に悪い店はそんなに多くない。――
との発言がありました。

いや、動機はちゃんと聞けよ、と思います。場合によっては横領かもしれませんし、おそらく接待、同伴が利用の主であろう北新地の店で、
客は松阪牛のしゃぶしゃぶ目当てじゃない。接待相手、同伴相手に”あなたに十分なおもてなしをしていますよ”と、”松阪牛”というレッテルを食べに来るだけだ。どうせ味の違いなんてわかる連中じゃないからもったいない。別のそこそこの肉を出しておけばいい。その方が会社の利益に貢献するし...
もあるかと...船場吉兆の場合と同じ構図です。

勿論、経営側からの偽装へと走らせる程の利益に対する圧力も十分想定できます。

偽装前後の真の売上、利益、在庫、注文詳細の比較で偽造によってどれだけの暴利を得たかがヒントになるかもしれません。


ところで、上記謝罪会見によれば実際に提供されていた牛肉は、
――黒毛和牛の5等級のリブロース、サーロイン。当社の中では一番高いグレードの肉だ。――
――世の中では最高グレードとして取り扱われている肉だ。――
――木曽路の店舗で提供しているのは、非常に上質な肉。味の面では大きな差はない。――
だそうです。

このあたりの和牛特選霜降り肉で無銘柄ということはあるのでしょうか。有名ではないもののそれなりに肥育に注力している産地の和牛でなければA5等級を獲得できないような気がしますが...

いずれにせよ、夜席が会合、宴会、接待、同伴に利用される高級しゃぶしゃぶ店です。やまがき畜産や関屋の和牛で十分満足している鈍舌の私には勿体無い飲食店でしょう。霜降り、特撰、松阪といったキーワードとは無縁です。

木曽路は名古屋に本社があります。愛知県内には店舗も多くかつて訪れた飲食について発言する愛知、名古屋のブロガーも少なくないはずです。

そんな中、
木曽路の肉

というエントリしか見つからないのは寂しさを禁じえません。

2014年8月15日金曜日

相反(6)

前のエントリで記したように、特許制度において、新規の科学的知見の公開はあくまで権利と取引の形になります。権利化のために公開するのであって、虚心、能動的に公開したいわけではない、ということです。


では、本騒動の元となったNatureに代表される科学論文はどうでしょうか。確かに科学論文が社会で知を共有するための有用なツールの一つであることに異論はありません。

科学技術の新たな知見と経済的利益の独占を仲介する特許とは一線を画し、社会の共有財産として知見を公開する、といった姿勢が科学論文には窺えます。知の公共性という一面を重視しているかにみえます。

しかしながら、該目的を適える手段として、上記Nature、更にCell、Scienceといったインパクトファクター(文献引用影響率)の高い、いわゆるトップジャーナルへの掲載の必然性はあるのでしょうか。

IT技術が未発達であったかつてならば、研究成果の公開は科学誌という出版物に頼らざるを得なかったであろうことは理解しています。で、社会が新たな知を共有する手段としての出版物の長い歴史を通じて、特定の科学誌が権威付けられてきたわけです。

極めて、低コスト、迅速、容易な情報公開が可能となった現在、それでも科学論文の公開にあたって権威ある媒体への掲載を重視する姿勢に疑問を抱いています。

極論、若しくは暴論であるのは承知しています。その上で、単に”新たな科学的知見を社会で共有する”といった趣旨を適えるのであればブログ、ウェブサイト等によるネットワーク上での公開で十分、むしろ最適ではないかとさえ考えます。


査読による論評、批判は、投稿内容を切磋し更に洗練された、合理的な論文へと導く役割を担っているわけですが、自らのサイトであっても、一方的な公開の場とすることなく公共性を自覚と共にオープンな議論の場を用意しさえすれば問題ないはずです。

勿論、自らの舞台で自らの成果を勝手に公開することになりますから、捏造や剽窃等、不正はし放題です。咎める仕組みがありませんから...

