2021年4月29日木曜日

凡庸

紀州のドンファンでも九州の資産家でもどちらでも構わないのですが、テレビ、ラジオで朝から晩まで報道する事件なんでしょうか。

美浜と高浜の原発再稼働に福井県知事が同意したことの方がよほど取り上げられて然るべきと思うのですが...

40年超原発、初の再稼働へ 福井知事同意、関電3基

中電と東邦ガスのカルテル容疑に関する報道もそうなんですが、政府、企業が批判を浴びる事案は休日前に、できれば同等以上に衆目を集めそうなニュースと共に報道すると。

誘導するならもう少し上手にできないものか。手法が拙劣過ぎます。

2021年4月27日火曜日

損益(4)

先のエントリからの続きです。


さて、原発に関わる、ゼロリスク要求側と(一定の)リスク許容側の対立の中でよく耳にするのが、

福島原発の事故で放射線被爆を直接の原因とした死亡例はない

という声です。低線量被爆による十年、二十年後の健康被害の可能性を否定するつもりはありませんが、考えません。不確定過ぎますから。その上で、福島原発の事故は、既述した死者126人/年の許容可能なリスクを全く超えていないと見做すことは妥当なのでしょうか。死亡例が一例もなかったわけですから、福島原発の事故はそもそも1e-6/年の(被害/損失/危害)には該当しないのではないか、という見方です。

これは、ワクチン接種の副反応による死亡被害と低線量被爆を含む原発事故による被害、無過失で被った交通事故による死亡被害との比較で判断できるのではないかと考えます。

現在、ワクチン接種、交通事故による死亡被害には、法に基づいた、或いは、保険制度による経済的な補償が用意されて今す。

ワクチン接種による死亡被害の場合、厚労省の

予防接種健康被害救済制度

によると、A類疾病(四種混合、麻しん・風しん、日本脳炎、BCG等)の予防接種では44,200,000円の死亡一時金が、B類疾病(インフルエンザ等)の予防接種では7,372,800円の遺族一時金(生計維持者でない場合)が定められているようです。

又、交通事故による死亡被害の場合、少なくとも自賠責保険から4000,000円の慰謝料が支払われるようです被害者本人への慰謝料)

こういった補償の額から逆算してみた時、

126人/年*4,000,000円=504,000,000円

から

126人/年*44,200,000円=5,569,200,000円

程度、総額で5〜55億を超える補償額が発生するような(被害/損失/危害)は、許容可能な限度を超えたリスクである、という見方ができます。リスクの大きさを評価するために、結果的に算出された補償の総額を使うわけです。

各個人の被害が例え死に至るほどではなくとも、膨大な被害者が発生するような(被害/損失/危害)は、その補償額を通じて死者が発生する(被害/損失/危害)に変換できるのでは、という考え方です。このように変換して総補償額から逆算した仮想の死亡被害者が126人/年以上であれば、それはやはり許容できないリスクなんだろうということです。

この視座から大雑把に計算してみると、2021年4月23日現在で東京電力の原子力損害賠償のこれまでの支払い額は、

約10兆0,153億円

ですから、約1兆15.3億円/年です。従って、死者が発生する(被害/損失/危害)に変換してみれば、

22,659〜250,382人/年

に相当するわけです。この数字は、たとえ福島原発の事故で死亡者が発生していないとしても126人/年の許容リスクをはるかに越えています。


以上、ゼロリスクについて記してみたものの、冗長となるばかりで、核心的な論を展開することはできませんでした。おそらく”1e-6/年(100万年に1回)以下であればリスクは許容される”ことの論拠に曖昧さを覚えたためかもしれません。

しかしながら、安全と安心の社会を作るために必須とされる「信頼社会」の実現が牛歩のごとく全く道半ばであることは間違いありません。

ゼロリスクがあり得ない、それは日本学術会議から国への提言
リスクに対応できる社会を目指して日本学術会議 2010年)
原子力安全白書

等で明記されています。

それにも関わらず、国会での行政責任者の答弁、自治体首長の会見には絶対、完璧、完全、徹底、最高レベルといった語が躍り、溢れんばかりの修辞に辟易します。国家の最高責任者や為政者自らが100%の安全、即ちゼロリスクの実現を確約し、宣言している現状で、

