2019年4月7日日曜日

不徳

――私の不徳の致す処です。――
謝罪や釈明の会見で頻出する文言です。で、どうも不徳の語に違和感を抱く場合があります。その不祥事、騒動は不徳が理由なのか、と。不徳とは、
1) 徳の足りないこと。徳が備わっていないこと。2)人としての道にそむくこと。背徳。 「 -漢」
のようなんですが。例えば、前のエントリの忖度発言はご当人の不徳に起因したのだろうか、別の理由ではないだろうか、と思ったわけです。

が、更に調べた処、”不徳の致す処”という慣用句で、
失敗や不都合のあった時、それは自分が至らないせいだとして、遺憾ないし反省の意を表明する
意味がありました。正確な理由開陳を避ける枕詞だったわけです。

私の不徳の致す処でした。

2019年4月4日木曜日

因果

塚田国交副大臣の忖度発言があって、当人は火消しにやっきです。
――我を忘れて事実と異なる発言をした。行政の信頼性をゆがめた――
と陳謝した、とのこと。安倍総理の地盤である下関と、麻生副総理の地元への下関北九州道路の事業が止まっていて、両人が事業を進めるようなことは言えないと。で、塚田副大臣が忖度して事業を推進した、という発言を上記陳謝で取り消しています。

忖度したことが虚偽で、ただそれでも事業が進んでいるという事実があるならば、安倍総理、麻生副総理の指示、命令があった、という解釈もできますけど。

加えて、
――大勢の人が集まる会の席で、私自身がわれを忘れて誤った発言をした――
と釈明されてますが、”人前で我を忘れて誤ってしまう”なら、閣僚どころか参院議員としてそもそも向いていないのでは、と適性に疑義が生じてしまいます。

こういった、うっかりだか、リップサービス、或いは聴衆の耳目を集めるためだかは存じませんが、本音、虚偽、法螺を失言して窮地に立たされ、取り消し→釈明→謝罪→辞任へと追い込まれていく閣僚や議員は後を絶ちません。

渦中の方の派閥の親分もまぁ、失言大王との声もあるわけで、注意やけん責はし難いのかもしれません。
アンタが言うか?
ということです。ある意味脈々と継承されていく伝統、体質なんでしょうか。

ともあれ、私人ですら言動が録音、撮影される昨今において、自らの言動が招く事態を推し量れない...これが大元の原因であるのはあきらかです。

これは自律、倫理、道徳、正義、誠実といった話ではありません。是非を切り離した単なる方法論です。

自らの言動が録音、撮影されている可能性に思いが及ばない...スーパーの万引き、タクシー強盗、ひき逃げや当て逃げ、小売店や飲食店での店員への暴言や強要等がなくならないのも腑に落ちます。

自らの言動が招く事態を推し量れない...衛生上、倫理上、或いは法的に問題がある言動を自ら記録し、SNSで一般に公開、炎上、非難を浴びる、いわゆるバカッターがなくならないのも頷けます。

公人、私人、政治家だろうが庶民だろうが、社会的立場があろうがなかろうが、おかまいなしに通底しています。

以前も触れましたが、生命や身体の危険につながる事故が発生し得る、建築や土木、製造の現場、或いは、自動車の運転では、事故を未然に防ぐ安全活動の一つとして危険予知トレーニングといった手法があります。

これは、平常のある状況を示すイラストや写真を見て、そこにどういった危険が潜み、発生し得る事故を想定する訓練です。実際に起こった事故例を用いて、発生前の状況を第三者の視点で事故の要因を抽出するのもより実践的と思います。

この訓練は作業に関わる事故の防止に有用であるだけでなく、イラストや写真を見ることで状況を客観的に把握し、この後何が起こり得るかを推測する力の養成にも効果的と考えます。

作業現場に限らず、自動車の運転時、歩行時、電車内、コンビニ、居酒屋、何処でも、何時でも構いません。とにかく日常から切り取った風景を見て、そこにどんな危険が潜んでいるか、その後何が起こるか、そういったトレーニングが必要ではないかと。

伝え聞くところでは、小学校では平成30年度から,中学校では平成31年度から「特別の教科 道徳」が始まっているとのこと。ただこの教科で養われるのは、道徳”力”といった定量的な能力ではなく、個々人の情緒に働きかけられた結果、精神内に培われる何かです。

果たして、この何かの延長によって”人を殺してはいけないか”に代表される、”人を攻撃することは良くない”ことを合理的に説明できるのでしょうか。やはり、それ以前に”己が置かれた状況、自身の言動で何が起こるか”を想定する、そういった教科こそ初等教育課程から必須化すべきではないかと提言してみます。

生徒、学生だけでなくいい大人にも必要であることを申し添えておきます。

2019年4月2日火曜日

刻印

新元号が発表されました令和だそうです。

ここの処、”平成最後の...”の文言連呼が耳につき、腹一杯で胸焼けしているのですが、しばらくは溢れる”令和”で消化不良を起こしそうです。そこのアンタ、万葉集の本を買って”令”と”和”の文字を確かめただけで放り出すんじゃない!

令和饅頭とか、令和チョコ他、令和記念商品が続々発売されるのでしょうか。商売に勤しんで下さい。

でですね、令和の”令”の文字なんですが、上写真では最後の一画がハネで終わっているように見えます。このブログサイトは日本語フォントの種類に乏しいため上手く表示できませんが、最後の一画は留めるか、払うと思っていました。又、ゴシック、明朝体では令ですが、楷書や行書体では”マ”の形をよく見ます。写真は筆文字ですが”マ”になっていませんが。

これらは現在、文化庁の常用漢字表によればどっちでもいい、ということになっています(常用漢字表 2章4-(6) エp.58)。これは昭和24年の当用漢字字体表以来受け継がれてきた考え方のようです。ただ、”マ”ではない”令”の最後は留めるか、払うと思っていました。まさかハネるとは...いずれも誤りではないとしても一般的にどれが多用されているのでしょうか。

次に”和”の文字ですがのぎへんの縦画の最後はハネてあるように見えます。こちらも上記当用漢字字体表のまえがき(備考)に既に”ハネる/ハネないは拘束しない”と記載されていました。

ところが、明確に誤りではないと示されたのは、つい最近のことのようです(常用漢字表(平成22年内閣告示第2号) p.9 「(付)字体についての解説」)。それでも周知されず、平成28年2月には、
常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)について
も出されています。ただ、きへんのぎへん”の縦画は留めるのが正しくハネるのは誤りという認識は社会にかなり浸透してしまっているのではないだろうか、というのが正直な印象です。

推測ですが、過去の義務教育の指導要領に”教科書(明朝体?教科書体)こそ正しく他は誤り”といった部分というか、風潮があったのではないでしょうか。ハネても留めてもどちらでもいいが、留めるよう指導して統一しよう、という意向があったのでは、ということです。それがいつしか”ハネるのは誤り”に絶対化されてしまう...似た話は社会のそこここで見聞するような。

であれば、当時の教員も生徒も刷り込まれてしまっているわけです。勿論、私も含まれています。これが是正されるには何世代もかかるだろうなぁ、と感じます。そういった指導を受けた教員や教育を受けた保護者の子弟、特に、教育熱心であればあるほど、”きへん、のぎへんの縦画をハネるのは誤り”という誤りが受け継がれていくわけですから。

当時の、正誤を迫るというか、曖昧さを容認しない姿勢、これを継承した結果が、最近しばしば耳にする、不寛容な現代の根源だろうか、そんな思いが頭を掠めた次第です。