ただ、そういった不正な成果公開は当該研究機関の信頼を著しく失墜させる行為であり、某国のような自画自賛研究組織とみなされ存在意義が消失するだけです。外部の目から科学研究を行う組織ではなく、怪しげな新興宗教団体、インチキ健康食品の会といった類の非科学的組織との烙印を押されるわけです。

外部からの疑問、批判に耐えうる高い客観性、論理性、自律性、自浄能力が求められることにもなり、むしろ好ましいような気もします。

そういった動きは皆無ではありませんが極めて緩慢にみえます。該方向に向かわせる力は弱く、未だ権威ある科学誌への掲載が研究成果の評価手段として重視されているのは間違いありません。

これはおそらく、研究成果の評価を科学誌への掲載の可否、更には掲載した科学誌の権威の程度で行うことが各々の関係者にとって都合がいいためと考えます。この都合の良さが評価手法の適正化を阻み、現状に押し留めてしまいます。


1.メディア側


メディア側、出版社側は当然、既得権益の保護、組織防衛に走ります。自らがこれまで営々と構築してきた権威、価値体系の毀損、自己否定に繋がりますから。権威ある科学誌が研究成果を評価する、という姿勢を譲るわけがありません。


2.読者側

該雑誌は原則として科学者、研究者が読者であり、これに科学技術に興味を持つ読者、論文を二次利用するメディア、掲載されたという事実を重視する研究機関の管理、所管組織が加わります。勿論、投稿者となる科学者は読者でもあります。

研究者の採用、評価といった人事管理、研究予算の付託や受託、褒賞の申請、選考は、研究機関内外の管理、評価、所管組織が担うことになります。

具体的には例えば、科研費であれば文科省や日本学術振興会によって審査、交付され、文化勲章であれば文科大臣が推薦して内閣府の審査後、閣議で決定されます。

勿論、対象分野の専門家の意見も参考にされるのでしょうが、掲載された科学誌の権威と論文数による評価が非常に都合がいいわけです。専門、非専門に関わらず、又、政治家、事務方にとっても、即ち、研究成果の理解如何に依らず評価したことにできる便利な指標ということです。

評価の責任の一端を科学誌の編集部に転嫁しているような気もしますが...
多くの日本人研究者は不勉強なので、自分の専門以外のことをほとんど知らない。研究費申請の評価を依頼されても内容を理解できないので、論文の発表されている雑誌名だけを見て大方の評価を決めてしまう。あるいは、知り合いの教授やその部下の申請だと甘く採点し、次に自分や自分の部下の申請の時に手心を加えてもらうことを期待する。これは科学研究費と呼ばれる研究助成以外の大型研究費助成に強い傾向だと思う。
こういった指摘をされている、大学研究者と思しき方もいらっしゃいますし、
各国政府は、Natureが象徴する科学の評価システムに依拠して、多大な税金を医学生物学研究に注ぎ込んでいるからだ。その評価システムが信用ならないとなると、今のような多額の税金を注ぎ込むことはもはや正当化されない。
科学誌の権威を借りた研究成果の評価に批判的な研究者の方もいらっしゃいます。

以前のエントリ(王道内輪)でも記しています。


3.投稿者側

研究成果をまとめた論文を科学誌で公開することの本来の趣旨は、”新たな科学的知見を社会で共有する”ことと思っています。権威ある科学誌に掲載を許された論文は優れた論文であり、高い重要性、新規性、有用性を備えた、社会で共有すべき知見であることを意味します。

即ち、権威は単に知見の有する公益性の程度を裏付ける指標に過ぎないわけです。掲載の結果による、特許ほどあからさまな経済的利益ではないにしても、功績を讚える研究予算、ポスト、栄誉といった褒賞は余得とするのがあるべき位置付けではないでしょうか。

勿論、今日の生命科学関連の研究には莫大な予算が、又、研究の自由度を確保するには権限が必要なのは明らかです。人の持つ承認欲求を鑑みれば自らの功績を顕示して栄誉を得たいという心情も当然です。その意味で成果のウェブでの公開を極論と記しました。

従って、権威ある科学誌による論文掲載を目指す行動原理には、”新たな科学的知見を社会で共有する”に加えて、一定割合で上記褒賞に対する思惑が含まれているのではないかと想像しています。

自らの研究とその成果にしか興味がない科学者ならば、権威ある科学誌であろうが、ウェブ上での公開であろうが構わないかもしれませんが、稀かと思います。合理的、効率的行動に従えば持てる資源(科学的知見)で最大のリターンを図ろうとするのが自然かと...