”ゼロリスクがあり得ない”

という事実をどうして社会が共有できるのか、理解できません。

ブログでもSNSでも”ゼロリスクを求めるな”という主張を至るところで目にしますが、優先して諫言するべき先は社会や一般市民ではないだろう、というのが率直な処です。

「知らしむべからず依らしむべし」に由来する”不信社会”では、より一層、絶対、完璧、完全、徹底といった修辞に力を入れる他ないわけです。しかしながら、それは却って、力が入れば入るほど空虚に聞こえてしまいます。空虚に聞こえてしまいます。

更に言えば、信頼社会が実現し、合理的な許容リスクというものが社会で合意形成に至ったとしても、その持続性に対する懸念が排除できません。例え1e-6/年(100万年に1回)に合理的理由が見出され、それを許容リスクとして定めたとしても、安全が続けば安心も増加します。時間と共に1e-5/年、1e-4/年と緩和方向へと向かうであろうことは想像に難くありません。

許容リスクを1e-6/年と定め、それを維持するには、やはりそのための資源投入が必要です。この時、安全な状態が維持されればされるほど、

未来の不確定なハザードのために現役世代が適正に資源投入できるか?

といった疑問が払拭できません。1e-6/年を維持するための安全に対するコストが削減されて、1e-5/年、1e-4/年とリスクが増加する方向に流されることは容易に起こり得ます。今まで大丈夫だったから、という正常性バイアスも働きます。ただ根本は、後は野となれ山となれ的な、

”果実は現世代に、負担は将来世代に”

という民主主義の本質に逆らう、

”将来世代の果実のために現世代が負担を担う

ことができるのか、という話です。

現世代が負担を担う

ことができるのか、という話です。ごく身近な、マンションの積立修繕金の話に始まって、年金制度、放射性核廃棄物の最終処分等事例には枚挙に暇がありません。福島の原発事故に着目しても、未実施、先送りの事例(防潮堤建設の先送り、非常用発電設備の高所への移設、非常用復水器の動作訓練)が想起されます。

この辺りの規制とか歯止めの仕組みを構築するには、まだ社会の賢さが足りていないように見受けられます。

損益(3)

  先のエントリからの続きです。

 3)ゼロリスクに関する工学的取扱い

これまで2011年03月11日までで検索できた、ゼロリスクに関する言及を記してきました。ここで気になったのは、ゼロリスクが人文系、社会科学系のテーマとして扱われている、ということです。安全工学や信頼性工学といった工学的視点でゼロリスクを取り扱った事例はこれまで見当たりませんでした。ウィルスにしろ、原発にしろ医学や理工学といった自然科学に依拠した話ですし、ゼロリスクについてもう少し工学的アプローチによる考察があってもいいような、というかあってしかるべきです。

全てに先んじて、”ゼロリスクの実現は不可能である”、これが揺るぎない事実であるのは間違いありません。それを前提として、1)ゼロリスクは不可能であっても更なるリスクの低減をどう進めるか、2)許容可能なリスクの大きさをどう見積もるか、について合理的な方法論が確立されているようには思えません。

重大事故が起こった際の被害の大きさという点で、対比には必ずしも最適ではないかもしれませんが、自動車、船舶、航空機といった動力機械や設備と、原子力発電所よる事故やコロナウィルスに代表される自然災害に対する印象の違いで考えてみます。

一例として自動車を挙げれば、自動車に対しゼロリスクを求める声を知りません。事故の可能性を排除するため、運転するなとか、製造するな、といった主張です。前のエントリで引用した資料中の文言を借りれば、
• 自動車もあの便利さの背後に、年間1万人近い人を殺す「走る凶器」の側面を持っている
とされているにも拘らず、です。完全にではないかもしれませんが、社会は
総じて動車事故のリスクを許容しているとみていいのではないでしょうか。その一方で、だからといって自動車の開発、製造に携わる各メーカーは、リスクの許容を求めているわけでも、望んでいるわけでもない、と認識しています。少なくとも表面的には...明言もできませんし。一つには自動車事故は運転者の操作に依る処が大きく、自動車メーカー自身には直接的な責任はない、という立ち位置なのかもしれません。しかしながらそうであっても自動車事故やその被害の低減を目的に技術開発が進められていることは間違いありません。その典型は、運転において、運転者の負担を極力軽減する、換言すれば運転者の関与を極力排除する自動運転技術の開発でしょうか。

このような事故防止技術の開発には、立ち止まることなく資源が投入されているわけで、そこ(事業者側)には事故のリスクを許容してほしい、許容されるべきといった姿勢は感じられません。

次に、社会が自動車事故のリスクを、例え明確にではなくとも許容している理由について目を向けてみます。直ちに挙げられるのは自動車のもたらす利益と自動車事故で生じる損失を通算してみると、社会全体が獲得する利益の方が十分上回る、ということでしょうか。この認識がほぼ社会全体で共有されているであろうことは間違いないと思料しています。しかしながら、これはあくまで社会全体として損益を通算した場合の話です。自動車による利益を、個別、即ち交通事故の被害者、加害者が、非当事者と同じように抵抗なく首肯するのは無理な話です。

つまり、自分は大丈夫、自動車事故に会わないというバイアスを前提とした損益通算の結果、自動車の社会的有益性が受け入れられている、ということです。社会が自動車事故のリスクを許容しているのは、社会の圧倒的大多数が有する、”自分は自動車事故には関わらないだろう”というバイアスがあって、その上でほぼ社会全体に共有されている認識なわけです。自動車事故は被害者、加害者の家族、友人までが事故に関与しているとしても、まぁ100人程度の規模ではないでしょうか。この関わる人員の規模の程度が原発の重大事故や新規ウィルスによるパンデミックと大きく異なる部分であって、これがリスクを許容する/ゼロリスクを求める、の境目ではないかと考えます。

個々人が許容できないほど大きな被害を生じるリスクであっても、被害者の最小単位が小さい場合であれば、社会全体としてリスクの許容を共有できる、ということです。各々自分は被害者にはならないと思い込めるわけですから。これが、たとえ発生確率が極めて低くとも、一旦事故が発生すれば自分も被害を免れない場合には、一転僅少のリスクであっても許容しない、こんな処ではないでしょうか。

加えて、自動車事故であれば、事故に遭う確率をゼロにまでできなくとも、自助努力による極小化が可能です。一方、原発の重大事故や新規ウィルスによるパンデミックによって被害を被る確率を自助努力で極小化することは困難です。

このような事故の性質の差異が、例え、一生のうち、
交通事故死する確率>原発の重大事故で死亡する確率
であったとしても自動車事故のリスクは許容できるが、原発事故のリスクは許容できない、という姿勢になるのでしょう。

実際、死亡に繋がる交通事故の発生件数を低減する対策は可能である一方、原発の事故や自然災害では発生確率、被害をを被る確率を低下させることが事故対策となります。前者の対策としては、技術の発達による自動車の装備、機能の充実、法規制や取締、更には、事故後の保険制度の整備が挙げられます。こういった対策と自助努力と自己責任を基に社会全体として自動車事故のリスクは許容されているわけです。

では後者はどうでしょうか。新しい技術の導入も法整備も進められているであろうことに異論はありません。ただ、一般市民がそれによって確率がどう変化したのか、変化する見込みなのか知ることは困難です。これは、先述
行政や企業が十分情報を開示せず、「知らしむべからず依らしむべし」「寝た子を 起こすな」といった政策をとっていたからである
根底に横臥していることは間違いなく、であれば、対策の中身はブラックボックス化され窺い知ることなど無理、というのも宜なるかなとなります。そういった環境では勿論、自助努力の余地など生まれるわけがありませんから、勢いそんなリスクは受け入れられない、となるのも頷ける処です。

結局、先述の
安全と安心の社会を作るためには、何よりも「信頼社会」を作ることが先決である
に帰結するわけですが、2011年3月11日の事故を経て、果して社会は前進できているのだろうか、甚だ疑問ではあります。