該余得は私腹を肥やす経済的利益ではありませんが、私欲を満たすためのものではあります。科学
誌の役割において、実は余得に過ぎない上記褒賞に対する欲求の占める割合が、”古き時代”より増大しているのではないか、そういった思いを禁じえません。
――人の役に立ちたい――
STAP細胞発表直後の小保方氏の言葉だったかと思います。加えて、”公益に資する”、”社会に貢献する”、”新たな科学的知見を社会で共有する”といった無私の姿勢は余得を目指す意識とは整合性がないような気がします。”バランスを取ればいい”と言われればご尤もかもしれませんが。

新規の科学的知見が優れた論文としてトップジャーナルに掲載され、その結果が研究予算やポストに反映されるわけですが、そういった余得獲得の手段としての投稿であり、そのための科学研究ではないかと、逆転したかのように錯覚することがあります。


(続)

2014年8月14日木曜日

相似

かつてルキウスさんが
甲子園幻想の虚しさ
というエントリで、高校野球 甲子園大会の一人歩きを続ける神聖化について、煽動の尖兵である”天声人語”と共に批判されていました。


以降も様々な方がその商業主義的側面、甲子園礼賛、勝利至上的姿勢といった欺瞞性、或いは、本音と建前、光と影といった二面性に違和感、疑問を呈され、議論もされてきました。
「高校生らしさ」を強調する甲子園に対する違和感
産経の盲従的「甲子園」礼賛記事を球団…いや糾弾する 
ナイン全員が県外出身者の甲子園出場校も…高校野球の「留学」についてどう思う? 
この構図に科学研究との強い相似性を感じます。分野の違い、社会に与える影響に差異こそあるかもしれません。

しかしながら、高校野球の”甲子園”と科学誌の”Nature”、両者の根幹や取り巻く思惑は、実は同じではないでしょうか。

2014年8月12日火曜日

自滅

炎上を意識されたのでしょうか。


「聞きなさいって、共産党!」 橋下氏、テレビ番組で小池晃副委員長に“喝”

燃え尽きて消失するかの如く批判されています。政党の副委員長がこれでは...

"確かな野党(?)"を自滅に向かわせるつもりかもしれません。


国民合意で資本主義を乗り越えた未来社会──社会主義・共産主義社会に進む。(共産党 志位和夫委員長)

こっちの議員からも、以前、Eテレで”資本主義の後継こそ共産主義”といった旨の発言を耳にした覚えがあります。

断じて否定します

資本主義からの移行が始まる前に共産党の存続が危ぶまれます。

まぁ、その前には社民党が散り散りに消えてしまうわけですが...

記憶が曖昧です。EテレではなくBS朝日かBS-TBSだったかもしれません。

2014年8月11日月曜日

提案(2)

いや、確かに作業員なんですがね。

腐食液に続いて今度はグリースガンとカートリッジグリスのセットですか。

一体、何にグリスを注入しろと...

まぁ、注入したい組織、機関、社会システムは幾つかあるわけですが、書けません。いい大人なんで。

2014年8月9日土曜日

不実

瞬く間に、報道各社が笹井氏の自死について取り上げなくなりました。
問われる笹井氏自殺報道の倫理性
対外的にはおそらくこういった理由付けなのでしょうが、責任回避の言い逃れとしか受け止められません。 

2014年8月5日火曜日

引金

笹井氏のご冥福をお祈りいたします。 
STAP論文の笹井氏が自殺
公共放送を自負し、
"STAP細胞 不正の深層"(NHKスペシャル)
といった極めて中立公平で、全く客観的、すばらしく不偏不党の該コンテンツを制作した独善放送協会には、上記事件に関する検証番組を制作する重大な責任があると考えます。

以下のエントリが詳しいところかと...
(続)STAP細胞の悲劇;愚かなメディアと研究者集団
魔女狩り

メディアの、無自覚下で暴走する独善性、欠落する自律性が窺えます。実は意図的かもしれません。

該放送協会についてはいずれ記すつもりです。

2014年8月4日月曜日

錯誤


(2016.8.2 中南米ビジネス・セミナー 安倍内閣総理大臣政策スピーチ)

"法の支配"?
"法支配"の間違いじゃないでしょうか。
少なくとも国内的には。