次に、事故の発生確率を含めてリスク評価を行うことになる原発の事故や自然災害の、”リスクを許容すること”について記してみます。前出のリンク先や、未だ騒動冷めやらぬ日本学術会議からの提言、からリスクの許容に関する一部を引用してみます。
リスク認知の特徴
(略)
4.規定値:10のマイナス4乗以上の死亡率は受容されるが、マイナス6乗(自然災害の程度)以下は気の毒だと思っても無視される。そこで、10マイナス6乗は規定値として世界で広く使われており、規制値決定の大事な概念となっている。
10マイナス4乗より大きいと受容されない技術になる。自然災害、溺死は10マイナス6乗で水泳禁止にはならない。理由はわからないが、10マイナス6乗だと暗黙のラインとして我慢するようだ。これより大きくするとコストは安くなるが、反対運動が起きて政策が認められなくなる。これは政策担当者の腕のみせどころとなる。
原子力、化学工業会も10マイナス6乗を下限のリスクとしているそうだ。(談話会レポート「リスクとリスク認知」)
上記記述の引用元がよく解らなかったのですが、調べてみると"安全工学"という学会誌掲載の同一著者による

が大元のようです。単位がよく解らないのですが、火災や水難事故、自然災害、列車事故のリスク、1e-5〜1e-6であれば許容され、1e-4以上のリスクは許容されないらしいとのこと。この理由は定かではなく、又、未だ十分確定した値ではないようですが、リスクが許容されている事例です。この許容値をやむを得ないものとしているのか、”自分は大丈夫”という正常性バイアスによるものかはよく判りませんが。

いずれにせよ、社会で起こり得る全ての被害/損失/危害に対しゼロリスクが求められているわけではないのは明らかです。であれば、ゼロリスクを巡って論争が頻発する、原発、更に昨今のコロナ禍も、リスクがしきい値以下なら許容されるのか、或いは、それでも許容されないのか、という話になります。

そうなると当然、該リスクの大きさは実の処どの程度なんだろうと、しきい値を越えているのか否か、確認することになります。事象の発生確率と(被害/損失/危害)の大きさとの積で定義されているリスクの、その単位も考慮しておくべき点と考えました。

そこで、上記引用では無単位ですが、ゼロリスク要求の典型的対象である原発、リスクが許容されている航空機について、文献からリスクの数値と単位を拾ってみます。例えば、

原子力安全白書 平成12年版 1 原点からの原子力安全確保への取組み

には、
一般的に無視できると考えられる個人へのリスクは、1e-6/年(100万年に1回)などより小さいことである。
との記述があります。又、
炉心損傷頻度(CDF)<1e-4/炉年
早期大規模放出頻度(LERF)<1e-5/炉年
英国の安全目標として、
放射線業務従事者(死亡リスク)
・広く受容される領域:1e-6/年以下
・我慢できる領域:1e-3/年以下
公衆の個人(死亡リスク)
・広く受容される領域:1e-6/年以下
・我慢できる領域:現行の原子力施設に対し1e-4/年以下、将来の原子力施設に対し1e-5/年以下
といった記述を見つけることができます。(この時点で日本には安全目標は示されていなかったようです。平成12年に新たに安全目標専門部会が設置され、平成14年には中間報告書がまとめられた程度です。)

航空機の設計・整備におけるリスク評価

では、”死亡の危険率”という語で定期航空は1e-7/hr、1e-10/km、自然災害は1e-10/hrと記されています。これらは時間当たりの値ですから年当たりに換算すると定期航空では8760e-7/hrで1e-4〜1e-3/年、自然災害では8760e-10/hrで1e-7〜1e-6/年となります。これは一年間常に定期航空機に搭乗していて死亡する確率は自然災害で死亡する確率の1000倍ということを意味します。しかしながら、実際にはそのように搭乗し続けることはなく、日本の航空法によって年間乗務時間が上限1000時間に制限されている機長、副操縦士で考えても10〜100倍といった処でしょうか。

大雑把に、自然災害で死亡する確率の10〜100倍であっても社会の殆どはこのリスクを許容して航路での移動をしている、ということです。

ここでよく分からないのが上記、”個人へのリスクは、1e-6/年(100万年に1回)”の文言です。ある一人の個人が(100万年生き続けたとして)一度その事象に遭遇すると理解しました。これを換算すると100万人に一人は年に1度被災するという話になるような気がするのですが...10年であれば10万人に一人です。2020年の世界人口は77億9500万人ですから10年の間77950人、一年では7795人が被るような(被害/損失/危害)であれば社会の殆どはこれを許容しているという理屈になります。ちょっと実感できないので日本の人口1億2577万人で規格化してみると、126人/年です。例えば2019年の交通事故死者数は3215人ですから、その4%程度です。このしきい値と実際の原発リスクを比較することで原発のリスクは果して無視できるほど小さいのか、そしてそれでもリスクの低減をもとめているのか、或いは、未だリスクは十分大きく更なるリスク低減が要求されているのかが判断できるわけです。

交通事故死者数の4%に相当する、126人/年、1260人/10年が死亡する(被害/損失/危害)を、仕方がない、やむを得ない事故として許容することは果して可能でしょうか。これは、交通事故と同質の、即ち、全国津々浦々で各々何ら無関係に生じる(被害/損失/危害)であれば許容されると考えます。しかしながら、この126人/年が同時に、同一場所で被害を被る(被害/損失/危害)であるならば、看過し許容することは困難ではないかと、捉えています。例えば、ある一車種の設計上の欠陥、信号や法規を含む交通システムの欠陥や不備、日照や降雨降雪といった気象条件、落石や高波などの自然現象に起因する、同一原因による死者数126人/年の交通事故が社会からとても看過されないことと同じです。

死者数126人/年の航空機の事故、列車事故、船舶の遭難、沈没、大規模建造物の倒壊が受け入れられないことと何ら変わりありません。同様に、一発電所、若しくは一基の原子炉における同規模の事故は許容されない、というのも火を見るより明らかです。

こういった同一原因による(被害/損失/危害)については、その原因を除去することで大きく被害を回避できるわけですから、むしろ積極的に原因究明と対策への取り組みが求められるはずです。

ところで、許容できる126人/年の死者数は、2019年の交通事故死者数3215人の4%と上記しました。しかしながら、各々の質というか偶然性、過失割合のような要素も考慮してみると、この4%という割合はあくまで外見的な割合に過ぎないことに気付かされます。自らに何ら原因を求めることのできない126人/年の死者を生む(被害/損失/危害)は、交通事故死者数3215人に対し過小に映りますが、自らに何ら原因のない交通事故による死亡者数と比較するのが妥当である、ということです。

ワクチン接種で生ずる副反応や、重大な原発事故に起因した放射線被害による死亡事故件数は、例えば、暴走車によって横断歩道を横断中、歩道を歩行中の歩行者が死に至らしめられた事故件数に対する比で、その許容性を考えるべきです。これらがいずれも偶発的で理不尽な事故であるのは間違いありません。単に交通事故死者数3215人/年に対し、4%程度の126人/年の死者を生む(被害/損失/危害)であれば許容できるということではなく、偶発的で理不尽な交通事故による死亡者数が果して126人/年より多いのか少ないのか、そしてそれは許容できるのか、といった話になろうかと。

このような被害者に何ら責任のない交通事故の死亡者数というのはなかなか掴めませんが、直感的には126人/年ほど多くはないだろうと憶測しています。それでも理不尽な交通事故が報道されると厳罰化や法規制強化の声が上がります。そう考えると死者126人/年を生む(被害/損失/危害)、100万年に1度の被災確率であれば社会は概ねそれを受け入れている、という見方も手放しで首肯できないのかもしれません。精査が必要です。



次のエントリに続けます)

2021年4月26日月曜日

多数

名古屋市民ではないのでそれほど気に留めていなかったのですが...先日の岡崎市長選と似たような話です。名古屋市長選で候補者の公約が、

電子マネーで30%還元 か 商品券を2万円配布

とは。原資があれば出す方も受け取る方もウィン-ウィンでヨカッタ、ヨカッタなんでしょうか。買収、バラマキで典型的なポピュリズム公約以外に形容ができません。その延長には地方自治のファッショがあるように思えてなりません。

そうは言ってもそれがみんなで決める民主主義の根幹でもありますから避け得ない話かもしれません。


名古屋市の世帯数と人口が各々、113万1556世帯、232万719人(R3.4.1)で有権者数は188万9,261人でした。投票率は42.12%、河村たかし氏が39万8656票を得票して市長に再選されたわけです。有権者の約21%、人口の約17%の支持です。

これを多数とみなせるのか、はなはだ疑問です。

2021年4月25日日曜日

正体

先日、俳優田中邦衛氏の死去が報道されました。これを一つの機会として、氏出演の代表作であるドラマ「北の国から」について思う処を記してみます。当時の放送をリアルタイムで観てはいませんが、好評を博し多くの視聴者を惹きつけたドラマだったかと。概略については上記リンクに譲ります。

特段、是非を云々したり批判する意図はなく、”「北の国から」とは何だったか”、そういった視点から考えてみました。

1.真実性

言うまでもなく該ドラマは倉本聰氏が原作、脚本を手がけた創作です。それが今尚話題性を保っている理由の一つは、ドラマで醸成されたリアリティにあると確信しています。以前のエントリでも記しましたが、フィクションにリアリティを持たさせる典型的な手法は事実や史実の脚色、というか歪曲です。

その実例は社会派と称される小説、歴史小説、著名人の人物伝、朝ドラ、大河ドラマと枚挙に暇がありません。

――死ぬときはたとえどぶの中でも前のめりに死にたい――

漫画、「巨人の星」の中で坂本竜馬の言葉とされていますが、原作者による創作です。

事実に虚構を織り込んでいき、あたかも全てが事実であるかのごとく刷り込んでいく、その印象が強い場合には虚実の逆転すら引き起こすと。このように虚構が事実して独り歩きを始め、それが是正されないまま既成事実化した例も珍しくありません。

では、「北の国から」はどのような手法で視聴者に現実感を抱かせているか。事実というか実際の”出来事”や”実在した人物の言動”の流用の程度は小さいのではないでしょうか。

代わってリアリティを感じさせるものとして使用された道具が北海道の自然という舞台です。撮影方法により映像に演出を加えることはできますが、北海道、富良野辺りの自然(=事実)の上に創作を立脚させることで現実感を醸し出しているのではないか、と考えます。それを狙ったのか、結果として、なのかは存じませんが。

富良野の四季折々の自然に加え、離農、冷害、無農薬農法、高齢化、過疎といった農業が直面している事実を織り込んで具現化?昇華?したドラマが「北の国から」である、という認識です。


2.話の筋立て

次に物語の内容について考えてみます。このドラマは非常に大雑把には、妻の不倫をきっかけに、夫である黒板五郎が純と蛍という二人の子供を連れて郷里の富良野市麓郷という僻地に移住する場面から始まります。彼の地で半ば自給自足で生活する家族や友人、地域共同体の仲間との人間模様、時の流れに伴うそれらの変化が描かれていくわけです。

それは悲喜こもごもの出来事によって、絆、情愛、友情、思いやり、無私の姿勢、傷心の慰め、集団で困難に対処する協調性だったり、その一方で、嘘や誤魔化し、姑息な姿勢、同調圧力、怒り、哀しみ、傷心が具現化されています。

感覚的ではありますが、いくつかの小さな幸せ、喜びが続いた後、それらを覆すような、取り返しのつかない大きな哀しみがどーんと...それらは夜逃げ、焼失、離農、死別といった重いもので、頭の中で差し引きするとネガティブ部分の方が大きな陰気なドラマという印象ではありました。

決して順風満帆な幸せを享受してきたわけではない、心の傷を負った多くの登場人物(大人)が、過去から逃避するように富良野にやってきて傷を癒す...勿論、主役である黒板五郎も含まれています。

一方、純や蛍を始とする子供の人物像は、健気、純朴、素直の語で形容できるよう描写されていて、大人の人物像とのコントラストを際立たたせています。まぁ、この子供の浅はかさに由来する悪戯、嘘、誤魔化しが大きな事件、騒動へと発展させてしまうこともしばしばしばありました。

登場人物全てが人格者だとドラマになりませんから、対比の構図を作って話を転がしていく手法なんでしょう。尤も、登場する少年少女も成長と共に、問題を起こし傷ついていくわけです。純朴な子供のまま成長したとか、人格者に成長したという話ではないのは確かです。

つまり、総じて善男善女の弱い市民を登場人物とした、成功とか生産、道徳とか人間的成長を描いたドラマではなく、大団円もない作品、ということです。作品を通して何か目標を達成するわけでもありません。そもそも目標がありませんから。

強いて言えば、富良野の僻地を舞台に、ひたむき、真摯と言うより、気負わずなんとか生きている人々が、粛々と流れる時と共に齢を重ねていく姿を描いたドラマである、と捉えています。姿を描いたドラマである、と捉えています。

それを批判、否定するするつもりは毛頭ありません。創作ですから。ただそれでもある一点だけ違和感を抱きました。受け止めることに抵抗があった、ということです。それは、
子は親を選べない
という語に尽きます。上記したように主人公、黒板五郎は妻の不倫が理由に純と蛍の二人の子供と共に富良野 麓郷に移住して半自給自足的な生活を始めるわけです。いろいろな部分で厭世的になり僻地に引きこもるという心情が理解できないわけではありません。が、自分の子供にもそういった生活を強いることになります。その選択があくまで自分の都合のみに依るようにも見え、二人の子供の成長、教育を慮った選択なのか、を考えると疑問が拭えません。

麓郷の自然の中で子供を育てる、ということを否定するつもりは毛頭なく、その選択の適否は判りません。しかしながら、思慮したか、蔑ろにしたかは極めて大きな問題です。できる範囲ではありますが、生きていく上で多くの選択肢を子供に用意する、成育とか教育をそう捉えると、ドラマを見て覚えた抵抗感がなんとなく説明できる気がします。

この処、関連する話を見聞します。
フランケンシュタインの誘惑(5)「愛と絶望の心理学実験」
母親の虐待の研究をするために、サルに苦痛な刺激を与える母親を作り出し、揺さぶるような親に対しては、懸命にしがみつき、針金で刺すような母親からは一時的に逃れるが、そのあとやはり、母親のところに帰っていく。
「中学校に行く気はありませーん!」 元小学生ユーチューバー・ゆたぼんが不登校を宣言
現行の教育課程を受け入れろ、従え、という話ではありません。その適否はさておき、より多くの選択肢、より大きな自由を獲得するための手段として教育が蔑ろにされること、そういった風潮に批判の声が上がらないことに違和感を覚えた次第です。

差別だけでなく格差や貧困の解消、何も持たない人間の自立には、残念ながら教育以外に手段を見い出せません。 40年ほど前に放送されたドラマだから、と言われれば致し方ない話かもしれません。マララ・ユサフザイ氏のスピーチもその後のことですから。

2021年4月24日土曜日

更迭

相変わらず、組織、団体、政治家の不祥事公表は週末に、といった感があるわけですが、

大阪市職員の1000人超が多人数や深夜会食 市長が陳謝(2021年4月24日 NHK)

公選法違反疑い、佐伯副市長逮捕(2021/4/23 西日本新聞) 

一体誰が誰を懲戒するんだろうかと。そして、大阪市のウェブサイト トップページには素知らぬフリで”緊急情報”とか”新型コロナウイルス感染症に関するお知らせ”が...上記報道には一切触れていません。佐伯の方は市長がメッセージを出しているようですが。

厚労省 23人 送別会のケースでは部署の長である課長が更迭されました。

当然、名古屋市長も例外ではないわけですが、だからといって県知事の専制が強まるのも好ましいことではありません。

国の影で地方自治でファッショの傾向が大きくなっているように見受けられます。ポピュリズムと組織防衛が具現化するとこうなっちゃうのでしょうか。

2021年4月13日火曜日

巧妙

巧妙だなぁと。編集権を上手に活用した典型例でしょうか。

確かに、Yahoo!ニュースでは、

電力販売で4社カルテルか 独禁法違反容疑で公取委立ち入り(経済総合 毎日新聞 4/13(火) 12:28配信)

中部電、関電など立ち入り 事業者向けでカルテル疑い エリア外競争制限か・公取委(社会 時事通信 4/13(火) 12:01配信)

中部電や関電などにカルテル疑い 公取委が立ち入り検査(社会 朝日新聞 4/13(火) 11:33配信)

家庭用電気・ガスでカルテル疑い、公取委が中部電力など3社に立ち入り検査(社会 読売新聞 4/13(火) 11:24配信)

と検索されました。(4/13 13:04)

その一方で、Yahoo!ニュースの主要、社会、経済の、いずれのトピックスにも掲載されていません。三記事が社会カテゴリに分類されているというのもよく分からないのですが...衆目を抑えつつ、新しく、より重大なニュースが覆い被されていくのでしょうか。

2021年4月10日土曜日

背反

――われわれは常に政治的に中立だ。政治問題にはノーコメント。――

新疆綿の自社製品への使用の有無、強制労働問題を巡る、柳井正ファーストリテイリング会長兼社長の応答です。当に利益至上主義者らしい物言いとしか捉えようがありません。儲かる側に立つという拝金主義は、政治的に中立には位置しません。単なる論旨のすり替えです。

対立する双方のどちらの側にも立たないというだけでなく、利が得られる側に与するという姿勢を、中立の語で象徴させることは不適切以外に言葉が見つかりません。

われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。 
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。(憲法前文から抜粋)

時折、

”いじめの傍観者は加害者と変わらない”

といった主張を見聞するわけですが、利益至上主義の経営者が高く評価されている社会の中で、そういった考えの正当性はどう担保されているのか、整合性を欠いているように思えてなりません。

2021年4月9日金曜日

合点

4/1のメモ。

3/31の"NHK クローズアップ現代+"は、

"追跡!オンラインサロン コロナ禍でハマる人たち"

がテーマでした。なんとなく、クロ現の取り扱うテーマから政治色が排除されていくような流れを感じました。今後は消費や生活のような政治を切り離した社会的なテーマを取り扱っていくのでしょうか。

みなさまのNHKが体制に迎合、忖度した結果とも受け止められます。まぁ、阿吽というか、以心伝心による決定でしょうから全くの憶測です。

と、勘ぐっていたらどうやら番組終了のようです。

NHKが「クローズアップ現代」の終了を決定

上記テーマでもなんとなく取り扱う問題の矮小化を感じたのですが、腑に落ちました。

その一方で、該テーマを取り上げた番組ですが、

”カネ余りの具現化に過ぎない、こんなものを少しでも肯定的に取り扱う番組の制作に受信料が費消されるのか...”

というのが率直な印象です。こんな内容だから番組終了の噂が立つのか、終了の圧力に抗ってこの内容だったのか興味は尽きません。


[追記]

その後、NHKから、

「クローズアップ現代+」に関する報道に対するNHKの見解

といったアナウンスがでました。全くの事実無根だそうです。ただ、何が事実無根かよく分かりません。"NHK クローズアップ現代+"を続けるとも終了するとも全く言及していませんから。いわゆるご飯論法と受け止めています。

いずれにせよ上記"追跡!オンラインサロン コロナ禍でハマる人たち"の内容が残念だったのは紛うことのない事実ではありますけど。


2021年4月5日月曜日

興行

大手外食のメニューをその分野の著名な?料理人が評価し、合否の判定を下す。

そういった民放の番組を時折目にします。眉唾の絶品料理を胡散臭い超一流料理人が評価するという、明らかなプロモーション番組です。その信憑性はどうでもいいとして、なんとはなしの既視感を抱いていたわけです。

その正体に気がついて腑に落ちたのは最近のことです。

あぁ、あれはプロレスなんだと。まだ黎明期のためかヒール とベビーフェイスの役割分担はそれほど明確ではありませんが。馬場や猪木どころか力道山すら現れていない印象ですが、上田馬之助やタイガー・ジェット・シンの登場もそれほど先でもないのかもしれません。


2021年4月2日金曜日

「素晴らしき哉 世界」

の有無で全く別世界です。うっかりすると全く異世界に迷い込んでしまいます。

まっこと、語の世界の、危うさすら抱かせる拡がりを実感します。